いつも煩くて能天気な姉が夜中にわんわんと声をあげて母親にしがみついているのを目撃したとき矢後はまだ小学三年生だったが、そのころには自分の身体がほかのクラスメイトたちとは違って不具合だらけで、錆びれたポンコツのテレビみたいにいつ動かなくなってもおかしくないのを無理やり叩いてとりあえず電源だけは落ちないようにしている状態だということを存外しっかりと理解していた。
大人たちは出来る限りそれを隠して現実を見させず、家族や知人たちからめいっぱい愛された男の子というふわふわした記憶だけを抱えて残りの短い人生を健気に歩んでほしいようだったが、そのような工作は当事者である矢後にとってまったくもって無意味であった。愛されていようがいまいが矢後の身体はいきなり呼吸の仕方を忘れるし、手術のたびに「頑張ったね、偉かったね」と褒められてもそれは矢後自身がどうこうした結果というよりは大人たちがこのポンコツを開いて捻じって縫い合わせて時に力任せにバンバンと叩き、そうやってどうにかまた放映を再開させただけのことでしかない。
「先生も頑張るからね。みんなで、頑張ろう」などと言って一方的に語りかけてくる大人たちの声を聞きながら、正直なところ、こいつらは全員バカなのだと矢後は思っていた。だれが頑張っても、頑張らなくても、結局死ぬのは自分だけだということを知っていた。
自宅に戻るのは久しぶりだったけれど、それを新鮮だとは感じなかった。病室よりははるかに居心地が良いのはたしかだが、だからといって、ここが自分のいるべき場所だとも思えないのだ。なにに触れても馴染みが薄く、目に映るすべてがしっくりこない。夜の時間はとくにそうだ。静かな壁の向こう側からときおりバイクの音やよく分からない鳥の鳴き声が聞こえてきて、それらはすべて矢後を置き去りにしてどこか遠くへ向かってゆくためだけにわざわざ音を奏でているように思えた。決して手の届かない場所で起きている、生涯自分と交わることのないざわめき。その虚しい静寂の中に姉の声を見つけたときにも、だから矢後は、しょせん自分には関係のないものだろうと考えた。すべては外の世界のできごとだ。いずれ自分を捨てて、去ってゆくものだ。思いながら、それでも部屋を抜け出して、かすかに灯りの漏れるリビングを覗き込んだのはどうしてだろう。
「ゆうせいが死んじゃった」
姉は途切れ途切れにそう漏らしながら、見たこともないほど身体を震わせて泣いていた。母は懸命にその背を撫でさすり、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と何度も繰り返し呟いたが、彼女の声も掠れて滲んでほとんど聞き取れない。だいじょうぶよ、だいじょうぶ。怖いことはぜんぶ、ただの夢だからね。
じっと見開いたまなこでその光景を見つめながら、もしかすると、と矢後は考えた。もしかすると、これだからあの医者は「みんなで頑張ろう」と言ったのだろうか。いつか本当に自分が死んだとき、彼女たちもいっしょに死んでしまうかもしれないから。涙を流しすぎて。心を痛めすぎて。
まだ幼かった矢後は本気でそのことを案じた。そろそろと忍び足で部屋へと戻り、頭から布団を被ってなんにも聞こえないようにして、深く眠ってしまおうと思ったのにまぶたを閉じることが出来なかった。つぎに眠りに落ちたあと、この身体は本当にもう一度目覚めるだろうか。はたして、朝はやってくるのだろうか。姉の見た夢が夢でなくなる日はいつ訪れる。
そとから聞こえるすべてを拒絶した寝台の上で、心臓の音だけがトントンと静かに響いていた。それすら自分を置いて去ってゆくもののように思えて、矢後は黙りこんだままで自身の鼓動を追いかける。血の巡る音。自分が生きている音。それが急にぱたりと姿を消さないよう、一晩中ずっと、耳をそばだてて見張り続けた。
* * *
「この力はヒーロー活動のため以外には使いません」と久森晃人は言うがそれは嘘だ。その証拠に、彼は矢後のとなりを歩いている最中ふと思い出したかのように「そうだった」と言う。
「つぎの信号、青に変わってもしばらく渡らず止まっていてください」
はじめのうちは「なんで?」だの「なんかあんの?」だの逐一理由の説明を求めていたが、さして意味のない問いかけだと気づいてからはしなくなった。それどころか矢後は頷くことすらしないが、久森にはその沈黙がたしかに了承として伝わるようで、彼もわざわざ「聞いていますか?」だとか「絶対ですからね」だとか、そんな無駄口を挟んではこない。久森の視たものは時間が経てばどうせ実際に起こることで、そして彼のその静かな忠告を聞き逃したり無視をしたりすれば、そのときは矢後が痛い目を見るというだけのことなのだ。いくら痛みを感じないからといって、好んで痛い目にあいたいと考えるほど酔狂ではない。
だから該当の信号が赤から青にランプを切り替えても、矢後は言われたとおり横断歩道を渡ることなくじっと待った。数秒の間を空けて、目の前を凄まじい速度で乗用車が横切ってゆく。速度違反の上に信号無視だ。なるほど、正直に信号の言うことを聞いていれば、今ごろあれに撥ね飛ばされて痛い目だったというわけか。
矢後はその答え合わせに納得したが、となりにいる久森はしかし安堵したふうでもなければそれ見たことかとふんぞり返るふうでもなく、両手で耳を塞いでぎゅっと目を閉じている。理由の見えないその行動に、どうかしたのかと思った次の瞬間、ひどい轟音が響き渡った。次の角を曲がり切れなかったその車が、速度を保ったまま電信柱へと激突した音だった。矢後はさすがに瞠目したが、久森はというと耳を塞いでいた両手を離して今度はスマホを取り出している。「はい、そうです男性がひとり、目立って怪我をしている感じではないです。意識もあります」何メートルも離れた先、目に映るはずのない車内のようすを電話越しに伝え、彼は通話を終えると「よし」と言った。「じゃあ、次のエリアへ行きましょうか」
矢後はそれには頷き返し、また赤色に変わってしまった信号がふたたび青へと切り変わるのを待ってから今度こそ歩を進めた。歩きながら、はたして彼はどこまでを視ていたのだろうか、と考える。矢後を撥ねた時点で車が停止していれば電柱にぶつかることはないはずで、であればあの車は停まりきらずボンネットに矢後を乗せたまま電信柱へと突っ込んだのだろうか。起こらなかった《未来》を想像することに意味があるとは思えないが、それでも矢後はひそかに思案し、そしてたしかに安堵していた。もう少しで死ぬところだった。たぶん、久森がいなければ確実に。
乗用車と電信柱の間に挟まれて息絶える自身の姿を想像してみるが正直いまひとつぴんとこない。いずれにしてもあまり気分のよいものではないが、久森はまるで平然とした顔で「このあとはもうなにも起きないはずです」などと言ってのんきにパトロールを継続する。矢後さんが死ぬのなんて今さら騒ぐほどのことじゃないですよ、といったふうな顔をしている。どれほど衝撃的なものごとも受け止め続ければいつか慣れるものだ。矢後だって、自身の心音を数える行為になどすぐに飽きた。
けれど彼がその力で《未来》を視た直後、どうしようもないほど青い顔で立ち尽くす日があることを矢後は知っている。
問いかければ仔細を語ることもあれば、ちょっと良くないものを視ただけだと言って沈黙を貫くこともあった。内容がどうであれ彼にとってそれはとなりを歩く男が車と電柱に挟まれることよりもいくらか心を痛める景色のようで、矢後にはそれがどうにも愉快でたまらない。彼にとって矢後勇成の死は日常に溢れる出来事であり些事なのだ。姉はあれほど泣いていたのに。
それを言葉にして伝えたことこそないが、それでも久森はなんとなく察するようで、「僕だって視たくないですよ、矢後さんが事故にあうところなんて」と口をとがらせて言う。「でも、視ていないと対処しようがないことだってあるじゃないですか。というか、少なくとも視ていればなんとかするでしょ、矢後さんは」
その言いようを聞いて矢後はますます笑い出したい気分になるが久森にはこの気持ちまでは推し測れないようで、機嫌のよい矢後に彼は「分からないなぁ」とでも言いたげに少し首を傾げるだけでそれ以上はなにも言わない。矢後は目の前のこの男に出会えて良かったと心から思っているのだが、そこまでの感情はおそらく彼には伝わらない。べつに、知ってもらわなくても構わない。明日を約束しない自分がそれを告げたところで滑稽なだけだ。かわりに矢後は適当に伸びをしながら丁寧に空気を吸う。壊れかけのポンコツはそれでもまだどうにか新しい呼吸を繰り返し、心臓を動かし血を巡らせる。その音が止まる瞬間を知る男が柔らかな声で言う。「それじゃあ、僕はここで失礼しますね。お疲れさまでした、矢後さん」
矢後はそれにおざなりな返事だけを返す。久森はその疎放な態度に不服を漏らすこともなく、振り返らずに去ってゆく。気まぐれにその背を見送って、矢後はふわとあくびを漏らした。たとえ次の朝が自分に訪れなくても、と矢後は思う。きっと彼は変わることなく、この道をパトロールしているのだろう。いつもの顔つきのままで。ひとりのほうが気楽だなぁとでもいいたげな、安穏とした態度を隠すこともなく。
その姿を想像するとなんだか無性におかしくて、矢後はひとりこっそりと口の端を上げた。思わず零れた小さな笑い声は、自分でも不思議に感じるほど穏やかだった。