おかえりの温度

 なんの前置きもなく、嫌だと思ったら言ってくれ、と、ジンは言った。
「きみに不快な思いをさせたいわけではないんだ」
 まっすぐにこちらを見つめながら、けれど、どこか言い訳めいた声音でそんなふうに続ける。その唐突な申し出にユウヤは目を丸め、とりあえず、こくりとひとつ頷いた。なんだかよく分からないけれど、彼のすることで自分が嫌な気分になるようなことは絶対にない、という確信があったので、その首肯にためらいはなかった。
 部屋のなかには誰もいない。ジンはどうやらはじめから、ふたりきりになるタイミングを見計らっていたようだった。次の作戦のミーティングを終え、子どもたちが他愛のない歓談を交えるなかで、彼は、すこし良いか、という簡潔な言葉でユウヤを誘い出し、そうして告げたのだ。「嫌だと思ったら言ってくれ」
 説明も段階もなにもない、びっくりするほど一方的な発言ではあったが、ユウヤはさして驚かなかった。ただ、ジンから向けられる眼差しがいやに深刻だったので、久しぶりだから緊張しているのかな、と、そんなことをぼんやりと考えた。彼がA国へと旅立つのを見送ってから数カ月、こんなかたちでの再会は、きっと想定していなかっただろうから。
 病院にいたころは、とふいに思う。
 目が覚めてすぐのあのころは、いつだってふたりきりだった。広々とした部屋の中、ほかに見舞いの客のないあの病室は間違いなく、ジンとユウヤのふたりだけの空間だった。
 それに引き換え、NICS内部では常に人が行き交っている。この壁一枚隔てた向こうにも、複数の人間の気配があるのだ。建物の中でたくさんの、彩りに充ちた意思が動く。人の世界では当然のことだ。
 ふたりきりだけれど、ふたりきりじゃない。こんなふうに彼と向き合える日が来たことが、ユウヤには嬉しかった。同時になんだか照れくさいような気持ちになってきて、こっそりと頬を緩める。それにつられるようにジンもかすかに目を細めたけれど、直後、彼は意を決したふうにちいさく息を吸い込み、それからユウヤに右手を伸ばした。
 長くて細い、いつだって繊細な動きを見せる、彼の指。
 それがそうっと自分の頬に触れたので、ユウヤはびっくりして、思わず喉を詰まらせた。ジンの手が指先からぴったりと頬に張りつき、それから、形をたしかめるようにゆっくりと輪郭を撫でる。なにを、と喉元まで出かかった言葉を飲みこみながら、目の前の少年を見つめ返すと、赤い双眸はじいと射抜くような視線でこちらを見ていた。
 なにを。
「……ジン、くん」
 困惑気味に名前を呼ぶと、彼は、不安げにちらりと両目を動かした。それをごまかすようにして、今度は左手が伸びてくる。ユウヤの長い前髪を分けて、右の手とおなじように頬に触れる。ふたつの手で顔を撫でられて、ユウヤは目を白黒とさせながら、とにかく息を止めていた。ジンの指が、どの指かは分からないけれど指の先が、かすかに耳の裏に掠れてくすぐったい。
 ジンは押し黙ったままで、ユウヤから視線を外すことなくその顔を撫でさすっていた。頬だけではなく、顎や首筋、まぶた、額のほうまで、ぺたぺたと触れる手はひどく優しい。存在を見極めるように、慈しむように、彼はユウヤに触れて、そうやってしばらくすごしてから、ふうっと息を吐いた。安堵の溜息のようなそれにつられるみたいにして、ユウヤもどうにか、息を吐いた。
 心臓がドキドキしている。
 なにが起きたのかよくわからなかった。
 いや、厳密にはまだ起き続けている。ジンの手はユウヤの両頬をはさみこんだままで、耳のあたりはまだくすぐったい。けれどそれを行う彼の眼差しからは、先ほどまでの硬く張りつめたような気配が消え去っていたので、それだけでユウヤはいくらか救われたような気持ちになれた。
 変わらずじいっとこちらを見つめたままで、けれど気のせいか、向ける視線をどこか切なげなものにして、ジンはちいさな声で「すまない」と言った。
「きみとこんなふうに、こんなところで、会うことになるとは思っていなかったから」
 伝えるべき感情を選ぶようにして、ジンはゆっくりと言葉を繋げる。低く、淡々と告げられる声はどこまでも冷静なように聞こえたけれど、中身がまったく伴っていないそれは実際には、しどろもどろになっているのとほとんど変わりなかった。
 ユウヤ、とジンが言う。緊張の眼差しから、切なげな視線から、今度は迷子の幼子のような目付きになって、彼はかすかに震える指で、おそるおそるというふうにユウヤの頬を撫でた。
「きみが自分から、自分の足で、来てくれたことが僕にはまだ、すこし、信じられない」
「……ジンくん」
「ほんとうに」
 ユウヤの声を遮って、ジンはかすかに目を伏せた。ゆっくりと額を近づけて、こつりと軽くぶつけてくる。鼻先がすこし触れる。ユウヤはもう一度息を止めた。
「ほんとうに、きみなんだな。ユウヤ」
 言って、ジンはふっと、笑ったようだった。その笑みを確認するのには顔が近すぎて、ユウヤは、手持ち無沙汰にジンの服の裾を掴み、それから「うん」と言った。心臓は変わらずドキドキと鳴り続けているけれど、答える声は震えも掠れもしなかった。
 そうだよ。
 きみのために来たんだ。
 僕のこの足で、自分の意思で。きみの力になるために、必死でここまで来たんだよ。
 彼のために強くなろうと、ユウヤはそう決意していた。気高い孤城のように屹然と佇む、ジンのその傍に立つためには、なにより強く賢くなければならないはずだった。自分を救ってくれた、正しい道へと導いてくれた、その彼に恥じない生き方をしたかった。海道ジンに、灰原ユウヤという命を誇りに感じてほしかった。
「ひとりにしないで」と、そう言ってジンにすがりついていた、弱い自分はもういないのだ。それを確認するように心中で唱えながらも、気付けばユウヤは彼の服を握りしめていた。ぎゅうっと、その手に力を込めて、泣きだしたいような気持ちにさえなっていた。
 緊張しているのかな、と、ジンのようすを見てユウヤはそんなふうに考えたけれど、そうではなかった。ほんとうは、自分の方が張りつめていたのだ。気持ちを強張らせて、二本の足で立つことにただただ必死なだけのユウヤでは、彼が不安に思うのも無理はない。
 ユウヤは止めていた息をゆっくり、そうっと吐き出して、とても近い距離にあるジンの、その目を見つめた。安心したふうに、その眼差しがふんわりとやわらぐ。鏡に映したみたい、とユウヤは考えた。きっと僕らはいま、おんなじ目をしている。
 額をくっつけたままで、ジンが口をひらいた。ユウヤ、ともう一度名前を呼んだ。あんまり近い距離でその声が聞こえるものだから、ユウヤはまた耳あたりがくすぐったくなってきたけれど、身を捩りそうになるのをどうにか我慢した。
 代わりに、掴んだままの彼の服の裾をもう一度、ぎゅっと握りしめる。
「……来てくれてありがとう」
 囁き声のように届いた言葉に、ユウヤはもう一度、「うん」とだけ返した。

* * *

 それからふたり、なにごともなかったように元の部屋へと帰った。子どもたちは変わらず雑談に花を咲かせていて、とくに身振り手振りで楽しげに言葉を交わしているヒロとランは、どうやらユウヤたちが戻ったことにも気付かないようすではしゃぎ続けている。バンだけが顔をあげ、どうかしたのかというふうにちらりとこちらを見やった。
 なんでもない、とジンがかすかに首を横に振ると、彼は特別に追及することなくヒロたちとの会話に戻ってゆく。ジンとユウヤはそろりとテーブルについた。なんとなくだけれど、黙ってじっと座っているような気持ちになれなかったので、ユウヤはそわそわと落ち着きなく視線をさまよわせ、それからジンの横顔を見つめた。
 ふと思いついて片手を伸ばし、となりに座ったジンのその頬に触れる。
 彼はびくりと身体を揺らして、大袈裟に瞠目してユウヤを見やった。ぺたりと顔に触れたユウヤの手が、その指の先が、彼の耳のそばをかすめる。
「おかえし」
 いたずらっぽく微笑んだユウヤに、ジンは両目をぱちぱちとまたたかせ、そのあときゅっと少しだけ眉を寄せた。ほら、彼だってくすぐったいのだ。ユウヤは思いながら、すぐに手をひっこめた。
 ジンはしばらく硬直して、なんとも言い難い眼差しでユウヤのことを見つめていたけれど、結局、仕方がないなというふうにひとつ息を吐いた。

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