その夢が終わったら

 ここが夢の世界であることに灰原ユウヤは気付いていたが、同時に、ただの夢ではないということも彼は理解していた。
 目の前に広がる空間はいつも病室だ。ふしぎなものだ、とユウヤは考える。あの日体験したおそろしい夜の、冷たい空の下の、お父さんとお母さんが消えた、すべてが倒壊した瞬間を、なぜだか夢路は映さない。映したことがない。たぶん、ユウヤ自身が見たくないと思っているからだ。あんな景色、もう二度と目にしたくはない。
 夢は、いつだってユウヤに優しい。
 ここは、そう、だから、優しい場所だ。幼い子どもの泣き声が、今日もちいさく震えるように響いている。ひっく、ひっくとしゃっくりあげる。ユウヤはその声を聞いて、ここが夢の世界であることを理解する。同時に、これがただの夢ではなく自分の記憶の一部であるということも、彼はすぐに了解し、受け入れる。
 まっしろな、ベッド。
《おとうさん、おかあさん……》
 弱々しく繰り返される、幼い自分の声を聞きながら、ユウヤはそこに佇んでいた。自身の記憶を、過去を、傍観していた。おとうさん、おかあさん、と子どもは泣く。灰原ユウヤが泣いている。
《……ひとりにしないで》
 つぶやいて、ユウヤはシーツを握りしめた。白い壁の浮かべる無表情が寂しかった。身体中に巻かれた包帯に、締め付けられて潰れてしまいそうだった。すべてが恐ろしかったのだ。ふたりがもう戻っては来ないこと、自分がひとりきりだということを、幼いユウヤはすでに自覚し怯えていた。
 けれどこれは、優しい夢だから。
 震える子どもに差し伸べられる手があることも、灰原ユウヤは理解していた。
《だいじょうぶ……?》
 おそるおそるというふうに、カーテン越しに顔を覗かせる。なつかしい姿に、ユウヤはかすかに息を吐いた。これは記憶だ。灰原ユウヤの記憶だ。自分がまだ、彼の姿を、その声を、覚えていることにユウヤはそっと安堵した。
《……だれ?》
 と、どこか間の抜けたようにも聞こえる声で、幼いユウヤは問いかけた。となりのベッド、ぶあついカーテンの向こう側からそっと姿を現して、彼は言った。どこか不慣れな調子で、強く強く噛みしめるように、その名前を口にした。ぼくは、と。
《ぼくはジン。……海道、ジン》
《かいどう、じん》
 オウム返しに口にしたユウヤに、ジンはこくりと頷いた。どこか緊張したふうな面持ちだった。ユウヤは漠然と、この子もぜんぶ失くしてしまったんだ、と思った。ユウヤとおんなじだ。ぜんぶ失くして、それで、ここにいるんだ。けれど彼はユウヤと違って、怯えて泣いてはいないから、だからきっと、とても強い。
《きみは?》と、ジンが訊ねる。赤い目、きれいな目、ふたつのまるが、白い世界で輝いている。《きみの名前も、おしえて》
 ああ、と灰原ユウヤは感嘆した。ああ、ああ、ああ。それは言葉ではなく、嘆息のような、叫び声のような、意味を成さない音の羅列だった。ああ。
《……ユウヤ》
 ああ。
《灰原ユウヤ》
 ああ、ああ、……ああ。
 彼がほほえんだ。優しい笑みだ。優しい、とても優しい夢だ。そのくちびるが、ユウヤ、と音を奏でるより先に、しかし灰原ユウヤは目を覚ます。
 あの病室の、あの優しい声からはほどとおい、冷たく無機質な声が呼ぶ。
「起床の時間だ、灰原ユウヤ」
 ユウヤはまぶたをひらいた。
 白い部屋、白い服、たくさんの機械が並んで、たくさんの大人が並んで、みながこちらを見つめている。おなじだ、とユウヤは考える。あの日の病室と、ふしぎなくらいよく似ている。ただ、あの赤い目、やさしい彼のまなざしがどこにもない。それだけ。
 だれにも聞こえないようなかすかな声で、ああ、と喉をふるわせた。
《ひとりにしないで》
 それを伝える相手が、ここにはいないのだ。ユウヤは黙したまま身体を起こした。

***

 目を覚ますたび、眠ることがきらいだ、とユウヤは強く実感する。
 灰原ユウヤという個体の就寝時刻は定められていないため、彼らが必要であると感じたときにユウヤは使用され、そうでないときには眠らされる。灰原ユウヤは実験体だが、同時に生物であったので、眠ることなく活動することはできないのだ。だから仕方ない。灰原ユウヤは生体だ。どれほど強化されても、栄養を取り、水分を保ち、眠らなければ死んでしまう。
 彼らはときどき、その事実を嘆く。
 冷たい台のうえに転がされながら、あるいは、棒立ちのまま機械にまとわりつかれながら、CCMのちいさな画面を見つめながら、灰原ユウヤは彼らのその声を聞く。八時間以上の連続的な活動には精密性を保証しかねる。精度を下げることはしたくない。最低でも十五時間、可能ならばそれ以上、精確な技術を求めたい。それでは灰原ユウヤの変造を。データをここに。けれど難解だ。これは人だ。そう、これは人だ。それもまだ若い。肉体がまだ、ひどく若いのだ。
 ――まったくこれが機械であればどれほど楽だろう。
 軽口のようで、しかし切実さを孕んだ声音だった。苦笑いが飛び交い、無意味な発言だと失笑が走る。けれど理解は出来ると空気が同調する。彼らが求める成果を得るためには灰原ユウヤは生物でい続ける必要があったが、だからこそ不自由な点が多すぎた。
 人であるために起こるすべての事象が、灰原ユウヤという個体の欠陥だった。
 彼らの嘆きの声を聞くたびに、ユウヤは思う。思考する。そうであればよかったのに、と考える。
 眠ることがきらいだった。優しい夢から覚めることがいやだった。灰原ユウヤが機械であれば、人でさえなければ、古い記憶をさかのぼることなどきっとしないだろう。灰原ユウヤが機械なら。
 もう目覚めなくても良いのだろう。そう思う。
 意識を手放すことは楽だったが、認識を取り戻すことは苦痛だった。永遠に見続けることの出来ないやさしい夢は、ユウヤにとって紛れのない絶望の象徴だ。それでも見続けるのは、きっと、彼がこの世のどこかに生きているから。お父さんやお母さんとは違うから。それを思うとユウヤの心はひどく痛んだ。ココロ、というものがある限り、自分はずっとここに縛り付けられたままでいることも、彼は理解していた。

* * *

 ある日から、夢を見なくなった。
 データに残されていたから、日付も、時刻も、きちんと覚えている。十月二十日。ユウヤがこの施設に連れて来られてから、四年とすこしが経過していた。
 その日の午後は灰原ユウヤの研究開発の一部を『先生』に提示する予定になっていて、白衣の大人たちは数週間前から忙しそうに、けれどどこか億劫そうに、灰原ユウヤの全身をスライスした画像を睨みつけ数値の羅列に指をさしては深刻な眼差しを向けていた。予定の時間になるとユウヤはいつものとおり、指示されるままに立ち上がり、機械を装着し、目を開き、呼吸をし、また言われたとおりLBXを操作した。このときに扱ったのは製品として売り出すためのフレームではない、不特定多数の誰かではなく特別な個人のために作製された、特殊なLBXだった。灰原ユウヤという実験結果の公開は、そのLBXのテストプレイも兼ねて行われた。
『先生』はそのようすを眺め、満足気に言った。「充分だ」
 その場にいた全員が安堵に色めきたった。灰原ユウヤはその気配を感じ、『先生』はひどく恐れられているのだな、と理解した。五年足らずでよくここまで仕上げたものだと『先生』は彼らを褒め、灰原ユウヤにも微笑みを向けてみせた。ユウヤはそれに返す表情も、仕草も、持ちあわせなかったため黙っていたけれど、年嵩の彼は気にしたような素振りを見せなかった。
『先生』は灰原ユウヤに近づき、言った。
「そのLBXをどう思う?」
「…………」
 言葉は理解出来たが、灰原ユウヤは黙っていた。回答する自由を与えられていなかったし、どう思うもなにも、操作性に不具合がなかったことは実験結果からも明らかなはずだった。
 虚ろに『先生』を見上げるだけのユウヤに、大人のひとりが慌てて割り入った。先生、灰原ユウヤは感情を理解しません。曖昧な質疑には強い混乱を示す傾向が見られます。どうか控えてください。
 そうかね、と『先生』はあっさり引き下がった。ユウヤへと寄こす視線に、困惑や憐憫のようなものは含まれなかった。「それは、残念だ」
 言いながら、実験に使用されていたLBXへと手を伸ばすと、彼はやはり機械的な眼差しでもってそのフレームをそっと撫ぜた。深い、紫暗の色をまとった機体。武器は一通り試したが、大振りのハンマー型が最良だという結論が既に出ていた。『先生』はその重みを感じるふうでもなくひょいと片手で持ちあげて、やはり満足気に口の端を上げた。
「LBXはこの先、世界中に多大な影響を及ぼす最大のキーとなる。有能な機体、優秀なプレイヤー、それらをどれだけ所有し、同時に操舵することが出来るかが、私の理念の遂行を大きく左右するだろう。――諸君らの働きには大いに期待しているよ」
 は、と大人たちが一斉にこうべを垂れた。そのなかで灰原ユウヤだけがひとり、ぽつんとひとり、佇んでいた。『先生』はそのようすを一瞥することもなく踵を返し、実験室をあとにする。その背に数名の大人たちが付き従う。
 午後三時だった。
 部屋に残った大人たちは一斉に胸を撫で下ろし、それぞれ己の持ち場へと戻っていった。灰原ユウヤを担当する大人のひとりが、今日はもう良い、と言った。おまえも疲れただろう、メンテナンスを終えたら今日は部屋に戻って、ゆっくり休め。
 ユウヤはそれを口にした大人をじいと見つめ返した。活動限界を訴えるレベルでの疲弊は、肉体には見られなかった。長時間を持続して活動できるようにと、灰原ユウヤを強化したのは彼らだったはずだ。
 もう忘れてしまったのだろうか。ユウヤは思いながら、けれど口にすることはなく、こくりとひとつ頷いた。

* * *

 自由時間、というものを与えられたことがなかった。
 灰原ユウヤは常にだれかに監視されていたし、眠っているときでさえ周波データを取られていた。それが当然だったので、施設の内部とはいえ、ひとり身で歩いているという事実は、ユウヤにとってひどく真新しい出来ごとだった。
 なにかをしよう、と思ったわけではない。
 ただ歩みを進めていた。部屋に戻れと言われたけれど、まったく別の廊下をユウヤはさまよい歩いていた。高揚だ、とユウヤは思った。大人たちはみな浮足立っている。『先生』に認められたことが、よほど嬉しいらしかった。ハイで、上機嫌で、気が緩んでいる。灰原ユウヤを誇るような気持ちが、彼らに芽生えている。それらの感情に巻き込まれたくはなかった。
 ユウヤはひとり歩いていた。目的があったわけではなかった。ただ部屋に戻るのはなにかが違うような気がして、だから、知らない道を、暗い廊下を進んでいた。
 ふと、どこからか声が聞こえた。
「おじいさま」
 施設には不似合いの、高い子どもの声だった。ユウヤは歩を止め、耳をすませた。続けて、わずかに驚いたような声音で「迎えに来てくれたのかい」と、そう返したのは『先生』の声だった。
 灰原ユウヤは目をこらした。
 遠く、ゆるやかに曲がった廊下の先に、『先生』と、施設の大人たちと、それから子どもがひとり、いた。
 ずいぶん、大人びたかっこうをしていた。その年頃の子どもには不似合いな暗い色のベストを、上品な白のシャツのうえに着て、けれどふしぎとそれがさまになっている。よく似合っているな、と灰原ユウヤは思った。いつも夢で思い出す姿はあんなにも幼いのに、時間は流れているのだな、と考えた。
「ちょうど、じいやがこちらに寄る用事があると言っていたので。……ご迷惑でしたか?」
 言って、彼は微かに不安そうに声を曇らせた。その表情さえ、すべてをわきまえた、大人の持つもののように見えた。『先生』が穏やかに首を横にふると、そのときだけは柔らかく頬をゆるませたけれど、それもほんの僅かのことで、すぐにまた大人びた顔つきに戻る。それはユウヤの知らない顔だ。あの赤い目は、いま、『先生』だけに向けられている。
 ああ、とユウヤは声をこぼした。ああ、ああ。
『先生』は彼に、先ほどまで灰原ユウヤが使用していたLBXを見せた。彼の目がかがやいた。赤い目。優しい目。ユウヤは息を吐く。
「いまはまだ開発途中だが、これはいずれ、お前のものとなるために造られた機体なのだよ、ジン」
 手に取ってごらんと促され、つややかな紫暗に、彼は触れた。「僕の……」と、かすかに困惑を織り交ぜながら、けれどよろこびの感情をたしかに滲ませて、言った。「……僕だけの」
 それは強く強く噛みしめるような、どこか緊張した、切なげな声だった。あの日の病室で、自分の名前を名乗ったときのようすと、すこし似ていた。
 やがて彼らは連れだって歩きだした。施設を出てゆくのだろう。灰原ユウヤの存在に気付くことなく、背を向けて去ってゆく。追いかけるべきだろうか、とユウヤは考えた。そうしなければ、と思った。そうしなければ喉のぎりぎりのところに彼の名前が突っ掛かって、そのまま取れなくなって、窒息死してしまいそうだった。
 追いかける。名前を呼ぶ。叫び声を、あげる。
《――ジンくん!》
 きっと彼は振り返るだろう。瞠目し、知らぬ建物の中でふいに名を呼ばれたことに困惑し、けれどユウヤを見つけるだろう。あのときと同じ声で、《ユウヤ》と、きっと返してくれる。
 きっと、灰原ユウヤを救ってくれる。
 けれどユウヤは踏み出さなかった。彼が去ってゆく背中を、ただ黙って見つめていた。なんだかひどく疲弊していて、身体がだるくて、そこから一歩も動きたくはなかった。脳波に異常があるのかもしれない。心音が煩い。ああ、とユウヤは呻いた。ああ、ああ、……ああ。
 彼は、『先生』の、もの。
 ぱちんとなにかが弾けて、気付いたときには大人たちに囲まれていた。人の声と、電子音との違いが、ユウヤにはもうよく分からなかったけれど、灰原ユウヤという個体の状態が良くないということだけは把握できた。それから、夢を見なかったことに気がついた。
 意識を失っていたのに。
 やさしい彼はかならず、ユウヤの現実の、その裏側につねに、いたのに。
 灰原ユウヤは再びまぶたを降ろした。あの病室は、と考えた。あの場所は、もう、やさしい景色ではなくなってしまったのだと理解した。ひっく、ひっくとしゃっくりあげる、子どもの声。それだけが響く。まっしろな、ベッド。
《ひとりにしないで》
 助けを求めてあがく声は、けれどユウヤ自身を囲む世界に押しつぶされる。慌ただしく、それなのにどこか億劫に、囁き交わされる大人たちの声。それと混じり合う電子音。それらに塗り込められ、かき消える。
 ユウヤはひとりだ。
 おそらく、これからもずっと。

* * *

 灰原ユウヤには月日の感覚が蓄積しなかった。これは大人たちがそう設定したためではなく、ユウヤ自身が日々をすごすうえで、変化のない毎日に意味を設けることをしなくなったせいだ。情報そのものは二十四時間更新されているが、いつしかユウヤはそれに興味を覚えなくなった。だから、あの日からいったいどれだけの時間が経っていて、今日が何月何日なのか、データとしては認識していたが記憶に刷りこまれることはなかった。その方が楽だったのだ。指示されたことだけをこなしていれば、毎日は静かにすぎていった。
 灰原ユウヤは完成に近づいていた。
 この実験がどんなゴールを想定して掲げられたものなのかは分からなかった。けれど、すでにユウヤ自身の肉体を弄ることを大人たちはやめていて、メンテナンスを繰り返しながら微調整を計るだけの生活は、なにも知らされなくともひとつの段階を予感させた。
 痛みを伴う実験の行われない日々は、驚くほど精彩に欠け、灰原ユウヤという個人から感情や意識を大幅に削り取っていった。それでもかまわなかった。眠りは深く、現実との境界はあいまいで、かつてあれほど感じていたはずの目覚めの苦痛さえ、いつのころからかユウヤは実感しなくなっていた。
「まるで夢遊病者のようだ」
 ユウヤの傍らには、つねに数名の研究員が補佐役として付き添っていた。なかでもユウヤと行動をともにすることの多い、ふたりの少年のうち片方が、ふと思いついたようにそう言った。なにかを含んだような口調ではなかった。「灰原ユウヤは、眠っているのかもしれない」
 それを聞いた、もう片方がすこし笑った。
「もしも眠っているのだとしたら、どんな夢を見ているのだろうな」
 そう返してから、彼はぽつりと続けた。「……いったいどんな夢を見れば、この現実に拮抗しうるのだろう」
 すべて諦めたような、あるいは、諦めたはずのものを再び見つけてしまったかのような、寂しげな調子でそう言って、少年はやはり少しだけ笑った。片方の少年も、かすかに笑んでみせた。自嘲だった。
 灰原ユウヤは彼らのそのやりとりを眺めるでもなく、どこか遠くを見つめていた。眠ってなどいなかったので、きちんと回答すべきなのかもしれないと思った。起きている、僕はきちんと起きているよ。目を覚まし、意識を保ち、きみたちと同じ生きた人間として、ここに存在しているよ。
 それを伝えることで、彼らを苛む罪はきちんと形を成すだろう。灰原ユウヤをしあわせな夢遊病者として片付けたりせず、自分たちの行為を、この施設で行われてきた実験を、あいまいに軽減させることなく付きつける。
 けれどユウヤはその言葉を口にしなかった。彼らの精神を思いやってのことではない。
 ただ、すべてがどうでも良かった。身体は常に重く、気だるく、生きていることを実感する痛みさえユウヤはすでに失っていた。そうやって灰原ユウヤは完成してゆく。おそらく、彼らの求めたとおりの結果を出している。『先生』が望む未来のために。
 ――『先生』がよろこんだら、彼もまた笑ってくれるだろうか。
 ユウヤはときおり、夢想する。それはとんでもなくすてきな未来であるように思えた。自分を見つめていた無邪気な瞳。ひどく大人びた、冷静さを湛えた色に隠されてしまったあの赤い目が、もう一度ほほえんでくれるかもしれない。
 ユウヤ、と、呼んでくれるかもしれない。
 夢を忘れてしまった灰原ユウヤにはもう、その声は思い出せないけれど。
 白い服を来た、大人が、ユウヤを呼ぶ。実験の最終段階に入ることを告げる。LBX全国大会に出場すること、そこで今までの成果を『先生』に見ていただくこと、確認すべき項目についての説明がなされる。ふたりの少年がそれぞれに頷く。
「さぁ、最終チェックだ。こちらへ来なさい、灰原ユウヤ。……このアルテミスでついに、お前の存在価値が認められるのだ」
 興奮したおももちで大人が言う。
 灰原ユウヤはゆっくりとひとつ、頷いた。

* * *

 思わぬ再会であった、と表現するのには語弊がある。ユウヤは彼がLBXプレイヤーであることを知っていたし、あの日自分がテストプレイを行った調整中のLBXが、完成形として彼の手に渡ったことも認識していた。彼自身が世界大会に出場することも、なんら不思議ではない。
 それでもすこし、驚いていた。彼だ、と思うのと同時に、彼ではないかもしれない、と考えた。沈黙の年月は古い記憶をずいぶんと掠れさせていたし、ユウヤと目が合ったはずの彼は、なにひとつ反応を示さないまま、かすかに怪訝そうに眉を寄せるだけだった。
「海道ジンだ」
 そう零したのは、少年の片方だった。
 もうひとりが、ああ、と頷いた。その声には、妬みや、憎しみのようなものがほんのすこし、積もっていた。「……海道ジンだ」
 だから、そこに立つ彼は間違いなく、あの日の病室の彼なのだろう。ユウヤはそう理解したが、その名を呼ぼうとはもう思わなかった。踏み出すことなどしなかった。もしかしたら、とユウヤは考える。もしかしたら、自分もこの少年たちと同じように、彼を恨んでいるのかもしれない。『先生』の孫として生きて、こことは違う、遠い場所で生活する彼に、裏切られたと感じているのかもしれない。
 そうではない、と言いきれなかった。
 けれどどうしたところで、灰原ユウヤに課せられた命題は大会中にその性能を見せつけることだ。そうすることで存在価値を認められる。生きている理由を与えられるのだ。ユウヤは静かに呼吸をした。それが手に入っても、入らなくても、どちらでも構わないなと思った。

* * *

 急になんにも聴こえなくなったので、灰原ユウヤはおどろいていた。
 彼はかすかに首をかしげ、佇んでいた。いったい今まで自分はなにをしていたのだろう、と考えた。ここはどこだ、と思い、それからようやく、夢の中だと気がついた。ただの夢ではない。目の前に広がるのは懐かしいあの病室で、忘れていたはずの景色にユウヤは言葉を失った。覚えていたの? と自分に問いかけた。
 まだ、こんなものを、覚えていたの?
 優しい夢はその一瞬、ほんの僅かの時間だけ、灰原ユウヤの脳裏に舞い降りて、それから消えた。ああ、とユウヤはつぶやいた。ぱちりぱちりと、頭のどこかが痙攣するように痛んだ。
 やさしい夢の外、残酷な現実のなかでは、五体のLBXが戦っていた。
《お前の存在価値が認められるのだ》
 ユウヤは息を飲んだ。それを告げた男の声が、姿が、何度も何度も頭の中に流れこんできた。嫌な記憶だ。とても嫌な記憶。そのヴィジョンを引き金とするように、いままで起きたたくさんの嫌なことが、一度に思考を掻き乱した。その叫び声を上げたのが自分だということにも、一瞬、気がつかなかった。
 LBXは強化ダンボールの中、活火山を模したちいさな箱のなかで、ユウヤの叫びをそのまま引き受けたかのように動き出していた。その力を見せつけるように。おのれがどれほど早く、強く、他を圧することの出来る兵器であるかを誇負するように。
 それをなさねばならないのだと、灰原ユウヤも感じていた。すべてを壊さなくてはならない。勝利を掴まなければならないのだ。生きる理由など、あってもなくても同じだと、そう思っていたけれど、そうではなかった。生きていたいのだ。だって。
 だって、生きているのに。
 ここにいるのに。
 だれが覚えていなくたって、だれも助けてくれなくたって、すがる声がかき消されたって。ここにいる。
 ぱちん、ぱちん、と一瞬ごとに視界が遮られた。そのたびに灰原ユウヤは思考をうしない、意識を晦ませていた。身体中が痛かった。生きている。哄笑はどうやら自身の口から放たれている。途切れがちな現実のはざまには、ユウヤを苦しめる記憶ばかりが流れ込んだ。白衣の大人。白い壁。機械。痛み。孤独と、それから、――赤い目。
《ひとりじゃないよ》と言う。
 記憶のなか、優しい夢のぬしが言う。夜毎すすり泣くユウヤの、ベッドのかたわらに立って、優しく言葉をかけてくれる。ひとりじゃない、と、手を握ってくれる。
《ユウヤ、あのね。きみは……》
 灰原ユウヤはひとりだ。
 ひとりきり、なのだ。

* * *

 お父さんはいつの間にかいなくなってしまっていて、お母さんは、ずっとユウヤを抱きしめていた。
 お母さんの腕のなかにいたから、ユウヤは上手にお父さんの姿を見つけられなくて、でも、お母さん、はなして、とは言えないままで、とにかく真っ暗な場所で、だまって小さく丸まっていた。なぜだか周りがすごく煩かったので、自分の声を出すのが怖かった。お母さんにも、もちろんお父さんにも、この小さな身体から出てくる声など、きっと届かないのにちがいない、と思った。
 今日のごはんは、おそとで食べるのよ。
 ユウヤ。
 家族みんなで、いっしょだ。
 ね、ユウヤ。
 お母さんの腕の中はあたたかかった。きっといつまでも、ずうっと、あたたかいはずだったので、ユウヤはそこをはなれたくなかったのに、誰か知らないひとの大きな手はユウヤのちいさな身体を掴んで引き離してしまう。お母さんから引き離してしまう。そのときになってようやくはじめて、ユウヤは声をあげた。おかあさん! と言って、それから、おとうさん! と、言った。叫んだ。そのはずなのに、身体が震えて喉が冷たくて、結局、ちいさな自分の声はやっぱりどこにも届かないままだった。ユウヤはぎゅうっと目を閉じた。頭と、身体が、とても痛かった。
 家族みんなで、いっしょに。
 みんなで。
 ユウヤ。
 ああ、とユウヤは叫んだ。ああ、ああ、ああ。おかあさん、おとうさん。たくさん叫んだけれど、それはどこにも届かなくて、だれの返事もなかったから、最後には口を閉ざした。みんなで、って言ったのに、と思った。
 ほら、ユウヤ。
 家族みんな、いっしょよ。

* * *

 それが最後の、いやな記憶。
 一番苦しい、もう二度と見たくなかったはずの、夢。
 それらを見終えてから、ユウヤは目を覚ました。ゆっくり、ゆっくりとまぶたを開けて、それを追いかけるみたいに、意識のようなものがじわじわと、鼻先から頭のあたりにまで広がっていった。自分が上をみているのか、下をみているのか、どこに横になっているのか、あるいは、立っているのか、すわっているのか、すべてが曖昧だった。機械の音がするので、じゃあここは、また現実なのだ、ということだけ分かった。
 どこにいってもおなじ。
 夢も、現実も、記憶も、未来も、ぜんぶおなじだ。
 身体は管に繋がれているようだった。うっすらと開いた目を少しだけ瞬かせて、ユウヤは声を待った。白衣の大人の、「灰原ユウヤ」と自分を呼ぶ声だ。さあ、時間だ。起きなさい灰原ユウヤ。
 いやだ、とユウヤは思った。もう、いやだ。起きたくない。あなたの言いなりに、なりたくない。痛いおもいなんてしたくない。苦しくても立ち上がって、いろんな薬を飲まされて、動物みたいに扱われるのなんてまっぴらだ。
 もういやなんだ。
 それでもユウヤは言葉を待った。あの男の、声を待った。命令を待った。こちらへ来なさい、と、そう言われればきっと、自分はふたたび起きあがり、すべて受け入れるだろうという確信があった。だって完成している。灰原ユウヤは、そうやってでしか価値を認められない。
 ユウヤは絶望しながら、それでも生きていた。また、目覚めてしまったのだ。だから待った。じいと身体を固まらせ、待っていた。
 まっしろな、ベッド。
「……気が、ついたのか」
 と、唐突に降って来たのは、あの無機質な暗い声とはまったく別の、どこか動揺したような、ためらうように震えた、ちいさな声だった。
 ユウヤはおどろいた。視界がぶれて、まぶたが重くて、上手に意識を傾けられないけれど、精いっぱい目を動かして、見上げた顔はとてもなつかしいものだった。
 あれ、とユウヤは思った。あれ、あれ、あれ。どうして。
 ここはまだ、夢のなかなのだろうか。たしかめるように再びゆっくりと瞬きをして、それはとても緩慢な動作だったので、つぎに目を開けたときには彼はもういないかもしれないなと思ったのだけれど、あの赤い目は変わらずユウヤの顔を覗きこんでいた。
 ああ、とユウヤは嘆息した。ああ、ああ。
 不安そうに眉を下げ、なぜだかかすかに目を潤ませて、そこにいたのは彼だった。あの日、おなじ病室にいた、彼だった。ユウヤのことを、じっと見ていた。
「……あ、の」
 喉になにかをつっかえさせたみたいに言葉を区切りながら、彼はユウヤに話しかけた。意を決したように、口元を引き締める。僕は、と言う。
「僕の名は、海道ジン」
 知っている、とユウヤは頷いた。実際にはうまく身体を動かせなくて、たぶん、彼にその首肯は伝わらなかっただろうと思う。けれど、ユウヤはたしかに頷いた。ああ、知っている。知っているよ。思いながら、彼がどれほどその名を誇りとしているのかを感じとった。
 海道。
『先生』の、孫。
 海道ジン、が、彼の名前。
 ああ、とユウヤは呻いた。音の羅列を、吐き出した。ああ、ああ、ああ。記憶の向こう、《ジンくん、ジンくんは、さみしくないの?》と幼い自分が、訊ねる。《どうして、泣かないでいられるの?》
《決めたんだ》
 海道ジンは、そう言った。
《だれより強くなるって、決めたから。だから泣かない》
 あの日より大きくなった彼は、だから、ユウヤを見つめながらひどく苦しそうな顔をしていたけれど、それでも泣かないのだろう。きっと。涙を見せたりはしないのだろう。
 ユウヤは彼からわずかに視線を逸らし、天井を見た。ここが病院だということに、ようやく気がついた。それじゃああの日とおんなじように、泣いているユウヤのもとに、彼が来てくれただけなのか、とふいに得心した。そうか、なるほど、そうなのだ。
 思考を濁らせながらぼんやりとするユウヤの手を、彼がそっと握った。やっぱりおんなじ、とユウヤは思って、すこし笑んだ。自分が、上手に笑えなくなっていることを知った。
 むかしとおんなじに、ふたたび彼が手をとってくれたのに。ユウヤは、また、ああ、と声を出した。ああ。
「……きみは覚えていないかもしれないけれど、僕らは以前、同じ病室にいた。もうずいぶん昔のことだけれど、僕は、きみのことを覚えている」
 ぎゅっと、彼の手がユウヤの手を握る。あたたかな体温が伝わってくる。ユウヤは頷いた。知ってる。ちゃんと覚えてる。
 忘れたことなんて一度もなかった。
 灰原ユウヤの記憶。絶望と、絶望のあいだに起きた、ほんの少しだけの幸福な時間。
 最後の、ぬくもりの記憶。
 ユウヤは目を閉じた。ジンくん、と名前を呼びたかった。お父さんとお母さんには届かなかった声を、今度こそきちんと届けないと、と思った。ジンくん、ねえ、ジンくん、ぼくのことを――
 それを言葉にするよりさきに、彼が言った。
「ユウヤ、きみはひとりじゃない。……二度と、ひとりになんかさせない」
《ユウヤ、あのね。きみは……》
 ひとりじゃないんだ。
 触れた手があたたかかった。全身を抱きしめられているみたいだった。この手はきっと、ずっと、ずっとあたたかいから、今度こそ離さないようにしよう、とユウヤは思った。ああ、と呟くのといっしょに、頬が冷たく濡れたので、どうやら自分は泣いているらしかった。
 ああ、ああ。意味のない音ばかりが口からこぼれて、両目からは涙がこぼれて、本当に伝えたい気持ちは言葉にならなくて、ユウヤはまた泣いた。声をあげて泣いた。本当は、ありがとう、とか、会いたかった、とか、そんな言葉を彼に届けたいはずなのに、出てくるのはうめき声と、いやだ、こわい、たすけて、ばっかりで、そんな自分におどろいていた。いやだ、いやだと、たくさん叫んだ。今まで見てきた恐怖のすべてを吐きだすみたいに。
 彼は、ジンは、ずっと手を握ってくれていた。
 まっしろなベッド。優しい目。ユウヤは再び意識を失った。

* * *

 目を、覚ました。
 今日もやっぱり、病室だった。
 まぶたを開けるのがすこしだけ怖かった。そこはまた薄暗い、機械のならんだ部屋で、あの無機質な声が自分を呼ぶのかもしれないと思った。ユウヤは震えながらそうっと目を開く。遠い場所に、天上。
 それから、優しい目。
 ユウヤは息を吐き、肩の力を抜いた。緊張していた自分がすこし照れくさくなって、ふふ、とすこし笑ってみせた。前よりは上手に笑えるようになったはずだ、と思う。
 こちらを見つめる、ジンの頬がかすかにほころぶ。べつに毎日来なくても良いのに、彼は今日もここにいて、それで、ユウヤの目覚めるのを待っている。たぶん、必要なのだ、とユウヤは思う。彼にもここが、ユウヤのとなりに立つことが、必要なのだ。ここにきて紛らわせている苦悩や、寂しさが、彼にもあるのだ。海道ジンのその憂いを垣間見るたび、ユウヤは、生きていてよかった、と考える。僕が生きていることでたぶん、彼の寂しさがすこし、やわらぐ。彼の抱えた罪のようなものが、ほんの少しだけ、軽くなる。
 ひとりじゃないよ、とユウヤは言おうとして、けれど、ちがった、そうではない、と慌てて口を閉ざす。
 そうじゃない、その言葉は、いまは適切ではない。
「……ジンくん」
 声をかけると、彼はすこし目を細めた。まばゆいものを見つめるみたいに。とてもなつかしく、大切なものを、見つけたみたいに。
 優しい目は、もう、昔みたいに無邪気な色をそのまま宿してはいないけれど。
「おはよう」
 と、ジンが言った。ユウヤは微笑んだ。たぶん、ちゃんと笑えたはずだ。この調子ならばそのうちきっと、彼よりも自分のほうが、笑顔が得意になるに違いない。その未来を思って、ユウヤはいっそう笑みを浮かべた。それから、口を開く。叫ばなくても、踏み出さなくても、もう届く距離に彼がいる。
 ユウヤは言った。
 自分の意思で、起きあがった。
「おはよう、ジンくん」

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