未来視を使って後悔することは少ない──と、言い切ってしまうとさすがに嘘になるのだが、とはいえ実際、後悔することばかりかというとそうでもない。ヒーローとして活動するようになってからは特にそうだ。この世界にはどうやら、《未来》が視える自分だからこそ救えるものも存在する。
そういう意味で、今日の久森は珍しく、猛烈な後悔に直面していた。その《未来》を直視した瞬間に短い悲鳴を上げて、反射的にその場に蹲ったほどであった。目の前で火花が散ったように視界が明滅し、この世のものとは思えないような破壊音が耳の内側の脳に近いところでいつまでも反響している。久森はしゃがみこんだままで必死に耳を塞ぎ、勝手に閉じようとするまぶたを無理やり持ち上げて《こちら側》を注視した。正しい時間に在る正しい世界。死に物狂いでそれを認識しなければ、誤った時間の軸に吹き飛ばされて、二度と戻っては来られないような気がした。
突如として道端で蹲った久森に対して、けれど駆け寄ってくる者はない。他校のヒーローたちと同行していなくてよかった。自身の能力に苦しめられる姿は、どうしたってみっともなく感じられるものだ。久森の側にはいつも通り矢後がいるが、彼はさして安否を気遣うふうでもなく、ただ少し身をかがめて「どうした」と言う。「なんか視たのか」
万が一なにも視ていなくてこのざまなのであれば、なにかしらの検査のために病院へ向かうべきだ。マイペースな矢後の言葉を受けて、久森はようやく肩の力を抜いた。心臓の音はまだうるさいけれど、今しがた直面したおぞましい景色に比べれば、いくらかスマートで穏便だ。のんびりしている暇はない。久森は口を開いた。自分で思うよりは、はるかに冷静な声が出た。「イーターが出現するのは、この一帯で間違いありません。予定通りです」
市街からほど離れた、小規模な工場地帯だ。数日前からイーターの出現が予測されていて、その討伐のために久森は矢後とふたり、揃って現場へ足を運んできていた。認可校のヒーローがふたりもいれば充分に事足りると、大人たちがそう判じるような、ほんの小競り合い程度の戦闘だ。なにごともなく勝利して当然の、簡単な任務。それでも、久森は決して気を抜くことはしなかった。万全を期して敵を迎え撃つ――久森晃人は、言葉以上の意味でそれを実現することができるヒーローだ。
だから、現場に到着してすぐに《未来》を視た。事前に少しでも多くの情報を得るために。そして、必要であれば起こるべきその《未来》を退けて、より望ましいかたちへと変貌させるために。
久森は言葉を続ける。
「じきに、シェルターへの避難が間に合わなかった民間人がひとり、イーターに追われてこちらへ向かってきます」
「なんだそれ。出現予測見てねえのかよ」
「知りません。とにかく、最優先で保護する必要があるのは間違いないんですが……」
久森が言い終わるより先に、低いエンジン音となにかが軋むような騒音が同時に響いた。ちらりと顔を上げた矢後が、「民間人ってあれか?」と呟く。久森は身構えながら、そうです、と返したが、はたして矢後の耳にその声が届いたのかは疑問であった。
ひと気の失せた幅の狭い道路の向こうから、尋常でない速度で大型トラックが走ってくる。そしてその背後、わずか数メートルの距離にまで、浮遊するイーターが迫っていた。人口密集地とは言い難いこの付近に、緊急避難用のシェルターは少ない。トラックで移動して退避するつもりだったのか、あるいは無謀にもトラック自体をシェルター替わりに隠れるつもりだったのか、真意は定かではないが、今はそんなものを推し量っている場合ではない。
久森は立ち上がり、リンクユニットを手にした。矢後を見ると、いつの間にか彼はすでに戦闘服に身を包んでいて、それで、と続きを促す。「どんなヒドいもん視たんだよ、お前」
「…………」トラックは真っすぐに突き進んでくる。ほかに道がないのだから当然だ。久森はその光景が間違いなく現実にあることを確かめながら、数分後に訪れる《未来》を思い出して身震いした。「……僕らがイーターを引き付けて相手している間に、コントロールを失ったトラックがうしろの工場に突っ込んで大爆発を起こします」
言葉でいえば簡潔だが、実際に起こるのは未曽有の大惨事だった。ありていに言えば、あたり一面火の海だ。風向きが悪く、避難指示の出ている区域より外にまで一瞬で火の手は広がってしまう。久森自身も、もちろん矢後だって、きっとただではすまない。というか、あの状況で生き残れる気などまったくしなかった。
時間はない。許されるのであれば指揮官に指示を仰ぎたいが、あいにく昨日から、室媛とともに出張で都外へ出ていた。今から連絡を取り、状況を説明するのは現実的ではない。そして指揮官に頼ることができないいま、久森の頭でとっさに思いつく策といったら、あのイーターに手出しするのをやめにして、トラックが襲われるのをここから傍観することくらいだった。そうすれば少なくとも、あのトラックが暴走することだけは止められる。あの悪夢のような景色の実現は避けられるはずだ。
けれどそれは、民間人をひとり見殺しにする選択に他ならない。
どこを切り取っても最悪だった。久森にその決断を下す勇気はないが、いずれにせよこのままでは、あの運転手が助かることはない。迷っている間にも、凄まじい速度でトラックはこちらへ向かってきていた。
久森は逡巡したが、矢後に躊躇はなかった。彼は準備運動でも行うかのように何度か屈伸をして、どことなく楽しげにすら感じるような調子で久森の名前を呼んだ。恐れなんて微塵もない、あっけないほど堂々とした声音は、不思議と、この緊迫した場にこそ相応しいような気がした。
「なんですか」と、久森が返すと、矢後はにやりと口の端を上げて言った。「お前さ、あっち行ってしばらくイーター引きつけてろ。言っとくけど、間違っても倒すんじゃねえぞ」
どっちも俺の獲物だからな。と、まるで当然のことのように言う、彼の視線の先には迫り来る巨大な鉄の塊がある。
その横顔に、久森も覚悟を決めた。矢後といるとこんなことばかりだ。どう考えても無茶苦茶だけれど、他に手はない。一度、胸まで深く息を吸い込んでから、久森は「任せてください」と静かに返した。「足止めは得意なんです」
ほんの数メートル先にまでトラックが迫る。久森は身を翻して軌道線上から逃れたが、矢後はその場を動かない。空中を走るイーターの姿だけを、久森は見ていた。糸状の武器はシンプルだが、ひとつひとつの扱いには細やかな注力が不可欠だ。よそ見をしている余裕などあるはずもない。イーターの姿を視界におさめた、そのほんの一瞬で幾重にも束ねた糸を網のように繋ぎ、狙いを定めて一度に放す。強靭な索状は正確にイーターを捕えたが、その程度ですべての動きを封じることなど出来はしない。
戦闘に集中する久森の背後、ほんのすぐ近くの距離で轟音が鳴り響く。空気を震わせるそれは未来視で視たものとはまた別の、けれど同じくらいに耳を塞ぎたくなるようなひどい音だ。悲鳴を上げて蹲って、そうしてやりすごしてしまえればどんなに楽だろう。
信じるより他にない。
久森はイーターから目を逸らさなかった。
* * *
「差し入れだ」と斎樹から手渡されたカップケーキを見てはじめて、もう十五時をすぎているということに気が付いた。
上品な小箱の中にふたつ並んだそれは、シンプルでありながら質のよさを感じさせる。ほのかに漂う甘い気配でさえ、砂糖ではないなにか別の調味料を用いて演出されているように思えた。昼食は十二時丁度に配給されていたが、すこし物足りなかったのでありがたい。ここは遠慮する場面ではないなと思い、久森はその差し入れを受け取った。ありがとう、と伝える声音が自然とほころぶ。「というか、ごめんね。わざわざ、こんなところまで」
「気にするな。こんなところ、というほど遠くもないしな」
それもそうか、と久森は得心する。気持ちとしては非常に遠方に隔離されているような感覚なのだが、実際にはこの部屋はALIVE本社の一角なので、とんでもない僻地というわけではない。むしろ、それなりに馴染みはあるはずだった。
とはいえやっぱり、『こんなところ』というのが表現としては相応しいと、久森は思う。
「矢後さんは?」
「あっちで寝てる。まだ当分起きないだろうから、これ一緒に食べちゃおう」
貰ったばかりのカップケーキと、同じテーブルに添えるにはあまりに貧相なペットボトルのお茶を並べて置く。コップのひとつでもあれば印象も違っただろうが、この部屋に食器類は用意されていなかった。なんかごめんね、と久森がもう一度言うと、斎樹もまた、気にするな、と返す。「大変だったな」
久森も、それには素直に頷いた。
本当に大変だった。
あの日、矢後はトラックの暴走を食い止めて、本来起こるはずだった大爆発を防ぎ多くの人々の命を救った。それは間違いないのだが、しかし戦闘後に報告を行う際、イーター討伐よりトラックの停止を優先させた理由を問われた彼は「こっち向かって走ってきたから殴っただけ」と供述し、それによって派手に横転したトラックの運転手が全治五ヵ月の怪我を負ったことに関しては「べつに良いだろ、生きてんだから」と返し、さらに勢いよくひっくり返ったトラックに巻き込まれて近くに駐車していたなんの罪もない乗用車がぺしゃんこになったことに対しては「知らねー」と吐き捨てた。
そのあまりに簡潔で乱雑な回答は、当然のようにALIVE内で物議を醸した。ほかにもっと上手い言い方はなかったのかと問い質したいところではあるが、もちろん、なかったのだ。久森の能力はALIVEの職員全員が知るものではないし、だからといって事細かに説明して理解を得られるようなものでもない。矢後の発言は大雑把極まりないが、たとえ久森が説明を求められたとしても結局は、似通った内容の言葉を厚めの毛布にくるむくらいしか出来ないのだった。
さらに加えて、イーター討伐に対して非常に熱心な矢後はトラック横転後すぐにターゲットを切り替えたが、さしあたっていつもの大鎌を使わずにその辺に停めてあった原付バイクをイーターへ投げつけており、そのことも大人たちをざわつかせた。暴挙の理由を問われた彼は、「だから、血ぃめちゃくちゃ出てたんだっつーの」とコメントしたが、それだって、リンクユニットを使用したことのある者でなければ状況の必死さは伝わらない。ヒーローとして戦うのはいつだって貧血と隣り合わせで、そして大型トラックと正面から喧嘩したばかりの矢後はというと、常人であれば気を失いかねない量の血液を失っていた。
あの場にいた久森は誰よりも、矢後がなにを行ったかを知っていた。彼は久森の言葉を信じ、その力で《未来》を変えてみせたのだ。そしてあの悲惨な結末を防ぎきったあとも、自身が明言した通りイーターを倒すために戦った。リンクユニットを介さない攻撃は敵を怯ませる程度の効果しかないが、それでも、ひとりで戦う久森にとっては大きな助力だ。
やると決めたことを全て、彼らしいやり方でやりきってみせた。
ただそれだけのことなのだが、しかし怪我をした運転手や、破壊された乗用車とバイクの持ち主たちは、そんなふうには思わない。たかが一体のイーターを倒すためになぜ自分たちが被害にあわなくてはならないのかと訴え、揃いも揃って彼らは憤った。そしてその手の意見に賛同して声を張り上げる者たちは、少なからず世間に存在する。
ALIVEの手筈によって大々的に報道されることこそなかったが、一部のネットニュースで取り沙汰されたことで、本部役員もすべての批判を無視することは出来なくなった。結果、功労者であるはずの高校生ヒーロー二名に下されたのは、「十日間の自宅謹慎」という、だれが得をするのだかまったく分からない、名目だけの懲戒処分であった。
「……まあ、言いたいことは分からなくもないというか、そりゃあ停めてただけの車を意味不明の理由で壊されるとかたまったものじゃないだろうし、色々と、心配になるのは仕方ないと思うんだけどね」
ほとんど愚痴のような口調で呟きつつ、ついつい遠い目になってしまう。謹慎処分そのものは、実をいうとそこまで苦ではないのだ。学校を休むことで授業に遅れてしまうのは不本意だが、ヒーロー業に起因する欠席としてある程度は配慮されるので、そうなるとただの長期休暇である。部屋でひとりでゲームし放題。幸か不幸かと問われると、まあ間違いなく不幸に分類される事態ではあったが、悲しみの中に希望を見出すことも時には必要なはずだった。人はそうやって強くなるものだ。たぶん。
そのようにして出来る限り前向きに捉えようとしていた久森は、しかし自室でゲーム機の電源をオンにするより前に、なぜかALIVE本社へと呼び出されていた。見知らぬ偉そうな人たちに取り囲まれて、なんの脈絡もなく、「率直に質問にだけ答えてほしい」と念押しされる。「きみは、矢後勇成に自宅謹慎が出来ると思うか?」
出来るわけがなかった。
久森は非常に素直に「無理だと思います」と回答し、そしてその数分後には、今いるこの部屋に矢後とふたりで放り込まれていた。ALIVEの本拠地の地下にある、いかにも巨大組織の内部ですといった雰囲気の、色味の少ない空間だ。質素だがしっかりとした造りの机と椅子とベッドがあって、奥には洗面所やシャワールームも設備されている。ちょっとしたマンションの一室めいたその部屋は、緊急時に職員が寝泊まりするときに使用しているのだと説明されたが、そんなものは絶対に嘘だ。室内から鍵が開けられない部屋の用途なんて限られている。
『世間の批判を浴びて該当のヒーローを自宅謹慎にすると公表したは良いものの、万が一にも勝手に出歩かれては体裁が悪いので、なにか起きてまた問題になる前に閉じ込めることにした』というのが、どうやら実際の状況らしい。なるほど、建前と実情が見事にぐちゃぐちゃである。室媛の不在ひとつで、ここまでアホになるものだろうか。
驚くばかりの展開だが、とはいえ、組織がそう決めたのだからどうしようもない。久森とて最初は愕然とし、それなりの憤慨も覚えたものだが、しかし一晩も経つとどうでもよくなった。寝食において不自由があるわけではないし、スマートフォンでもゲームは出来る。
「……お前のそういうところ、本当に凄いと思うよ。尊敬する」
「うっ。褒めてないよね、それ」
「まさか」斎樹は微笑んだ。「紛うことなき褒め言葉だ。順応性が高いというのは、生き残るすべに長けているということだからな」
やっぱり褒められてはいない気がする。久森がうなだれると、斎樹はそれをからかうかのように目を細めた。「ともかく、元気そうで安心したよ。もっと落ち込んでいるんじゃないかと思っていたが」
「落ち込んでないわけじゃないんだけどね、みんなにも迷惑かけちゃったし。外はどんな感じ?」
謹慎中に東地区でなにかあった場合は、白星第一のメンバーが請け負うことになると聞いていた。彼らであれば問題なく対処するだろうけれど、管轄外の地域ではやりづらい面もあるかもしれない。久森はそういう意味で、なにか困ったことが起きていないかを訊ねたつもりだったが、しかし斎樹はふっと笑みを零し、どこか誇らしげにも思える口調で「すごいぞ」と言った。
「このバカげた処遇を解くために、いま、指揮官さんが鬼のような勢いで上と掛け合ってる。右手に志藤さん、左手に御鷹を連れてな。金棒を構えているというよりは、暗器の所有を明示しながら歩いているような雰囲気だった。あの調子なら、上手くいけば明日には出られるんじゃないか?」
「う、うわー……」
指揮官が出張から戻るのは来週の予定と聞いていたが、久森たちの状況を聞いてすぐさま引き返してきたのだろう。それこそきっと、鬼のような形相で。
まさかそんな大ごとになるとは思わなかった。久森は完全にビビっていたが、斎樹は涼しい顔でお茶を飲んで言う。「大ごとにもしたくなるさ。少なくともあの人は、矢後さんの言ったことが全部本当だなんて思っていない」
「……あー」
だよね、と久森が言うと、斎樹は当然とばかりに頷いた。なにがあったかは知らないが、とその金色の目で久森をじいと見る。
「話したくなければ話さなくても構わないと思う。けど、訊ねられる準備くらいはしておけよ。一応、今日はそれを伝えに来た」
「……うん」
久森の呟きは肯定よりただの相づちに近いものだったが、斎樹はこれといって咎めることもなく、ただ優しく頬を緩めた。
* * *
断ろうとする斎樹を押し切って、カップケーキは結局ふたりで食べた。どこからどう見ても『良いお店の品』だったので、矢後のような味わうことを知らない人間に与えるのは勿体ないと思ったのだが、しかしとうの矢後は思ったより不機嫌な声で「なんでだよ」と言った。「自分だけ食うか、フツー」
ソファで丸まって眠っていたはずの彼は、斎樹が部屋を去ってすぐにのそりと身を起こした。「俺の分は」と低く問う声に、久森は仕方なく、「ありませんよ」と事実を告げる。納得いかないと訴える視線は、残念だけれど無視をした。
「いつの間に起きてたんですか?」
「寝てたけど、なんか食ってんなと思ってた。あー、腹減った」
夕飯来たら起こして、と矢後は再び丸くなる。はいはい、と返事をしながら、久森はスマホを手に取った。夕食が届けられるまではまだ数時間あるので、それまでは静かにゲームが出来るはずだ。
「……ねえ矢後さん、何度も言いますけど、寝るならベッド使ってくれませんか。怪我もまだちゃんと治ってないんですから、安静にしてないと駄目ですよ」
告げる言葉になんら偽りはないのだが、しかし本音を言うと、部屋の隅に設置された監視カメラの存在が久森にはどうしても気になっていた。誰になんと言われようとも、久森は、他人の目を気にして生きていたいのだ。怪我人をソファに転がしておくのには抵抗がある。
そんな小心者の些細な気兼ねなど、もちろん矢後が気に留めることはない。彼はまぶたを閉じたまま、「ここでいい」と短く返した。どうも柔らかすぎるマットレスの寝心地が気に入らないらしく、何度言ってもこの調子なのだ。信じがたいことに、怪我ももうほとんど治っていると言う。久森は嘆息した。庶民には縁遠いレベルの高級ベッドをこんな部屋に置こうと決めた者の気が知れなかった。
実際、単なる軟禁部屋にしては、室内の設備は妙に良いものが揃っているのだ。スマホの通信にも、これといった制限はかけられていないようだった。はたしてどういう意図により設けられた空間なのだろうか。謎解きゲームめいた状況には少しばかりわくわくしたが、好奇心に傾きかける思考はしかし、ぽそりと落とされた矢後の声にあっけなく引き止められた。「なあ、さっきの」
「……? なんですか」
「言わねーの、あいつにも」
断片的すぎてさっぱり分からない。久森はしばし考えてから、ああ、と得心した。
「指揮官さんのことですか?」
問いかけると、んー、とあいまいな声が返ってくる。それを肯定と受け取って、久森は眉をひそめた。「やっぱり起きてたんじゃないですか」
聞き耳をたてるなんて、らしくないことをする。矢後は僅かに身動ぎをして、それっきりなにも言わなくなったが眠ったわけではないらしい。表情の見えない彼の反応をさりげなく確かめつつ、久森は小さな声で言葉を続けた。
「……言いたくないってほどではないんですけどね。でも、『これから起きること』ならともかく、『起きるはずだったけど起きなかったこと』って、なんというか、伝えづらいんですよ。それってもう『起きなかったこと』でしかないですし、言い訳っぽいというか、信憑性に欠けるというか……」
嘘をつくなと罵られることは、さすがにないと思う。ないはずだ。けれど、それが本当に起こるはずの《未来》だったのかどうかは、起こってみなければ分からないのも事実だった。久森の視たものを証明する手立てなどない。
「疑うんですよ、普通の人は。僕だってときどき、自分の視たものが本当に本当の《未来》だったのか疑問に思うんですから。だからこういう、あいまいで、後からどうとでも着色できるような、そんな疑いの余地が残る出来事をあとからわざわざ説明するのはちょっと……」
嫌なんですよね、と口にして、久森は自分の発言に驚いていた。同時に、なるほどなあ、と思う。どうやら自分は、指揮官にも、斎樹たちにも、疑われたくないらしい。
未来視を使って後悔することは、ままある。視たくないものを視てしまったときがまさにそうで、なおかつ、必死になってその《未来》を回避しようとしたときに、自分だけがひとり、別の世界に放り出されたような気分になるのが苦手だった。虚しさに近いそれは正しい道筋を捻じ曲げたことへの罰のようにも思えて、気持ちのどこかにうっすらとした影を落とす。その種の翳りは、しかし久森の人生においては珍しくもない、当たり前に積もり続けるものだ。今さら、だれかと分かち合おうとも思わない。
言葉を途切れさせたきり黙り込んだ久森に、矢後はなんにも言わなかった。本当に、眠ってしまったのかもしれない。久森もスマホに視線を戻したが、しばらく考えてから結局、「指揮官さんには話してみます」と言った。
「じゃないと、矢後さんが勝手に暴れただけみたいになっちゃいますもんね」
こんなことになってしまって、これでも一応、心苦しいと思ってはいるのだ。苦笑いが混じった久森の声に、矢後は小声で「べつに」と言った。「そーいうこと言ってんじゃねえし、どっちでも良いけど」
「あ、やっぱり起きてる。どうして寝たふりするんですか?」
「うるせー」心底煩わしそうな声だ。寝たふりではなく、単に半分寝ながら喋っているのかもしれない。「そんなことより、次に誰かなんか持って来たら、ちゃんと俺のも残せよ」
そんなに空腹だったのか。久森は意外に思いながら、わかりました、と返したが、はたしてまた誰かが面会にくることがあるのかは疑問だった。早ければ明日には出られる、と斎樹は言っていたので、次にそこのドアを開けるのは指揮官かもしれない。
そうであれば良いな、と久森は思う。いくら順応性が高くても、やっぱり閉じ込められるのは窮屈だし、監視カメラは気になるし、一方的に処罰されるのだって良い気はしない。
だって自分たちは、正しいことをしたのだ。そう信じたい。傲慢かもしれないけれど。
矢後の寝息が聞こえてきて、久森は両腕を上げて伸びをした。それからふと思い立ち、斎樹がくれたカップケーキの店をインターネットで検索する。あんなにおいしいものを食べ逃した矢後はたしかに気の毒だったので、無事にここを出られたときにお祝いとして買っても良いかなと思ったのだが、表示された値段を見てすぐに諦めた。「これならカレーまん十個くらい買ったほうが良いですよね」
言葉にして言ってみても、矢後の寝息は変わらない。どうやら今度こそ本当に眠ったようだ。久森はスマホを手放して、両のまぶたを下ろした。未来を視るわけではない。ただ、あの日に視た惨状を思い出していた。
自分ひとりだったら、絶対に避けられなかった。
そう思うと、なぜか気持ちが落ち着いた。不思議だけれど、理由は明白だ。ひとりではないことがその答えだ。久森は静かに、自分の中にある感情を整理する。この力が何のためにあるのかはよく分からないし、今も、たくさんの人に迷惑をかけてしまっているけれど。
それでも、後悔らしきものは感じていない。
矢後の寝息を聞きながら、久森はぼんやりとその時間をすごした。夕食はなんだろう、と考えているうちに眠たくなってきたので、のそのそとベッドに上がって横たわる。不安になるほど柔らかなマットレスの上は、決してすぐに慣れそうにはないけれど、たしかに心地のよいものだった。