白い雪景色のなかにぽっかりと空いた雲の影みたいだと思った。
藤原優介というひとりの人間にとって、丸藤亮というひとはそもそも『雲のような』という形容の似合う存在で、それは青い空の中で風に遊ばれるあれらのことではなく、どちらかといえば天空そのもののイメージを指した。雲は不安定だ。大気に浮かぶ無数の水の粒。溶けて雨となっていずれ地上に降りてきてまた昇り、無限にそれを繰り返す。丸藤亮はそれではない。彼は自分のもとへは降りてこない。
空のずっとずっと上。気高く天空に存在する雲は、決して地上に降らない。
だから亮のその姿を見たときに、藤原は、彼はついに降りてきたのだと思った。自分と同じ大地に立ったわけではない、空にいたまま、けれど、影を落とした。
病室のベッドに座るその姿をぼんやりと眺める。
見つけたくはなかったものに気付いてしまったような、あるいは、ずっと焦がれていたものを手に入れたような、落ち着きのない気分で藤原は立っていた。ああ、彼にも影は落ちるのだ。
そうして入口の付近で立ち止ったままの藤原に、先に声をかけたのは亮のほうで、彼は久しぶりの再会にもとくになにか感じ入った様子はなく、座らないのか、と低く訊ねるだけだった。
こういうところは変わらない。簡潔に渡された一言に、藤原はおかしな気持ちになってうっすらと笑い、静かすぎる部屋の中に自身の足音を響かせることを嫌ってゆっくりと歩いた。だいじょうぶだ、彼は逃げない。歩みはゆっくりでいいのだ。
「座らないのか」という問いかけは、つまり、座れば良いという意味なのだろうけれど、藤原はあえてそれには従わずベッドの横に立った。この方がよく見える。懐かしい容姿、目の色、鼻梁、自分とは正反対のまっすぐな髪。年月など意味をなさない世界で藤原のすごした四年間は、こちらではそれなりに大きな年月であったらしい。懐古を思わせる彼の姿は、それでもずいぶんと変わってしまったかのように思えた。
なにより、いまの丸藤亮は天空にはない。
藤原はかけるべき言葉を探し、そうしている間に、やはり先に言葉を発したのは亮だった。彼は、おそらく彼なりになにかを選んだのだろう。藤原の記憶に残るものよりもさらにいくらか落ち着いたトーンで、「変わらないな」と言った。
「お前は、まったく変わらないんだな。四年前のままだ」
「……丸藤は変わってしまったのにね」
飛び出た声は冷たく届いたかもしれない。ふと思ったが、亮はそれを肯定するようにそっと笑んだ。変化の自覚が、彼にはあるのだ。天空の雲は、自ら望んで降りてきたのだ。
自分はどうだったろう、と藤原は思う。
自分は最初どこにいて、そうしてどこに落ちていったのだろう。不変であることを求めたのは確かだったけれど、その行き着く先は、ここで良かったのだろうか。
病室は白くて、あの高く遠い空の上にあった亮はこんなところにいて、不自由な身体をもてあまして、そうしていま、『変わらない』藤原優介と対面している。それで良いのだろうか、と藤原は思う。思いながら、影を落とした彼のことを愛おしく感じている。
「ここに来るまでに、翔くんに会ったよ」
翔という名の彼の弟を、しかし藤原自身は間接的にしか知らない。後輩としていずれアカデミアに入学するかもしれないと、話だけに聞いていたふたつ下の弟。はじめて対面した彼は、亮と兄弟だとは信じられないほどに小さく、けれど懸命に兄のことを思っていた。
「丸藤のことが大好きなんだろうね。何度「お兄さん」と言っていたかわからない」
「そうか」
「吹雪の妹にも会ったし、学園のいろんな生徒に会った。……彼らみんな、俺たちの後輩だと思うと、とても健気で愛おしかったよ」
思い出すにつけて笑みが浮かぶ。デュエルアカデミアの生徒たちは、ひとりひとり、誰もがデュエルを求めて日々をすごしていた。その姿を見ていると、過去の、遠いあのころの自分自身を思い出すのだ。希望と絶望がとなりあわせだったあのころ。
たやすく絶望が勝った、あのころの自分を思い出す。
「俺たち、か」と、亮がこぼした。それはひとりごとなのだろうけれど、おそらく彼は自分を批難しているのだろうと藤原は思った。きっとその感情は正しい。
亮は少し視線をさまよわせ、次の瞬間には藤原に手を伸ばそうとしたように見えた。けれど右手はためらいを捨てられず、結局彼は、なにかを諦めたみたいにひとつ息を吐くのだった。完璧にそこに存在するはずの亮が、ときおり見せるどうしようもない諦観を、藤原はひそかに好んでいた。
「俺は、助けるつもりだった」と亮は言う。「お前が望めば、助けてくれと口にさえすれば、俺は助けるつもりだった」
助けられる自信があった。
「助ける自信がある。――今でもだ」
「今でも?」
「ああ」
今でも、と亮は繰り返す。どこか投げやりな調子で渡されるそれは、おそらく、藤原があのころと変わっていないからだろう。助けてくれと、決して口にはしないからだろう。
それはそうだ、と藤原は思う。助けるだとか、助けないだとか、そういった次元に自分はいない。その表現をあえて用いるのなら、藤原はもう助かっているのだ。救われている。導かれている。
亮の口から出たのは、ある意味で突拍子もない申し出だった。助けてほしいと、そう告げることを藤原に求めているのだから。藤原は苦笑した。やはり丸藤亮は変わってしまったのだ。かつてはこんなにも愚かなことを、わざわざ言葉に出すようなことはしなかった。
「俺を助けられたのはダークネスだけだよ、丸藤」
「…………」
亮は押し黙り、睨めあげるように視線を寄こしたが、けれどそれがポーズであることを藤原は知っていた。彼は怒ってはいないのだ。救われたいという望みを藤原が持たない以上、それはもうどうしようもないことなのだと、賢い彼にはわかっている。
わかっているくせに、それでも求めるのだろう。言っても仕方のないことだと知りながら、いざ目の前にすると縋ってみたくなるのと同じだ。藤原だってそうだった。「助けてほしい」と、「忘れないでほしい」と、何度口の端から零れ落ちそうになったかしれない。
けれど藤原はそれが無意味だと知っていた。その言葉を放ったところで、彼に自分は救えない。
ダークネスだけなのだ。
ダークネスだけが、藤原優介の心を守ってくれる。
「そこはそんなにも居心地が良いか」と亮が言った。藤原は微笑むことで肯定する。彼はそれをじいと見て、嘆息するような声音で「そうか」と言った。「なら、もういい。好きにしろ。どうせ俺はもう、お前を止める手段を持たない」
「だろうね。俺だって、デュエルの出来ないお前に用はないよ」
どちらにせよもう手遅れだ。
彼は藤原を助けたかったと、いまでも助けられるのだと、そう言ったけれど、はたしてそんな身体でなにをどうするつもりだったのだろう。止める手段はなくとも、救う手立てはあったとでもいうのだろうか。少しだけ興味がわいたが、しかし、もういい。彼だってそう言った。もういいのだと。好きにしろと。
ああ、そうか。見限られたのだ。それを自覚するとひどく悲しい気持ちになったが、しかしそれさえも、大丈夫だ。ダークネスがすべて受け止めてくれる。悲しみも寂しさも、すべて。
藤原はそこに立ったまま、病室をぐるりと見回した。真っ白だ。真っ白なままだ。この寒々しい雪のような白さのなかで、雲の影となった亮がこちらを見ている。助けてほしいと、いま言ったなら、きっと彼はその言葉のとおりに助け出してくれるのだろうと、藤原は思った。止めることは出来なくても、きっと救ってはくれるのだろう。
けれどもう手遅れなのだ。
変われない藤原優介は、その言葉を口にはできない。
「ここに来るまでに会った生徒は、みんな悲しい心を背負っていた。丸藤の弟も、吹雪の妹も、俺たちの後輩全員が、同じ不安や絶望を抱えて生きていた」
俺はそれが愛おしい。
言うと、亮はふと笑い、全員か、とつぶやいた。
「全員だ。みんな、みんながダークネスとひとつになれる。学園にはもう誰も残っていない。誰ひとり残らず、ダークネスのもとに集っている」
それはとても素晴らしいことだと藤原は思う。この地を中心に、ダークネスは世界の柱となるのだから。だれも残さず、だれも残らない。それは亮とて例外ではない。
「まだだろう」と亮が言う。「まだ吹雪がいる」
「吹雪?」
思いがけず出た名に、藤原は小首を傾げた。「あいつになにが出来るって?」
その言葉に、亮は少しだけ寂しそうに目を細め、そしてそのまま瞼を下ろした。この目はもう開かないのだと、そう思うと藤原はとたんにまた悲しくなったが、けれど、これでいいのだと思う。よかった、彼は最後に藤原優介のことを思った。
真っ白な病室に、真っ暗な気配が募る。この居心地の悪いうつくしい景色から、ようやくさようならが出来る。藤原は「俺はそろそろ行くよ」と言った。「吹雪の相手をしてやらないと」
「ああ」と、瞼を下ろしたままで亮は返す。これから飲まれる世界の先が、彼にはちっぽけなものに思えているのかもしれない。
「もうすぐ全部終わる」
「そうか」
「俺が一番ほしかった世界が完成するんだ」
「……」そんなものが欲しかったのかと、彼は言わない。藤原の絶望のビジョンを、下らないと一蹴しない。その代わり、丸藤亮は「それは良かったな」と、ひどく淡々とした調子でそう言うのだった。
冷たい世界に闇が満ちる。
さようなら、と藤原は言った。「最後に会えてよかった」
眩しいくらいの白が、ゆるやかな灰色に飲まれてゆく。雪の大地に落ちていた雲の影は、いっそう色濃い暗黒に混ぜられて、そしてひとつになる。死ぬわけではない。ただひとつになる。
薄暗い絶望に身をまかせながら、亮は、ああ、と静かに首肯した。「また会おう」と、彼の声だけが未来に向けて放られ、四散した。
狭間のこと
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