午前十一時二十分になったので、灰原ユウヤは目を覚ますことにした。
薄いまぶたの下で、意識と眼球が最初に夢路から切り離される。手足の指先にゆっくりと感覚を求めると、やわらかなシーツが肌の上をそっと擦れた。動く。身体が、自由に動く。そのことに安堵を覚えながら、続けてユウヤは、喉の調子をたしかめた。
「んん」
寝起きの少し掠れた声。長く忘れかけていた、自分の声だ。ユウヤはもう一度だけ小さく唸るように喉を鳴らした。
そうしてから、両目を開く。
目覚めの瞬間はいつだって不可思議だ。毎日おなじベッドで眠り、おなじ天井を見上げながら迎えるだけのその瞬間を、ユウヤはしかしひどく特別なもののように感じていた。まぶしい光彩がどこからともなく舞い込んで、この一瞬のたびに、新しい自分に生まれ変わるような気さえした。
自由に動かせる手足。
まだ少し耳にくすぐったい、自分の声。
そんな不思議を充分に堪能してから、開いたまぶたの向こう側、広がる世界には人の気配がある。この病室の扉を開くのはいつだって、医師と看護師と、それからもうひとり。
目覚めのとき、彼の存在を察知するとユウヤの鼓動は自然と逸った。眠りの世界から意識が浮上するその瞬間、ときどき、胸の裏のあたりからどろりと生まれ出たなにかが、身体から溢れて零れて、暴れ出してしまいそうになることがある。それを拭い去るようにユウヤは大慌てで、手足の自由に動くこと、言葉をきちんと操れることを確認するのだけれど、大抵の場合その衝動は、誰もいない、ひとりぼっちの部屋で覚醒したときだけに起きるもので、彼がそばにいてくれさえすれば、その恐ろしい感情がユウヤの心を支配するようなことは決してないのだった。
こんな気持ちをなんというのだろう。
ユウヤは考えながら、ぼうっとしたまなこで天井を見つめた。眼球だけを僅かに動かして、病室を眺めやる。ジンの姿はない。
おかしいな、とユウヤは思う。彼の気配がすると、たしかに、そう感じたはずなのだけれど。
まばたきを何度か繰り返すと、自然と視界が広くなる。どこかぼやけたままだった風景が、明確な色を宿してゆく。そうしてきちんと起床を果たしてからようやく、ユウヤは気がついた。自分の横たわったベッドの、そのちょうど中ごろに、わずかな重みと温もりがあった。
「…………」
仰向けで横になったまま、わずかに身動ぎをしてユウヤは彼を見やった。ベッドサイドの椅子に腰かけて、ジンはベッドの上に上半身を伏せているようだった。両手を枕のようにして頭を預け、どうやらまぶたを下ろしている。
眠っているのだ。
そのことに気がつくまで、ユウヤには少し時間が必要だった。身体を横たえたままではほとんど彼の頭部しか見えなかったし、なによりユウヤのよく知る海道ジンという人物は、いつだってきちんと背筋を伸ばして前を向いているようなひとだったので、こんなふうになにかに身体を預けてしまっているような姿なんて、今まで一度だって見たことがなかったのだ。
ジンくんが眠っている。
ユウヤは目をまんまるにして硬直し、その表情のままとりあえず、ゆっくりと身体を動かした。そうっと、決して彼を起こしたりしないように、精一杯の注意を払いながら起きあがる。ジンの眠りは存外深く、伏せられた顔がこちらに向けられることはなかった。ユウヤはそっと安堵の息を吐いた。なんだか分からないけれど、心臓がいつもより速く動いているような気がした。
人が眠っているところを見るのははじめてだ。灰原ユウヤという人間は他人に観察されることばかりで、眠りに身を委ねる姿を見られることこそ多くあったけれど、逆の機会など一度もなかった。人とは眠るものなのだ、と、そんな当然のことを今さらユウヤは考える。いつだって屹然とそこに立つ、ジンでさえ眠るのだ。こんなふうに、ぐっすりと。
ユウヤはしばらく彼の頭部を眺めていた。シーツに伏せられたその寝顔を窺うことは出来なかったけれど、なんだかすべてに気を許し、熟睡しきっているように見えた。眠るジンの姿を見つめ、それから、きょろきょろと部屋を見回す。どうすればいいのだろう、と考える。なにかをしなければならないような気持ちになるのに、はたしてなにをどうすれば良いのか、ユウヤにはその判断がつかなかった。困惑している間にも時間はすぎてゆく。廊下の向こう、遠い場所から人の気配が近づいてきて、ユウヤはゆっくりと顔を上げた。病室の扉が、音も立てずにするりと開く。
午前十一時三十分。
お昼ごはんの時間だ。
病院での食事の時間は決められている。午前の検査を終えてから少し眠ってしまっていたけれど、ユウヤの身体はきっちりと、昼食の時刻に合わせて目を覚ましていた。特別に空腹を覚えるわけではないし、味覚というものもまだあいまいなままだったが、「きちんと食べないと元気になれない」とジンが言うので、だから、食事は三食摂取しなければならない。
開いた扉の向こうには見慣れた顔の看護師がひとり、両手に昼食を抱えて立っている。白衣のあまり似合わないその人物は室内に一歩足を踏み入れて、しかしすぐに立ち止まった。「おやまあ」とでも言いたげな表情で両目を瞬かせ、無言で狼狽するユウヤと、それから、変わらずベッドに俯せたままのジンを見やる。はたしてこれはどうしたものかと、そう問いかけるような視線を向けられ、ユウヤはいよいよ困惑した。言葉を選び、迷いつつ、小さく口を開く。
「……ジンくんが、ねむっている、から」
だから、あとで。
とても微かなその声は、ジンを起こすことなく看護師の耳に届くことに成功したようだった。後半を省かれたユウヤの言葉を受け取って、なぜだかひどく喜ばしげな顔で微笑んでから看護師はこくこくと頷いてみせた。再び、扉が閉まる。ユウヤはほっと息を吐いた。本当を言うと、叱られるかもしれないと思っていたので、自分の訴えがすんなりと通ったことに驚いてもいた。
決められたものごとを守らないのは悪いことだ。
起床の時間、食事の時間、検査の時間。定められた規則は従うためにあるもので、それを侵すことは許されない。そのように言い渡されてすごしてきた。ジンの眠りを妨げたくないだなんて、そんなものはただの個人的な感情で、規則を破ってまで主張するようなことでは決してない。心のどこかでそんなことを考えながら、けれど、たとえ誰かに窘められたとしてもべつに構わないと、ユウヤはたしかにそう思ったのだ。
虚しいような、けれどその虚しさが心地良いような、そんな奇妙な違和を覚えながら、ユウヤは一度目を閉じた。ジンくんは、と考える。ジンくんならどうしただろうか。こんな気分のときに、はたして彼ならばなにを思い、なにを行うのだろう。
静かな病室に、規則正しいジンの寝息ばかりが響く。ユウヤはまぶたを下ろしたままで、その呼吸の音にあわせて息を吐き出し、そして吸い込んだ。こうやって海道ジンのリズムを覚えてゆけば、いずれ、彼のその心に近い存在になれるような気がした。ありえない夢想だとは分かっていたけれど、それでも、決して悪い想像ではないように思う。病室はいつだって深閑としていて、耳をすませば、彼の心臓の音さえ聞きとることが出来そうだった。
けれどどれほど呼吸を真似ても、心音までは調和出来ない。
ユウヤは目を開いた。ジンはまだ眠っている。ざわざわとした落ち着かない気持ちが、胸の中で跳びはね続けている。ほかに誰もいない室内を意味もなく見回してから、ユウヤはそうっと手を伸ばし、指先でジンの髪に触れてみた。黒い線のような彼の髪が指の触覚を僅かに撫でて、シーツに伏せられた白い輪郭の上にさらりと落ちてゆく。そのようすをじいっと見つめてから、ユウヤは手を引っ込めた。こんなふうに意識して他人に触れたのははじめてのことで、彼といると、はじめてばかりを経験するなと考える。自然と、胸のあたりが柔らかになるのだ。はじめてのことばかりだ。
こんな気持ちをなんというのだろう。心がどこか遠い場所にあるようで、肉体のほうが一足遅れて、それを追い掛けてゆきたがっている。同時に、今すぐにでも駆け出したいと逸る身体を、心のほうが抑え込めているような感覚もあるのだ。矛盾している。深い眠りの淵にいるジンを見つめながら、その安息を邪魔したくないと思うのに、それでいながら早く目を覚ましてほしいと感じるのと同じだ。寝息に耳をすませるのは心地いい。けれど、優しく名を呼んでくれる、あの声を早く聞きたい。自分の気持ちがどうにも、ちぐはぐになってしまっているようだった。
とはいえ、ユウヤは決して、それを不快に感じてはいないのだ。
心臓の音は同化しない。呼吸だって、意識しなければ同じ調子で刻むことなんて出来はしない。灰原ユウヤの心はおそらく、海道ジンのような正しさと強さを手に入れたいと望んでいるのだろう。けれど、たとえそれが不可能でも、べつに構わないのだ。近づきたいだけで、同一になりたいわけではない。
ユウヤはしばらくのあいだ、そうやってジンを見つめ、ジンのことを考えながらすごした。退屈だとは感じなかった。ただ、ふと時計を見やったときに、じきに十三時を回ろうとしていることに気がついたので、それにはさすがに驚いた。ユウヤはまだ、お昼ごはんを食べていないのだ。
そう思ってから、そういえば、ジンもそうではないかということに、ユウヤはようやく思い至った。
いつだってそうだ。食事の時間にジンが病室に居あわせるとき、おそるおそるというふうに咀嚼を繰り返すユウヤに短い言葉をかけながら、しかし彼自身がなにかを口にするようなことはなかった。人は、とユウヤは思う。考える。人は眠るものだ。ユウヤが眠るように、ジンも眠るのだ。そしてユウヤが食事を取るように、ジンだって、食事を取らなくてはいけないはずなのだ。
「きちんと食べないと元気になれない」と、ユウヤにそう言ったのは、他でもないジン自身なのだから。
思いがけない事実を前に、ユウヤは再び当惑した。ジンの寝顔を覗きこむように首を傾けてみたけれど、たとえその表情を窺うことが出来たところで、彼の心までは分からない。
ジンくんは朝になにを食べただろう、とユウヤは考えた。いま、彼は空腹でいるだろうか。はたしていつごろこの病室に来たのだろう。どのくらいのあいだ眠るユウヤの姿を眺め、そして自分自身も眠りに落ちてしまったのだろう。この部屋で目覚めるその瞬間、すぐそばに彼の存在を感じとると、ユウヤは心から安心することが出来るのだけれど、それはユウヤが眠っているあいだ、彼をひとりにさせるということなのだ。
静かな病室でジンはひとりきり、ユウヤの目覚めを待っている。
そんな景色、想像したこともなかった。
ユウヤが眠っているあいだ、彼はどんなふうにしてすごしているのだろう。決して短くはないであろうその時間のことを思うと、なんだかむずがゆい気分になってきて、ユウヤは無意識に手元のシーツを握りしめた。怪訝な気持ちから目を逸らすみたいに、自分を待っている間にこそ、彼はなにかを食べているのかもしれない、と考える。たとえば、とユウヤはちらりとベッドサイドを見やった。そこにはジンからの見舞いの品が置かれている。
外国の歴史の本が一冊。それと、リンゴがひとつ。
リンゴにはビタミンCやミネラルが豊富に含まれている。だから、身体に良いのだ。ジンがそう言っていた。ユウヤはかすかに目を細め、つややかな赤色を眺めた。ジンが持って来てくれる果物のなかでも、とりわけ、ユウヤはリンゴを気に入っていた。サクリともザラリとも言い難い、なんだか不思議な食感がするし、噛みしめるたび口のなかに香りのよい果汁が広がって、そうすると喉のあたりがごろごろと喜ぶような感じがするのだ。ユウヤはそれを「おいしい」という言葉で表現した。ジンは微笑んでいた。
彼はリンゴを食べるだろうか。ユウヤは考えながら、そっと手を伸ばしてその果物を手に取った。硬いような、柔らかいような、不思議な手触りがするなと思った。リンゴの載っていた皿の傍らにはちいさなナイフが添えてあったので、もう片方の手でそれを掴む。ふたつ折りになった刃物をぱちんと開き、赤い表面にそっと触れさせた。
だれかの真似をするのは、得意だ。
ユウヤは以前、ジンがこれを扱うところを見ていた。リンゴの蔕のすぐそば、頭頂部からゆっくりと、螺旋を描くようにナイフは下ってゆく。赤色だけが細く、細く削ぎ落されて、一本の線のようになる。何色とも表現しがたい、自然の果実の色だけがまあるく残って、そこから、あの甘いかおりが広がるのだ。
皮をきれいに剥き終え、切り分けて、元あった皿に並べてゆく。ユウヤは僅かに目元を緩めた。はじめての体験と、問題なく成功したことへの充足感を覚えながら、ぱちん、とナイフを閉じる。それと同時に、ジンの肩がかすかに揺れた。どうやらその、ぱちん、で、彼は目を覚ましてしまったようだった。
ジンの頭がゆっくりと起きあがる。僅かに乱れた髪の下で、赤い目がふたつ、ぼんやりとしたようすで並んでいた。夢路から急に呼び戻されたようなていで、ジンは僅かに首を傾け、そうして両目をぱちぱちと瞬かせた。
突然の起床にユウヤは少しびっくりしながら、とにかくまず、おはよう、と言うことにした。ユウヤが目覚めたときにいつも、彼が一番にかけてくれる言葉だ。「おはよう、ジンくん」
「…………」ジンはかすかに眉をひそめ、なにやらバツの悪そうな顔をしてみせた。右手で自分の顔を撫でるようにして押し黙り、それから結局、「おはよう、ユウヤ」と彼も言った。「すまない、眠ってしまっていたらしい」
それはまったくそのとおりだったので、うん、とユウヤは返し、頷いた。するとジンはますます申し訳なさそうな、居心地の悪そうな表情を浮かべる。起こしてくれればよかったのに、と呟くように彼は言った。「退屈だっただろう?」
「……」
その声になんと返事をするべきか、ユウヤは少しのあいだ躊躇い、惑った。自分の中の感情をかきわけるみたいにゆっくりと、手探りで言葉を選ぶ。
退屈だとは感じなかった。
声が聞きたいとは、少し思った。
けれど眠りを妨げるのは嫌だったのだ。いつも張りつめたようにまっすぐ背を伸ばすジンの、そのまどろみを邪魔したくはなかった。
心に広がるのは単純な願いだ。眠る彼をそっとしておきたい。ただそれだけのことだった。けれどユウヤは、それらの周りにくるくると貼り付いた気持ちのすべてを、上手に伝えるための言葉を知らなかった。こんな気持ちをなんというのか、どういったかたちにすれば、彼に届くのか。思いながら、僅かに開いたくちびるの隙間から音を吐き出す。きみの、と言う。ぽつりと、心をひとしずく落とすように、呟く。
「きみのことを考えていた」
ユウヤのその声を、ジンはどこかぽかんとしたような顔で聞いていた。じいっとこちらを見つめる、赤い瞳が微かに揺れて、それから、なにかから逃げるふうにしてふっと目を逸らす。動揺を押し隠すような低い声で、そうか、と彼は言った。「僕も、きみの夢を見ていた」
こんな気持ちをなんというのだろう。
僅かに指先を強張らせながら、ユウヤは、ジンの顔を覗きこんだ。海道ジンというひとの内側にこそ、ユウヤの覚えたこの落ち着かない、ちぐはぐな、力強い感情の答えがあるように思えた。一度視線を逸らしたはずのジンは、しかしユウヤの眼差しを受けてかすかに口の端を上げた。甘え癖の抜けない幼子を相手に、仕方がないなとはにかむような表情だった。
ユウヤはもう一度、指の先に力を込めた。あたたかくて、ぴりぴりと痺れるような感覚が、そこにはあった。ジンのために剥いたリンゴ。
これを差し出したそのとき、彼は喜んでくれるだろうか。
そう考えるとまた、あの不思議な気持ちが湧きあがった。このひとのためになにかをしたいと、そう、強く思うのだ。はじめてのことばかりだ。ユウヤはためらいがちに口を開いた。ジンくん、と名前を呼ぶと、彼はとても静かな目でこちらを見やる。
こんな気持ちを、なんていおう。
ユウヤはその問いかけをジンへと向けることはしなかった。もの知りの彼は答えを知っているかもしれないけれど、それでも、いま名前を付けるのは惜しいように思ったのだ。
代わりにユウヤは、リンゴの載った皿をジンに示した。
時刻は十四時も近くなっていて、とっくにお昼ごはんといった時間ではなくなってしまっていたけれど、彼とおなじ食べものを、おなじふうに食べられる、そんな自分になりたいとユウヤはひそかに願ったのだった。
希望について
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