オタクロスによる高速タイピングを見慣れてしまったせいか、となりに座ったジンの指先は、なんだかずいぶんとのんびり動いているように感じられた。
小型のパソコンにCCMを接続し、さらにべつの端末にトリトーンの情報を読みこませる。明滅するモニターを真剣なまなざしで見つめながら、淡々とキーボードを叩き続けるジンの横顔を、ユウヤはぼんやりと眺めていた。
平和だなぁ、と思う。
地上ではいまもなお、LBXの反乱に備え多くのひとびとが動き、また警戒し、怯え、気を張り詰めてすごしているだろうに、はたして空にいる自分たちはこんなにものんびりしていていいものなのか。そんなふうに考えないこともなかったが、しかし、出来ることがないのだから仕方ない。ディテクターの思惑に対策を打つのはあくまで大人たちの判断によるものであり、いま、ダックシャトルですごす子どもたちにはなんの指示も出されてはいなかった。次の目的地に到着するまで、全員待機の状態である。
もちろん、ディテクターが動きだせばこちらも出ずっぱり、常時緊張状態に置かれるのだから、適度な休息は必要だ。大人たちがミーティングに引っ込んでしまったのを合図に、各々が好きな場所で好きなように、つかの間の平穏を楽しんでいた。
もっとも、ジンのこの状況が休息なのかどうか、ユウヤには少し判断しかねるけれど。
男子部屋にこもった彼は、もうかれこれ小一時間、トリトーンとCCMとコンピュータを忙しく相手にしながらなにやら文書らしきものを作成していた。それがサイバーランス社への定期報告書であることは見てとれるが、それにしてもずいぶんと手間のかかる作業である。
テストプレイヤーという立場もなかなかどうして大変なのだなぁ、と、とくにやることのないユウヤは手持ち無沙汰にジンのとなりに座り込み、なんとはなしにリュウビのメンテナンスに手間をかけていたけれど、しかしさすがに飽きてきた。いじりすぎても機体の性能を下げるだけだ。だからといって暇つぶしにじいっと見つめられていてはジンも居心地が悪いだろうし、暗号化された書面がモニターに映りこむたび、頭のほうが勝手に解読をはじめようとするのも困りものだった。重要な機密が含まれるものではないのだろうけれど、思わぬ情報漏洩など起こして叱られてしまっては大変である。
ふむ、とユウヤは腕を組み、ひとり宙を見つめた。一呼吸してから立ち上がる。
「ジンくん」
「どうした?」
「僕、すこし散歩にいってくるね」
「……ああ」
ジンは手を止め、ユウヤの顔を見あげた。かすかに目をほそめる。「いってらっしゃい」
ユウヤは頷いた。「いってきます」と微笑み返してから、軽い足取りで部屋を出た。
そういえば飛行機に乗るのははじめてだったのだ、と、そんなことを考えながらユウヤはダックシャトルのきれいな通路を歩いていた。広大な機内の部屋と部屋を繋ぐこの道は、通路でなく廊下と呼ぶべきなのだろうか? 電車ならばきっと、客席と客席のあいだは通路だ。客室列車はどうだろう? ユウヤは電車にも客室列車にも乗ったことがない。
ほんとうに空の上を移動しているのか疑いたくなるほど、ダックシャトルは静かで、なにより安定していた。座っていても歩いていても、もちろん横になっていても、浮遊しているという感覚がほとんど感じられない。快適だけれど、すこし勿体ないな、とユウヤはときどき考える。窓を覗くと青い空、足元に白い雲が見えるから、窓辺の座席が好きだった。そこでようやく、自分が空中にいるのだと実感できる。
ここは広い、空のうえなのだ。
その事実を改めて噛みしめ、ユウヤは思わずすこし笑った。散歩にいってくるね、と告げて出てきたので、だったらこれは空の散歩なのだ。そう考えるとおかしかった。上機嫌のユウヤは、さてどうしようか、と考え、とりあえずブリーフィングルームへと向かうことにした。
◇ ◇ ◇
食堂も兼ねたブリーフィングルームは部屋の奥にキッチンも備えていて、そこでやってきたユウヤを待ちかまえていたのは、「アタァー!」という高らかな叫び声と、目にも止まらぬ速さで細かに刻まれてゆく大根の姿だった。
ひょいっと空中に放られた白く立派な野菜が、着地するより先にスライスされる。これがマンガであれば、ズバババババッとか、シャシャシャシャッといった効果音が背後に描かれるのに違いない。宙を舞いながら形を崩した大根は、最終的に、大皿のうえで一盛りの美しい山となった。
おお、とユウヤは思わず感嘆したが、それより先に「ワンダホー!」というはしゃいだ声があがった。「最高だわ、ラン! あなた最高よ!」
きらきらとした視線で、大根刻みのプロに握手を求める。大道芸と呼んでも差し支えなさそうな、見事な手腕を見せたランは、大感激のジェシカに対し照れ笑いで応対していた。もちろん、包丁は一度手離してからである。
「あなたにこんな特技があるだなんて本当に驚きだわ! まさに神技ね! 奇跡みたい!」
「おおげさだよぉ。大和撫子なら、このくらい出来てトーゼンなんだから」
まんざらでもなさそうにそんなことを言うランに、ジェシカはいよいよ感動したというふうに目を輝かせ、そうしてからようやく「あら、灰原ユウヤ?」と小首をかしげながらこちらを見やった。大きな青い目をぱちくりとさせ、それからじんわり相好を崩す。
入り口付近で立ち止っていたユウヤは、のんびりと室内に歩を進めながら「こんにちは」と軽く笑んだ。続いて身を乗り出したランが、「どうしたの?」と目を丸める。「私たちに、なにか用事?」
「用事ってわけではないんだけど……」
「だったら、いまはこっちに近づかないほうが良いよ」
「どうして?」
「キッチンは女の戦場だから!」
ランはそう宣言し、ふたたび「ホタァー!」と声を張り上げて今度はキュウリを放った。尋常でない速度で輪切りを行うランの包丁を目視しつつ、ユウヤはジェシカに向けて訊ねた。「つまり、どういうこと?」
ジェシカは軽く肩をすくめてみせた。
「特訓中なのよ。私がランに料理を教えて、ランは私にあの素晴らしい包丁さばきを伝授する。そういう約束でね」
なるほど、ダックシャトル内の台所周りはほとんどジェシカに一任している状態だが、同じ女性として、ランも手伝えることを増やしたかったのだろう。女の子がふたりキッチンで料理修業に励むというのは、じつに微笑ましい光景であるといえた。「アターッ!」と響く掛け声は、少しばかり格闘めいてはいるが。
ジェシカはランの勇姿をほれぼれと見つめていた。しながらユウヤに、「あなたもああいうこと、出来るの?」などと問いかけてくる。とくに冗談を口にしたようすではなかったので、ユウヤは困ったふうに笑いながら首を横に振った。「僕は大和撫子じゃないから」
「そう? 日本人ならだれでもできるのかと思っちゃったわ。サムライの国、だものね。カッコいい」
今度はさすがに冗談めかした口調で、ジェシカはふふっと笑んでみせる。たしかに刃物を扱うランの視線は鋭利且つ情熱的で、大和撫子よりは武士に近い気迫を感じさせた。彼女の実家は道場だというふうに聞いていたが、剣術の経験もあるのだろうか。頼もしいかぎりである。
対して、日本男児たるユウヤはというと、もちろん武道の心得などあるはずもない。バンとヒロは運動神経が良さそうだし(どちらも動体視力が優れているうえに、体育の授業、というものが好きなタイプであるように見えた)、ジンにいたっては、ときおり驚くほど人間離れした身体能力を見せることがあった。海道の苗字を背負う者として、習いごとの一環で、なにかしかの武術を身につけているのかもしれない。
もっとも、だれもランのような真似はとても出来ないだろう。あきらかに常人の成し得る技術ではないのだ。修練を積めばどうにかなるものなのかどうかさえ、ユウヤにはいまひとつ判断できない。
――ああ、けれど。
(……LBXなら、出来る、な)
ユウヤがそれを考えるのと、ジェシカが「それで、私たちに用事ってわけじゃないなら、いったいどうしたの?」と訊ねるのとが同時だった。たとえば宙を舞う標的に対して攻撃を与えることはバトルにおいて珍しいことではない。対象に自由がないならなおのこと、それが落下する速度と武器を持つ右の腕の交差する速度を考えれば、千切りとまではゆかずともある程度細かく刻むことは可能なはずだ。ユウヤはほほえむ。
「すこし喉が渇いたから、お茶でも飲もうかとおもって」
それに近い訓練を受けたことがある。高速で落下する対象物を空中で旋回しながら叩き壊すという、思い起こせば見世物としか感じられないような試みであった。三十回行われた実験のうち灰原ユウヤは平均で五十二度の打撃を与えたが、彼らの望むレベルの結果を出すよりさきに使用していた剣が大破した。ジェシカが「なるほど」と頷く。
「いいわ、淹れてきてあげる。なにがいい?」
「昨日はアッサムだったから、今日は、えーと、セイロンにしようかな」
「オッケー、セイロンティーね。待ってて」
どちらにせよいまのユウヤの技術ではあの実験結果の再現は難しいはずだった。自身の腕はもちろん、機体の性能が違いすぎる。自然なようすでウインクを残してお茶の用意に向かったジェシカの背を眺めながら、ユウヤは計算する。現在のリュウビの重量、跳躍力、廻旋速度を考えても、あのときの力には遠く及ばない。ユウヤが「ありがとう」と声をかけると、背を向けたジェシカは軽く手を振ってそれに応える。データだけで結論を出すとすれば、三十五度の打撃が限界だ。いまのユウヤでは。
「ユウヤ?」
と、気付くと、ランがそばまで近づいて、こちらの顔を覗きこんでいた。「なんか、ちょっと顔色悪い? だいじょうぶ?」
「え、そうかな。自分では分からないけど」
「うん。あ、でも気のせいかも。ユウヤって普段からあんまり血行良くないもんね。もっといっぱい食べなきゃダメだよ。今夜はごちそうだから、覚悟しててね!」
言って、胸を張るランの背後には、大量に刻まれた野菜たちが山を成している。すでに料理と化したものも多いらしく、テーブルのうえには何枚もの大皿が並べられ、豪勢な夕食の準備は着々と進められているようだった。
こんなにたくさんあっても食べきれないのでは、という正直な感想は、たぶん口にしてはいけないのだろう。ユウヤは「たのしみにしてるよ」とだけ返し、あいまいに笑った。
「あ、そうだ。ユウヤはさ、なにか嫌いな食べものってある?」
「嫌いなもの? ええと、とくにない、かな」
「ええっ、ないの? なんで?」
「な、なんでって言われると困るけど……」
食の好き嫌いは誰にもあって当然だ。それは勿論分かっているのだが、しかし、いまのところとくに思いつかないのだから仕方がなかった。味のあるものは大抵美味しい、というのが、『ふつうの食卓』に対するユウヤのもっかの感想である。強い拒絶感を覚えるほどの食べものには、まだ出会ったことがない。
「好き嫌いがないなんて、ユウヤはえらいねえ」
「そうなのかな。でも、まだ食べたことのないものってたくさんあるから。もしかしたらこれから先、嫌いなものが出来るかもしれない」
そっかぁ、とランは納得したふうに頷いた。「そうだね、世界は広いもんね」とにっこり笑う、その言葉をユウヤは気に入った。世界は広い。そう、世界は広いのだ。
告げられた言葉を心中で反芻するユウヤのようすに気付くことなく、ランはふいに声をひそめた。でもね、と、先ほどまでとは一転したごく深刻な口調で、「嫌いなものが見つかっても、ジェシカにはないしょにしてたほうが良いよ」と言う。
「どうして?」
「じつは私ね、昔からどーうしてもニンジンが食べられないんだけど、ジェシカにそう言ったらニッコリ笑って、『好き嫌いは良くないわね!』って。見てよ、あれ」
ランの視線の先を追うと、テーブルに置かれた皿のうえに、なにやらオレンジの物体が転がっているのが見える。ひと目でニンジンだと分かる見た目だったけれど、料理としての名称が分からなかったためユウヤは訊ねた。「あれなに?」
「ニンジンだよ。ニンジンのグラッセ! ひどいと思わない? 甘く煮詰めたからだいじょうぶってジェシカは言うけど、無理なものは無理だよね。ニンジンが甘いわけがないもん」
あーあ、とランは嘆息した。「ジェシカってば、おかあさんみたい」
「それは褒め言葉として受け取っておくわ」
背後からふっと顔を出し、そう言ってくすりと笑ったジェシカに、ランは慌てていたずらっぽく首を竦めた。人懐こく甘えるような笑顔を浮かべ、もちろん褒めてるよぉ、と猫なで声を出す。彼女たちの仲の良さを思い、ユウヤもすこし微笑んだ。
もしも嫌いな食べものが見つかったらすぐにふたりに報告して、嫌いを克服できるような美味しい料理を作ってもらおう、と考える。テーブルに載ったたくさんの皿、そこに広がる名前も知らない料理を眺めると、そわそわと心がざわめいた。
こんなに広い世界を、空を飛んで移動しているのだ。きっと嫌いなものくらい、すぐに見つけられるに違いない。
* * *
ふたりは揃って「ここで飲んでいけばいいのに」と言ったが、ユウヤは「邪魔すると悪いから」と食堂をあとにすることにした。「キッチンは女の戦場、でしょ?」
受け取ったカップを片手に、おどけたふうに言う。夕食楽しみにしているよ、と告げると、少女たちは誇らしげに胸を張り、並んで調理場へと戻っていった。再び通路に出たユウヤは考える。ジンはまだ作業の最中であろうし、だからといってソーサーとカップを手にダックシャトル内をうろつくのも得策とは思えなかった。常時安定した飛行を保っているとはいえ急に傾かないとも限らないし、なにより、少しばかり行儀が悪い。
どこかに腰を落ち着け、のんびりとお茶を楽しもう。そう考えたユウヤはゆっくりと歩を進めはじめた。窓のそとを眺められる場所がいいなと思ったけれど、歩き出して間もなく、耳に慣れた機械音が聞こえてきたので、誘われるようにしてふらりと進行先を変更した。
◇ ◇ ◇
音の発生元はレクリエーションルームであった。
ユウヤが室内を覗きこむと、Dキューブをはさんでバンとヒロが対峙していた。ともに真剣な表情で、手元のCCMを操っている。邪魔をしないようにするりと部屋に入り込み、ユウヤはそうっと彼らに近づいた。強化ダンボールの中では二体のLBXがぶつかり合い、一進一退の攻防を繰り広げている。
激しいバトルは、しかしながら、エルシオンのほうがどうやら優勢にあった。軽やかな動作でペルセウスを誘いこみ、かと思うと、差し向けられた鋭い一撃をたやすく往なす。いつでも確実に仕留められるぞというふうに、ときおり強烈な打撃を与えるが、絶妙にタイミングを計ったそれはヒロにとってギリギリかわすことの出来る一打だ。すこしでも反応が遅れれば容赦なく粉砕する、脅嚇のような正攻。とはいえ、バンのその仕掛け方が、決してヒロをからかうためのものでないことは明らかだった。
どれほどセオリーを無視した予想外の動きをペルセウスが見せたとしても、エルシオンは流れるような動きでそれらを回避し、逆手に取る。そのさまはよく出来た舞踏のようでさえあった。このバトルは指導だ。山野バンによる、大空ヒロへのティーチング。
フィールドは草原であった。広く見晴らしのよい空間で、ふたりの騎士が激突する。風を巻き、空を斬る。両手剣による渾身の一撃を空振りに終わらせたペルセウスが、ぐらりと傾き膝をついた。エルシオンはその背に追撃を加えることをしない。いまだ、とユウヤは思った。その位置からなら、体勢を整えながらエルシオンの足を払うことができる。横からではなく正面から、突き崩すように蹴り出せば、いくらバンでも咄嗟にかわしきることは不可能なはずだった。ユウヤはもちろんそれを口にはしなかったが、しかしヒロも同様の考えに至ったらしい。
「いまだ!」
ヒロが声をあげるととともにペルセウスは右腕のペルセウスソードを手放して、それから、
「いっけー! 必殺! センシマン・グレェート・ボムッ!!」
……どういうわけか、エルシオンめがけて磁場爆弾を放った。
「え、えっ?」
ユウヤは思わず声を落としたが、バンの反応は素早かった。閃光を放つ磁場爆弾を押しのけるようにして盾で防ぎ、そのままペルセウスにまっすぐ突撃する。まともに体当たりを食らったペルセウスは受け身を取る隙もなく地面に叩きつけられ、すぐさま立ち上がったものの、続けざまに足を狙われ再び転倒した。ああっ、と焦り声をあげるヒロに、しかしバンは手心を見せない。エルシオンハルバードで掬いあげるようにペルセウスを弾き飛ばし、自身も跳躍して、空中から再び刃を振るう。
爽やかな緑の草原に、ペルセウスが背中から落下し叩きつけられた。直後、淡い光がその機体を包む。ブレイクオーバーだ。ユウヤは思わず呼吸を止め、そして解いた。つい先ほどまでの、優しくリードするようなバトルから突如一転した、激しく嗜めるような決着であった。
「ペルセウス……!」
大慌てでDキューブに手を差し入れて、ヒロは自身の愛機を拾い上げた。エルシオンの猛攻は凄まじいものであったが、どうやらことさらに大きな破損はなかったようだ。ヒロは安堵の息を吐き、それから、泣きごとめいた声音で「ひどいですよ、バンさーん」と眉尻を下げた。
「どっちがだよ、もう……」
フィールドから飛び出したエルシオンを片腕に乗せて、バンは呆れたふうにそう返す。「ああ、びっくりした。どうしてあそこで磁場爆弾なの? 絶対に足元を狙ってくると思って構えたのに、拍子抜けっていうか、想定外っていうか」
ユウヤもそう思うよね、とバンは同意を求めてこちらを見やった。いくらバトルに集中していたとはいえ、途中からの入室者に気付いていないわけではないようだった。
自然と受け入れられていることにかすかな安心感を覚えながら、ユウヤは首肯した。磁場爆弾の効果はおもに透明化の解除だ。敵機体の動きを鈍くさせるという使い方もあるにはあるが、おそらく一般的ではないだろう。
「あのタイミングで投げてくる必要がどこにあったのさ」
「だ、だって爆弾と銘打っている限り、投げれば爆発するものだと思うに決まってるじゃないですか」
僕も騙されたんです、とヒロは釈然としないふうに返した。くちびるをとがらせて、拗ねた子どもの態度で手の中のペルセウスを撫でている。ユウヤはバンと顔を見合わせ、思わず苦笑した。
「バトルアイテムはたくさんあるし、効果もそれぞれだからね。ちゃんと確認してから使わないと」
バンは言いながら、レクリエーションルームに設置されたアイテムラックからグレネードを取りだした。投擲によって爆発を引き起こし、対象をダウンさせる効果をもつ小型の手榴弾だ。「たぶん、ヒロがイメージしてたのってこっちじゃないかな」
使ってみなよ、とバンが促すと、塞ぎ込み気味だったヒロは顔をあげ、頭のてっぺんで跳ねた髪の毛をぴこぴこと器用に動かした。リペアを施したペルセウスにバンから受け取ったグレネードを持たせ、ふたたび草原のフィールドへと送り込む。
「よぉし今度こそ! 必殺! センシマン・グレェート・ボムッ!!」
声を張り上げてから、なにやら難解なポーズを決めて遠投する。敵LBXのない草地で、グレネードは爆散した。爆風を背に浴びながらペルセウスは再びなにかの決めポーズを取り、そしてヒロは歓喜の声を上げた。
「おおおお! これです! 僕はこれがしたかったんです! ありがとうございます、バンさん! ユウヤさん!」
「…………」
「…………うん」
それは、良かったんだけど。
じつに言葉にし辛そうにバンはひとつ頷き、ちらりとこちらを見やったが、しかしそんな顔をされたところでユウヤにだって伝えたいコメントはない。せいぜい、センシマンってなに? という当たり前の疑問くらいしか残されてはいないが、なんとなく想像はつくのでその発言は却下だ。あいまいに笑ってやりすごしたユウヤに、バンは少々うらみがましげな視線を送ってから、こほんとわざとらしく咳払いをした。「あのさ、ヒロ」と、上機嫌の少年に控えめな声をかける。
「なんですかバンさん!」
「水を差すようなこといって悪いけど、バトルアイテムは必殺技じゃないから……必殺ってつけるのはどうかと……」
「あ、言われてみればそうですね」
「それに、そんなふうにいちいちポーズを決めてたら相手に逃げる機会を与えるだけだし、声にしてボムって言っちゃったらなにを放るのかバレバレだよ。黙って投げろとは言わないけど、もう少し大人しいやりかたのほうが確実だと俺は思う」
ふむ、とヒロはバンの意見を聞き、極真剣なようすで「たしかに、そのとおりです」と言った。
「けど、センシマンならその程度のハンデ、ものともしません!」
「……そうかもしれないけど」
うーん、とバンは困ったふうに苦笑いをうかべた。なんと言ったものか迷うふうに小首を傾げ、それから、
「でも、ヒロはセンシマンじゃないだろう?」
そう言った。
実にもっともな意見であった。
バンの言葉に、ヒロはきょとんと目を丸めていた。言われた意味を咀嚼するように、大きな両目を何度か瞬かせる。
まぶたから覗いたその目が、しかし妙に卑屈な、鈍い輝きを微かに放つのを見つけて、ユウヤはおやと思った。それから唐突に、彼は、と気づく。理解する。
彼は虐げられた者だ。排斥され、淘汰され、希望を失いこの世の憐みに身を浸したことのある者だ。
ユウヤがその気配を感じ取った、次の瞬間には、彼の目からその鈍色は消え去っていた。ヒロはかすかに眉をひそめ、「それってつまり……」と低く呟いた。ぱっと顔をあげ、いまにも跳びあがらんばかりの輝いた笑顔を見せて、言う。
「僕のオリジナルの技名を考えろってことですね!?」
なるほどバンさんの言うとおりです! とヒロはきらきら笑ったが、バンはいよいよ首を捻り、そういう意味合いじゃなかったんだけど、と困り顔を浮かべている。「……まぁ、いいか」
いいらしかった。
バンくんって案外いい加減だな、とユウヤはひそかに苦笑した。もっともこの場合、ヒロに付き合うという選択が出来るもののほうが少ないのだろうけれど。
Dキューブからペルセウスを取りだしたヒロは、そのフレームを愛おしげに撫でながら、なにがいいかなぁとご機嫌で思案している。その提案の矛先がこちらに向いてくるよりさきに、ユウヤは言った。「そういうのはオタクロスが詳しいんじゃないかな」
ヒロの毛がぴょっこりと反応を示す。
我が意を得たりとばかりに、彼はユウヤに対してこくりこくりと頷いて、それから「僕、ちょっとオタクロスさんに意見を伺ってきます!」と残して部屋を飛び出した。突風のように走り去った背中は、しかし、数秒と経たないうちに再び戻ってきてふたたびドアを開く。
「バンさん! トレーニングに付き合ってくれて、ありがとうございました!」
そう言ってぺこりと頭を下げたヒロは、今度こそ背を向けて去っていった。自動扉が柔らかな音を立てて閉まる。ユウヤはふたたびバンと顔を見合わせ、どちらからともなくくすりと笑った。面白い子だね、と言うと、そうだろ、とバンは口元をほころばせた。
「ちょっと変わったところもあるけど、真面目だし、すごく良いやつだよ。LBXの腕前だって、つい最近はじめたばかりだなんてとても思えない。ユウヤも見てたでしょ、ヒロの動き」
「ああ、スタンダードな攻撃パターンなのに、ときどき突拍子もない動作を見せる。次の動きの読みにくいタイプだね。少しバンくんに似てる」
「え、そう?」
「うん。こういうのって、師匠に似るものなのかな?」
もっとも、ユウヤのよく知るのは一年前、アルテミスに参加した際の山野バンの攻撃パターンなので、いまのバンの動きがヒロと近いかというと微妙なところではあるのだが。
「師匠なんて、そんな大袈裟なものじゃないよ」
「でも、基礎的な動かしかたとか防御方法とか、アタックファンクションの使い方もバンくんが教えてあげたんだよね?」
「それはそうだけど……」
と、バンはなぜか言い淀み、かすかに目を伏せた。どうやら師というものに対して、なにか思うところがあるらしかった。
「…………」
「…………」
沈黙というのにはやや柔らかな色を含みながら、バンは押し黙り、ユウヤも口を閉ざす。彼と関わる短い時間のなかに、こういった間が、ときどき起きる。そのたびにユウヤは思い知る。自分は彼の、山野バンのすごした一年前の日々を知らない。
灰原ユウヤに決して拭えぬ過去があるように、この少年にもまた、深く心に食い込んだ楔があるのだ。
そんな当たり前のことを認識するたびに、ユウヤはバンをいとおしく思う。彼だけではない、自分を救ってくれた、再び立ち上がる機会を与えてくれたジンに対してもおなじだ。抱えた傷が互いに知り得ないものだからこそ、ユウヤはいま、こうやって彼らと並び立っていられる。今度こそ、痛みも喜びも、掴み取る未来をも共有するために。
バンは、いつまでも顔を伏せることはしなかった。自然なタイミングで視線をあげ、会話が途切れたことを確認するようにこちらを見やると、精悍な色を宿した双眸を急にゆるませる。その表情があんまり無邪気だったものだから、ユウヤは一瞬だけどきりとした。バンはいつもの調子で口を開いた。
「そういえば、ジンはどうしてるの? いっしょにいるものだと思ってたけど」
問いかけに、ああ、とユウヤは頷いた。聞き慣れた名前に、かすかに肩の力が抜ける。
「ジンくんなら、部屋でコンピュータとにらめっこ。サイバーランスへの業務連絡だってさ。僕も最初は見物してたんだけど、あんまりつまらないから出てきちゃった」
「なるほど。ジンも大変だなぁ」
俺にはとても真似できないや、とバンは笑って、それから、「それは?」とユウヤの手元に視線をやる。持ち歩くのにはいかにも不適切な、カップとソーサー。少女たちの奮闘を思い出し、ユウヤは思わず微笑んだ。
これは女の戦場でもらってきたんだ、と言うと、バンはすこしふしぎそうな顔をしてから、なんとなく察したようすで、ふうんと軽く頷いた。それから、
「ユウヤって、ほんとに紅茶が好きだよね」
と、当然のようにそう言った。
唐突な指摘に、ユウヤは驚いた。すこしだけ考えてから、軽く首を傾ける。「……好きなのかな?」
「ええ、なにそれ」バンはおかしそうに笑ってみせた。「だって、毎日飲んでるじゃないか。好きなんじゃないの?」
「ああ、いやこれは、いま挑戦中で……」
「挑戦?」
うん、と頷くふりをして、ユウヤはこっそりと俯いた。なぜかしどろもどろになっている自分に驚きながら、なにかを釈明するように口を開く。
「紅茶って、舌じゃなくて香りで後味が変わるから面白くって。なんだかふしぎだねってジンくんに言ったら、たくさん種類があるし淹れ方によっても違いが出るから、気になるならいろいろ試してみれば良いって教えてくれたんだ。それで、ダックシャトルに置いてあるものは一通り試してみようと思って」
毎日飲んでいるのはそのためだ。
昨日はアッサム、今日はセイロン、明日はたぶん、アールグレイ。ブリーフィングルームにはたくさんの茶葉が用意されている。
「単純にひとつずつ消化しているだけで、だから、好きなのかって聞かれると……」
ユウヤは、それを言葉にすることを少しためらった。自分になにかが不足していることを認めるようで、喉がひんやりと痛みを訴える。「……よく、分からないんだ」
目が覚めてすぐのころ。
実験に抑圧された長い年月は、灰原ユウヤの神経を蝕み続けていた。人の身を越えた肉体強化への見返りだとでもいうふうに、視覚、嗅覚、触覚、あらゆる点でユウヤの肉体は劣化していて、それはもちろん味覚とて例外ではなかった。なにを食べてもすべておなじ、砂のように口内をすべりおちるだけ。自意識を取り戻すことが出来ても、そう簡単に通常の感覚はよみがえらない。
甘いもの、辛いもの、熱いもの、冷たいもの、苦いもの。それらを認識し、理解して噛みしめたときの喜びを、自分は生涯忘れることはないだろう。
紅茶を口に含むたび、そのかすかな香りを吸い込んで味わうたびに、嬉しくてたまらない気持ちになるのだ。まだ知らない、経験したことのないような風味が、たった一杯のカップに広がっていることを実感するのが楽しくて、ユウヤはいつも紅茶を選ぶ。些細な理由だ。変化を見つけることに興味を覚えているだけ。
それは好意よりはむしろ、好奇心に近い感情なのだと思う。
口ごもるユウヤに、けれどバンはなにをためらっているのか分からないというふうな顔で、うーん、と小さく相槌のような声を出した。俯き気味なユウヤの、ランいわく少し血色の悪い顔を、遠慮なく覗きこんで言う。
「でも、それって結局、美味しいからいろいろ飲んでみてるってことだよね?」
美味しいかどうかと問われると、間違いなくそのとおりなので、ユウヤは今度こそこくりと頷いた。美味しいのだ。美味しいことが分かるから、嬉しくて嬉しくて、ユウヤはときどき、本当にときどきだけれど、涙が出そうな気持ちにさえなる。
だったら、とバンは目を細めた。思わずこちらもつられるような笑顔だった。
「ユウヤは紅茶が好きなんだよ」
胸を張って告げられる、その言葉にユウヤは急に納得し、そうか、と思った。こんな単純な行為は、けれど、好きと認識するに足るものなのだ。
なんだか自分はずいぶんと間が抜けているなと考えながら、ユウヤは、じいっとカップを見つめてみた。世界は広い。そのどこかでいつかきっと見つけることが出来るだろうと考えていたけれど、こんなにも簡単に出会っていたなんて思わなかった。
好き、と言葉にして呟くと、そうそう、とバンが笑った。その笑顔も好きだな、とユウヤはふいに思う。こんなふうに、自分も笑えているだろうか、と考える。
ジェシカの淹れてくれた紅茶からは、知らない国の香りがした。
* * *
「ユウヤ」
と、声をかけられたので顔をあげると、そこにはやはり、ユウヤのとても好きな人が立っていた。
ダックシャトルの座席、窓から広い空の窺えるその場所に腰掛けて、ユウヤは今度こそのんびりと紅茶を飲んでいた。青い景色を眺めていると、やはり、平和だなぁ、という気分になる。自然と頬がほころぶので、それに任せたままで「ジンくん」と彼の名を呼ぶと、なんだか自分で思うより弾んだ声が出た。
「報告、終わったの?」
ああ、と首肯しながらジンは静かにユウヤのとなりに腰を下ろした。「そっちはどうだった?」
「たのしかったよ。バンくんとヒロくんがバトルしていたから、それを見学していたら、あっという間に時間が経っちゃって」
言って、ユウヤはくすくすと笑った。機嫌の良いその笑い声に、ジンは小首を傾げて続きを促す。その仕種がどこか幼げであったので、ユウヤはいっそう笑んだ。見て、と手元のカップをすこし傾ける。
「気が付いたら紅茶が冷めちゃってたんだ。びっくりしたよ、せっかく淹れてもらったのに」
ジェシカから受け取ったときはあんなにも優しく広がった香りが、いまはかすかに気配を残すだけで、どこか切なげにカップの底に揺れている。それを見つめ、ユウヤはけれど、目を細めた。自分はこんな気持ちにもなれるのだ、とふいに思って、心が勝手に、子どものように無邪気に跳ねる。
「……こんなふうに冷めちゃったのにね、でも、とても美味しいんだ」
呟いて、ユウヤはいとおしげにカップのふちをなぞった。手の中で冷えた、無機質な白。これはユウヤの手のひらの温度を奪わない。いつまでも、温かなままのものだ。
微笑むユウヤを横目で見やり、ジンは、ちいさな声で「そうか」とだけ言った。そのくちびるが優しく笑んでいたから、ユウヤはまた嬉しい気持ちになって、うん、と弾んだ声で返す。
飲み干してしまうのがもったいなく感じていた、カップの中身をそうっと口に運んで、それから思う。あとすこしだけこの気持ちを味わって、そうしたらもう一度、今度はジンと、それからバンとヒロもいっしょに、ブリーフィングルームへ向かうのだ。
少女たちの戦場は、きっとこれ以上ない勝利を収めていることだろう。
それまでは、まだ青い空がのんびり翳りゆくのを眺めていたい。ユウヤは背もたれに身を預け、それから窓の外を見やった。ここは空の上なのだ、と、もう何度目かになる確認を行って、そのあまりに膨大な自由へと、人知れずそっとはにかんだ。