矢後と久森が並んで歩いてるだけのはなし。

 煤けた灰色の空をぼうっと見上げているとぽつりぽつりと雨が降り出してきて、水滴が眼球に滲んで煩わしいのでまぶたを降ろそうとしたその瞬間に、雨粒ではない見知った顔が視界を遮った。これまでの人生、この後輩の顔立ちを眺めた回数よりも、薄暗い雨天に遭遇したことのほうが確実に多いはずなのだが、どうしてだか、出会って一年と少ししか経たないその立ち姿のほうが、雨水よりもいくらか慣れ親しんだ存在のように思えた。
 不躾ともとれるような態度でこちらを見下ろしながら、まるで呆れ果てたような、それでいて困惑しているような、巧妙なまでに苦々しげな表情を浮かべながら久森が言った。
「これはまた、ずいぶんと派手にやりましたねぇ……」
 複雑な感情を絡めた眼差しに加えて、声音には僅かに咎めるような色も含まれている。なんだか器用なことをするな、と思いながら、矢後は「まぁな」と返事をした。
「はぁ、なんでそんなドヤ顔なんですか? まったく、姿が見えないと思ったら、まさかこんなところで転がっているとは……」
 夕方から他校と合同の会議があるって、僕何度も言いましたよね。ぶつぶつと呟きながら、久森はやはり遠慮のないようすで矢後の身体をじろじろと眺めた。眉をひそめるそのさまは、反感や不快感からではなく、ただただ矢後の身の上に広がる無数の傷口を見やっては、その痛みを想像して身構えているだけのように見えた。まったく無駄な行いだと思うが、それをやりたがるものは不思議と世の中に多いのだ。彼らは口を揃えて、「見ているこっちが痛い」と言う。その言葉を浴びせられるたびに、矢後はひそかに感心する。なるほど、《痛み》とは伝染するものなのか。自分のような人間には、一生かかっても知りようのない感覚だった。
 久森はその「見ているこっちが痛い」をいまにも言いたげなしかめっ面のままで、しかし口にすることはせず「立てますか?」と訊ねた。矢後は少し考えてから、「分かんねー」と返す。「久森、手」
 矢後の痛みが伝染しているはずの久森は、そうとは思えないくらい素直に「はいはい」と頷いて当たり前に右手を差し伸べた。この男はこれでなかなか難儀な性質をもっていて、ほんの少し前までは、「手を貸せ」と言ったところで何故か逡巡し、「本当に良いのか?」とたしかめるような不安げな顔つきを浮かべていたものだが、いつの間にか、そういう臆した態度はほとんど見せなくなっていた。それでも、矢後の手を掴むその瞬間だけはいまも、ほんの少しだけ、緊張するような気配が滲むのだ。この手に染み付いた血の色に怯んでいるわけでも、ましてや伝染した痛みに苛まれているわけでもないことは、さすがの矢後にも理解できる。理解はできるが、だからといってこちらからなにかを伝えるべきとも思わない。すべて彼自身の問題だ。矢後は伸ばされたその手のひらを適当な強さで握り返して身を起こす。久森はそれを支えるように引っ張り上げて、それから、「大丈夫そうですね」となんの感慨もなさげに呟いて言った。
「それにしても、ここまでボロボロにされるなんて珍しい。いったい何十人を相手にしたんですか? べつに、イーターと戦ったってわけじゃないんですよね?」
「ちげーけど」
 とはいえ、いつものような他校の不良とやりあったわけでないのもたしかだった。矢後を取り囲んだのは見知らぬ大人の集団で、なにやら組織名を名乗ってご丁寧に名刺を差し出してきたのでそれを破って捨てたところ、血気盛んに襲いかかってきたのである。喧嘩というよりは暴力と表現すべきそれは、矢後にとってはほどほどに暴れ甲斐のある面白い時間ではあったものの、荒ごとに慣れたようすの大人たちをひとりで相手取るのはいくらなんでも無理があった。何人か潰しはしたけれど、それはむしろ、こちらの力量を測るための細工であるように感じられた。腹立たしい限りである。
 ふらつく矢後の足取りに歩幅を合わせつつ、となりを歩む久森はにわかに顔を青ざめさせた。
「そ、それって、いわゆる『本職』の人たちでは……」
「たぶんな」
「たぶんなって、……矢後さん、そういう人たちにまで目を付けられてるんですか?」
「知らねーけど、なんか、たまに来るんだよな。スカウト? みたいなん。つか、お前んとこにも来るだろ」
「? なに言ってんですか」
 来るわけないでしょう、と呆れ声で言う彼は、自身が風雲児のナンバーツーと評されていることなどすっかり失念しているようだった。矢後はあえてそれを指摘せず、まあ、本人が構わないのならべつに良いか、と放置する。いずれ声がかかったとしても、この男なら勝手になんとかするはずだ。
 ぽつぽつと頬に触れてくる雨は細く、まるで霧のようにやわらかに東成都の市街一帯を包んでいた。殴られた箇所が熱をもっているようで、肌に触れる冷たさは矢後にとっては心地のよいものだったが、となりを歩く久森にはすこしばかり肌寒いらしい。ぶるりと身を震わせつつ、注いでくる雨粒をわずかでも防ぐためか、彼は手のひらを目元へと掲げながら言った。「すこし、強まってきましたね」
「傘、持ってねえの」
「持ってたらとっくに差してますよ」
 そりゃそうだ。矢後は少し笑ったが、久森はさして面白くもなさそうに目を細めた。
「矢後さんこそ、傘持ってないんですか? 前に指揮官さんが貸してくれた折り畳み傘、どうせ、まだ返してないんでしょう?」
「あー、あったっけ、そんなん」
 言われてみればたしかに、そんなこともあった。返さなくても構わないと、指揮官はたしかそんなふうに言っていたはずだが、それを伝えたところで彼はきっと「どうして言葉のまま受け取るんですか」とまた渋面を作るだけだ。矢後は口を閉ざした。同時に、となりで久森が、くしゅんと小さくくしゃみをした。
「……」
「うー、雨宿りするほどではないんだけどなぁ」
 呟きつつ、自身を抱き寄せるようにして肩を竦める。矢後は少し首を傾げてそのさまを見つめ、それから、「走れば?」と言った。
「? なんですか?」
「ここから訓練施設まで、すぐだろ。走ってけば良いんじゃねえの」
「……?」
 今度は久森が首を傾けた。ぽたりと、彼のまっすぐな前髪からしずくが滴る。その隙間から覗く両の目が、どういうわけだか、いかにも不服そうな気配を帯びてじっとりと細められてゆく。
「矢後さん、もしかして僕のこと鬼かなにかだと思ってます?」
 質問の意図が掴めず、矢後はとりあえず「……人間じゃねえの?」と言った。理由は分からないが、少しだけ上ずった声が出た。久森はその返答に対してもちろん安堵したふうな顔を見せることはなく、むしろいよいよ面白くないといった気配を強めてみせた。彼は例の、「見ているこっちが痛い」という顔つきを浮かべつつ口を開いた。
「普通の人間は、こんなにも怪我まみれの人を放って、ひとりで走って帰ったりしないんですよ」
 矢後さんが走れるっていうなら話は別ですけど、と小さく付け加える。
「でも、無理でしょう? 見た感じ、結構なボロボロっぷりですし。え、っていうか、なんか顔めちゃくちゃ腫れてきてるんですけど……。これ、ほんとに大丈夫なんですか?」
「いや、大丈夫そうっつったのお前だろ」
「素人判断を信じないでください」
 勝手なことをぴしゃりと言い放ち、久森はそのくせ、どうにも弱ったような表情を浮かべた。「タクシー拾ったほうが良いのかな。っていうか、施設より病院で手当てしてもらいます?」
「いらねーよ」そんなにたいした怪我ではない。「フツーに歩けてるし、平気だろ」
「矢後さんの平気は基準がおかしいんですよ」
「シロート判断のやつに言われたかねぇな」
 矢後の言に、久森はぐっと言葉を飲んだ。言い負かしたいわけではなかったのだが、結果的にそんなふうになってしまって、矢後は知れず鼻白んだ。くだらない言い合いだ。そんなことをしている間にも、雨脚はじわじわと強まっている。矢後は黙したままで、再びふらふらと歩き出した。右脚に少し違和感があるけれど、骨折しているような感覚はない。顔面の腫れだって、単純に何度か殴られたせいであって、少し冷やして放っておけば勝手に引く。『本職』なだけのことはあって、下手な傷めかたはしていないようだった。
 それらを言葉にして伝えてやればきっと久森も納得するのだろうけれど、なんだか言い訳じみていて不格好だし、なにより、やられた手傷の説明をするのはつまらなかった。矢後にだって一応、矜恃らしきものはあるのだ。無様に転がっている姿を発見されたことだって、本音を言えば、あまり面白いことではなかった。
 久森は久森なりにその空気を感じ取っているのか、それ以上を言及することはなく、大人しく矢後のとなりをゆっくりと歩いていた。霧雨はさらさらと舞い散るように彼の黒髪に降りかかり、ときおり、雫となって流れてゆく。横目に見やるその輪郭はたしかに鬼神といったふうではなく至極普通の人間で、矢後はなるほどなぁと思いつつ大きくあくびを零した。口の中に、冷えた雨粒がぱらりと飛び込む。久森が低く、「寝ないでくださいよ」と言う。
「歩きながら寝るやつがいるかよ」
「矢後さん寝てたじゃないですか、このあいだ」
「あれは立ってただけで、歩いてはねえだろ」
「似たようなものです」
 全然違うと思うが、わざわざ反論する気にならず、矢後は軽く鼻を鳴らしてそれに応えた。久森にとっても本気の応酬ではなくただの軽口なのは明らかで、彼はしかし冗談めかして笑うでもなくただ何度か瞬きを繰り返す。雨粒が目にかかるのだろう。その仕草を最後にふたりの会話はしんと止まり、そこから先、施設の建物が見えてくるまでの短い時間、なにひとつの言葉も生まれはしなかった。
 ただ、ようやく目的の場所へと帰還をはたしたころ、ふと顔を上げた久森がちいさく言った。
「……止みましたね」
 まあ、外を歩いている最中に急に降られたと思ったら、屋根のある建物に到着したとたん晴れ間が覗くのなんてよくある話だ。けれど久森の呟き声にはあまりに重い諦念が満ち満ちていて、彼の日常においてこの現象がまったく他人事などではなく、文字通りの『よくある話』であることを連想させた。露骨に落胆を映すその横顔を、矢後はちらりと見やった。じつをいうと、矢後自身は雨に降られることよりも、『外に出たとたんに止む』ことの経験のほうが多いので、積年の苦渋を感じる久森の「止みましたね」を聞いても、まったく同調のしようがないのだ。
 矢後の無反応からそのことを察したか、久森は少しばかりバツの悪そうな眼差しを浮かべてみせた。変なやつだな、と矢後は思う。べつに、雨が降ったのは彼のせいではないのに。
 あるいは、これもひとつの伝染なのだろうか。久森の『よくある話』が、矢後の『よくある話』に勝り、移ったのだ。見ているだけで痛みが転移することがあるのなら、となりに在るだけで日常が侵食し、どちらかを飲み込むこともあるのかもしれない。
 矢後はぼんやりとそんなことを考えた。視界の端では曇りの引いた空がぼやけた単調な色合いで広がっていて、そしてその上に、うっすらと虹がかかっているのが窺える。掠れて滲んだそれはどう見ても七色には程遠く、ともすれば見逃してしまってもおかしくないほどに質素だ。
 存在感の薄いそれは、しかし久森の目にもきちんと届いたらしい。彼は妙に弾んだ声で「あっ」と口にした。「きれいですね」とだけ言うその声は、どうやら矢後もあれを見ていて当然と思っているようだった。
 矢後はなにも返事をしなかったが、久森に気にしたようすはなかった。施設に着くと彼は、
「じゃあ、僕は先に会議室へ行ってますから。矢後さんも、手当てがすんだら来てくださいね」
 と、それだけ残して足早に去ってゆく。
「…………」
 遠ざかるその背をぼうっと眺めてから、矢後はきびすを返して医務室へと向かった。とうに顔見知りの看護師は「また喧嘩?」という顔で矢後を迎え入れたが、同時に、あれ、と目を丸めてみせた。「雨、降ってたんだ」気づかなかった、と言いながら、棚から取り出したタオルを差し出してくる。
 受け取った白いタオルで髪についた水滴を簡単に拭き取ると、傷口から染み出た血液が雨水といっしょにじんわり広がって、清潔な布地を赤く汚していった。矢後はしばらくじっとそれを見つめて、ふと、駆けてゆく久森の濡れた背中や小さなくしゃみを思い出す。同時に、「見ているこっちが痛い」と言いたげなあの顔つきも。
 てきぱきとした動きで、看護師が傷口を消毒して頬にガーゼを押し当て脚にテーピングを施してゆく。ものの十分も経たないうちに、矢後は医務室をあとにした。看護師はやはり目を丸めて言う。「寝ていかないの? 珍しい」
 矢後はその問いかけを無視して、すたすたと廊下を歩んで会議室を目指した。いやに重厚なドアを開けると、認可校のヒーロー十三名と、特別認可校のヒーロー一名、それから指揮官と神ヶ原が、広い室内で雑然と向き合って座っている。主要な伝達はすでに終えてしまっているようで、会議というよりは雑談会といったふうな、緊張感のかけらもないいつもの空気がそこには広がっていた。
 無言で入室してきた矢後への反応はさまざまだった。やっと来たか、という顔をするものもいれば、派手に顔面を怪我していることに驚き心配するものもいた。矢後は空いている席に適当に腰かけようとしたが、並んだ彼らのなかにぽつんと残された空席は久森のとなりだけなので、仕方なくそこまで歩いて移動する。
 矢後を見上げた久森は意外そうな顔で「え、来たんですね」と言った。「絶対に医務室でサボると思ってました」
「……」
 お前が来いって言ったんだろ、と矢後は思ったが、しかし口にすることなく腰を下ろした。久森の髪はもう濡れておらず、だれが渡したか、彼の肩には少し湿ったタオルがかかっている。矢後はそれをたしかめて、なんとはなしに納得したふうな気分になり、ふわふわとあくびを漏らして机に伏せた。
「いや、なにしに来たんですか……」と、呆れた調子で言う久森の声が、すぐとなりで聞こえた。

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