パキン、とガラス片の割れるような音がした。
それが藤原の耳に届く一拍先にオネストがふと現れて、こちらを庇うような位置に立ったが、けれどその音に「いてっ」という軽い声が続いたときには、彼はふたたび姿を消していた。「ああ、なんだ」といったような敵意の抜けた表情で、オネストは藤原の中に戻る。
藤原はというと、その自身の精霊の一連の感情の流れにきょとんと目を丸め、それからすこし頬をほころばせてから、ゆっくりとした動作で手にしていたペンを置き広げていたノートと本を閉じた。
夜間の訪問客は、しかし、扉ではなく窓からあらわれる。
「なにこの部屋、結界かなにか張ってあんの?」
びっくりしたぁ、と、別段驚いたような調子でもなく、遊城十代はそう言った。挨拶もなにもなく、当たり前のように室内に足を踏み入れてくる。藤原はそれに少しだけ戸惑いながら、「結界ってほどではないけど」と、とりあえずの質問に答えることにした。「一応、変なものが近づいてこないようにはしてる」
ないよりはマシといった程度の、精々魔除けレベルの護身である。長い間ダークネスの影響下にあった藤原は、精神面はともかく肉体のほうがまだその歪みから抜けきっていないらしく、ときおり波長を求めた妙な意識が迷い込んでくることがあった。オネストがいる限りそう大きなことにはならないが、念には念を、といった具合である。仕方のないことと割り切ってはいるものの、平穏な学園生活は出来る限り維持したい。
藤原のそんな説明に、十代はなるほどなぁと関心深げに相槌を打った。「お前もいろいろ大変なんだな」と言う声は軽く、同情も同調もない代わりに理解があった。
「ていうか、ごめん。俺いまそれ壊しちゃったんだけど」
先ほどのパキンは、十代が近づいたことで結界が砕けた音だ。所詮は護るためでなく近づけないためのものなので、外から強くこちらに向かわれれば破壊されるのは容易い。もっとも、それでもある程度は耐えてもらわないと困るのだが、相手が遊城十代である以上、『ある程度』でさえ望むのは酷というものだろう。
いいよべつに、と軽く許容を示した藤原に、しかし十代はどことなくバツの悪そうな表情を浮かべている。「いや、でもなぁ」と言いながら彼は、どうしたものかといった具合に頭をかいた。
「俺いまその、『変なもの』持ちこんじゃってるから。悪いなーと」
「……なに持ってきたの」
よく見ると、十代は妙に大きなトランクを足元に引き連れている。身ひとつで世界中駆けまわっている彼には似合わないその大荷物は、言われてみると、なんとも古臭く禍々しい気配を纏わせていた。藤原は眉をひそめる。
「いや、どうかなぁとは思ったんだけど、もう藤原くらいしかアテがなくてさ。ちょっとだけ協力してくれよ」
こんな時間の訪問であるし、そもそも十代が藤原のもとにただ遊びに来るという可能性はまずないので、なにかしかの用事を抱えてやってきたことは予想の範疇だ。それでもそう下手に出られるとなんとなくおそろしく、藤原はひそかに身構えた。
十代が以前アカデミアに現れたのは半年ほど前のことで、そのときは剣山が、拉致と表現するのに支障のない突発さをもって数日間行方不明となったのだ。無論彼は無傷で帰還したものの、丁度拉致期間と試験期間とが被っていたことが原因で、ある意味屍状態と化していた。本人は満足げだったけれど。
十代はその巨大なトランクをよいせと横に寝かせ、決して藤原に中が見えないような角度を保ちながらがさごそと漁る。彼が片手で取り出したのは、古びた紙を太い紐でしっかりと閉じた、薄汚れた書物だった。全体の厚さはそうないが、皮の表紙は見るからに丈夫でどことなく不気味だ。
「この本に見覚えは?」
「……ない」
差し出された薄気味悪い代物を前に、藤原は記憶を辿ったが、確かにその装丁に覚えはない。けれど知らないのは外観だけで、おそらく十代は受け取って中身を確かめろと言うのだろう。正直なところ、かなり嫌だった。
藤原のそのいかにもお断りしたいと書かれた表情を見やって、十代はけれどその手を引っ込めることなく真顔のままだ。じっと見上げてくる視線は強く、それから逃れることを藤原は手早く諦めた。もとより、十代のお願いごとを、藤原が断れるわけがないのだ。弱り顔を浮かべ、嘆息ともつかないような息をゆっくりと吐いて藤原は言った。
「それ、ヒトが触ってだいじょうぶなもの?」
そんな苦し紛れの問いかけにも、しかし十代は「いや、どうだろ」とあっさり言う。「でも藤原なら平気だろ」
「…………」
「気付いてるんだか知らないけど、お前さ、やっぱ何年もダークネスに染まってただけのことはあるって感じなんだよなぁ。変なモノが近づいて来やすいって言ってたけど、そういうふうに不安定なのって、やっぱりお前自身がなんとなく自分の身体のこと受け入れきれてないからだろうし」
まぁそうすぐにはむつかしいだろうけど、と十代は少し口の端をあげた。「でも、あんな中途半端な結界ベランダに張りつけてなくても、お前けっこう凄いんだって。ちょっとは自覚しとけよ」
「……う、うん」
そこまで言われると、ともかく頷かないわけにいかない。おずおずと首肯した藤原に、十代は「だいじょうぶかよ」と苦笑していた。
内にあるものを閉じ込めてしまうのなら、いっそ自ら利用してしまえば良いのだと、おそらく彼はそう言いたいのだろう。そもそも藤原がダークネスに求めたのは力であったし、それは結果として歪みを生み藤原自身を飲みこんだけれど、この身に染みついたままのその名残が同様に歪んでいるとは限らない。
自分次第なのだろう。たぶん、十代がそうであるように。
いまだ肉体に絡んだままのダークネスの残滓は、藤原にとって自分自身のしたことを忘れないように刻まれた罰のようなものだった。そう大層なものではない。ただ、忘れたくないと願ったのだから、都合の悪いことだけを忘却することは許されないのだと、そんなふうに訴えるために残された過去の証明。それを受け入れるのは当然のことだったし、自分なりに覚悟を持って向き合ってゆくつもりだった。
けれど、そんな考え方もあるのか。
内側で向き合うだけでなく、外に向けてともに生きるという選択肢も、残されているのか。
藤原はそっと息を吸い、それをゆっくりと吐き出してから、十代の差し出す紙束に手を伸ばした。受け取ってみると思った以上に重量がある。両手で抱え直してから、慎重な手付きで表紙をめくった。
記号と記述と魔術の羅列。
立ち並ぶそれらは非日常を映じさせ、渦を巻くように真っ直ぐ列をなしている。懐かしささえ感じるそれらに藤原はじいと目を通し、ページを繰りながら眉を寄せた。
そのようすを黙って眺める、十代に問う。
「いったい今度はなにに首を突っ込んでるわけ?」
彼はその言葉に何故かすこし意外そうな顔を見せて、それから悩むみたいに首をひねった。「んー、話すと長くなるんだけど、そんな話せるほど俺も現状をよくわかってない」
「のんきだなぁ……」呆れたように言いながら、最初の数ページに目を通し終え、藤原は紙を捲る速度を速めた。述べられた内容ではなく記された文字だけを追って、丁寧に着々と、裏表紙にまで到達する。
全景を把握し、藤原は息をついた。
「見覚えはないけど、読み覚えはある」
「! 本当か?」
「うん、写本だったんだろうね。こんなふうにしっかり束ねられてなくてもっと粗雑だったけど、たしかに昔読んだことがある」
昔、というのはつまり、歴史の表層には決して現れないたぐいのデュエル研究に藤原が埋没していたころだ。手当たり次第にかき集めた資料の中にはダークネスに直接関わりのないものも多く、その中にこれとまったく同じものがあった。
「抜けてるページがあるはずなんだ」
「うん、最初の一ページと、あと途中の十二ページがごっそりなくなってる。俺が読んだのとはところどころ表記も違うな」
「おおぉ……」
十代は感嘆し、見るからに興奮した面持ちで藤原の手元を覗きこむ。本を開き、ここからここまでが抜けているのだと示してやると、なるほどとふむふむ頷いた。
「で、お前が昔読んだっていうやつは、いまどこに?」
その問いかけには少なからず期待が含まれていたけれど、それを発してすぐに藤原の浮かべた表情を見て、十代は同じく閉口した。
「……ごめん。あのころのものって、ほとんど俺の手元には残ってないから……」
「ああ、だよなぁ。そういやお前、死んだことになってたんだよなぁ……」
ダークネスとひとつになるための儀式に没頭した藤原は、当時自身の持ちもののほぼ全てを不要なものだと判断し、処分していた。十代はおそらく、遺品として処理されたものだと思ったのだろうけれどそれは違う。藤原が自分で決め、自分の手で捨てたのだ。蒐集した魔術資料はもちろん、積み重ねたデュエル研究も。
ずっと自分を支えてくれていたカードも、大切な人たちの映った写真もすべて。
藤原がもう一度「ごめん」と言うと、十代は「いいって」と苦笑した。彼は落胆したさまを隠さなかったが、しかしそれを引きずることはせず、ぐいと背伸びをしてみせた。「写本が存在してたってことは、それを写したやつがどこかにいるってことだもんな。まだ修復の余地があるってことがわかっただけで良しとするか」
悪かったな、と彼は言って、その歪みを抱えた書物を藤原の手から受け取った。ひょいと片手で持つ仕草はひどく軽快で、その重みなど欠片も感じていないように見える。藤原はその姿をぼんやりと眺め、それから、彼の言った言葉を反芻した。
「……修復?」
「ん? ああ、抜けてるとこ埋めてやんなきゃいけないらしくてさ。無茶苦茶だよなぁ。そもそもどこがどう足りないのかもわかんなかったわけだし」
言いながら、十代は再びトランクを開けて本をポイと放り込み、少し笑って藤原を振り返った。「そういう意味でも助かった。わざわざアカデミアまで来た甲斐あったぜ」
彼はそう告げてから、しかしふと藤原の表情を見て動きを止めた。修復、と再び藤原は言う。口元に手を当て、考えるふうに目を伏せると、「修復というのはつまり、元々の記述がわかればいい、ということ?」とつぶやいた。「それなら俺、覚えてるけど」
「覚えてる、って……。え、全部?」
藤原はこくりと頷く。全部だ。
机の上に置いていたノートを開き、ペンを取る。抜け落ちた最初の一ページを頭のなかに開き、それを白い紙の上に刻んでいった。先ほどまでは確かに日常の一部としての学問的な数式ばかりが描かれていたはずのその隣に、あっという間に非日常を宿した魔術的な数式が書きくわえられてゆく。
カリカリと神経質な音さえ奏でながら、藤原は無言でそれを記し続け、そしてぴたりと動きを止めた。半ば呆然としている十代に、魔術で埋めたノートを指し示す。「これが最初のページ」
「…………」
「修復っていうか、コピーだけど。こんな感じで良ければなんとかなると思う」
どうかな、と窺うと、しかし十代はノートを覗きこみ、続けて藤原の顔をじっと見つめ、「いやいや」と言った。
「あ、やっぱりだめ?」
「いやそうじゃなくて! なんだよ、お前めちゃくちゃ記憶力いいんじゃん!」
「そうかな。うーん、昔からこういうのは得意で、だから、普通だと思うけど」
「これが普通かよ……」
十代はずらりと書き並べられた字列にじっくりと目を通し、はー、と感心したふうに息をついた。「自覚しろとは言ったけど、いや、でもこういうこと出来るからダークネスとか関わって来たのか? 才能?」
ぶつぶつとなにか繰り返しながら、十代は再びトランクから本を取りだしてそれを開いた。何度かノートと見比べる。
「これってどのくらい正確な自信ある?」
「自信って言われると困るけど。んん、でもたぶん、ほとんど合ってるはず」
魔術は吸いこむものだから、と藤原は言う。学び蓄えるだけでなく肉体そのものに宿すものだから、この身に大きな欠損ができない限りはおそらく、一度得た知識はずっと共通している。
あいまいで胡散臭い言葉だ。魔術だの呪術だのといった単語を胡乱な目でしか見られない者なら、それこそ失笑を買うのに違いない。けれど藤原はその世界の裏側に位置する手法によってこの世との別離を果たしたし、その結果がいまの自分を形成している。
「残り十二ページを復元するのにはどのくらいかかりそうだ?」
「急ぐんだよね」
「ああ、早い方がいい」
藤原は少し考え、結局、二時間、と言った。二時間あれば、ほぼ完璧に記憶を紙面に写しだせる。逆に二時間以内では難しい、ギリギリのラインだ。
言うと、十代はなんとなく苦笑いに近いような笑みを浮かべてみせた。
「そこまで急がなくて良いって。そうだな、夜明けまでになんとかしてくれると助かる。俺もまだ島に用事があるから、出発までに頼む」
「あ、うん。わかった」陽が昇るまではまだ随分ある。「……うん、それだけあれば充分」
「とんでもないなお前」と十代は笑った。ついで思い出したように、
「ああそういや、俺がこういうの頼んだこと、カイザーや吹雪さんには内緒な」
そう付け足した。予想外の名が出てきたことで、藤原は首をかしげる。「なんで?」
「だってあの辺、なんだかんだでお前に甘いんだもん。俺怒られるの嫌だし」
ごく真面目なようすでそんなことを言う。その表情がおかしくて、藤原は少し笑った。そうかなと言うと、そうだよとやはり真顔で十代は返した。「なんか、初孫かわいがるじいさんばあさんみたいな感じ」
「なに、その変なたとえ」
「とにかく内緒。ぜったいな? もうすでにひとり怒らせてるんだから、これ以上睨まれたくないんだよ」
ひとり、というのは、先ほどからずっと藤原の背後に控えているオネストのことだ。彼はとくに口を挟むような真似はしなかったけれど、その代わりというふうに、じいと剣呑な視線を十代に送り続けていた。睨めつけるというほど強い感情を浮かべてはいないものの、ひどく不服そうであることに変わりはない。彼は十代の言葉を受け、藤原の少しばかり非難めいた、困ったような視線を受け、言いわけをするように口を開いた。
「十代、僕は怒っているわけじゃない。睨んでいるつもりだってない。ただ、マスターの身に負荷のかかるようなものを持ちこんでほしくないだけだ」
「悪かったって。でも良いだろ、無理強いしたわけじゃないし、本人が出来るって言ってんだから」
「マスターは明日も授業がある。本当ならとっくに就寝していておかしくないんだ。それを……」
「はいはい」十代は片手をぱたぱたと振り、いかにももう聞き飽きたというふうにオネストの言葉を遮った。「大丈夫だって。本のほうは俺がちゃんと持ってくし、お前らに実害が出たときは出たときで、まぁ、どうにかするから。平気平気」
「十代のことは信頼している。けれど、実害が出てからでは遅いんだ」
妙に息のあった掛け合いに挟まれ、藤原は苦笑いを浮かべる。オネストが自分以外の人間と会話をしていることが不思議で、けれど決して場違いでなく、自然とここに立っていられることが嬉しかった。
「オネスト、俺はだいじょうぶだから。授業にもちゃんと出るし、少しだけ見逃して」
「ですがマスター……」
十代には借りがある。それも、とても返しきられないような大きな借りだ。それが少しでも、ほんとうに少しずつでも返済できるのなら、自分はそのチャンスを拒むべきではない。
言外に伝えた気持ちを、オネストはすんなりと汲み取り、それでも渋った表情を緩めなかった。十代への恩義と藤原への忠誠と、それらを同じ側の秤に乗せてなお重きを置くのは、藤原の身に残るダークネスの影響への配慮であるようだった。それはそれでありがたいのだけれど、こうも堂々と示されるとさすがに気恥ずかしい。
「いくら十代の頼みでも、僕が最優先すべきなのはマスターの身の安全だ」
そうかたくなに言い張るオネストは、だからといって、十代からの依頼そのものを力づくで蹴るようなつもりはさすがにないらしい。あくまで表情と言語で不平を訴える彼に、けれど、それすらも気に入らないといったふうに苛立った声が唐突に降った。
「ああ、もう、マスターマスターうるさいったら!」と、ヒステリックとも取れるようなトーンで放ち、十代の背後に浮かびあがった影が言った。「ボクの十代に文句つけようなんて、なにさまのつもりだい?」
夜の窓を背に降り立った闇色の精霊。さも今までずっとその場にいたかのように、ユべルは腕を組んだ姿勢で屹然とオネストを睨みつけていた。
「オネスト、お前はあれだけ十代の世話になっておいて、ようやく出ていったと思ったら今度は邪魔をする気かい。ねぇ十代、だから言ったろう? こんな奴の面倒見てやる必要はないって」
「勘違いしないでくれ、ユべル。僕は間違ったってきみたちの邪魔をするつもりなんてない。ただ、僕が仕えるのは十代じゃなくマスターだ。マスターの身に危険が及ぶようなら、僕にはそれらすべてを排除する責務がある」
口々に交わされる精霊同士の応酬に、藤原は思わず目を丸めて彼らの姿を交互に眺めた。十代が、マスターが、と繰り返すふたりはそれぞれの主人そっちのけで、議論とも口喧嘩ともつかないような会話を矢継ぎ早に繰り返している。
「ちょ、ちょっとオネスト……」
「ほっとけほっとけ、殺傷沙汰にはならないから」同じように間に挟まれているはずの十代は、しかし馴れた調子でそんなことを言う。「オネストが俺の中にいたころは毎日こんな感じだったし、これでこいつらけっこう仲良いんだぜ?」
「え、あ、そうなんだ?」
言われてみると、テンポよく交わされる口論はまるで台本でも用意されているかのようだ。なんとなく納得した藤原に、しかし当の精霊たちは実に心外であるというふうに眉をひそませた。十代、マスター、と咎めるような声でそれぞれの主の名を呼ぶと、そうやって言葉が被ったことさえ気に入らないような表情を浮かべて睨みあう。いっそ忌々しいとさえ言いだしそうなほどにハッキリ不機嫌なユべルと、そう強い感情を浮かべることなく淡白な視線を送るオネストとの対峙は、やはり藤原から見るとそう仲良しというふうには思えなかった。
けれど、十代がそう言うのだから、わりあい仲の良い瞬間というのもあるのだろう。
オネストにも友だちが出来たのなら、それは良いことだなぁ。ぼんやりそんなことを思っていると、精霊たちの会話の途切れた合間を繕うようなタイミングで「そろそろ行くぞ」と十代が言った。ユべルの返答を待つことはせず荷物を持ち、来たときと同じようにベランダへと向かう。
もう行ってしまうのかと藤原は少し意外に思ったが、そういえば彼はまだ島に用事があると言っていたのだ。少しでも休んで行かなくていいのかと訊ねると、十代は「やめとく」とあっさり言った。「いま座ったら、そのまま三年くらい寝ちまいそうだし」
巨大なトランクを足元に引きずり、十代は、「じゃ、また明け方に」と軽く笑って告げた。当然のようにベランダの窓から出てゆく後ろ姿を、やはり当然のように眺め、藤原は静かに感嘆した。なんというべきか、その背にかける言葉を見つけきれず、ただ心に降って湧いた感情をそのまま口にする。
「……かっこいいなぁ」
「当たり前だろう、なにを言っているんだい今さら」
思わず漏らした独り言に間髪入れず口を挟まれ、藤原はぎょっとしてユべルを見た。十代に従い、とうに部屋から出て行ったものだと思っていた精霊は、けれどふわふわと宙に浮いたまま、今度はオネストでなく藤原のほうをじいと見やっていた。なぜここに残っているんだろう、そう思うと、次の瞬間にはすいとこちらに近づいてくる。
随分な至近距離で見つめられ、藤原はたじろいだ。特別恐ろしいわけではないが、人であろうと精霊であろうと、急速に距離を縮められれば動揺もするというもの。けれどとうのユべルは距離感など気にとめたようすもなく、じろじろと無遠慮に藤原の全身を眺めまわしてから、フンと鼻をならして言った。
「十代はああ言ったけれど、藤原優介、キミの持つ闇の力の配合なんて、そう大したものじゃない。ちょっと十代に褒められたからって調子に乗らないことだね」
「は、はぁ……」
別に褒められたとも思っていないし、調子に乗ったつもりもないのだが、この精霊の目にはそういうふうに映ったらしい。よくわからない警告に、藤原はともかく素直に頷いたが、ユべルはそんな半端な返答などどうでもいいといわんばかりに言葉を続けた。
「十代はキミのこと信用してるみたいだし、場違いな恩義も感じてるみたいだけど、だからってキミが十代から受けた借りが変化するわけじゃないことを忘れるんじゃないよ。いま少し厄介なことに巻き込まれてるんだ。怖気づいて途中で逃げ出したりしたら許さないからね」
そんなふうに釘をさす。藤原は向けられた鋭い視線と、その発言の意味を思うと少しばかり寒気を覚える気さえしたが、しかし仕方ない。十代が持ち込んだものがとんでもない厄介事だったとしても、引き受けた限りのことはきちんとやり遂げて当然だ。
「だいじょうぶ、心配しなくても逃げたりはしない。十代のために全力をつくすよ」
きちんと声にして言うと、しかしとうのユべルは「どうだか」と謂わんばかりの視線を返す。藤原は自身の認識のされようを少しばかり残念に思った。まぁ、そう良い印象を持たれていないことは、仕方ないといえば仕方ないのだろう。
そんなことより、十代の感じているらしい場違いな恩義とやらのほうが気になった。オネストがまたユべルに噛みつくより先に藤原が問うと、ユべルはなにを今さら、というふうに顔をしかめた。
「そんなこともわからないのかい? キミの、……厳密にはキミではなくダークネスの、あの一件がなければ、十代は今日みたいに自然にこの学園に足を運んでくることは二度となかったろう。ただそれだけのことさ」
そう言って、ユべルはふと藤原から離れた。まだ夜の闇に包まれたままの、窓のそとを見やる。「……ボクにはどうでもいいけど、十代にとっては、大きなことらしいから」
だからってキミに恩を感じるのは、やっぱり場違いなことだと思うけどね。
ユべルは付け足すように呟くと、唐突なタイミングで姿を消した。まるで最初からそこになにもなかったかのように空気に溶け、名残りもなにもなく消失する。どうやら本当に、藤原に釘を刺すためだけに残ったらしい。気がすんだとばかりに失せた気まぐれな精霊の行動に、さして驚くこともなくそれを眺め、藤原はううんと小さく唸った。
「うん、俺もそれは、場違いだと思うなぁ……」
誰にともなく呟く。藤原はユべルがそうしたように十代の出て行ったベランダの窓を眺め、そして思い出したかのように破顔した。遊城十代という人は、どうやら藤原が思っていた以上に、人間的な面も持っているらしい。そうだ、なぜだか忘れがちだが、彼は自分よりいくらか年下でさえあるのだ。
そんな分りきったことを今さら考え、藤原は、夜明けとともに彼がもう一度来たとき、今度はお茶の一杯くらい用意しておこうと思う。座れば眠ってしまいそうだと言うのなら、立ったままでも押し付けてしまおう。十代にとってデュエルアカデミアは、そういう場所でなくてはならないはずだ。
そのためにはまず、やらなければならないことを終わらせないと。藤原は気を取り直し、机へと向かった。オネストのようすを窺うと、彼は相変わらずぴりぴりと油断ならない気配をまとっていたけれど、なにか言葉を挟むつもりはないようだった。代わりに、
「マスターは、僕が必ず護ります」
決意を新たにするかのように、そう断言した。
この頼もしい一言があれば、ユべルの言うよう、いま目の前にあるのがどうしようもなく厄介なものごとだとしても、恐れて逃げ出すような必要はないなと、藤原は思った。
ノートを開く。それらにめいっぱい刻まれた日常は、いまから自分が書きうつす非日常に、けれど、決して埋もれることはない。すぐ隣にあるのだ。この身体の過ごす普通の生活と、それらに少しだけ入り混じった普通ではない生活は、どちらかに大きく偏ることなく、常に隣り合って藤原自身を作っている。
たぶん、十代にとってもそれは同じ。
記憶することを、記憶されることを、あんなにも懼れた夜があったことを、藤原はきちんと覚えている。記憶して、刻んで、いまこうしてその日々に培ったものを記すことを求められているなんて、ひどく不思議な気分だった。
「徹夜なんて久しぶりだなぁ」と、藤原はゆるやかにつぶやいて、そうして再びペンを手にした。
夜が明けたら
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