久森晃人にとって矢後勇成とははたしてどのような存在かを考える機会は思いのほか多い。
誰に問われるまでもなく、漠然と、自分とこの人はいったいどういう関係なのだ? と自問し思案する。それは矢後の方から『俺のことなんだと思ってんの?』と久森に告げるその頻度よりはいくらか少なく、それでいていくらか深刻だ。久森にとって矢後は同校の先輩かつ同業のヒーローで、それ以上でも以下でもないが、なぜか自分は彼の命に関わる薬を預かっていて、戦場では時に、命そのものを預かっている。どちらも久森が望んで請け負ったわけではなく、可能であれば速やかに返却したいたぐいのものだ。風雲児高校に入学して以来、どういうわけか、なにかを付与されることばかりなのだ。背中の刺繍、大げさな二つ名、副長に右腕に、それからヒーロー。持っていても嬉しくない肩書きばかりだ。
風雲児高校の久森晃人は、いろいろな名前を与えられている。それらから推察するに、矢後勇成の近くにいて当然だと思われている節がある。そして実際に、白い部屋で大量の管に繋がれながら、峠を越えるか超えまいかの一線に晒されている矢後の姿を、すぐ傍で眺めたりもしている。
家族でもなければ、友だちですらないのに。
病室にはまず彼の母親が駆けつけて、しばらくしてから顔色を変えた指揮官がやってきて、立て続けに彼の姉が飛び込んできた。遠方にいるらしい父親も、すでに飛行機に乗り込んだそうだ。施せる処置はすべて終え、あとはもう、本人がどこまで持ちこたえるかだと、神妙な顔で担当医が語る声を聞きながら、久森は、失敗したなぁ、と考えていた。完全に、帰るタイミングを失った。室内に充満する空気はどうしようもなく陰鬱で、とてもではないが、「もう帰ってもいいですか?」などと言い出せるような雰囲気ではない。
どう考えても場違いなのに、と久森は思う。
はたして自分とこの人はいったいどういう関係なのだ? と自問し、思案する。
空地の隅で倒れている矢後を発見したのは久森だ。他校と合同の討伐戦。事前確認のために視た景色の中に彼の姿だけが見当たらなくて、嫌な予感を覚えた久森は指揮官に無理を言って戦線を離れた。素早く八草の病院へ向かってその場の《未来》を視たところ、案の定、じきに運び込まれる彼の身体はすでに冷たくなっていた。運悪くひと気のない場所で発作を起こし、さんざん苦しんだ挙句だれにも看取られることなく死ぬはずだった矢後は、けれどその瞬間を迎える直前に救急車に乗せられて、命を失う代わりにたくさんの機械に繋がれ固く目を閉じている。
蹲る矢後の姿を見つけて駆け寄ったとき、久森はたしかに『間に合った』と思ったが、この先のことは分からない。未来が視えるからといって、可能性のすべてを見通せるというわけではないのだ。《未来》は変わる。変えることができる。久森の目の前で幾度となくそのことを証明し続けてきた男は、しかしいまは黙したまま、その身を運命の岐路の上に横たえている。
久森は眉を下げながらそのさまを眺めた。きっと、情けない顔をしていると思う。生還を祈るような思いはもちろん、がんばれと応援するような気持ちにすらなれないまま、ただぼんやりと、意識のない横顔を見ていることしかできないのだ。情けない顔にもなるというものだ。
ベッドの上の矢後の姿はまるで造りもののように硬く強張っていた。じっと見つめているとどうしても、いままでに何度も視た彼の死に顔を思い出す。なにも映さず、なんの色もない。最果てのような空白。いまの矢後はそのときの彼によく似ている。
「…………」
かすかに目眩のようなものを覚え、久森は顔を俯けて眉をひそめた。そばにいた指揮官に、「少し外の空気を吸ってきます」と告げて、返事を待たずに廊下へ出る。きっと、矢後の痛ましい姿に耐えかねて席を外したのだと思われただろう。そうではないのに。ただ、居心地の悪さに逃げ出したというだけなのに。
病室を出た久森は、のろのろとした足取りで屋上へと向かった。さっきまで明るかったはずの空は、いつの間にかすっかり暮れて、細かな星がなんの気なく散らばっては東成都の街並みを見下ろしている。
外気はほどよく肌になじみ、久森の気持ちを和らげた。なにかと病室を抜け出したがる矢後の気持ちも少し分かるなぁと、そんなことを考えながら、目を閉じて、深く息を吸う。
吹き抜ける夜風の音は遠く、まぶたを下ろしたまま聴覚を澄ませていると、溢れてくる憂鬱を少しだけ誤魔化せるような気がした。矢後の寝息のようだと、久森はふいに考えた。どこででもすぐに寝入る彼のその口元から、呼吸の音が漏れ聞こえるのを探すのに似ている。彼が生きている音を見つけ出せるうちは、視たくないものを直視しないですむ。
ただの感傷だ。矢後の状態があんなふうでさえなければ、思いつきもしなかったに違いない。自嘲を零しつつ、そっと目を開けて、視線の先に広がる夜空を眺める。
本当は、とうに死んでしまっているはずの人。
慌てて駆け寄っても、助け出しても、いつかの猫のように結局はいなくなるかもしれない相手だ。それを理解している自分が、さも真面目ぶった顔で彼の生死を案じるのは、どうしても滑稽なことのように感じられた。生きてほしいと願うことも、どうにかして耐え抜いてほしいと祈ることも、激励すら空虚で、陳腐だ。自分でそう思うのだから、受け取る側にしてはたまったものではないだろう。矢後に限らず、誰だってそうだ。《未来》を知っている者に、うわべだけの励ましなど送られても迷惑なのだ。
久森は嘆息した。こんなふうにうじうじと考え込んだところで、結局、矢後にとってはすべてどうでも良いことだというのも分かっていた。どうでも良くないからこんなにも逃げ出したいのに、この気持ちが彼に伝わる日はきっと一生訪れない。伝えたいとすら思わない。どうせ、鼻で笑われるだけだ。
ちいさな恨みごとは絶えることなく、久森の心中をころころと転がっては少しずつ気を晴らしていった。この瞬間にも死んでしまいかねないと分かっているのに、不思議と、落ち込むより先に普段の彼のことを思って呆れてしまう。変な人だなぁ、と久森は思う。出会ったときからずっと、そんなふうだ。いついなくなってもおかしくないくせに、どうしてか、そんな感じがしないのだ。おかしな話だ。
けれど唐突に、遠くで吹いていたはずの風がぴたりとやんだ。
どこからも、なにも聞こえない。矢後の呼吸のようだと感じたはずの音の消失は、明確に久森の胸をざわめかせた。
最果てのような空白。
久森は息を飲み、それから、屋上をあとにした。そんなはずはないと思いながら、ついにその瞬間が訪れたのかもしれないとも考える。それはひとつも、おかしなことではないのだ。あの呼吸が今まで続いてきたことが、どれほどありえない出来事なのかを久森は知っている。もしかすると医者よりも、あるいは矢後自身よりも、そのことを身に染みて知っているのだ。
足早に病室へと戻ってきた久森に、指揮官は目を丸め、丁度よかった、と言った。いま呼びに行こうと思っていたのだと、聞き馴染んだ声が告げる。久森はわずかに呼吸を弾ませながら、瞠目してその様相を目に焼き付けた。
矢後が、身を起こしている。
意識を取り戻した、……と一口に言うのには、やや違和感の勝る光景だった。つい先ほどまで重篤な状態にあったはずの彼は、すでに自身の至るところに巡らされていた機器を取り外し、ふつうに起き上がって家族と言葉を交わしている。まるで、ほんの少し寝すぎただけといったような顔をしている。久森は脱力のあまりその場に座りこみそうになった。よろめく身体をどうにか支え、かわりに「大丈夫なんですか……?」と自分でも意図の見えない問いかけを口にする。
だれに向けたものでもなかったけれど、「大丈夫なわけないじゃないですか」と、そばにいた若い看護師がぽそりと零すのが聞こえた。困惑を隠すことのない声だった。「奇跡ですよ」
そうだ。奇跡なのだ。
たとえ《未来》や《運命》なんて知らなかったとしても、目の前で起きているこの出来事は、そうとしか言いようのないものだ。久森は無意識にほっとして、それから、矢後の視線に気が付いた。ベッドの上から、じっと、こちらを見ている。ぎくりとした久森に、寝起きめいた顔つきを浮かべたまま、彼は片手でちょいちょいと手招くしぐさをしてみせた。
「…………」
そこに近づいて良いのか? 自分が?
家族でもなければ、友だちですらないのに?
久森はためらったが、矢後の目つきが次第に機嫌を損ねてゆくのを察してやむを得ず一歩を踏み出した。病院の空気をより固めて凝縮させたような、暗い重たさが充満した部屋の中を、少しずつたしかめるように進む。おずおずと近づいてきた久森に、乾ききった唇を開いて矢後は言った。「イーターは?」
「…………ああ」そうか、それはたしかに、気になるだろう。久森は妙に納得し、ようやく肩の力を抜いた。「予定していた討伐なら、無事に終わりましたよ」
端的な返答に、矢後は小さく舌打ちした。
「んだよ、つまんねー」
「はぁ。いや、当然ですよね。何時間経ってると思ってるんですか?」
「知らねーよ。クソ、久々にでけぇのとやれると思ったのに、ツイてねぇな」
本気で惜しむように顔をしかめ、そんなことを言う。途端に横から、アンタ命の恩人に向かってなにその態度、と鋭い声が飛んできた。矢後の家族は本人と似つかず快活に喋り、久森に向かってぺこぺこと頭を下げたかと思うと、片手で矢後の後頭部をガッと掴んで力づくに下げさせた。久森はぎょっとしたが、矢後は抵抗するのも億劫とばかりにされるがままになっていて、そのことも久森には意外だった。この男を抑え込むことの出来る人が、こんなところに存在するとは。
「ええと、僕は救急車を呼んだだけで、恩人と言われるほどのことはなにも……」
未来視の力のことを言及されても困るので、久森は謙虚を装い「ただの偶然ですよ」と控えめに苦笑してみせた。だいたい、討伐の陣形に穴を開け、他校のヒーローたちの負担を増やしてまで矢後を探すことを決めたのは久森のわがままだ。ヒーローとしてはむしろ、許されない行いだという自覚はあった。
自身の判断が誤りだったとは、決して思わないけれど。
久森はちらりと矢後を見やった。家族の前の彼はヒーローでも総長でもないただの子どもで、けれど久森にとっては変わらないいつもの矢後勇成だ。そんな当たり前のことをたしかめて、そうすることでやっと、心の底から安堵する。よかった、と思う。この場に立ち会わなければ得られなかった感覚だろうと考えると、長く居心地の悪かったあの時間も、意味のあるものだったように感じられた。もちろん、結果論でしかないけれど。
しばらくすると、ALIVEの職員から連絡を受けた指揮官が退室して、学校へ電話してくると言って姉が、次いで夫を迎えに行くため母親が席を立った。だれもが認める奇跡の直後だというのに、彼の周りではさして珍しい出来事でもないといったふうに時間が進む。あっという間に病室に取り残された久森は、再び帰るタイミングを逃す前にと切り出した。「それじゃあ僕も、そろそろ帰りますね」
矢後とふたりで過ごす理由はないし、見張るように言い渡されているわけでもない。いつまでも病院に留まる必要はどこにもないのだ。矢後も当たり前に「おー」と短く返事をして、けれど背を向けたとたん、久森、と彼は小さく言った。
「サンキューな」
軽く投げかけられたそのひと言に、久森は、思わず硬直した。
なにかの勘違いかと思ったが、わざわざ名指しで告げられたのだ。高い確率で、自分に向けられた言葉である。おそるおそると振り返ってみると、久森の反応に、矢後はむしろ不思議そうな顔をしてみせた。
「? なんだよ」
「いえ、……どういう風の吹きまわしかと思って」
聞き間違いでなければ、感謝を伝える意味の外国語を寄越されたはずだ。いくら矢後の学力が風雲児レベルだとはいえ、Thank youくらいは幼稚園児でも知っているわけで、さすがに誤用とは考えにくい。あるいは久森の知らないヤンキー言葉として「サンキュー」にはなにかべつの──月夜ばかりと思うなよとか、背後に気をつけろとか、そんな物騒な意味があるのかもしれないが、矢後がわざわざそれを伝えてくる理由も分からない。露骨に身構える久森に、矢後は「お前さぁ」と呆れた声で言った。「そーゆーの、俺に失礼だとか思わないわけ?」
「矢後さんこそ、めったに人に感謝を伝えないからこんな反応されるんですけど。日ごろの自分のこと、失礼だと思わないんですか?」
「……あー」
「納得するんですね……」
妙なところで素直な矢後に、久森は肩を落とした。「で、本当になんなんですか。急に」
「べつに、なんとなく」
しれっと返す矢後の言葉に、なにかを誤魔化すような意思は感じられない。彼がそう言う以上は、本当になんとなく、口をついて出ただけの言葉なのだろう。久森はそれでも不信な顔つきを隠さなかったが、矢後がそれ以上の不服を漏らすことはなかった。
かわりに彼は、ふと思い立ったように口元を緩めて言った。「命の恩人」
「うっ……」
「だったら、礼くらい言っとくかって思っただけ」
先ほどの仕返しにとからかうようで、同時に、どことなく達観したふうな顔をして、矢後はそんなことを呟いて言った。彼にしては珍しい冗談だ。久森は渋面を浮かべ、「勘弁してくださいよ」とか細い声で返した。「そういうの、本気で要らないんで」
弱音めいた口調を受けて、矢後はおかしげに「はは」と短く笑った。久森に対してではなく、自身に向けての嘲りを含んだ声音だ。本当に珍しい。どうかしたのか、と久森は訊ねようとして、結局なにも言わずに口を閉ざした。たとえそうは見えなくとも、今の今まで、彼は生死の境を彷徨っていたのだ。本調子でないのは当然のことで、であれば、きっと他人が進んで触れるべきものではないだろう。久森だって、屋上で抱いた感傷をだれかに知られたくはない。
「……ともかく、もう遅いですし、僕は失礼しますね」
そう告げて、今度こそ部屋を出る。矢後も、「ん」と小さく返すだけで、久森を留めるような言葉を発することはなかった。病室を出ると、廊下の隅のほうで電話をする矢後の姉の姿がある。目が合ったので会釈をすると、彼女は背を正し、久森に向かって深々と頭を下げた。
「…………」
久森はそれを受け、どうすべきかまったく分からず、そそくさとその場を通り過ぎた。悪いことなんてなにもしていないはずなのに、まるで逃げ出すみたいに病院をあとにする。建物の外から見上げる空は、屋上で眺めるよりもずいぶん狭く感じられた。風の音だって聞こえない。静かな夜道を足早に歩んでいるうちに、次第に病院の気配は遠のいて、それをたしかめてからようやく久森は足を止めた。同時に、深く長く、息を吐く。
背中の刺繍、大げさな二つ名。副長に、右腕に、それからヒーロー。全部が全部、自分には荷が重いのに、それに加えて命の恩人だ。要らないものばかりが増えていく。
矢後だって、そんなもの、久森に預けたくはないだろうに。
それでも今日の彼の口からは、「ありがとう」が零れたのだ。そのことの意味を考えて、久森は途方に暮れるような気持ちになった。そんなものは欲しくないと、そういって簡単に突き放したことを、ほんの少しだけ後悔する。矢後にだって、なにかを頼ったり、求めたりする瞬間があるのかもしれないと考える。
それは、けれど、それでもやっぱり、久森が触れるべきものではないように思うのだ。
彼が死ぬはずだった今日はじきに過ぎ去り、夜が明ければ、また彼が死ぬかもしれない明日がやってくる。久森はここから先のことを知らない。その《運命》がいつ正しいかたちで成立するのか、久森の力ですべてを知ることはできない。
けれど必ず、いつの日か、あの空白は訪れるのだ。
久森は空を仰いだ。全然、まったく、どう考えたって、自分には請け負いきれないと、心の底からそう思った。