モニターに浮かんだ部屋の壁は異質なほどに白く、その真ん中には大型の、やはり真っ白な椅子が設置されていた。
それが正確に大きなサイズのものであるのかは分からない。ただ、そこに座らされた少年があまりに小さかったので、相対的にひどく巨大な椅子であるように見えた。子どもは、どういうわけだかずぶ濡れだった。まるで溺れていたところを引きあげられたばかりのようなていで、座っているというよりは、置かれているといった具合に、空っぽの着ぐるみ人形のようにそこに身を預けている。全身を弛緩させ、ぐったりと、さも死体のようなありさまではあったが、僅かに上下する胸元がその生存を主張していた。くちびるが僅かに開いていて、その隙間と同じくらいの薄さで、片目だけがぼんやりとこちらを――カメラのあるほうを見つめている。
映像は比較的古いものであった。ディスクそのものが旧式の機器で再生するものだったので、画質の乱れは当然である。とはいえ、映しだされている状況を踏まえると、その古びた空気は敢えて取捨された、ひどく悪趣味なものであるように思えた。ディスクに貼られた小さなラベルには、『2044/10/12』という日付の羅列。そして、『被験体4号E990溶液回収後第一記録』なる文字。モニターに映るのは壁と、椅子と、水濡れの幼い子どもだけだったが、カメラの外には複数の人のざわめきが感じられる。こつん、と誰かがなにかを叩く音がして、では、と低い声が呟いたのを合図に、しんと場が静まり返った。
《これより被験体の意識確認を行う》
どこか興奮したような、上ずった声音で、モニターに姿のない人物が言った。ほう、と周囲から静かに息を吐く気配。画面の中央で、子どもは相変わらず、ぐったりとどこかを見つめている。ぺたりと頬に貼りついた黒い髪、その隙間から覗くまっくらな瞳。光を失ったその眼差しは、子どもをひどく人形めいて見させた。布切れのような薄い衣服に青白い肌が透けて、投げ出された細い手足からは、ぽたりぽたりと透明な液体が滴り落ちている。
パン、と大きな音が急に響いた。どうやら誰かが、両手を鳴らした音のようだった。ぴくり、と子どもの肩が揺れ、大きな目が一度だけ、ゆっくりとまぶたを下ろし、それからもう一度開いた。カメラ越しに、そこにいるだれかを見つめているようだった。
《名前は?》
いやに高圧的な口調で、何者かがそう問いかける。子どもは虚ろな様相でそれを聞き、たっぷりと時間を掛けて、喉を揺らした。色の薄いくちびるから、は、と吐息のような音が漏れる。か細い声で、子どもは言った。
《はい、あら。……い、ばら》
絞り出すような声に、やはりカメラの外で、はぁ、と感嘆のような反応が広がる。昂りを隠せない声で、もう一度、名前は? と何者かが訊ねる。子どもは今度こそ、言った。自分の名を、口にした。はいばら。
《はい……ばら、ゆうや》
どこかで静かな歓声が上がった。それはとても奇妙な光景であったが、モニターの中のひとびとは、どうやらそんなことには気がついていないようだった。腹を痛めて生んだ子が、はじめて言葉を発した瞬間と、同じようなよろこびの空気でもって、彼らはその幼子を見つめていた。心の底から、愛でてさえいるようだった。
《年齢は?》
と、同じ声が今度はそう問うた。子どもは相変わらず意思を感じさせない調子で、ぽつりと返した。《ななさい》
――七歳。
そう、子どもは、ちょうど、そのくらいの年頃だった。あまりに幼い姿を、していた。水びたしのままで、カメラに捉えられながら、大人たちに囲まれていて良いはずのない年齢であった。親の愛を受け、外の世界を知り、さまざまな出来事と出会うべき年だ。七歳。その返答に、彼らはやはり歓喜の気配を見せた。すばらしい、と呟く声があった。成功例、という耳障りな単語が微かに聞こえる。子どもはその、大人たちの異常な反応に、いっそ冷めた視線ともとれるような無表情で相対している。
質疑はその後も繰り返された。身体に異常はないか、違和感はないか、記憶に乱れは生じていないか、ちいさな子どもに向けるのには少々難解と思えるような問いかけもそこには含まれたが、しかし子どもは、そのひとつひとつに頷いたり首を横に振ったり、ときには短い言葉でもって返答を示した。そのなかで、「お父さんとお母さんは?」という、実際に小さな子どもに訊ねるのにふさわしく思えるような質問もあったが、それにはしかし、
《……しんじゃった》
と、淡々とした言葉だけが返された。めまいを覚えるほどに、その場は異常な空気に満ちていた。大人たちはみな恍惚と『成功例』に食い入り、子どもはただ一身に視線を受ける。なにかが狂っていることは明白で、古いホームビデオのようなくすんだ映像が、その狂態を際立たせている。
それは十分にも満たない、ほんの短い記録であった。再生時間をじきに終えるそのころ、ふと思いついたように、だれかが訊ねた。若い男の声であった。最後に、すこし冗談を挟むかのような、軽い声音で彼は言った。《夢は見たかい?》
子どもは最初、反応を示さなかった。その言葉の意味を理解していないかのように、変わらぬぼうっとした目付きで、虚空を静かに眺めていた。数秒の間ののちに、こじあけるかのようにくちびるを開く。ゆったりとした口調で、しかし明確な声音で、子どもは「見たよ」と言った。場の空気がひやりとするほどに、それは強い意思を感じる声だった。
子どもは、もう一度言った。
《夢を、見たよ》
彼はもう虚ろな目をしていなかった。濡れた頬の上で、真黒な髪に隠れていない片方の目だけを大きく見開いていた。まるでどこからか力を与えられたように、さっきまで放り投げていたはずの手足をぎゅっと縮こまらせる。「見たんだ」と絞り出すような声で繰り返す。《見た。見たんだ。ぼくは、見た。いたんだ。ぼくのそばにいてくれるって、だって、そう言ったんだ、ジンくんは》
そう捲し立てながら、子どもは身体を丸めて頭を抱え込んだ。そのまま、崩れるように床に転げ落ちる。身体を上手く使えない、生まれたばかりの生き物みたいに手足をもがかせるその姿を前に、大人たちに動揺がひろがってゆく。あまりに急激な変化だ。慌てて子どもに駆けよる、白衣の背中がモニターに映り込む。
その隙間からも、蹲った彼の姿が見えていた。声は叫び続けていた。ジンくん。
《ジンくん、ジンくんだ。夢を見たんだ。ジンくんの夢を、ぼくは、ぼくは、見たんだ。ジンくんに会いたい。ジンくんはどこにいるの》
ひっ、と子どもは息を飲んだ。大人たちに手足を押さえこまれながら、彼は言った。その言葉の先を唱えることで、『ジンくん』は自分を助けに来てくれるものと、そう信じているかのようだった。
あの日と同じように頭を抱え、見開いた目から涙を零して。
呪文のように、彼は繰り返した。
《ひとりにしないで。ひ、ひとりに、ひとりにしないで。ひとりにしないで。ひとりに、》
ひとりにしないで。
ジンはモニターを切った。
ほとんど意識しないままで、再生機器ごと、力任せに床に叩きつけていた。暴力的な音が室内に響いたが、それはひどく滑稽で、寒々しい破壊音であるように、ジンには思えた。肩で息をしながら、床の上で砕けたディスクを凝視する。全身が震えて、歯を食いしばることさえ出来なかった。ぎこちないしぐさで、ジンはただ、どうにか口元を押さえた。そうしていなければ、腹の底からなにかどろどろとした、唾棄すべき感情が溢れて暴れて、手がつけられなくなりそうだった。
海道義光の私室であった。
A国への留学は急に決まったものだったので、海道の家はほとんど手つかずのまま置き去りにしていた。清掃管理だけを人に任せた屋敷は、しかし日々を暮らしていたころとあまり変わらない、深閑とした空気だけを響かせている。久しぶりの帰郷を懐かしむのもそこそこに、ジンは、祖父の私室へと足を踏み入れていた。遺品の整理を、行わないわけにはいかなかった。義光の遺したものは数多く、そのすべてが、ジンにとって掛け替えのないものだ。大切にすべきもの、片を付けなければならないもの、その判断は自分自身でつけなければならない。
けれど、こんなものが。
腹の奥からせり上がる感覚に、ジンは小さく呻いた。背を丸め、襲い来る吐き気を必死で堪える。いつの間にか、全身が嫌な汗に濡れていた。
こんなものが、こんなところに残されていたなんて。
イノベーター内部に残ったデータから、灰原ユウヤを対象とした実験の数々に関する資料にはひととおり目を通していた。けれどそれらのほとんどは、あくまで報告書であり、研究結果でしかないものだ。文字として記され、数枚の写真を添えられた複数のデータは、それだけでも充分に異常性を伝えるものだったが、しかしそんなもの、この映像の比ではない。だらりと椅子から飛び出した細い足首、濡れた白い頬、虚ろな目、薄いくちびる。それらを見つめる、大人たちの視線と高揚。ジンは、再び呻いた。
《ジンくん》
そう言っていた。七歳の灰原ユウヤは、そう、言っていた。あんな場所ででも、自分に助けを求めていた。
ジンはたまらず蹲りそうになったが、震える足をどうにか堪え、それから、床の上に散ったディスクを拾い上げた。触れたくもなかったが、そのままにしておくわけにはいかなかった。丁寧に整頓された、義光の机の引き出しの奥、複数の封筒が詰められたファイルの中には、まだ数枚、これに類似したディスクが収まっている。
崩れそうになる膝をどうにかして支えながら、ジンは目を閉じた。なにも見えないまぶたの裏で、じいっと俯いていると、ぐるりぐるりと世界が回って、そのまま、どこか遠くへ行ってしまえそうな気がした。なにもない場所。こんな酷い記録も、灰原ユウヤの過去も、自分自身も、なにもかもが消えてなくなってしまった世界へ。
ジンはくちびるを噛んだ。そのつまらない幻想に、すがろうとした自分を恥じた。両目を開く。顔を上げる。ゆっくりと息を吐いて、ここがどこなのかを思い出す。
誰よりも、情けない自分を見せたくはない相手の部屋だ。ジンは背筋を伸ばした。決して逃げ出してはならないと、自分自身をそう叱責するかのように、もうだれもいないその場所を見つめ続けた。
* * *
見たこともないものがたくさんあった。
きれいな額に飾られた海の絵、なんの柄とも表現し難い大きな壺、英語で書かれたたくさんの表彰状、艶やかな乳白色の台のうえに並べられた陶器の動物。あるじの帰りを待つばかりの時間を過ごしてきたはずの屋敷は、そうとは思えないほど手入れされ、荘厳さを保っている。
それらをきょろきょろと眺めやりながら、まるでお城みたいだな、とユウヤは考えていた。外から眺め、見上げた海道の家は呆気にとられるほど大きくて、ユウヤの心臓はいつもより速いリズムでとんとんと胸を叩いて好奇心を表現したけれど、中に入ってみればふしぎなことに、城はいっそう巨大さを増してしまったようだった。おとぎばなしに出てくるお城とはまったく違う、どこか寂しく冷たい海道邸ではあったが、足を踏み入れるたびに自分の身体が小さくなってゆくようなその感覚は、まるで魔法のように思えてユウヤの鼓動をいっそう逸らせた。
「一度家に戻る」と、ジンがそう言ったとき、ユウヤはその場ですぐに同行させてほしいと申し出た。彼は驚いた顔をして、それから少しだけ、思慮するようなようすを見せたけれど、「ジンくんの育った場所を見てみたいんだ」と正直に伝えると、さして渋ることなく承諾してくれた。ディテクターの事件を追っている間と、留学のためA国ですごしていた期間も含めて、ジンにとっては久しぶりの我が家である。邪魔になることは分かっていたが、それでもどうしても、一度来てみたかったのだ。この目で見ておきたかった。海道ジンのすごした九年間を肌で感じ取るのには、この場所が一番適しているように思えた。
それを言うとジンはかすかに目を細めて、なにか言葉を探すようにくちびるを薄く開いたけれど、結局なにも口にすることなくただユウヤを見つめていた。困ったふうな顔、と、ユウヤは彼の表情をそう判断したけれど、だからつまり、ジンはすこし、困ってしまっていたのだろうけれど、それでも自身の主張をとどめようとはユウヤは思わなかった。彼を困惑させることは無論本意ではないが、でも、ジンくんはきっと許してくれると、そんな甘えた気持ちもすこしあった。
なにが見たかったというわけではない。
海道の屋敷に足を踏み入れて、具体的になにか得られるものがあるとは思わなかった。ただ、ジンのことをもっと知りたいという気持ちが強くあったので、ユウヤは広い広い廊下をふらふらと進みながら、この場所を同じように歩く彼の姿を想像する。大きな家。立派な家。でも、すこしだけ寂しい家。長い廊からふと視線をあげて、どこまでも続くきれいな天井を見上げていると、なんとなく、ジンの背中を見つめているような気分になってくる。
屋敷に着いてすぐ通された客間(と呼ばれていた、とにかく広くてきれいな部屋)で、そのソファにぽつんと座ったユウヤに向かい、ジンは「自由にしていてくれ」と言った。「僕は少しやることがある。すまないが、適当に時間を潰していてくれ」
まだ浮足立ったようすを隠せないユウヤに、まるで子どもにでも向けるような優しい目をして、彼は見慣れたいつもの執事を残していった。見たい場所があれば好きに出入りしてかまわない。けれど、迷うといけないから絶対にひとりでは歩きまわらないように。特別に入ってはいけない部屋というものはないが、美術品のたぐいは出来るだけ手に触れないように。そんなふうな注意をひとつふたつ口にしてから、夕食には戻るよと告げて部屋を出てゆく。ユウヤはそれを見送って、それからすこしのあいだは、出されたお茶とお菓子があんまりおいしいことに感動したり、とうに顔見知りである執事とふたり他愛のない会話に花を咲かせたりしていたが、じきに立ち上がった。屋敷は広すぎて、どこへ向かえばなにが見られるのかさっぱり分からなかったので、とにかく適当に歩いてみることにした。
目的なくさまよっているだけでも、海道邸は充分に面白い場所だった。価値があるものなのだろうな、という程度にしか認識できないような置きもののひとつひとつに、立ち止まり、覗きこみ、ユウヤは興味を持って執事に質問を重ねた。美術館のキャプションを読み上げるかのように、老執事は的確に答えを返してくれる。とはいえ、この調子で好き放題に見回っていては、あっという間に陽が暮れてしまうことは明白だった。目的を定めなければならない。
自分の知らない海道ジンがすごした、その場所を見てみたかった。きっとこの家にこそその気配は残っているものだと、そう思っていた。けれど屋敷は広すぎて、気がついた瞬間にはぺろりと飲み込まれてしまいそうな、そんな強大な力でもって佇んでいたので、彼がすごした名残のようなものはとうにどこかに四散して、自分などには見つけられないような気がしてきていた。
ジンが普段食事を取っているという食堂まで辿りついて、ユウヤは、大きく広がったテーブルの上にぺたりと手をついた。たくさん並んだ椅子の、そのひとつに腰掛けてみる。ここにジンが座るところを想像すると、なんだかいつまでもこうしていたいような気分になってきたけれど、でもこの気持ちは、どちらかというと物寂しい気分に寄るものだったので、結局はすぐに立ち上がることにした。ジンのすごした足跡はそこかしこにある。きっと、ユウヤに窺えないだけで、この屋敷のいたるところにその影はあるのだ。うーん、とユウヤは首を捻った。やっぱり、目に見えるものじゃないと分からないな、と当たり前のことを考えた。
顔をあげ、穏やかなようすで控える執事に、あの、と問いかける。
「ジンくんの、ちいさなころの写真ってありますか?」
連れて来られた部屋は食堂から少し歩いた先にあって、そこがはたして屋敷の中のどのあたりに位置するのだかユウヤにはさっぱり予想もつかなかったけれど、とにかく、どちらかというと辺鄙な、生活スペースからはすこし距離のある場所であるように思えた。やっぱり広い、広い部屋だ。けれど物置のように多くのものが詰め込まれていて、だからどことなく窮屈で、なんだか古びた感じがする。
思い出の品や、かつて頂いたものや、大事なものをしまうための部屋なのだと執事は説明してくれた。年月を感じさせるような棚があり、薄い布を被せられたピアノがあり、キャビネットの奥から時間を引き戻すさまざまな記憶の気配がある。大きな窓から優しい陽が射していて、床には埃ひとつない。ユウヤは目を丸めてその部屋を見ていた。ゆっくりと降り積もってきた過去が、扉を開いた瞬間に、ふうっと目の前に吹きそそいだので、わけもわからず懐かしい気持ちになった。
そしてその、部屋の奥の壁に、ジンがいた。
ユウヤが記憶している、一番幼いころのジンに、今より近い姿をしていた。となりには彼の祖父が、海道義光が立っていて、ふたりとも穏やかな表情を浮かべてユウヤに微笑みかけている。肖像画だった。ちいさなジンと、ユウヤの知るのとあまり変わらない容姿をした義光が、その絵の中で寄り添っていた。
ジンが海道家に引き取られてから、三年目の春に描かれたものだと、執事が説明してくれた。ユウヤはゆっくりと、ゆっくりと、それに近付いて、食い入るように彼らを見つめた。その部屋に飾られた絵画は、それ一枚だけだった。他にはだれもいない。義光とジンの、ふたりきりだけなのだった。
そっか、とユウヤはふいに思った。海道義光には家族がなかった。妻も、子どもも、いなかった。ジンだけがいた。こんなに広い屋敷の中で、義光はジンと、ただふたりだけだったのだ。けれど寂しくはない。ユウヤは、見たこともないような穏やかな目でこちらを見つめる義光に、こっそりひとつ頷いた。わかるよ、と同意を示すふうに、ひとつだけ。
恨みや憎しみのような感情は、さして湧いてはこなかった。もちろん愛しさなんて覚えないけれど、奇妙なくらい静まり返った心の中で、ユウヤはありがとうと言ってみた。ジンくんに優しくしてくれてありがとう。
時間を巻き戻すような古い記憶に満ちた部屋の中で、けれど、もちろん返事など返ってはこない。海道義光はもうどこにもいないのだ。ユウヤはそのことを、今さら改めて実感した。それを考えてようやく、ちりちりとした怨憎が胸を引っかくのが分かった。海道義光は、もう、どこにもいない。たくさんの傷ばっかり残して、勝手に消えてしまった。いなくなってしまった。
ユウヤは長いあいだ、その絵を見つめていた。ちいさなジンの眼差しはしあわせそうで、それが見たかったはずなのに、なぜだか零れた涙を慌てて拭ってすこし笑った。
* * *
ユウヤが客間に戻ると、ジンはすでに帰って来ていた。
部屋の真ん中でひとり立ち竦んだ彼は、どことなく疲弊しているように見えた。その目がこちらを見た瞬間に、ユウヤ、と彼が言葉にしないで自分の名前を呼ぶのがわかったので、ユウヤはどきりとして息を吸った。足早に近付くと、ジンはようやく安堵したふうに、ほんのかすかな微笑を浮かべる。
もう一度、声に出さずに彼が呼んだ。ユウヤ。
「……待たせてしまってすまない。もう、じきに終わるから。あと少しだけ、ここで待っていてほしい」
ユウヤがこくりと頷くと、ジンはやっぱり安心したようすで目を細めて、小さな声でありがとうと呟いた。その次の瞬間には、彼はいつもの海道ジンの、精悍さを湛えた目付きに戻る。その変化を眺めやりながら、ユウヤはひっそりと、さっき飲み込んだ息を吐いた。
ジンの指先に、少しだけ触れる。赤い両目が僅かに丸く見開いて、ユウヤの手をそっと握り返した。その震えが収まるまでの短い時間をすごしながら、ユウヤは考える。海道義光はもうどこにもいないはずなのに、この場所には彼の気配が強すぎて、だったら同じじゃないか、と思う。
いても、いなくても、同じなのだ。彼の残した傷跡の、なにひとつだって消えたりしない。
ジンの手が離れて、そして再び部屋を出てゆくその背を見つめ、ユウヤは静かに祈った。いてもいなくても変わらないのなら、だったら生きていてくれればよかったのにと、そんな願いを覚えてようやく、海道義光を心から憎く思ったのだった。