広辞苑に載っている語句の中に「砉」という漢字があって、それ自体は「かく」もしくは「けき」と読むらしいのだが、この見慣れない、書き順のイメージすらつかない一文字がいったいどういう意味を持つのかというと、【骨と皮が剥がれるときの擬音を形容したもの】なのだという。
昨夜なんとなく流し見していたテレビ番組でその言葉の存在を知ったとき久森は仰天して、「普通に生活していて骨や皮がどうこうする場に遭遇する機会なんて滅多にないはずなのに、どうしてわざわざこんな漢字を作っちゃったのかなぁ」と、古くよりの人類のマイナスな発想力に慄いたものだが、まさか一晩明けてすぐに自分自身がその物騒な形容を必要とするシーンに出くわすとは夢にも思わなかった。久森の右足の、腓骨だか脛骨だか知らないがそのあたりの骨が付近の筋とか神経とかを巻き沿いにしながらあらぬ方向へ折れ曲がったとき、たしかに身体の内側で本来しっかりとくっついているべきものが、べりっと剥がれたかのような不気味な音が聞こえたのである。
土曜日の正午を過ぎたころで、イーターの出現自体はもともと予測されていて、だから準備は万端のはずで、けれど久森の未来視では自分がこんなふうにふいの攻撃を受けて負傷するところまでは視えていなかった。久森の力は自分自身の《未来》を正確には映さない。仮に事前に視えていたのであれば、当然、別の作戦を提案していたはずである。
そういうわけで久森は、自身から生まれたそのえげつない音を耳にした瞬間、昨夜得たばかりの知識を反射的に思い起こし、「こ、これが例の……!」という謎の感慨を頭の隅でたしかに覚えたが、しかしそんなことを呑気に考えていられたのはほんの一瞬のことだった。久森の痛覚は正常に作用して脳に的確な信号を送り、肉体の一部が不全な状態に陥ったことをこれでもかというほど主張してくる。「ものすごく痛い」程度の表現では到底片付かないが、残念ながら戦闘中に骨折程度のことで怯んではいられなかった。足は心臓から遠く、重要な臓器や器官を傷つける危険性も低い。命にかかわる怪我ではないのだ。吹き飛ばされた身体を無理やりひねって受け身をとり、久森はそのまま膝をつくことはせず左足だけで素早く地面を蹴った。ここで蹲ってしまってはそれこそイーターの餌食になるし、なにより、次の一撃の邪魔になる。
追撃するイーターの分厚い爪から久森が間一髪の距離で逃れるのと、後方から飛び込んできたナイフがその大型の腕を殺ぐのとがほとんど同時だった。続けて、長大な獲物とそれに不似合いな小柄なシルエットが視界に飛び込んでくる。明るく晴れた空の下、続けざまに響く剣戟が陽光をより華やかに彩ってゆくさまを、久森は彼らからわずかに離れたところで注視していた。もとより、後方こそが術式のフィールドだ。腕さえ動けば、糸を操ることはできる。
けれどその緊張感もさして長くは続かなかった。怪我人に負担を強いる気など毛頭ないとばかりに、前線で繰り出される猛攻は確実にイーターを追い詰めてゆく。
敵が霧散するのを遠目に見届けてから、久森はようやくその場に倒れこんだ。リンクが解けるのと同時に力が抜ける。戦闘許可区の乾いた土の上は妙に生ぬるく、泥臭いにおいがして、横たわったところでなにひとつ楽にはならなかった。それどころか、切迫していた意識が途切れたせいで、全身から一気に汗が噴き出してくる。
「~~っ! あ、う、ぐうう……!」
喉から溢れ出るみっともない声を噛み殺しながら、久森は地面の上で身を捩った。暴れたところで意味のないことと理解しつつ、どうにかして、この激痛を身体の外へと散らしたくてたまらない。歯止めの効かない衝動に反し、悶えれば悶えるほど痛みは鋭く頭の先までを貫いていくように思えた。命に関わらないとしても、痛みは恐怖だ。身が竦む。引いていく血の気を補うかのように、心臓が激しく跳ねまわる。
「久森、動くな」と、僅かに息を上がらせながら近づいてくる気配があった。斎樹の声だ。リンクを解いた彼は素早くこちらへ駆け寄ると、所在なく地面を掻こうとする久森の右手を捕まえてぎゅっと握り、もう片方の手で肩を掴んで上半身を起こさせた。「横にならない方が良い。落ち着いて、目を開けろ。そうだ、ゆっくりで構わない」
言われるまで、久森は自分が硬く目を閉じていることにも気付いていなかった。冷静な声音に従いまぶたを押し開けると、ひどく近いところに斎樹の黄金色の両目がある。久森は小さく「ひえ」と言って息を飲んだ。この距離はまずい。下手をすると、斎樹の顔に自分の鼻息が全部かかる。
「? おい、久森。呼吸を止めるな、ちゃんと息を吐け」
「む、むむむ無理だよ斎樹くん。顔が近い、顔が、いや、無理」
再びぎゅっと目を閉じて、小刻みに首を横に振りつつどうにかそれだけ口にする。久森の態度に、斎樹はまるで呆れたような、同時に安心したような口調で言った。「そんなリアクションが出来るのなら大丈夫だな。じきに救護が来るが、応急処置は先に進める。痛むだろうが、我慢しろ」
「う、うう、我慢かぁ……」
とはいえ、斎樹に強く手を握られながら肩を抱かれているという状況は、苦痛から意識を逸らすのには十分すぎるほどだった。下手な麻酔よりよほど効く。久森はそっと目を開き、改めて友人と視線を合わせた。言われたとおりに息を吐き出し、吸い込み、呼吸を整える。そのようすを確かめてから、斎樹は久森の肩から手を離した。同時に顔の距離も離れてゆくが、こちらを見つめる眼差しは変わらない。ほとんど視線を逸らすことなく、彼は久森の視界のそとで手当ての準備を進めているようだった。じわりと広がる血のにおいを覆い隠すように、消毒液が強く香る。
「報告終わったよー」と、その背後からひょいと顔を出した北村が言った。「ありゃ、思ったより悲惨だね。大丈夫? 久森サン」
全然まったく大丈夫ではない。イエスともノーとも口にできないまま斎樹と目を合わせ続ける久森に、しかし北村も返答を求めていたわけではないようで、こちらの顔色を窺うように少し首を傾げたかと思うとすぐさま斎樹へ向き直った。「おお、器用だなぁ。さすが斎樹ちゃん」
「北村か、丁度良い。手を貸してくれ」
「えー、ボクごときに出来る手伝いなんてある? 追加のイケメン麻酔をご所望なら、御鷹サン呼んで来たほうが良いと思うけど」
「人間の顔に麻酔の効果はない」言い切ってから、斎樹は少し考えるふうな顔をした。「……いや、久森になら多少効くのかもしれないが、そんな実験のために御鷹を呼び出すのは非効率だ。現実的にいこう。こっちへ来て、久森の気を散らしてくれ」
「そんなで良いの?」
「ああ」
斎樹は頷き、続けて言った。「それから布かなにか噛ませて、ついでに、暴れられないように押さえておけ」
「オッケー、だったらお安い御用だね」
なんだその不穏な会話は。久森は思わず縋るような目で斎樹を見たが、返って来たのはいつもどおりの、知的かつ涼やかな眼差しだった。彼は堂々と久森を見つめ返し、それから、ほんの少しだけ眉をひそめて言った。
「──耐えろよ、久森」
告げるや否や、すいと斎樹の視線が離れる。入れ替わりに、背後からにゅっと伸びてきた北村の手が久森の肩をがっしりと掴んだ。どこから取り出したのか、口元にハンカチが差し出される。
「……」
おとなしく口を開けて、久森は、それをぐっと噛み締めた。
覚悟を決めた直後、神経のぜんぶが引きちぎれたような痛みと例の音が脳髄に響く。「砉」である。骨と皮が、いま、斎樹巡の処置を受けてふたたび悲鳴をあげている。
後輩の目の前であまり情けない姿をさらすわけにもいかず、久森は必死に声を殺して痛みに耐えた。「久森サンさぁ、絶対いま、ボクより御鷹サンの方が良かったって思ってるでしょ」と、冗談めかして言う北村に何度も頷き返すと、彼は声をあげてころころと笑った。
* * *
《地球》の恒常性によってもたらされるヒーロー特有の超常的回復力は非常に頼もしいスキルではあるが、反面、現代医療の常識が通じないあまり怪我の治療方法に大きな影響を及ぼす場合がある。
今回の久森の外傷はまさしくそれに該当するケースで、本来ならば観血的に接合処置を施すべきところを敢えて触れず、消毒と縫合のみに留めて《地球》によるホメオスタシスを優先させることでより自然な状態へ導く療法を選ぶつもりだ。──と、搬送先の病院で医者は久森にそう告げた。なんだか小難しい内容だが、要約すると『メスを入れて骨の位置を戻して金具で固定するより、なんにも手を加えず《地球》の力で元の形に戻したほうがきれいに治るだろうからそうしよう』ということらしい。
「それで構わないかな」と同意確認を求められた久森は、もちろん首を縦に振るよりほかになかった。医療のプロがそう判断したのだから、異論などあるわけがない。「手術をしても、結局は無駄に金具を体内に残すことになるだけだから」と言われると、たしかに《地球》に任せる方が効率的なように思えた。
ところが、この《地球》への丸投げに近い治療法には、思いがけず大きな落とし穴が存在した。
めちゃくちゃ痛いのである。
それは当然といえば当然のことで、強固に固定と保護を施されてはいるものの、久森の足の骨はいまもなお、本来あるべきではない方向へ折れ曲がり、一部は砕け、飛び散り、しっちゃかめっちゃかな状態のままで角度だけを整えて、表面の傷を塞いだっきり放置されているのだ。どこかの無痛覚のだれかとは違い、健常かつ繊細な肉体がこんな扱いを受けて、激痛を伴わないわけがない。
搬送された直後こそ麻酔の効果で気にならなかったが、入院したその日の晩に早々、久森は自身が選択を誤ったことを思い知った。ナースコールを鳴らしまくって鎮痛剤の投与を求めたが、許可がおりたのはほんの数回のことで、それ以外の時間はどう言葉を選んでも地獄であった。夜が明けて日中、様子を見に来た担当医に久森はげっそりとした面持ちで、
「あの、これってもしかしてなにかの実験だったりします?」
と訊ねたが、しかつめらしい顔をした初老の医師はわずかに目を瞠り、「まさか」と首を横に振って言った。「もっとも、貴重なパターンではあるから、データとしては共有させてもらうがね」
共有されるらしい。
どこの誰とだ?
ALIVEと提携した医療施設はヒーローの怪我を治療するのに慣れきっていて、若き高校生が平和のために戦った結果激痛に呻いていてもさして心を痛めることはないらしい。もっとも、患者ひとりにそう心を砕いていては仕事にならないのも事実だろう。久森とて、特別気にかけてほしいというつもりはないのだ。なんだかんだと理由をつけて、データを取られて勝手に分析されることだって、とうに日常茶飯事だった。《リンク》を経験していない人の身とは比較にならないほどの速度で、肉体の損傷は修復──あるいは、《復元》と呼ぶべきだろうか──されてゆく。そりゃあ、興味深くもあるだろう。
初日の夜こそ生き地獄を味わったが、薬の投与を繰り返しつつ、それなりの睡眠がとれるようになるまでさして時間はかからなかった。途切れ途切れの覚醒はいかにも入院患者といったふうで、じわじわと日付の感覚を失いそうになるが、幸いなことに久森にはスマホゲームのデイリー課題をこなすという日課があるため、それを逃さない限り時間の流れを掴み損なうおそれはない。我ながらあっぱれな趣味である。
そんなこんなで、あの討伐の日から四日。水曜日。
味の薄い朝食をのろのろと摂取してから、動画配信サイトで映画を流し見しているうちに少し眠っていたらしい。ふと気が付くと、窓の外の色は真昼のそれに変わっていて、カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいる。
……眩しい。
眠りの縁で小さく呻いた瞬間、その直射日光からまるで久森を庇うかのように、誰かが腕を伸ばしてカーテンを引いた。一瞬、視界が暗くなる。久森は両目を何度か瞬かせて、寝起きのまなこに刺さる光の量を調整した。病室の電灯は明るく、瞬間的に覚えた暗がりに放り込まれたような気分はすぐに払拭される。
まどろみと覚醒の狭間のような場所から、ベッドサイドに立つ人影をぼうっと眺め、久森はようやく「あれ」と声をだした。「矢後さん?」
カーテンを閉ざしたのは彼だった。薄茶色の髪がふと揺れて、窓際へ向けられていた頬の輪郭がゆっくりとこちらを振り返る。暗い色の両目はまるで興味のなさそうなふりで、けれどたしかに久森を見つけて「おや?」とでも言いたげに瞬いたが、実際に彼のくちびるからこぼれたのは「……よお」という中途半端なあいさつだけだった。
「ど、どうも……」と、久森もその中途半端につられて小さく返す。会釈をするにはもう少し身を捩る必要があったが、固定された右足は些細な動きすら制限する。久森は妙な角度のまま、首を少し動かすだけにとどめた。矢後はそのさまをやはり興味なさげに眺め、かと思うと、傍にあった面会者用の椅子をがらがらと引き摺ってベッドへ近づけて当たり前のように腰を下ろす。
「……? あの、どうかしたんですか」
「なにが」
「ん、んん? えっと、すみません。寝起きでちょっと、混乱していて」
どうして矢後さんがここにいるんですか。
と、訊ねることは容易いが、どうにもとっさに舌の上に乗せることができず、久森はなんとも言えない表情のままでしばし沈黙した。矢後は変わらず、なんの感情も含まないまなざしでそれでも久森を眺めやっている。謎だ。そこに座ったということは、つまり、まだしばらくこの部屋に滞在するつもりということだろうか。
しばらくの間もごもごと言葉を探し回った後、久森は観念して口を開いた。どうしてここにいるんですか、という問いかけも、もしかしてお見舞いに来てくれたんですか、という確認も、あえて触れる必要はすでに感じていなかったので、
「矢後さん、授業はどうしたんですか?」
と、至極まっとうなことだけを訊ねた。
矢後はまったく気にしたようすもなく、「フケた」とだけ言って軽くあくびを漏らした。まあ、そうであろう。平日の、じきに正午を迎える時間だ。それ以外の回答などあるわけもない、聞くだけ無駄な問いかけである。それでも久森がその言葉を口にしたのは、疑問を晴らすためではなく注意を促すためだ。宿題をやっていないことが丸わかりの子どもに、「宿題は?」とあえて訊ねるのとおんなじである。
嫌味ともとれるようなその苦言に、気づいているのかいないのか、いずれにしても矢後はどこ吹く風だ。掠れた喉の調子を確かめるみたいに、久森は小さく咳をして、今ここで起きている現実を見つめなおす。
授業をサボった矢後が久森を見舞いに来た。
非常にシンプルな状況だ。久森は改めて矢後の顔を眺めやり、そうして、やはり首を傾げた。どうしてわざわざ、と思った。矢後の通う呼吸器内科は棟が違うし、なにかのついでといったふうでもない。せめて放課後か、休日であれば学校や指揮官からの連絡を携えてきたのだろうかと考えることも出来たが、どうやらそうではなくこれは自主的な見舞いのようで、久森はいよいよ当惑した。よもや、またなにかトラブルでも起こしたのだろうか。
「……お前は、ほんと、俺のことなんだと思ってんの」
怪訝そうな久森の視線を受けて、矢後は呆れたふうにそう言った。なにって、と久森は少し不服げに返す。「矢後さんは矢後さんでしょう」
「そーだけど。そーいう話じゃねぇよ」
矢後はいよいよもって憮然とした態度で、「北村が」と唐突に言った。「お前が痛い痛いっつってびーびー泣いてたから、見舞いにでも行って慰めてやれって」
「はぁ?」思わぬ発言に、久森はつい素っ頓狂な声を上げた。誰がびーびー泣いていたというのだ。とんでもなく我慢して、泣きたいのを堪えて必死に飲み込んだというのに。
「り、倫理くんめ……」
「ついでに指揮官と、あと斎樹と、それから……」
言葉の途中で、矢後は盛大に眉をひそめて舌打ちをした。もの凄く嫌なことを思い出しているときの顔だ。指揮官と、あの場に居合わせた北村倫理と斎樹巡、加えてどこからともなく飛び出してきた頼城紫暮の言葉を受けて、どうやら彼はこの部屋を訪ねることになったらしい。久森は納得した。そうとなれば、へたに訝しがるのは彼らに対して失礼である。
「なるほど。状況はなんとなく理解しましたけど……あの、泣いてないですからね」
念のため主張しておくと、矢後は当然のように「だろーな」と言った。「けどま、あいつらが揃って心配だ心配だっつーから、いちおー見に来た」
言いながら、彼は久森の右足にちらりと目をやった。痛みを感じない彼にとっては、きっと他愛のない、ただのつまらない怪我に映るだろう。久森がその無痛を想像しきれないのと同じように、あるいはそれ以上に、矢後にとって他者の痛みを感じ取るのは困難なことのはずだ。
実際、矢後は久森に怪我の具合をたしかめるようなことは口にしなかった。「痛むか」とも「大丈夫か」とも彼は言わず、ただぼんやりと、こちらを窺っているふりをして、同時になにか別のことを気にするような顔をしている。
久森はそれを眺め、少し迷いつつ口を開いた。ええっと、とまごついた言葉を挟みながら、それでもきっぱりと断言する。
「──僕は平気ですよ」
たしかにひどい怪我を負ったが、心を挫かれてはいない。そもそも、術式がイーターの接近を間近にまで許したこと自体が大失態なのだ。他校と合同の作戦で、それも後輩の目の前で犯すにはあまりに痛恨のミスであった。それを恥じる気持ちこそあれ、討伐に参加したことそのものへの悔いはない。まして、イーターと戦うことへの恐怖を抱えて竦んでなどいるわけもない。
「指揮官さんたちは、そういう意味で心配だって言ってくれてたんですよね? 大丈夫ですよ。斎樹くんの処置のおかげで、感染症の懸念もないらしいですし。一歩間違ったら足が無くなってたかもしれないって考えると、そりゃあたしかにちょっと怖いし、ショックでしたけど……」
とはいえ、そんなリスクは百も承知だ。ヒーローとして活動していれば、四肢どころか命を失うことすら可能性はゼロではない。「……今さら、ビビッてしっぽ巻いて逃げようなんて思ってないですから」
安心してください。と、冗談めかしてそう口にした久森に、矢後はしかし、さして面白くもなさそうに眉をひそめた。そーかよ、と彼は低く返した。「べつに、そんな心配してねーけど」
「え、そうなんですか? 僕はてっきり……」
「うるせー」
再びあくびを漏らすと、ねみー、とぼやけた声で彼は言った。なにやら合点がいかないといったふうな顔をして、それからぽそりと口を開く。「……お前さ、もう限界だとか、ヒーローやめたいとか、すぐにうにゃうにゃ言うじゃん。ああいうのと、今と、どう違うわけ?」
忽然と投げられた問いかけに、久森は少々面食らった。「はぁ……」と生返事を零してから、「たしかに、どう違うんでしょうね?」と自らの思考に首をかしげる。言われてみれば、『大怪我を負って怖い思いをしたので、もうヒーロー活動はできません』という辞退宣言はもっともらしく、非常に有効な手のように思えた。精神判定テストはまだ受けていないが、もしも大きな綻びが見つかれば、久森の意思に関わらず戦場に出されることはなくなるだろう。どういうわけか、まったく、そんな結果になる気はしないけれど。
「というか、矢後さん、やっぱり僕がヒーローやめるって言いだすかもって思ってたんじゃないですか」
「……あ?」
「いや、『あ?』じゃなくて……。え、そういうことじゃないんですか?」
「どういうことだよ」さして思案することもなく、矢後は淡々と返して言った。「つーか、俺がどう思うとかじゃなくて、お前がいつも言ってんだろ。痛いとかつらいとか、やめたいとか、そういうの。よく分かんねーけど、泣くほどつらいならやめれば良いんじゃねえの」
「…………」
「『痛い』って、なんか、そーいうふうになるもんなんだろ」
そう言った矢後はどこか投げやりで、しかし同時に、不思議なほど深刻な語調を含んでもいた。形のないものを手探りで追いかけて、無理やり搔き集めて雑然と並べ立てたかのようだった。どうにもぐちゃぐちゃで、まったく整頓されないまま放り投げられたそれらは、けれど実際、矢後自身にとってどこまでも得体のしれないものごとなのだろう。
久森はその拙い声を正面から受け取って、それから、どうすべきか分からずしばし押し黙った。なにを口にしたとしても、彼が放った問いかけへの返答とするには、無粋で野暮ったらしく、到底手が届かないもののように思えた。とはいえ、このままずっと黙したままでいることも出来ない。久森は少し考えて、ともかく、「あの、何度も言いますけど、泣いてないですからね」と告げた。自分で思うより、ずいぶんと力の抜けた、普段通りの声が出た。
「だいたい、本気で泣くほどつらいことばっかりなら、言われるまでもなくやめちゃってますし……」
僕は平気ですよ、と、久森は再びそう言った。「たしかに痛いですけど、そんなに心配されるほどではないです」
「……」矢後はそれを聞いて、とくに感慨もなく「あっそ」とだけ返した。「心配してねーけど」とは、今度は彼は言わなかった。久森はひそかに胸をなでおろす。どうしてか、心臓が変な調子でドキドキしている。妙な心地に内心で困惑する久森に、しかし矢後はというと、先ほどまでのやりとりなど一切なかったかのようにふわふわとあくびを漏らしている。「ここ、日当たり良いな」と気だるげに彼は言った。
「なあ、もう昼飯食った?」
「? ま、まだですけど」
「じゃ、食い終わるころに起こして」
そう言って、椅子の位置を動かして座りなおすと、壁に背を預けて目を閉じる。安定した寝息が聞こえてくるまで、ほんの数分もかからなかった。久森は目を丸めてそのさまを眺め、次いで、弱ったふうに眉を下げる。自由すぎるが、残念なことに、この自由さにもとっくに慣れてしまった。
久森は胸の奥まで深く息を吸い、それを静かに吐きだした。ゆったりとした矢後の寝息とは、まったく重ならない速度の呼吸だった。まだ少しだけ、心臓が早く鳴っている気がする。どうしてだろうと理由を探して、少ししてからようやく、矢後の口から「やめれば良い」と飛び出たことに動揺したのだと思い至った。
久森をヒーローにしたのは彼なのに、嫌ならやめろと、あっけなく手放されるのは腑に落ちない。
苛立ちとも虚しさとも異なる、妙な感覚が胸中にじんわりと広がっていた。ともすれば掴みかかって「勝手を言うな」と詰め寄ることも出来るが、それをするほどの熱情も見つけられず、理屈の知れない感情は手もち無沙汰に滲んだっきり、あっという間に薄れてどこかへ消えた。あっけないことだ。久森は究明を諦める。矢後が好き勝手を言うのはいつものことで、なにより、ヒーローなんて自分には向いていないのだと、やめるべきだと、久森が自身をそう評価しているのも事実なのだ。
「……別に、引き留めてほしいってわけでもないし」
ひとりごとには、すやすやと変わらないいつもの寝息が返ってくる。久森は思わず渋面を浮かべた。どこからどう見ても、本気の全力で寝入っている。静かな個室はきっと彼には寝心地が良く、昼食を終えた久森が呼びかけたところで本当に目を覚ますのか、まったくもって疑問であった。
つぎに薬が切れたとき、と久森は考えた。
そのとき、もしもまだ彼がこの部屋にいるのであれば、泣いてないと言ったのが嘘だとばれてしまう。
それだけは避けなくては。思いつつ、どうしたって動かしようのない身体で、久森はやむなく天井を仰いだ。心配されるほど痛くはないだなんて、どうしてあんな見栄を張ってしまったのだろう。今さらのように後悔しながら、どことなく満足げな、すっきりと機嫌のよい矢後の寝顔を横目で見やる。呑気なものだな、と、ほんの少しだけ、恨みがましくも思ってしまう。
けれど彼の気配がすぐそばにあることそれ自体は、どうしてか、別段、悪い気のしないものなのだ。そんなふうに感じる自分を不思議に思うこともなく、久森は枕もとのスマホに手を伸ばし、寝落ちてしまった映画をもう一度頭から再生した。