死線の花

 目の前を川が流れている。
 助走をつければ容易く跳び越えられそうなくらいの、幅の狭い小川だ。流れも弱い。どこからともなく花の香りが漂って、ほのかなそれに鼻梁をくすぐられて矢後は眉をひそめた。見覚えのある景色を前に、「やべえな」と小さく呟く。靄のかかったような薄青い空、自然のせせらぎ、やわらかな匂い……すべてが胡散くさく、まるでこの世のものとは思えないほど清廉とした空気に満ちていた。
 矢後はその美しい空間をじいっと見つめ、そうして息を吐いた。嘘のように呼吸が楽だ。まるで自分の身体ではないみたいに。思いながら、矢後は再びハァと嘆息した。彼にしては珍しい、露骨であけすけな慨嘆であった。
 その不機嫌の理由はひとつだ。
 矢後勇成の肉体はどうやら、また死にかかっているらしい。
 ため息も出るというものだ。この川の手前にまでやって来るのは久しぶりではあるものの、今までにももう、数えきれないほど対面してきた情景なのだ。矢後は顔をしかめつつ、いやに優しい音を奏でる水流を不遜な態度で睨めつけた。なにもかもが癇に障る。けれどそんなふうに苛立ちに身を任せていると、そのうち足元になにかの気配がまとわりつきはじめ、視線を下げるとそこでは子どものころ同じ病室にいた男の子が矢後の服の裾を引っ張って遊んでいる。
「……」
 黙したまま、矢後は身を屈めてその小さな手をそっと解いた。子どもはふしぎそうにこちらを見つめているが、しかしそのあどけない両の目をぼんやりと覗き返していると、小さな姿はいつのまにか掻き消えて、代わりに自分の右脚が川の浅瀬に浸っている。矢後は喉の奥で小さく呻いた。これを渡るとまずいことくらい、さすがに理解しているのだ。
 濡れた足を川底から引き抜いて、矢後はまたひとつ息をついた。靴まで染みた死の気配はしかしそう珍しいものでもない。歩いていればそのうちに乾くだろう。さして遠くもない彼岸を眺めやると、なるほどたしかにあちら側はあの世のようで、見知った顔がいくつか並んで窺えた。矢後はあまり人の顔を覚えるたちではないが、しかしこうして揃うと思いのほか多くの別れがあったものだと気づく。顔ぶれのほとんどは病室の白い壁と併せて浮かび上がり、冷えた薬品のにおいをこの澄んだ世界にまで運び込んだ。彼岸にある彼らのまなざしが総じて穏やかであることを、矢後は無意識のうちに確かめていた。死神と同室になった子どもは決して生きては帰れないと、そんな根も葉もない噂もあったが、どうやら彼ら自身はそのように感じてはいないようだった。
 矢後は川岸を上流へと向けて静かに歩いた。幼いころから、何度も何度も通った帰り道であった。はじめてここを訪れたときのことはもう思い出せないが、この道の歩み方は心得ている。気を抜かず、あちらに惹かれず、無心になること。歩みを止めないこと。ひとたびなにかに関心を持つと、先ほどの子どものようにあの手この手で死は道を閉ざそうとしてくる。矢後はやはりあからさまに溜息をついた。この命を諦めようなどとは微塵も思わないのだが、とにかく、あらゆるすべてのことが面倒だった。
 気が遠くなりそうなくらい、どこまでも広い空間だ。地平線のその先まで川の流れは続いている。世界を囲う蛇のように。あちらとこちらの境はこの星を左右に分かつようで、いっそそのまま裂いてしまえば良いのにと矢後は考える。その方がきっと話が早い。二度と交わらなければ良いのだ。そうすれば、自分がこんな道を歩む必要もきっと消えてなくなるだろう。
 そんな取り留めのない思考は、しかしそれほど長くは続かなかった。
 遠い道の先によく知った人物を見つけて、矢後はぴたりと立ち止まった。立ち止まらざるを得なかった。まるで観光にでもやってきた異邦人のように、川べりにしゃがみこんで水面を覗き込む、久森晃人の姿がそこにあった。
「…………」
 なぜ彼がここにいるのだか、矢後にはまったく理解できなかった。この場所で死者以外と対面するのははじめてのことで、であれば、彼もまた自分と同じく死にかかっているということに他ならない。
 ここに至る直前の景色を――つまり自身がなぜ死にかかっているのかを――矢後は一切記憶していなかったが、どうせいつもの発作であろうと決めつけていた。矢後勇成の身を害そうとする事象は大小さまざまあったが、もっとも身近でなによりたちの悪いのが持病の悪化に伴うもので、だからきっと、今回もそれが原因に違いないと思い込んでいたのだ。
 しかしどうやら、そうではない。矢後と久森が同時にこんなところへやって来る理由など知れている。即ち、
 敗北したのだ。
 風雲児高校が。
 矢後勇成と久森晃人という、ふたりのヒーローが。
 矢後にはそれが衝撃だった。決してなにものにも関心を向けてはいけないと、そう理解していながら、歩みを止めずにいられなかった。自分自身の感情に驚いている間に、視線の先で、どこか浮世離れした後輩がふと顔をあげてこちらを見やる。「あ」と、妙に軽やかな音色で久森晃人の声が言う。「よかった、やっと来た」
 矢後を見つめる緑の両目は奇妙なほど死の淵に馴染んでいる。久森はさして嬉しそうでもなく、かといって辟易したふうでもなく、ただ淡々と事実を確認するように「待ちくたびれましたよ」などと言いながら立ち上がった。「まさかもう通り過ぎちゃったのかと思って、ちょっとだけハラハラしました」
「…………」
 いまだ状況を受け止めきれない矢後に対し、久森はまるで「やれやれまいったな」とでも言いたげな表情で、しかし当たり前のようにそこに立っている。矢後はその立ち姿の頭からつま先までをゆっくりと眺め、それが間違いなくいつもの久森であることを確かめると、やはり大げさに肩を落として嘆息してみせた。
「えっ、な、なんですか?」
「なんでもねえよ」一瞬でも敗戦の可能性を考えた自分に呆れただけだ。「お前こそなに、なんでこんなとこいんの」
 そもそも、ここがどこなのか分かっているのだろうか。じつのところ矢後自身も、まあ、なんとなくそういうアレなのだろうな、と察している程度で、具体的にこの場所がどのような位置づけのどういった空間かまでを理解しているわけではないのだけれど。
 矢後の問いかけに、久森はわずかに首を傾げた。どうやら彼は回答そのものではなく説明する言葉を探しているようで、うーんと、と小さく零しつつ言う。「どうして僕がここに来たのかは、正直よく分からないんですけど」
 なんのために来たのかは分かっているつもりです。
 と、彼は自信なさげな眼差しで、それでいて断定的な語調で言った。
「矢後さん、これ以上動くのは危険です。じきに助けが来るので、ここでじっとしていてください」
「…………あー」
 なるほど、これはそういう企みなのか。
 さっきの子どもと同じだ。ここにいる連中はあの手この手で矢後の歩みを妨げて、そうしてこの場に繋ぎとめ、無理やりにでもあの川に沈めて向こう岸へ誘おうとしてくるのだ。だから気を掛けてはならないのだと、そう理解していながら引っかかってしまった。
 自身の落ち度を矢後は認めて、それでいながら、目の前のこの男を障害とみなし、蹴り飛ばしてでも先へ進もうとは思わなかった。矢後はもう一度、彼の頭のてっぺんから足の先までをじろじろと眺め、それから言った。
「なんでそんなこと分かんだよ」
 助けがくると、彼はそう言ったが、それは決して起こりえない。この場所に救いの手がもたらされることはない。自力で帰路を見つけ出し、自らの足でどうにかしない限り、だれもこの身を導きはしないのだ。矢後の問いかけはあまりに断片的なものだったが、久森はその短いひとことからするりと意図を抜き出して、それから彼も短い言葉で返す。よく聞き知ったあの声で、まるでそれが世のことわりかのように静かに言う。「分かりますよ」と。
「視ましたから」
「…………」
 だから矢後は――これは彼自身にも理解しがたい、本能に近い感情の部分に従った結論として――久森晃人の言葉を信じることにした。
 自身が過去の経験によって得た知識よりも、数年前に知り合ったばかりの、この変てこな力をもつ男の言うことのほうが正確で、より分かりやすいように感じられた。未来を視覚する彼が『視た』というのだから、それは、そうなのだろう。ここから動くべきではないのだ。極めてシンプルに矢後はそう得心し、疑惑や不審を訴えようとする思考を丸ごと放棄した。もとより、考えることはあまり向いていないのだ。
「どのくらい?」
 問いかけると、打てば響くような軽快さで「なにがですか?」と久森が返す。なんの作為も含まないその声音を、矢後は存外好いている。「助け、くるんだろ。どのくらいここで待てば良いわけ」
 ああ、と久森はなんでもなさそうに受け入れて言う。「んー、三十分くらいですかねえ」
「長いな」
「まあ、そうですね。たしかにちょっと長いです」
 そう言う彼ははたしてどのくらいの時間、ここで矢後の到着を待っていたのだろうか。ふと気にかかったが、しかし矢後はそれを問うことはせずその場に腰を下ろした。三十分も立ち尽くしてこの退屈な景色を眺める気にはちょっとならない。砂利のようなものが敷き詰まった白い川べりに、矢後はすてんと横たわった。
「うわ、まさか寝るんですか。こんなところでも?」
「んー」
「あ、本気ですね。まあいっか。あの、僕は先に戻りますけど、お願いですからちゃんと帰ってきてくださいね」
 待ってますから。
 と、殊勝にもそんなことを言う。彼がいったいどんな表情を浮かべているのか、とうにまぶたを下ろした矢後の視界には入らなかったが、しかし向けられたその口調が、「明日の訓練はサボらずちゃんと出てくださいね」だとか、「試験期間くらいちゃんと起きて座っててくださいよ」だとか、そういうことを言っているときのものとさして変わり映えしなかったので、わざわざ起き上がって彼の顔つきを確かめようとも矢後は思わなかった。
 冷たく広がる死者の道では、相変わらず、うっすらとした花のかおりが漂っている。
 寝心地のよい角度を探して身じろぎをすると、やわらかな気配は鼻先をかすめて消えていった。矢後はひそかにそのゆく先を案じたが、けれど残り香を追いかけることはせず、薄明るい微睡に身を預けた。この場所で、こんなにも静かな気持ちになったのははじめてだなと、頭の片隅でそんなことを考えていた。

* * *

 誰かに名前を呼ばれている。そのことに気がつくのと同時に、
「矢後さん、起きてください。矢後さん」
 と、聞き馴染みのある強い声が鼓膜を叩いたので、矢後勇成は一度下ろしたはずのまぶたをゆっくりと引き上げた。身体の向きが逆になっている。頭が地面にぶつかって、足はどこか知らない方向へそっぽを向いて、視界は黄みがかった赤色のような変な色味を帯びてバチバチと明滅していた。
「…………」
「あ、気がついた。よかった。僕の顔、見えてますか? 声は?」
 見えているし聞こえている。そう返そうとしたが、喉が詰まってうまく言葉にならなかった。ともかく身体を起こそうと身を捩るが、それもやはり上手くいかない。重い身体はどうやら傷まみれのようで、矢後の意思に反してまるで錆びた機械のように動きを鈍らせている。
「わ、ちょ、ダメです。それ以上動かないでください」
 落ちますから、と伝えてくる声はわずかに強張っている。矢後は素直にそれを聞き入れて、無理やり稼働させようとした手足の動きを静止した。少しずつ整いはじめた視界を改めてたしかめると、やけに近い距離に久森の顔があることに気が付く。
 いや、顔が近いというよりは、身体が密着しているというほうがきっと正しい。
「…………なに、この状況」
「うっ、覚えてませんか?」
 落ちたんですよ、と久森は言う。さっきは「落ちますから」と言ったくせに、実際にはもう落ちたあとらしい。どっちだよ、と考えてようやく、矢後は自身の置かれた状況を思い出した。
 サバイバル環境下を想定した訓練に参加していた。
 題目だけを見ればいかにも過酷な実地訓練といった雰囲気だが、実際には、各校合同のオリエンテーションのようなものだった。人里離れた山間での飯盒と効率的な野宿の方法、スマートフォンが不通になった場合の連絡手段、器具がない場所で怪我や病気を手当てする際の段取り、食べられる木のみと食べられないキノコ、珍しい昆虫と珍しい石、川遊びからの滝遊び……。要するに、いつもの面々によるいつも通りの、ちょっとした非日常の催しごとである。
 そして矢後はというと、こちらも案の定、サバイバルとは名ばかりの体育実習にノリよく参加するほど悠長ではない。「クマでも出たら呼んでくれ」などと嘯いて適当な岩の上でごろ寝していたところ、なんと、出たのである。
 クマが。
 そういうわけで、のんきなオリエンテーションから一転した楽しいクマ狩りの、その帰り道(クマは狩った。無論である)、矢後と久森はふたり揃ってなぜかうっかり迷子になり、挙句の果てに、突如として崩れた崖から転落したのだった。あまりに一瞬の出来事だった。とっさに受け身をとった記憶はあるが、どうやらふたりして縺れ合い、今は切り崩れた断崖のほんの僅かにできた窪みに、ギリギリ引っかかっている状態らしい。
「矢後さん、たぶん自覚ないでしょうけど、手とか脚とか結構大変なことになってますからね。頭もぶつけてるはずですから、本当に一切動かないでください」
「おー」大変なことってなんだ。「つーか全然動かせねえし、感覚もねえわ」
「で、ですよね……」
 久森は僅かに目を逸らし、どことなくバツが悪そうな表情を浮かべて言う。「あの、……すみません。もしかしなくてもこれ、僕、庇ってもらいましたよね」
「……」
「というかそもそも、もっとちゃんと視ておくべきでした。あんな急に足場が消えるだなんて……いや、まさかクマ退治の直後にクマ以外の要因で死にかけるとも思ってませんでしたけど……」
 まあ、それはそうだろう。いくらなんでもそこまで予測して備えるなんて芸当、矢後だって別に求めていない。けれど久森はどうしてだか自身に非を感じているようで、妙にしおらしく項垂れては、再び「すみません」と小さく言った。
 矢後はそれになんと返すべきか分からず、ともかく、「べつに」とだけ呟くように言った。実際、手足が多少どうこうしたところで矢後にとっては文字どおりに痛くも痒くもないのだし、そもそも久森の身を庇おうとして動いた記憶もない。気づいたら下敷きになっていただけなので、謝罪もなにも、身に覚えのないものだった。
「……助け、来るんだろ」
「あ、はい。視ました。もうじきにヘリが来るので、それまでの辛抱です」
「ん、分かった。じゃあ寝る」
「うう、そう言うと思ってました。思ってましたけど、この状況で寝ると本当にそのまま死にかねないので、頑張って起きててください」
 お願いします、と久森が言う。
 それを口にする彼の表情を近すぎるほどの距離で見て、矢後は、やはり思っていたものとさして変わらないな、と考えた。それは少々期待外れのような感覚であり、それでいて満足感を得たような気もあるのだが、はたしてどちらかを見極めるような必要も、ことさら感じはしなかった。
 ただ、彼に伝えておくべきことはあるはずだ。
 矢後はしばし考えて、久森、と目の前のひとの名を呼んだ。あの緑の双眸が死の淵にあるのと変わらない色のままでこちらを見て、はい、と静かに響く。「なんですか?」
 矢後はその返事を受け取って、やはり少しだけかける言葉を悩んでから、
「助かった」
 と言った。
 久森は軽く首を傾げて、いっそ猜疑的ともとれる眼差しで「はぁ……」とあいまいな相づちを返す。釈然としない、というふうに、「まだ全然助かってませんけど」と呟く彼が、それでも矢後を死地から呼び戻したのは間違いないのだ。少なくとも、矢後にとっては。
 救助が来るまでおおよそ三十分。再び目を閉じた矢後の耳元に、だから寝ないで下さいって、と困り果てたような彼の声が届く。へたに意識を手放して再びあそこに戻るのは避けたいので、矢後はひとまず久森の零す言葉を聞きながら、ひそかに周囲の気配を読んだ。広がるのは土と埃と血のにおいばかりで、あのかすかに甘い花の気配はどこにもない。
 矢後はそれをたしかめて、満足そうにひとり頷いた。「なんでちょっとニヤニヤしてるんですか」と呆れたふうに久森が言ったので、してねーよ、と返してやはり少し笑ってみせた。

0