ロマンティスト狂い咲き

 藤原優介が天上院吹雪に懐いたらしい。
 そんな噂声が聞こえるようになったのは入学してからさほど間もないころのことで、その短い期間のうちであっても、藤原はそんなふうに囁かれてしまうほどクラスメイトから距離をとってすごしていた。
 ぽつんと音が聞こえそうなくらいにひとりきりの藤原は、とにかくめっぽうデュエルが強くて、学業の成績も優秀で、本当ならヒーロー的立ち位置だって夢ではないはずなのに、けれどどうやったってそこに生まれてしまう派手さを受け入れることが出来ないようだった。
 彼はだれとも馴れあわない。
《孤高の天才》と誰かが言って、なんとなく藤原を特別視するみたいな空気が出来るまでにそう時間はかからなくて、彼の「ぽつん」は日に日に大きくわかりやすくなっていった。それは孤立と表現するのには少しばかりゆるやかで、だからつまり、彼の存在は孤高と呼ぶべきなのだろうと僕は思う。
 そう感じながらそれでも彼に声をかけたのは、ぽつんとそこにいる姿がなんとなく気になったからで、率直に言ってしまえば気まぐれだ。強固で頑丈で綺麗な彼の境界線は、僕くらいが踏み込んだところできっと受け入れないし壊れもしないだろうけれど、せめて僕という存在には気付いてもらえるかもと、そんな軽いノリで彼の孤高に踏み入った。
 そしたらあっさり受け入れられた。
 確実にそこにあったように見えた境目は、けれど、一度越えてしまえば消えてなくなるような、そんな脆くて儚いものだった。
「吹雪はさ、変わってるよね」
「そうかな」
「うん、変だよ。俺、友だちなんて作らないと思ってたのに」
 なんでこんなことになったんだろう、と、並んで昼食を食べながら藤原は小さく嘆息する。その吐息の中には後悔なんて詰まっていなくて、ただ心から、いまの状況を疑問に思っているようだった。疑問もなにも、僕が「いっしょにお昼ごはん食べようよ」と言って、彼が嬉しそうにこちらへ寄ってきた、ただそれだけのことなのに。
「友だちは作るとか作らないとか、そういう存在じゃないんだよ藤原。友だちっていうのは、なんかなんとなくなっちゃうものなんだ。そういう流れみたいなのがあるんだよ」
「俺はその流れに乗らないつもりだったんだよ。吹雪のせいで失敗したけど」
「それは残念でした」
 会話を重ねてみると藤原はまったく孤高なんかじゃなく、僕と変わらない普通の男の子だった。どちらかというと甘えたがりなくらいで、それはいつだって僕から声をかけて藤原が誘いに乗るという図式であるのにもかかわらず、周囲から『藤原優介が天上院吹雪に懐いた』と評される程度にわかりやすいものだ。藤原の好意は露骨であからさまで、とても素直。
 そんな藤原が、友だちを作ることを倦厭して、他人から遠ざかろうとしていたなんて不思議でならない。僕が理由を訊ねると、彼はすこし困ったふうに言葉を探して、
「ううん……人と関わるの上手くないし、それに学校って、いつか出ていっちゃうところだから……」
 と、語尾を濁らせながらそう言った。なるほど、と僕は思う。彼は別れが寂しいのだ。いずれ去ることの確定している学園生活を、特別に親しくなった友人と過ごすのが不安なのだ。
 そんな気持ちを抱える藤原と、友だちになれて良かったと僕は思う。彼に友だちと認識されていることが、本当にうれしいと僕は思う。自然と笑顔を深めた僕に、藤原はまだもごもごとなにか言いたげだったけど、結局口にするのを諦めて、手の中に残っていたパンをもくもくと口に運んだ。食べきってから、彼は言う。
「……吹雪はさ、なんでこんなふうに、俺を誘ったりしてくれるの?」
 なんとなく心細げなその質問に、僕は首をかしげた。
 なんでと言われても、そういえば、なんでだろう?

 それが恋だからだと気付いたのは本当に突然のことで、朝目覚めてすぐに冷水を浴びたような、まさしく晴天の霹靂といった具合の衝撃をもって、僕はそれを自覚する。
 これは恋だ。
 僕は藤原のことが好きなんだ。
 藤原が僕に懐いたらしいという噂の、「らしい」の部分がなくなって、懐いたのではなく仲良しになったのだというふうにみんなが認識しはじめて、僕らがいっしょに行動するのが当たり前のようになってきたころ。僕は浮力原理に思い至ったアルキメデスの如く走り出したい気分で自分の気持ちを発見した。
 エウレカ! エウレカ! これは恋だ!
 相手が同性であることへの動揺がないこともなかったが、けれどだからといって、この感情を誰が抑止できるだろう。恋心がどれだけ素晴らしく尊いものであるのかを僕はだれより知っているつもりだったし、それを説くことが自身のアイデンティティであるとさえ考えているのだ。今までの経験上、恋愛ごとにかかわるときの僕というのはもれなく最強で、さらに自分自身の恋心を自覚している僕というのはもう一段階最強だった。
 恋をすると世界が変わる。
 唐突に降り立ってきた藤原への気持ちを自覚したとたん、僕のこの思いは、まるではじめて藤原に会った瞬間から僕のなかに確実に根付いていたみたいな顔をしはじめる。きっかけだとかスタートラインだとかを完全に無視して、僕は僕の歴史を塗り替えるように藤原のことを好きだと思う。世界は変わった。そんなことはありえないと苦笑する自分もいたが、けれど、僕はおそらくこの世に生まれ出た瞬間から藤原のことが好きだったのに違いないとさえ思うのだ。
 ばかげている。
 ついこの間まで、藤原の不安げな問いかけに「なんでだろう?」と首をかしげていたくせに。
 けれどそんなふうにばかげているからこそ、恋はなにより楽しくて煌めいているのだ。
 藤原を好きな僕は、誰の目にも明らかに輝いて見えたことだろう。輝きを増せば人の目には魅力的に映るもので、そのせいか僕はこの頃からいっそうモテるようになった。恋をして輝く僕に恋をした女の子たちがさらに輝く。世界は感動的なほど循環している。
 藤原に恋しながら女の子たちに恋される、そんな充実した日々を送る僕に、けれどとうの藤原は不誠実だと顔をしかめた。「そんなふうにいろんな子と遊んでいて楽しい?」
「楽しいよ」と僕は言う。いろんな形の恋愛が交錯することが、楽しくないわけがない。藤原の言い方だとまるで僕が浮ついた女遊びに興じているようだけれど、ファンの子たちとはあくまでお友だちだったし、なにより僕は藤原のことが好きなのだ。藤原を好きな僕を好いてくれる彼女たちを、僕は僕なりの気持ちで大切にしたい。
 にこやかな僕に対し物憂げな藤原は、どことなく拗ねたようすで「俺にはよくわからない」と呟く。それでも僕が女の子からプレゼントされた手作りのクッキーはとても美味しいらしくて、彼はかわいらしくラッピングされた甘いお菓子を一枚一枚嬉しそうに食べて、最後にごちそうさまと言った。それから、思い出したように付け足す。「こういうのさ、俺が食べちゃって良いものなのかな」
 すっかり食べ終わってしまってからそういうことを言うあたり、彼は自分にとても甘い。「良いものなんだよ」と僕が言うと、彼は指先に着いた粉をぺろりと舐めとりながら、「良いものかなぁ」と怪訝そうにした。
「うん、だってそれをくれた子は、僕が甘いもの苦手なの知ってるしね。もらうときにも断ったんだけど、そしたら彼女、『藤原くんに食べてもらっていいから』って」
「なにそれ」
「受け取ってさえもらえればそれで良いってことなんじゃない?」
 藤原は手元に包みだけがのこったプレゼントをじいと見つめ、それから僕の顔を見て、もう一度「俺にはよくわからない」と言った。心底から理解できないといった表情だった。それがあんまりかわいらしくて、僕は少し笑ってしまう。
 女の子の気持ちというのはとにかく複雑怪奇で、特に恋する乙女ときたらそれはもう厄介な生き物だ。たとえ愛の伝道師を名乗るこの僕であっても、その迷宮みたいな回路のすべてを理解することなんて出来やしない。その複雑さこそが恋心の妙で、だからこそ恋愛は面白いのだ。
 けれど、これはわかる。
 ただ自分の手のうちにあるものを、自分が用意することのできる最上のものを、受け取ってもらえるだけで幸福になれることがあるのだ。それ以上の歓びを、見つけられない瞬間というのはたしかにあるのだ。
 たとえそうして手渡したものが、最後にはだれか別の者のところへと流れてゆくだけだとわかっていても、どうしたって渡さずにはいられないものが、人にはあるのだ。
 僕といっしょにいることでまったく孤高でなくなった藤原は、曰く『友だちを作らない』ために張っていたバリアーをいつの間にか解いていた。僕が声をかけることで消えていたはずの藤原の「ぽつん」は、けれど次第に、僕が近づかなくても姿を見せなくなる。輪の中心に立つことは相変わらず嫌い、デュエルでも勉学でも目立つ行為は避けたがったけれど、そのスタンスを崩すことなく彼は学園に馴染んでゆく。
「あ、ごめん吹雪、丸藤。ちょっと用事できたから、先に行ってて!」
 そんな言葉だけをぽいと放って、こちらに背を向け駆けていってしまうこともたまにある。彼の行く先に見知らぬ生徒なんかがいた日には、僕は思い切り肩を落として、あああ、と嘆きの声をか細くあげるのだった。
 僕と同じように藤原に置き去りにされた亮はというと、そんなふうに項垂れてしまった僕に一瞬ぎょっとしたふうに見えたけれど、さすがのカイザーといった貫録で、ただ静かに「どうした」と問うた。
 僕は答える。
「めちゃくちゃ寂しい……」

 けれどそんなふうに寂しい気持ちも、もちろん僕が藤原を好きだからこそ起こる感情だ。友だちの出来る流れに抗わなくなった藤原は、とても自然な調子でゆったりとした交友関係を広げていったけれど、相変わらず僕が声をかけるたびに嬉しそうにこちらへ寄ってきたし、僕のもらったお菓子を「ほんとにいいの?」と言いながら残さず食べた。僕に名前を呼ばれたときと、甘いものを食べているとき、藤原はすごく近い表情で頬をゆるめる。
 僕は藤原のことを好きだと思う。
 藤原の心はどうやらとても不安定で、なにかを確認するまでもなく、彼はいつだって過去に苛まれ、未来に怯えているようだった。じきに藤原は写真を撮りはじめる。自分と仲の良い生徒たちに声をかけて、静かにシャッターを切ってゆく。
「写真は手元に残るから」
 言いながら大事そうにカメラを抱える彼が本当にほしいのは、けれどたぶん、そんなフィルムなんかじゃないんだろうと僕は思う。たぶん本人もそれはわかっていて、それでも友人をその四角い空間に収めることで、彼はなにかの拮抗を保とうとしているようだった。過去と未来を懼れる彼は、すがるように今を大事にする。

 放課後、現像したたくさんの写真を机に並べながら、藤原は満足げだ。「竹山、一枚もまともな顔で写ってないなぁ。いつ撮ってもぜったいに変な顔してる」
「予告するとふざけるもんね。こっそり撮っちゃえば? デュエル中とかさ。真面目な顔してるとき撮ったら、あとで見たときにきっと照れて転げまわるよ」
 デュエル中かぁ……と呟く藤原は、あまり乗り気ではないらしい。ちょっと悩むように写真を見つめ、それから、できれば、と続けた。
「できればこっちを見てほしいなぁ」
 放課後の教室はがらんとしていて、その寂しげな感じが好きなのだと藤原は言う。友人の増えた彼は一日にいろんな生徒や教師と言葉を交わし感情を見せ合い時間を共有していたけれど、授業の終わったこの時間帯だけは、他人を掃いひとりきりでここに残ることが多かった。だれもいない空間で、ざわめきの名残に包まれるのは心地良いのだと、彼はそっと笑う。
 藤原のこの大切な時間に、僕は浸入することを何故か許された。「吹雪は特別」と彼が言ったその言葉が嬉しくないわけはなかったけれど、閑寂に身を委ねる藤原の姿はどうしようもないほどきれいで、僕はここに招かれると上手く喋ることができなくなる。
 僕といっしょにいることでまったく孤高でなくなったはずの藤原は、けれどこの空間にあるとき、たしかに一度かつての孤高を取り戻すのだ。僕はそれを間近で確認し、彼の求めるこの寂然とした世界を愛そうと思う。
 藤原のことを好きな僕が、藤原の好きな世界を嫌いになれるわけがない。
 机の上に並べた写真を一枚一枚確認し、藤原は嬉しそうにそれらを手元に戻してゆく。宝物を扱うみたいに丁寧に動く指先をとなりで見つめながら、僕はふと思いいたって口を開いた。
「藤原はさ、自分の写真は撮らないの?」
 彼の宝物は友人たちばかりで、その一枚にだって藤原自身の姿は入っていない。カメラを構えているのだから当然と言えば当然だけど、それは悲しいことのように僕には思えた。写真に切り取られた時間を僕らはたしかに共有したのに、そこに藤原が残らないのはおかしなことだ。
 指摘された本人は、どうやら盲点だったらしい。「ん、ああ、ほんとだ」と気の抜けた声でそう言い、けれど大した問題ではないというふうに、仕方ないと言うふうに、はにかんで見せた。
 仕方なくない、と僕は思う。
「みんなでいっしょに撮ろうよ」
 思いつきで飛び出た言葉は、けれど、とても素晴らしい提案のように僕には思えた。藤原ひとりで写るのではない。友だちひとりひとりを撮るのではない。
 いっしょに撮り、いっしょに写ればいいのだ。
 そうすれば、きっといま藤原だけの宝物である写真たちは、みんなの共通の思い出になる。
 僕の申し出に、藤原は一瞬真顔になって、じいと手元の写真たちを見つめて、それからその両の目にじわりと焦燥を滲ませた。彼はなにかを思い出しているようで、その思い出が彼を苛んでいるようで、瞬間的に消えかかっていた寂しい放課後の気配がまた寄り集まってきたことを僕は感じる。藤原の静寂はきれいで、僕はこれを壊してしまうべきではないのだろうと思う。なにか言葉を発することで慰めたり、あるいは彼の身体を抱きしめたり、手を握ったり、そんなことをすべきではないのだろうと思う。
 少しして、彼は言った。
「……吹雪は、なんでそんなふうに優しいの?」
 なんとなく心細げなその質問に、僕は首をかしげた。
 なんでと言われても、そんなのは決まっている。
「きみのことが好きだからだよ」
 愛情というものはなににもまして強いもので、それがそこにあるというだけで、誰かは誰かを救えるものだと、僕は信じて疑っていなかった。
 人が人を愛すること、個人が個人を好きだと感じること。世界はそのつながりで成り立っていて、愛はすべてを支えていて、だからこそ美しいのだ。僕は藤原のことを恋しいと思う気持ちに正直に行動したし、どういう形であれ藤原も僕のことを好いてくれていたし、僕らの周りには優しい人たちがたくさんいて、僕も彼も、そのたくさんの人たちのことが好きだった。好きだから、大切だから、藤原は撮った写真を宝物のように扱ったのだろうし、気にいったものは部屋に飾って日々それらを眺めたのだろう。彼を愛するたくさんの気持ちがつまった写真はきっと彼自身を救うものだと、僕は信じて疑っていなかった。
 その考えが過ちとは思わない。
 大きな愛情は必ず誰かを救うのだから。
 だから間違っていたのは僕自身で、たぶん僕は、たとえば藤原の放課後を愛そうだなんて思わずに、彼を苛む思い出を愛そうだなんて思わずに、孤高に佇む彼をきれいだと感じるならそれに竦むことなく、思う気持ちをすべてぶつけてしまえば良かったのだろう。なにか言葉を発して彼を慰めたり、あるいは彼の身体を抱きしめたり、手を握ったり、そんなことをしたいと思ったとき、その気持ちの通りにするべきだったのだろう。手渡すだけで満足してしまわずに、きちんと、彼の返す言葉を受け取るべきだったのだろう。
 ほんとうに大切なものは失ってはじめて気付くという。
 けれど僕は失ったことにさえ気付かず、大切なものになんてもちろん気付けず、藤原のことを失うのと同時に忘れてしまう。藤原が僕のとなりにいたこと、彼が嬉しそうにこちらへ来る姿、だいすきな甘いものを食べたり、ときには嫌いなものを食べたり、時折見せる不安げなようすも寂しい顔も、僕が彼を好きだと思ったすべてを、忘却して失ってしまうのだった。
 恋を失くすと世界が変わる。
 はたして藤原のことを知らない僕というのは本当に僕なのだろうか、という率直な疑問に対する答えはもちろんイエスで、藤原を忘れてしまったところで僕は僕だった。僕は彼を忘れて、彼への恋心を忘れてしまったけれど、それでも僕は僕だった。
 僕が変わらず僕であったおかげで、僕の記憶は藤原のことを思い出す。

 彼を想う者の声が僕を打つ。
《お前たちがマスターを見殺しにしたんだ!》
 だけど、違うんだ。そうじゃないんだ。
 僕は藤原のことが好きだったんだ。
 僕だけじゃなく、彼のまわりにいたみんな、彼のことを大切に思っていたんだ。
 藤原だって、みんなのことが好きだったんだ。だから彼は苦しんだのだろうし、その苦しみをひた隠したのだろうし、そんな彼にきちんと手を伸ばして救うことのできなかった自分自身を僕はこんなに悔やんでいるんだ。
 愛情が誰かを救うことを知っていたのに、僕は彼を愛していたのに。
 生まれた瞬間から彼のことを好きだったのだとさえ、思ったのに。

 すべてを思い出した僕は、ふと思いついたように灯台に立ち寄ってみる。僕が僕でなかったころ、亮と明日香が立った灯台だ。深い暗闇の中で僕を照らした、かすかな灯りを放つ場所。
 藤原がダークネスとひとつになったというのなら、彼の魂はあの闇の先にきっといるのだろうと思う。寂しがりやの彼はそこに溶け込むことで居場所を得ることが出来たのだろうか。そこは、彼の求めたその世界は、孤高の彼をついに孤独へと追い詰めてしまいはしないだろうか。
 僕はいまでも彼の静寂をうつくしいと思う。そのうつくしい世界に招かれたことを、心のどこかで嬉しく感じている。
 僕は藤原が好きなのだ。
 彼のすべてが好きだから、彼の求めるすべてを美しいと感じてしまった。彼の愛する世界を愛そうと思ってしまった。
 けれどだめだ。
 死んでしまっては、だめだ。
 きみが死んでしまうような、きみがきみでなくなってしまうような、そんな世界は、どれだけ美しくたって絶対にだめだ。僕はそこから、孤高のきみを形成するその寂しい放課後から、きみの闇から、その手を取って引っぱりだして、そんなところにいてはだめなのだと伝えたい。
 後悔に返ってくるのは波の音ばかりで、僕は僕の気がすむまでそこでじっと海を見つめることにする。あいまいな記憶。あいまいな思い出。藤原のことを思い出しながら、僕は僕を滅ぼす深淵に彼の姿を探す。
 そうして僕は彼を見つける。
 藤原は生きていて、そこにいて、そして僕は彼のことをきちんと覚えている。忘れていない。もう二度と彼を失うのなんてごめんだと僕は思う。後悔なんてしたくない。
 僕は藤原のことが好きなのだから。

* * *

 ダークネスから解放された藤原は、けれどもちろん、なにもかも終わってスッキリサッパリというわけにはいかないらしく、それどころか完全に気が弱ってしまったみたいで、目覚めてすぐは少しばかり大変だった。
 衰弱した身体をベッドに横たえて眠る彼が数日後にようやく目を覚ましたとき、僕はちょうどその場に居合わせることができなくて、連絡を受けてから慌てて保健室へと駆けつけていた。いつか僕もおなじように眠り続けたベッド。昨日までそこで意識を失ったままだった藤原は、けれどいま瞼を開いて、僕らの生きるこの世界を見つめている。
 それをこの目で確認したときの僕の感動といったら、それはもう言葉にはし尽くせないものがあったのだけれど、そうやって胸をいっぱいにして入口付近で立ちつくしている僕を視界にとらえた瞬間、藤原の反応はすばやかった。
 胸元まで被せてあった掛け布団を両手で掴み、あっという間に頭から引っ被ってしまったのだ。
「…………」
 呆気に取られる僕をよそに、ベッドの中に隠れてしまった藤原からのアクションはない。大きな白い膨らみとなった彼は僕から逃げるみたいに、というか、まさしく逃げ出したとしかいいようのない状態で、ただ黙って丸まっている。
「……あの、ええと、藤原?」
 困惑しながらもとにかくベッドへと近づいて、なにか声をかけようとした僕に、布団でくぐもった声が「待って」と言った
「待って、吹雪、待って」
 かすれた声は懸命になにかを訴えるようにそう告げたが、けれど僕はなにを待てばいいのかわからない。
「藤原」ともう一度名を呼ぶと、膨らみは大げさなくらいにビクリと大きく反応し、聞き取れないくらいにか細い声で「ごめん」と返した。
「ごめん、でも、待って。だって俺、ま、まだむり……」
 藤原の言葉は次第に震えて、いよいよかすれて弱く弱く消えかかってゆく。とにかく彼は待ってほしいと主張し、その理由はどうやら、まだなんと謝ればいいか、どんな顔をすればいいのかが定まっていない、というものらしかった。「ごめん吹雪。俺まだ、わ、わかんない、から……ごめん、待って」
 ほとんど泣き声のようになりながらそう訴える藤原に、僕はなるほどと得心し、けれどもちろん、告げる。
「待たない」
 彼を覆っていた布は思ったより軽く簡単にめくりあげることが出来て、おかげでそう手こずることなく、僕は藤原と再会する。両目に涙を溜めた藤原はびっくりしたふうに固まっていて、けれど僕と目があうと、次の瞬間にはぱっと顔を逸らしてしまった。うろうろと泳ぐ視線を捕まえるために、僕は彼の頬を両手で掴んでこちらへ向かせる。
 謝罪なんてべつにいらないのだ。どんな表情だって、藤原が藤原であるなら僕はそれでかまわない。
「おかえり」と僕は彼に言う。ずっとずっと逢いたかったのだと、もう一度声が聞きたかったのだと、戻ってきてくれてほんとうに嬉しいのだと、すべての思いを込めて僕は言う。「おかえり、藤原」
 藤原はいまにももう一度隠れてしまいそうなようすで、けれどどうにか逃げ出すことなく僕の目をきちんと見つめ返していた。ゆっくりと口を開く。
「ただいま……」
 涙で震える喉で、彼は酸素を探すみたいに何度か呼吸を繰り返してから、目の縁にたっぷりと溜めた涙をついにぽたぽたと溢れさせた。

 そうやって再会を果たしてわかったのは、どうやら藤原の涙腺は少し故障してしまったらしいということだった。
 保健室でただ休養する生活のなかで、彼はことあるごとによく泣きだす。それは決して倒錯的で投げやりな涙ではなく、心に浮かんでくる細やかな雲をひとつひとつ整理するような泣き方で、たとえるなら朝陽の隙間から零れる雨粒みたいに優しく静かだった。あるいは、もっと身も蓋もない言い方をしてしまうのなら、彼は涙もろくなったご老人のように唐突にぽろぽろと泣くのだった。
 藤原の両目はまるで水漏れでもするかのように唐突にじわりと涙を滲ませて、ときおり目尻からぽろりと粒を零しては藤原自身を困惑させた。僕がお見舞いに現れるたびにじわり。さらに、なんでもない会話の途中で急にじわり。そのたびに藤原はおたおたと謝りながら、慌てて目元を拭う。
「なんて言えばいいか、わからなくて」
 ダークネスの世界で憔悴した身体がまだ回復しきらない藤原は、一日のほとんどをベッドの上ですごしながら、自分のしたこと、これからすべきことを考えているらしかった。「言葉だけでは謝りきれないんじゃないかと思うと、どうしていいかわからなくなっちゃって」「俺がやったことなんだから、きちんと責任を取らなくちゃいけないんのに」「うう……泣きたいわけじゃ、ないんだ。ほんとうに……」ぽつりぽつりと弱音を口にしながらときどき涙を挟む彼のその姿勢は、穏やかというのには少しばかり焦心が勝っているように見えたけれど、少なくとも歪んでいなくてとてもまっすぐで、僕はその藤原の、生きるための前向きな不安を感じとって嬉しくなる。
「むかしの話だけどさ、僕、明日香を怒らせちゃったとき『反省してるように見えない』って言われちゃって、それで、どうしたものかと考えて、画用紙に『ごめんなさい反省してます』って書いて紐を通して首から下げてみたんだ。明日香は怒ってるんだか笑ってるんだかよくわからない顔をしてたけど、でも、その日のうちに僕を許してくれたよ」
 嬉しい僕はいつもの調子で、そんな他愛のない昔話を披露したりもする。もっと気を楽にしてもかまわないのだと彼に伝われば良いと思う。けれど僕がそういう贖罪や深省や正風に関するエピソードに触れるだけで藤原の涙腺はまたじわりと緩むのだった。
「吹雪がそうしたほうがいいって言うなら、そうする……」
 戻ってきてすぐの藤原はそんなふうに泣いたり落ち込んだり悩んだりしてちょっとばかり大変だったけれど、僕はそれを喜んで見守ることにする。藤原は泣いて落ち込んで悩むことによって、きちんと生きるためにバランスを整えているのだ。その証拠に、彼は滲んだ涙の量よりはるかにたくさんごはんを食べた。
 栄養を咀嚼して嚥下して自分のなかに蓄えながら、藤原は「おいしい」と言って少し泣いていたけれど、数日のうちには同じ言葉を笑顔で言えるようになる。
 そのころには僕は、授業をサボって藤原のもとへ通っていることが明日香にバレて叱られて、保健室への出入りをほとんど禁止になっていたけれど。

「制服を着てくればよかったかな」と僕が言うと、藤原は「なんで?」と言って笑った。「すごく似合ってるよ、それ」
 似合っているのは、もちろん、当たり前だった。卒業記念パーティという大きなイベントのために新調した王子さま衣装はまさしく僕にぴったりで、ドレスを着た明日香と並ぶといかにも物語の世界から飛び出てきたようだと大好評だったのだ。卒業生にも在校生にも、僕ら自身にも良い思い出になったし、それ自体はかまわない。
 けれど、藤原と並んで同じ制服を着ることが出来るのは今日で最後なのだ。久しぶりに見る彼の制服姿を眺めれば眺めるほど、僕はそれを残念に思う。
 保健室から出てきた藤原は、けれどまだ万全の体調というわけではないらしい。みんなの前で謝ったあと、考えていたことの半分の言葉も出なかったと少し落ち込んで、いまはパーティ会場の隅で壁にもたれている。なにか食べるもの取ってこようか、と僕が言うと、彼は首を横に振った。
「チョコレートケーキもあったよ?」
「…………」僕の言葉に、藤原は押し黙って少し物欲しそうな顔をする。けれど、予想に反して彼はもう一度首を横に振るのだった。「今はいいや。……吹雪こそ、なにか食べるなり、誰かと話すなり、してこなくて良いの?」
 最後なのに、と付け足して、彼は会場を見回すように眺めた。その視線は彼自身が卒業するわけでもないのに随分と寂しげで、僕はそれに努めて明るく返す。
「最後っていっても、ここで生徒として逢うのが最後ってだけだからなぁ。卒業したって連絡は取れるし、思い出話もとうに出尽くしたから平気」おなかもとくに空いてはいない。「いまはこうやって、藤原といっしょにいたいな」
 言うと、彼は見るからに嬉しそうな表情を浮かべて、それからもう一度、どこか遠くを見るような目をした。
「……俺はここに残るよ」
 大事なものをそっと手渡すように告げられた声に、そう、と僕は返す。充分に予想の出来た言葉だったし、彼が制服姿で現れたことが、そもそもそれを確定させていた。
「やっぱりデュエルが好きだから。ここでもう少し、がんばって勉強して、ちゃんとみんなに追いつきたいんだ。だから……」
 彼はそこで一度言葉を詰めて、僕の方を見ないまま、どこか遠く別のところへと視線を追いやったまま、「だから本当は、今日で最後だけど」と言った。呟くみたいに。
「……吹雪は今日、卒業しちゃうけど……がんばるから。ちゃんと、今度こそここで、やり直せるようにがんばるから。だから、また、いっしょに……いっしょにデュエルしたり、お昼食べたり、写真撮ったり、そういうの、またいっしょにしたいんだ」
 途切れ途切れの言葉の端々から、藤原の故障気味の涙腺がきしみを上げる気配がする。僕はそれにゆっくりと耳を傾けながら、彼のことを本当に好きだともう一度思う。何度だって思う。その言葉が終わった瞬間に僕は彼を抱きしめて、そしてこの場にいる全員に僕の好きな人がどれほどかわいらしくいとおしいかを見せびらかすため、彼の身体を抱き掲げてくるくると回りたいくらいだ。
 そんなふうに幸福を噛みしめながらにこにこと絶えない微笑みを浮かべていた僕に、藤原はしかし最後の最後にとんでもないことを言いだす。
「だから、……俺が卒業するの、待っててほしい」
「えっ、なんで?」
 思わず反射的に素っ頓狂な声をあげると、藤原はびくりと身を震わせて、目をまんまるにして僕を見つめた。あ、ようやくこっちを見た、と僕が思ったのも束の間、すでにギリギリだった彼の涙腺がじわりと緩む。さも曲がり角で世界の終わりにでも出くわしたかのような形相で、藤原は硬直していた。
「…………」
「いや、待って、きみは勘違いをしている。藤原あのね、そうじゃなくて、ええと、なんて言えばいいかなぁ」
 そりゃあ一世一代の大告白みたいな空気さえ背負っていた発言に、速攻で「なんで?」などと返されれば軽く絶望もするだろう。生まれたての雛みたいにデリケートな状態である今の藤原ならなおさらのこと。けれど、そんなのは僕にしたって想定外だ。せっかく藤原のほうからこんなにも嬉しいことを言ってきてくれたのに、そのオチがこんなものじゃ納得いかない。
 再びダークネスに行ってしまいかねないほど顔面蒼白になっている藤原に、僕はあわあわと手を振って、決してその提案を拒否する意図などないということを伝える。そうじゃない。そういう意味じゃなくて、
「きみが卒業するまで待つなんて、僕にはできないってこと!」
 それを聞いて、藤原の顔色が少しもとに戻る。彼は混乱したようすで、いっそ怪訝そうに眉をひそめさえした。「? ど、どういう……」
「だから、別に卒業まで待たなくたっていいだろう? 僕はたしかに今日卒業しちゃうけど、卒業生がこの島の出入りを禁じられてるってわけじゃないんだから、いつだって逢いに来られるじゃないか」
「え、でも吹雪、仕事とか……」
「……いや、もちろん、それはそれでちゃんとするけど」
 たしかに、いつだって、というのは少し言いすぎた。生活する場所が変わってしまうのだから、学園にいるときに比べれば逢える頻度なんて微々たるものだろう。けど、なにも卒業するまでなんて制限を設ける必要はないだろうし、なによりそんなのは僕が耐えられない。
「待たないって言ったろう? 暇を見つけて遊びに来る気満々だったのに、卒業してからまたねなんて言われるとは思わなかったよ……」
「ご、ごめん。でも、本当に? ここまで来るのけっこう大変だよ?」
 大変なのはわかっている。けれど、大変なのを乗り越えてこその愛なのだ。
 僕はにっこり笑って、平気だよ、と言う。藤原はそれをどこかぼんやりとしたふうに眺めて、それから、「吹雪は変わらないなぁ……」と言った。
「そう?」
「うん、びっくりするくらい変わらない。少し風変わりで、俺にはよくわからないことも簡単にやってのけて、それなのにすっごく優しい」
 俺の知ってる吹雪のままだ。
 言って、藤原は嬉しそうに笑った。過去に苛まれることなく思い出を繰り、かつて僕らが過ごした日々をまるで再びその目で眺めているかのように。
 彼はひとしきり目を細めてから、ふと思い立ったように、
「吹雪は、……吹雪はなんでそんなふうに優しいの?」
 そう言った。
 今度は僕をしっかりと見つめながら。
 彼の言うとおり、僕は昔からちっとも変わっていなくて、だからその質問に対する答えだってずっと変わらないままだ。
「きみのことが好きだからだよ」
 僕は僕の抱えてきた、この数年の気持ちの全部を込めて、藤原にそう告げる。僕が持っている、彼に手渡したい愛情のすべてをそこに詰め込んで、それがこの先の彼を救う大きな愛のひとつになればいいと、そう祈りながら。
 藤原はその言葉を、まるでなにかを吸い込むようにして聞く。あの日の放課後みたいな寂しい気配はどこにもなくて、けれどたしかに、彼はいつか僕がそれを告げたときと同じ表情を浮かべている。
 その言葉が聞けただけで満たされたと、それ以上は自分には不要だというふうに、藤原はちいさく笑って、いまにも泣きだしそうな声で「ありがとう」と言うのだった。
 そうだ、僕はあの日もこの「ありがとう」を聞いて、それで、僕の愛情は彼に届いたものだと、そう思ったのだ。届いたのならそれでいいと、彼がそれ以上を望まないのならそれでいいと、そんなふうに思ってしまったのだ。
 僕は変わらないと藤原は言ったけれど、それは少し間違っていた。
 僕だって変わる。あれから何年も経っていて、その間に僕は藤原を失い、忘れて、思い出し、そして取り戻したのだ。経験を積めば人間は少しずつ変化するものだし、なにより、僕の恋は一度失われて、そのあとまた戻ってきたのだから。
 恋をすれば世界は変わる。
 僕の世界は三転して、そうしてきみに告げる。
「きみが好きっていうのは、愛してるって意味でだよ?」
 言葉にしてしまってから、僕はしまったなぁ、と思う。後悔というほどではないけれど、でも、こういったことはきちんと雰囲気を作ってから告白する予定だったのだ。なんだか勢いまかせみたいな言葉の並びになってしまったし、言いわけみたいにも聞こえるし、まったくもってスマートじゃない。卒業式の夜に告白というのは理想的だけれど、それならそれで、こんな賑やかな場所じゃなく、もっと静かにふたりきりでいられるところが良かったのに。
 すこし失敗してしまった、とこっそり反省する僕に、妙なタイミングで唐突に愛の告白を受けた藤原はというと、いまにもぽかんという音が聞こえそうな分りやすい表情を浮かべていた。
「……す、好き……って」
「言ったよね、前にも。僕は藤原のことが好きだって。それは友情とか親愛とかそういうのじゃなくて、できればお付き合いをしたいって意味の好きなんだよ」
「おつきあ、……え、え? だって、だってあのときはなんにも……」
「うん、あのときは僕の言葉が足りなかっただけ」
 藤原は見ていて笑ってしまいそうなくらいにわかりやすくパニックを起こしていて、何度かぱくぱくと口を開けたり閉じたりしたかと思うと、次の瞬間には急速に涙ぐんで真っ赤になってしまう。
 彼は、でも、とかだって、とかの単語を何度か繰り返して、少し黙ってからようやく口を開いたかと思うと「あのとき俺……」と言ったきりまた俯いてしまった。僕はその言葉の続きを待ったけれど、藤原はそれ以上なにも言わないで、代わりに、
「い、いつから……?」
 と訊ねてきた。
 僕は少し考えてしまう。僕の恋心はいい加減なもので、藤原が好きだと気付いた瞬間のことは覚えていても、そこに突き当たるきっかけなんかはとっくに意味をなさないと見做してしまっているからだ。
 仕方がないので、僕は僕の恋がそう訴えるとおりに藤原に答える。
「僕がこの世に生まれてきた瞬間から」
 そんな回答に、藤原はもう一度ぽかんとして、それからゆっくりと、花びらが綻ぶみたいに破顔した。ばかばかしいと思ったのかもしれない。僕自身、本当にばかげた答えだと思うのだから仕方ないことだ。
 けれど彼はそうやって笑いながらぽたぽたと泣いて、次から次へと溢れてくる涙を拭うこともしないまま、そっと僕に両手を伸ばした。
 あれ、と思ったころには僕は藤原に抱きしめられている。
 いくら会場の隅だとはいっても、そうなるとさすがに近隣の生徒たちの視線を集めないわけがない。僕は耳元に藤原の泣き声を聞きながらそれを感じとるけれど、まぁいいか、と思う。告白するのならロマンティックな場所でふたりきり、なんてことを考えていたけれど、こんなふうに衆目を集めるようなドラマティックな展開も僕らしくてきっと素敵だ。
 離れる気配のない彼の両腕を、少しでも振りほどくような仕草にならないよう気をつけながら、自分の腕を動かしてこちらからも抱きしめ返す。
 藤原の身体はあたたかくて、生きていて、僕は藤原のことを覚えていて、そしてこんなに彼のことが好きだ。
 僕を抱きすくめたまま泣きじゃくる藤原の頭に手をやってゆっくり撫でながら、僕はできれば彼をこのまま抱きかかえて、さっき夢想したみたいにくるくると回って、この場のみんなに僕の幸福を自慢したい衝動にかられる。けれど藤原はまだ当分離してくれそうにないし、僕ももう少しこのままでいたいと思うから、喜びにひたすら逸る気持ちはぐっと抑え込んだ。
 焦らなくたっていいのだ。
 僕らはこれからたくさんの時間を共有できるし、いくらだってデュエルをしたり、昼食を食べたり、写真を撮ったり、もっともっといろんなことが出来るのだ。制服だって、着ようと思えばいくらだって着られる。この先にある無限の可能性は僕らが過ごしてきた今までをぜったいに無駄にしないし、もちろん、くすませたり色褪せさせたりもぜったいにしない。
 大きな愛情は、必ず誰かをしあわせにするんだから。
 藤原はいつまでも泣きやむ気配がなくて、だからいつまでも会話が出来るような空気にならなくて、僕は彼に強く抱きしめられたままだ。嗚咽の狭間から聞き取れる声は、何度か「吹雪」と繰り返し言ったけれど、この抱擁の深い意味合いまでは言葉として僕に送られてはいない。
 僕はひどくゆったりとした気持ちで、藤原が泣きやむのを待っている。彼の気持ちが落ち着いたら、なんて言葉をかけようかと考える。
 少し泣いたあと、彼はきっと笑顔になる。
 その瞬間のことを思って、僕は一足早く頬を緩めた。この手から、全身から、彼のことを好きな気持ちが伝わればいいと思いながら、ゆっくりゆっくり、彼の頭を撫でつづけた。

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2010-07-30