清らかな毒

 僕が藤原のその奇妙な体質のことを知ったのはいまからひと月近く前のことで、その日授業を休んでいた彼が部屋で真っ赤になっているのを見つけたその瞬間を、けれど、実を言うと僕はあまりよく覚えていない。
 なにかを叫んだような気もするし、声なんてなにも出なかったかもしれない。床に座り込んだ藤原はちょうど左の肩から背中、二の腕、わき腹のあたりまでをほとんど紅色に染めながら、さらにその傷をえぐるみたいに自らの爪で患部を掻き毟っていた。ガリガリと音さえ響きそうな凶悪な手付きで、自身の皮膚を破って、その下の肉さえも引き千切ろうとしていた。
 それが単なる自傷行為でないことを、僕はあとから知ったのだけれど、ともかくその時は慌てて彼になにかを言って、おそらく、やめろだの落ち着けだのといった言葉を一方的に並べて、それでも一心不乱に身体を掻き続ける藤原を、最後には力まかせに抑えて怒鳴りつけた。藤原はそれでひどく泣いて、青い顔で唇をふるわせながら何度も「痒い」と言った。
 痒い、痛い、放して、と絶え間なく零れる涙と浅い呼吸の合間に繰り返す。彼の左肩や腕やわき腹のあたりには、無数の発疹のようなものが浮かび上がっていた。
 それは直径二センチくらいの赤い膨らみで、一見すると虫にでも噛まれただけのような小さな突起だった。中心に五ミリほどの白くて硬い芯があって、それを抉り取ってしまいさえすれば、痒みも痛みも嘘のように消え去るのだという。
 藤原の身体にはことあるごとにその発疹が現れた。間を開けても五日ほど、酷いときは毎晩のように、腕や脚や背中や首元にさえ、ぽつぽつと赤く浮かび上がる。藤原はそのたびに気の遠くなるような痒みと痛みに襲われながら、自身の皮膚に爪を立てて、血を流した。
 今夜は多い、と、藤原の背を彩った赤い点を数えて僕は思う。うなじにひとつ、そこから背中の真ん中のあたりにまでかけて七つ、右の腋のあたりに三つ、肩から二の腕に五つ。大小さまざまなそれらは、熟れて崩れた果実のようなグロテスクな赤みを帯びて、彼の白い背中を蹂躙している。
 藤原は僕に背を向けたまま俯いて、脱いだ制服を両手で握りしめていた。痒いのだろう。耐えるように震える背に僕は手を伸ばして、一番ちいさな突起に指先で触れた。
 そのまま、赤い点の中心に爪を押しこむ。息を飲んでぶるりと震えた藤原に、痛くないかと訊ねる。彼は吐息のような細い声で痛くないと答えた。
 吹雪にしてもらうと痛くない。
 はじめて藤原の発疹に触れたとき、彼は困惑したふうにそう言った。気が狂いそうなほど痛かったのに、僕の指は嘘のようにそれを忘れさせるらしい。赤く腫れあがった皮膚の中にするりと入りこむと、核である白い芯をたやすく見つけて取りだして、なにごともなかったかのように離れてゆくのだと。
 それを告げられて以来、僕は彼に異変がおとずれるたびにその肌を抉った。腕に脚に背に首に、藤原の皮膚に現れる傷みのすべてに爪を立て、痛くはないと言う彼の言葉を信用することなく、出来る限り丁寧に、優しく、傷つけることを恐れながら僕は彼の要求に応じた。
 ひとつ、ふたつと、真っ白な芯は藤原の肌を抜けて僕の手のなかに転がりこむ。みっつ、よっつ、いつつ。それさえ抉りだしてしまえば、赤い点は嘘のように彼の肌から消え去ってゆく。
 今日はいつもより多く、いつもより硬い。さくりさくりと剥がれるように取り除けるものは少なくて、時間をかけて解しながら、それでも強く根付いたままの芯はどうしようもなく、少しばかり疲れた僕は結局あきらめて言った。「噛んでも良い?」
 ん、と彼は返したけれど、それは肯諾でなく拒絶だったのかもしれない。僕は判断を誤っているのかもしれない。そう思いながら、それでも言葉にして確認することはせず、僕は藤原の肩に唇を寄せた。ひときわ大きく腫れあがっている、赤黒く染まった個所を軽く吸い上げてから噛みつく。同時に藤原が、悲鳴みたいな声をちいさくあげた。僕はそれを聞いて少しだけ躊躇ったけれど、結局口を離すことはせずに、舌先で見つけた中心部分だけに歯を突き立て、力を込めた。
 藤原は苦悶するように背を丸めて、か細い呼吸を繰り返しながら、けれど抵抗することはなく、最中に何度か僕の名前を呼んだ。ガリ、と僕の歯が藤原の肩に穴を空ける。口内に甘く錆びた血の味がじわりと広がって、同時にコロリとした異物が転がり込む。それを手の中に吐きだしてから、僕は藤原に痛かったかと訊ねた。
 藤原は首を横に振った。
 喉の奥で絞るような呼吸を浅く繰り返しながら、俯いて制服を強く握りしめたまま、それでも痛くはないと言った。
 僕は藤原の中から取りだした芯の、その正体を知っている。藤原がどうして今日こんなにもたくさんの赤い点を背負うはめになっているのか、それを僕は知っている。手のひらの中の、丸くて真っ白なちいさな粒を見つめてから、僕はもう一度藤原の肌に手を伸ばした。右の腋に、まだ三つ。それらを排斥するために、僕は彼に爪を立てる。
 がりがりと皮膚を破られて、ときには食いちぎられて、そのたびに藤原は苦しげに呻いて泣きそうな声を上げたけれど、彼はそれを痛みと判別しない。痛くないわけがないのに、と僕は思う。藤原の肌のうえに現れる無数の斑点は彼の悲しみだ。こうして他人に抉られて、無理やりに引きずりだされて、それで痛みを伴わないわけがないのだ。
 たとえば今日、今までいっしょに授業を受けたクラスメイトがひとりいなくなった。それは自主的な退学であると教師からは説明を受けたけれど、僕らにとってその別れは突然のことで、忽然と消え去ってしまったのと同じことで、それで藤原が傷つかないなんて誰が断言できるだろう。彼はだれかがいなくなってしまうこと、自分から離れていってしまうことに対して殊更過敏で、クラスメイトがひとり日常の景色から消えてしまえば、それだけでこんなにも悲しみに溢れてしまう。藤原の心が悲しい気持ちを受け入れきれなくなったときに、彼の痛みはこうして肌の上にまで現れる。耐えきれず、無数の斑点となって、悲しみを外に吐き出そうとする。
 藤原はたくさんの血を吹き出しながら、それを自分の手で抉りだしてきたけれど、孤独な行為は彼にとんでもない痛みを求めた。ひとりきりで悲しみを堪えるのはつらく、よりいっそう悲しく、そしてさらに深く強い傷を彼の身体に浮き上がらせる。僕はそれを見つけてしまったから、彼の悲しみの除斥をこうして夜毎手伝っている。
 けれどこれでいいのだろうか。
 藤原は苦しげに呻きながら僕の爪や歯を受け入れて、その痛みを痛みと認識しないことにした。それは正しいことだろうか。僕はこのままこうやって、彼が痛くないというその言葉を信じたふりをして、藤原の柔らかな肌を掻いて抉って食いちぎっているだけで、それで本当にいいのだろうか。
 すべての芯を取りだして、藤原の肌がもとのとおりにきれいに戻って、僕が終わったよと彼に告げて、ありがとうと返ってくる。じんわりと汗の滲んだ身体を浅く上下させながら、藤原は疲れきった様子で静かに泣く。
 その姿を愛しいと感じて、手の中に残った藤原の悲しみの塊を愛しいと感じて、こうして彼の孤独を和らげられる時間を愛しいと感じて、その愛しさで僕は満たされている。藤原は泣いているのに。僕がどれだけの悲しみを取り除いても、藤原自身がそれを望んだのだとしても、彼は最後には静かに泣くのに。
 藤原をあの薄暗い部屋にひとりで残すことが出来ない僕は、結局朝陽が昇るまで彼のとなりにじっと座って、彼が泣きやんで眠ってしまってからもずっとそこにいて、それでもどうしたって結局自分の部屋に帰ってくることになる。ずっとあそこにはいられない。あの部屋に僕がいない時間、藤原はひとりきりでまた悲しい気持ちに襲われて、痒みと痛みに苛まれて、自分の肌を掻きむしっているかもしれないけれど、部屋に戻ってしまった僕にはそれを知るすべはない。代わりに僕は机の上に置いた小さなガラス瓶のふたを開けて、そこに彼の悲しみを閉じ込める。
 僕が彼の皮膚を裂いて取りだした、十六粒の真っ白な芯。五ミリほどの球形は乾いた血が少し付いていて、それを拭き取ると純白に輝くうつくしい宝石のようになる。ひとつだって歪な形はしていなくて、ちいさなそれらのすべてが、藤原を苦しめていたものだとは思えないくらいにきれいだった。僕はそれをひとつひとつ指でつまんで、小瓶のなかにそっと放りこむ。金管楽器のようなやさしい音をたてて、藤原の悲しみはガラスの壁に当たってぽとりと底に落ちてゆく。
 手のひらほどのサイズの小さな瓶のなかには、僕がいままでこの指で抉りだした真っ白な宝石が溜まっている。まだ半分にも満たないそれらは、けれどそっとはいりこんできた朝の光に反射してきらきらと輝いて、心臓が軋むくらいにきれいな姿を僕に見せてくれる。どうしようもないほど澄んだ藤原の悲しい気持ち。痛みばかりを連れてくる、零れた心。
 すべてを瓶のなかに入れて、僕はそれにしっかりと栓をした。ここに入れてしまえばもう二度と藤原のもとへは行けなくなるだろうと思った。新しい悲しみはまた彼を苦しめるだろうけれど、すでに彼から離れてしまった古い痛みは、ここでこうして閉じ込めてしまえる。僕はその美しい瓶を机の上に戻して、それからベッドに倒れ込んだ。
 そして夢を見る。
 藤原の悲しみの白い芯が瓶のなかでいっぱいになって、閉じ込めきれなくなって、溢れかえったそれを僕は庭に埋めることにする。純白の種だ。ひとつひとつ丁寧に、土を掘ってそこに植えて、広大な大地はあっというまに藤原の悲しみで満たされてしまう。僕はそれらに毎日水をやる。透明のおおきなジョウロにたっぷりと水を入れて、細い水口から雨を降らせるみたいに少しずつ潤いを与えてゆく。何カ月もかけて、陽を吸って雨を吸って、やがてちいさな芽が出てくる。丸裸の土から緑色の双葉が顔を出して、すくすくと茎を伸ばし地に根をはって成長する。僕はそれが嬉しくて、嬉しくて、いったいどんな花が咲くのかと無想しながら過ごすのだ。
 僕のとなりには藤原がいる。藤原は僕が庭の花に夢中になっている間に、冷たい頬を濡らして悲しんでいる。藤原が悲しむと、庭の花はひとつずつ枯れてゆく。蕾のまま開かないで、藤原の花は藤原の悲しみによって枯れてゆく。僕はそれを悲しんで、藤原もそれを悲しんで、僕らはふたりで何度か泣いて、けれど僕は藤原の身体にあの斑点が現れないことを喜んでもいる。藤原のつらい気持ちを、あの花たちは全部受け止めて、彼の身代わりになってくれているのだ。これで藤原はもうあの痒みと痛みを経験しなくてすむはずで、僕も藤原の身体を掻きまわしたりしなくてすむはずで、僕はそれを喜ばしいと思う。
 藤原の花はひとつだけ咲いた。
 庭の真ん中に残った最後のひとつが、ある日突然、白い花を咲かせたのだ。
 あんなに広い大地に、あんなにもたくさんの種を蒔いたのに、結局開いたのはそのひとつだけだったけれど、僕と藤原は手を取ってそれを喜んだ。朝陽のなかできらきらと咲き誇る真っ白な花はほんとうに美しくて、言葉にできないくらいの感動が僕の胸をいっぱいにした。
 けれど次の瞬間に花は枯れてしまう。藤原の白い種から生まれた花は、あっという間に悲しみで満たされて、少しのあいだ咲くことにさえ耐えられない。すべての花が失われたことで、藤原はまたあの痒みに襲われることになる。僕はまた藤原に爪を立てる。小瓶に種が増えてゆく。
 僕は目をさました。時計を見ると、一時間ほどしか経っていなかった。着替えて部屋を出る。僕が出てきたままになっている藤原の部屋には当然鍵がかかっていなくて、僕は勝手に入り込んで、ベッドで寝息を立てる藤原の隣に寝転がった。
 涙の跡が残る藤原の寝顔をじいと見つめてから、僕は瞼をおろした。今度は夢を見なかった。

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2010-07-01