優介が現われてから、二週間が経っていた。
吹雪は相変わらずデュエルリーグはもちろんテレビだ雑誌だといそがしく仕事に出ていたし、俺は俺で企業団体から請け負ったデュエルモンスターズに関する歴史学的な資料の作成やら、そのつながりで得た人脈とのビジネスコネクションの生成なんかに慌ただしくて、彼との生活はそういったごたごたに巻き込まれることで有耶無耶にまとまりを保っていた。
優介は決して外に出ることなく、まるでなにかから隠れるようにソファに蹲って、煌々とした部屋の中でただ黙ってすごしていた。ときどき俺の部屋にやってきては、勝手にベッドに転がって雑誌をめくりはじめたり、俺の仕事のようすをつまらなそうに眺めたりして、それに飽きたみたいにふらりと出て行ったかと思うとキッチンからなにか炒めるような音が聞こえてくる。吹雪が家にいるときは、関わってくる彼から逃げるみたいに距離を置いては、ときどき口論とも問答とも呼べないような途切れ途切れの言葉を交わした。
朝は俺の目覚める時間に起きて、夜は俺の寝るのと同時に眠る。彼の生活は気まぐれだけれどワンパターンで、その退屈そうな日々を、俺は容認して黙って見つめている。俺も吹雪も出かけてしまう日には彼に留守を任せることもあった。くれぐれも注意するようにと子どもを相手にするように告げると、彼はなぜか意外そうに目を丸めてから、顔を歪めてせせら笑った。自嘲するみたいに。
「俺がいてもいなくても、どうせこの家に大きな変化なんてないだろう?」
そんなことはない、と言葉にすることのできない俺の代わりに、オネストが優しく笑って優介のそばにいてくれた。オネストが俺から離れて家に残るのは珍しいことだったけれど、厳密にはきちんと寄り添っていてくれているのだと思えば違和もない。オネストは優介になにか言うことをしなかったし、俺に対しても、優介についてなにか口を挟むことはなかった。不安に思うことなんてなにもないというふうに、オネストは始終穏やかなようすで俺たちのそばにいる。俺はそれが嬉しかったから、たぶん、優介にしても同じなのだろう。優介はオネストにだって話しかけることはなかったけれど、常に傍らに存在する彼を邪険に扱うことも一切しなかった。
そうやって静かに存在している優介に、吹雪はやっぱりなにかと近づいては落ち込むことを繰り返していた。彼は優介に対して好意を隠さず晒し出し、愚直な道化でも演じるように常に笑んでその名を呼んだ。優介は苛立ったようすでそれを聞き流す。
ただ日常的にそれを繰り返して、おそらくもう彼らのやりとりに進展も意味もないのではないだろうかと俺が感じはじめたころ、吹雪が告げた。
「藤原、つぎの金曜日ってなにか用事がある? 忙しい? もしなにもないんだったら、ちょっと遊びに出ようよ。一日休めそうなんだ」
吹雪が丸一日休暇を取れるのは珍しくて、だから、それならゆっくりと家で休養すればいいはずなのに、彼はそういう突然のオフにはなにかと外出したがった。サプライズの休日には特別なことをしなくちゃいけないと、吹雪は胸を張って言う。名前も知らない水族館のチケットを三枚とりだして、彼は優介を振り返った。「きみも行くだろう?」
「行かない」
「どうして?」
「行きたくないから」
にべもなくそう切り返して、優介はいつものソファに座ったまま膝を抱えた。吹雪はそのそばまで寄っていって、行こうよ、と言った。「きっとたのしいよ。家にこもってばかりじゃ身体に悪いよ」
優介はしばらく無視を決め込んで、光りを放射し映像を垂れ流すテレビモニターをじいと睨みつけていたけれど、ふいに顔を上げて吹雪を見つめたかと思うとひんやりと口の端を上げた。やめておいたほうがいい、と言う。「俺の存在がわけのわからない現象によって成り立ってることくらいわかってるだろう? 下手に出歩いて、そのせいで見つかったりしたら、なにより困るのはお前の大事なそっちの優介だ」
そう言って俺のほうをちらりと見やる。優介は嘲笑とも渋面とも取れるような感情を見せながら、丸まっていた手脚をぐいと伸ばした。彼が視線から外したテレビ番組だけが喧しく色を映していて、俺はその光景をなんともなしに眺める。吹雪は優介を見おろしていたけれど、俺のほうからその表情は見えない。
「――見つかるって、だれに?」
別段震えることも、硬くなることもない、実直な声だった。問いかけに、優介は挑発するようにほんの少しだけ吹雪へと顔を近づけて、そうして言った。
「ダークネス」
優介の口からその単語が出たのははじめてのことで、俺は少しだけ戸惑う。彼は反応を窺うみたいに吹雪の顔をじいと見つめて目を逸らさずにいたけれど、やがて不快そうに眉根を寄せて再びテレビへと向き合ってしまった。
その態度になにか思うようすもなく、ただ静かに、だいじょうぶ、と吹雪は言った。「僕は二度ときみを失わない」
それを告げた瞬間に優介が動いた。彼は手元にあったテレビのリモコンを素早く掴むと、吹雪に向けて力任せに叩きつけた。過剰なまでに音を立ててそれは吹雪の左肩のあたりに衝突し、そのまま床へと落下してもう一度派手な音を響かせた。
優介は憎悪に顔を歪ませて、肩を震わせながらその衝動を抑え込むようにゆっくりと呼吸する。その表情が次第に泣きだしそうに思えたから、俺は見ていられなくなって吹雪に駆け寄った。リモコンを拾い上げながら、吹雪は平気だよと言って苦笑した。
再びソファに丸まってしまった優介は、けれどもうテレビなんて見ていなくて、俯いて顔を隠してしまっている。その手元にもう一度リモコンを置いてやってから、吹雪は彼に「行こうね」と言った。「金曜日。心配しなくたって大丈夫だよ、絶対にたのしいから」
優介は返事をしなかった。
洋服越しだったのにもかかわらず吹雪の肩は仄かに赤くなってしまっていて、彼の部屋でそれを見た俺は、慌ててタオルを濡らしてきて少し熱を持った患部を冷やしてやる。そうやって浮かびあがった赤みを目の当たりにすると、優介の激昂をじかに感じて恐怖を覚えた。顔じゃなくて良かったよ、と吹雪は呑気にそんなことを言うけれど、彼の手元にあったのがもしテレビのリモコンなんて軽いものじゃなくて、それこそもっと鋭利な刃物であったり鈍器であったりしたらと思うとゾッとした。
「いや、いくらあの子でもさすがにそんな危ないものは投げないと思うよ」
「……そんなことない」
「そうなの?」
俺は頷く。あのころ、と言う。ダークネスの研究に埋没して周囲が見えなくなっていたころ。「俺、何度か吹雪のこと、殺してやりたいって思った」
「…………」
「……ごめん」
けれど、どうしようもなく衝動的な感情に身を包まれることが、たしかにあったのだ。その憎悪は吹雪にばかり向けられるものではなかったけれど、ただ、あのころから彼は俺のすぐそばにいて、ゆっくりと闇に呑まれることを望んでいた俺には、与えられる言葉のひとつひとつが眩すぎた。
衝撃の告白だなぁ、と苦笑する吹雪に、もう一度ごめんとつぶやく。彼はゆるゆると首を振って、リビングのほうへと視線をやった。明りの落ちたあの部屋のソファの上で優介は眠っている。
「あのころ僕は本当に、きみのことをなにも理解してなかった」闇に包まれて夢を見る、優介の姿を思うみたいに目を細めて、吹雪は言った。
俺を救うことが出来なかったこと、その後悔はまだ、彼の心に巣くってじんわりと闇を広げているのだろうか。
吹雪は俺の髪を梳いて頬に触れて、それからふと思いついたみたいに、「でも僕はやっぱり、あの子が僕を本当に傷つけるようなことをするとは思えないな」と言った。そうかな、と返した俺に、そうだよ、と彼は微笑んだ。「きみは僕を傷つけたことなんてないじゃないか」
そう言う吹雪は、でもやっぱり少し苦しそうで、打身でほんのり赤らんだ彼の肩を見つめながら俺はもう一度ごめんと口にした。吹雪は平気だと言ったけれど、それはきっと彼の強がりだ。きみのことをなにも理解していなかったと、そう懺悔する吹雪の言葉は、きっと俺のほうこそが負うべきなのだから。
彼の優しさに甘えて、その手が躊躇いなく伸ばされることを知っていながら拒絶した。それでも吹雪は決して傷つかないものだと、どうして俺はそんなふうに思えたんだろう。
好きだよと吹雪が言う。
それに言葉を返すのと同じように、あのとき「行くな」と言ってくれた彼にも応えられれば良かったのに。
* * *
金曜日。
髪を束ねて眼鏡をかけて帽子まで被った吹雪は、けれどどこからどう見ても天上院吹雪で、それなのにプライベートでの出先でファンの子たちに見つかることは滅多になかった。学生時代から隠れることに手慣れた彼は、卒業してからいよいよその遁走スキルに磨きをかけたらしく、趣味と実用をギリギリで行き来するようなコスプレめいた変装をどうやら楽しんでいるらしかった。「今日のテーマは『国民的アイドル、初のドキドキおしのびデート』だよ!」と、実に捻りのない発想を閃かせながら、朝から上機嫌で外出のための準備に余念がない。
優介は相変わらず俺の服を適当に着ていて、吹雪がこっちのシャツを着てほしいだのあっちのパンツはどうだだのと話しかけてくるのを煩わしげに追い払っていた。あの日吹雪にリモコンを叩きつけてから、優介の態度はどことなく軟化していて、責めることも詰ることもしない吹雪を相手に彼は戸惑っているように見えた。数十分の抗争のすえに結局優介が根負けして、吹雪のコーディネイトに従って着替えはじめるのを、俺は他人事のように眺めている。
予定時間を大幅に遅れて、俺たちは家を出た。春先のまだ冷たさを含んだ風がマンションの合間を吹き抜けてゆくのを後目に、吹雪の運転する車に乗り込んで走り出す。後部座席に優介とふたりで並んで座ると、バックミラーに映った姿が相対的でなんだか面白かった。優介はなぜか俺のほうにべったりと寄り添ってきていて、無言で俺の手を握ったり脚に触れたり、肩口に頬をすりよせたりしてくる。
「どうしたの? 具合悪い?」
「ん……」
平気、と優介はちいさな声で言った。ここでいつもみたいに「頭が痛い」とか「気分が悪い」とか口にしてしまえば、吹雪はきっとすぐさまUターンしてマンションへ戻るだろうに、彼はおそらく気付いていてそうしない。だからといって水族館が楽しみで仕方なく無理をしているふうにも見えなかったので、たぶん単純に、なにかに寄りかかりたい気分だったのだろう。夜、ときどき俺のベッドに入り込んでくるのと同じように、なにかに触れていないと落ち着かないような、そんな不安定な心情なのだろう。その感覚はもちろん、俺自身にも覚えのあるものだ。
吹雪はそんな優介のようすを心配そうに窺っていた。彼はいつものように優介にやたらと話しかけるような真似はしないでひたすらに運転に集中していて、いつもよりいっそう丁寧に静かに走る車のなかで、俺と優介はお互いにもたれ合いながら時々小さな声で言葉をかわした。このあたりの景色はあまり知らないとか、あとどのくらいで到着するのかとか、吹雪の選んだ洋服の着心地だとか、天気が良くてよかったとか、水族館に天気は関係ないとか、そういうつまらない話をゆっくりとした。
車は一時間弱走り続けて、それでようやく目的の場所に着いたころにはお昼をすぎていた。先に食事にしようかと吹雪が言って、目についたレストランに入る。
じっくりとメニューを見つめる優介を楽しげに眺めながら、家の冷蔵庫は空っぽになると困るけれど、レストランの食材が切れることはそうないだろうから安心して頼んでいいよと吹雪は笑った。なんとも頼もしい発言だなと感心する俺に、けれど彼はこっそりと言う。
「あの子は家でもいつもいっぱい食べるけれど、あれってなにか、栄養をとらないといけない理由でもあるのかな」
優介の存在がどういった形で成されているものなのか、俺も吹雪ももちろんわかっていない。日食の影響であるのは間違いないのだろうけれど、それがいったいどんな力を及ぼして、あるいは、どんな力を借りて、彼を作り上げているのだろう。優介がなにかと食料を摂取したがるのはその存在を保つためだと、吹雪はそう考えているようだった。
時間をかけたのにも関わらず、優介は結局なにも注文することなくメニューを閉じた。食欲がないと言った彼は、吹雪が勝手に頼んだクリームソーダのアイスを何度かスプーンでつついて、ほんの少しだけ口に運んだ。
聞いたことのない名前を掲げた水族館はやっぱり大した規模ではなくて、それでもゆっくりと見て回ればそれなりに楽しめる程度には充実していた。全館に於いて証明の絞られた薄暗い内部に、俺たち以外利用客の姿はほとんどない。どうしてもっと有名な大きい施設を選ばなかったのだろうかと思ったけれど、なるほど、たしかにこれくらい静かなほうが趣もあるというものだろう。そう解釈した俺に、吹雪はけれど、「この水族館はまだ来たことがなかったからね」と単純に答えた。「いやぁ、まさかイルカがいないとは思わなかったよ」
見たかったなぁイルカのショー、と吹雪は実に残念そうにぼやく。イルカショーどころかそれらしい催しもの自体とくに行われていないみたいだったけれど、ちいさなラッコが気だるげに水面に浮かぶ姿は愛らしく、そういう訓練を受けていない生き物たちの姿をのんびりと眺めるのも楽しいものだ彼は笑った。
ガラス張りの海の中を、吹雪と優介といっしょにゆっくり歩く。設備の関係か、小さな生き物のほうが多く細かに展示されていて、その名前や特性のひとつひとつを読んでいると時間はあっけなく経っていった。蛍光に光るイソギンチャクや何種類もの小さなエビの仲間や、海のなかよりはるかに狭いはずの水槽のなかを悠々と泳ぐ無数の魚たちを眺めながら時間をすごす。優介はとくになにも言わず、興味も関心も示したようすはなくただ俺たちのあとをついてきていた。
こうやって吹雪とどこかへ出かけるたびに、俺は、ずっとこうしていられればと考える。
彼とすごす時間はほんとうにゆっくりで、それはきっと、忙しないわりにどこか間の抜けた吹雪の持つ人格のせいなのだろうけれど、その緩慢に流れる一瞬一瞬は昔から信じられないくらい楽しいものだ。けれど楽しい時間というのはあっという間にすぎてしまって、だからこそ、その緩やかさが素早く消え去る矛盾に俺はいつも寂しくなる。
どうしたって時間はすぎる。
時の流れてゆくこと、人の記憶の移ろいゆくこと。それらを恐れた夜さえとうに過ぎ去って、けれど、まだこんなふうに寂しさを覚える俺は、きっと本質的にはなにも変わっていないのだろう。
そう大きくないこの水族館の最大の目玉である水槽のトンネルを歩きながら、行き交う魚たちを見上げて自然と思う。この道に終わりがなければいい。出口なんて消えてしまえばいい。
だって、外に出ればダークネスに見つかると、優介はそう言ったのだ。
それがどういう意味合いをもった言葉なのか、事実なのかその場限りの虚言なのか、俺には判断することができなかったけれど、どちらにせよそれが彼の抱える不安で、だからあのとき優介は吹雪の言葉にあんなにも取り乱したのだろう。容易く差し向けられた希望の言葉に、縋りつくことも出来ず衝動的に拒絶を示したのだろう。
だとすれば、あの深く悲しい闇の気配はすでに優介の姿を捉えていて、いまこの瞬間にも俺たちのことをどこかで見つめているのだろうか。そう考えると、途端に首のまわりを冷たい手に締め付けられるような錯覚に襲われた。心臓が嫌な調子で軋みをあげる。
ひそかに身を震わせると、そのようすに気付いたか、優介がさりげなく俺の顔を覗きこんだ。海のトンネルは薄暗く、ただ静かに水中をすり抜ける柔らかな光が俺たちを包み込んでいた。深い海を模した空間は美しくて、心地よくて、この深閑とした場所で彼のふたつの目に見つめられるとなぜか懐かしいような気分になる。
優介はそっと口を開き、すべてはひとつに戻るだけだ、と告げた。
「だから、だいじょうぶ。お前が不安に思うことなんてひとつもない」
目を逸らすことなく低くつぶやく、それは決して優しい言葉ではなかった。俺を安心させるために放たれた言葉では、決してなかった。ただ優介が、彼自身が、言いわけや逃げ道を探すためだけに、自分自身に言って聞かせただけ。ダークネスに捕らわれることを恐れるなと、そう告げただけだった。
恐れてなどいない。ただ悲しかった。《帰りたい》と、《こんな未来はいらない》と言った優介は、もう一度あの暗闇に身を委ねることを受け入れている。吹雪の差し伸べる手を拒絶して、安穏とすごすことも、自身を保つことさえも諦めて。
抗うことをやめて、享受しはじめていた。
俺にはそれが悲しい。それを止められないことが悲しい。俺は過去の自分がそれを受け入れることを知っていたし、だれに縋ることもしないことだって知っていた。藤原優介は闇に飲まれる。それを自身で望んでいる。
いつの間に近付いていたのか、俺たちから少し離れた場所で優雅に泳ぐマンボウを追いかけていたはずの吹雪が、軽い足取りで寄ってきたかと思うと「このトンネルを出たら帰ろうか」と言った。
俺は頷く。となりに並んだ吹雪の右手にすこし触れると、彼は頬を緩めて俺の手を握った。そうして反対の手で、優介の手を取る。吹雪はいつだって両の手をいっぱいにして俺を支えようとしてくれる。
けれどそのまっすぐなぬくもりさえ、優介は受け入れることを選ばなかった。ゆるく繋がれた手のひらを投げ捨てるみたいに拒絶して、あっという間に彼はそっぽを向いてしまう。すこしくらい良いじゃないか、と口を尖らせる吹雪を無視して、優介はトンネルの出口に向かってひとりで歩きだした。
優介、と、その背に吹雪が声をかけた。
「建物のまえで写真を撮ろう。クラゲの看板のところで、だれか人に頼んで、三人で撮ってもらおう」
その呼びかけに、彼は足を止めて振り返った。その表情が憤りに包まれた苛烈なものでも、諦念と自虐に覆われた苦しげなものでもなかったことが、俺にはすこし意外に思えた。彼は吹雪の提案そのものが想定外だというふうに、不思議そうに何度か瞬いてから言った。
「……俺の姿って、フィルムに写るものなのか?」
吹雪は首を傾げ、
「そう言われてみれば、どうなんだろうね?」
けろりとそう返した。「写るものだとばかり思っていたけど、そっか、そういう可能性もあるんだ」
あまりに呑気な返答に、優介はあからさまに呆れた顔をして、もう一度背を向けて歩きだしてしまう。俺と吹雪はそれをのんびりと追いかけながら、トンネルを出るころにはどちらからともなく自然と手を離していた。その直前に、吹雪が言う。だいじょうぶ、と。
「僕は二度ときみを失わない。そう決めたから、あの子のことも諦めないよ」
海を描いた建物を抜け出すと、空は夕闇に包まれていた。
時刻はまだ夕方四時近くで、陽が落ちきるのには早すぎる。どこからか這いだしてくる真っ暗な気配に、太陽は潰えて輝きも温もりをも喪失していた。その冷たい静寂に、ともすれば懐かしささえ感じる闇の世界に、俺は足を踏み入れて立ちつくした。
となりに立つ、吹雪を見る。
彼は暗く凪いでゆく空を見上げ、その薄暮が闇に飲まれる瞬間を自ら確かめるように凝視していた。ボリュームを絞るように、ゆっくりと確実に灯りが落ちてゆく。見慣れない海辺の町からは全ての人の気配が消えていた。
この暗がりの名を、俺はよく知っている。自ら望んで引き寄せた非哀の海。吹雪さえ捕えて包裹した、懼れと苦渋を虚無で欺く無明の世界。
優介は、ひとりでそこに立っていた。
聞き覚えのない名を掲げた水族館の、出入口からほんのすこし離れたところ。暗い海に光るクラゲの写真を引き伸ばして貼られた看板の前で、彼はじっと足元を見つめていた。自身を滅ぼすこの闇のなかで、ぽつんとそれを見おろしていた。
彼の足もとには黒い仮面が落ちている。不安を纏った恐怖のすべてを象徴するそれを、優介は押し黙って凝視していた。その視線がふいにあがり、俯いていた彼の表情があらわれてこちらを見た。彼はひどく動揺したようすで、戸惑いを隠すことなく頬を強張らせている。
彼を助けなくてはならない。
縋りつくように向けられたその視線に、俺は応えなくてはならない。自分自身を、自分の過去を、今度こそ誤らないように救い出さなければならない。自らの意思で選びとったその暗澹たる道筋が、けれど決して優しいばかりでなかったことを、悲しみと苦痛に縁取られた偽りの安息だということを、だれより俺自身が理解していた。優介は助けを求めている。その瞳のうちに困惑と希求を宿すかぎり、きっとまだ間に合う。
それを知りながら、けれど俺は一歩を踏み出したきり動けない。彼の抱える孤独と寂莫が誰にもどうすることも出来ないもので、どれほど言葉を尽くしても結局あれは過去のものでしかないことを知っている俺に、どうすることも出来るわけがなった。なにかを言わなければ、なにかをしなければと思うのと同時にそれを無意味だと悟ってしまっているから、俺は彼のもとへ駆け寄りたがっている足を引きとめて、そうしてその孤立する姿から目を逸らした。自分自身を見捨ててしまうことよりも、ただこの足元に広がる寒苦ばかりが恐ろしく呼吸が震える。
は、と吐き捨てるように優介が笑った。
「それでいい。お前は忘れてしまって構わないんだ、優介」
そう言った彼の両目はもう揺れ迷ってはいない。細く歪められた紫色はあっという間に俺を見つめることをやめて、再び足元に落ちた仮面に視線をやったかと思うと、ためらいなく手を伸ばした。あまりに重々しく暗い色を放つそれを片手で拾い上げる、優介の仕草は優雅とも言えるほどだった。彼は空虚にほほえんで、それから、もう二度と俺のことを見なかった。
空がいっそう薄暗く疼く。俺は呼吸を止めてその夜の訪れを見つめている。ぴんと糸の張ったような無音の世界に、けれど、吹雪の声が響くことを知っているから、黙ってそれに耳をすませる。
だめだよ、と、ほんの少しだけとがった声で言って、吹雪は俺の肩のあたりに軽く触れた。「それはきみの本当の願いじゃない」
その言葉を受け取って、それだけで呼吸が楽になる。胸の奥に詰まっていた息を静かに吐きだして、俺は頷いた。忘れてしまいたいわけではない。忘れられたいことなんて、絶対にない。吹雪は一歩ずつその距離をたしかめるみたいに踏みしめて優介に近づいて、俺の過去に近付いて、そうしていつかみたいに真っ直ぐに、目を逸らすことなくその言葉を叱咤した。
「きみも同じだ。忘れてしまって良いだなんて、そんなバカなことを自分自身に望むんじゃない」
「…………」
「ねえ、優介」
もう彼の目の前にまで歩を進めて、吹雪はそっとその頬に触れた。いっしょに帰ろう、と言った。無感情にそれを眺めていた優介の顔つきが、とたんに悲しみと苛立ちに覆われはじめる。乱暴にその手を振り払って、彼は後ずさった。吹雪から二、三歩距離を取って、「うるさい」と低く喉を詰まらせたみたいにつぶやいた。
「お前もそうだろう、忘れてしまえば良いのに。全部忘れてしまえば、もう闇なんて思い出さなくてすむくせに。わかるんだよ、俺には見えているんだ。お前の後悔も、贖罪への渇望も、全部わかってる」
言いながら、優介はいまにも崩れて蹲ってしまいそうな身体を奮い立たせるようにかぶりを振った。そんなもの、と吐き捨てた。
「そんなもの、いつまでも抱えて苦しむなよ。しあわせなんだろう? しあわせな未来が来るんだろう? だったらさっさと忘れてしまえよ、こんな冷たい闇にいたことも、俺を置き去りにしたことだって、全部忘れてかまわないんだ。俺は自分の意思でお前を拒んだんだから、だからもう、良いんだ」
まくしたてるように言葉を吐きだす優介に、もう一度吹雪の手が触れていた。彼は片手で優介の手をとって、もう一方の手で優介の抱えていた真っ暗な仮面を取り上げると、それをちらりとも見ることなく、ぽいと宙に捨てやった。
もう暗く染まった大気の奥深くに、仮面は容易く吸い込まれて消えた。
「僕はきみを忘れない」
吹雪はただじっと優介を見つめて言った。「絶対に失くさないし、見失わない。僕の望むしあわせな未来にはきみの生きた時間のすべてが必要だし、僕自身の闇も後悔も、決して手放したりしないよ」
そうやって堂々と告げる、揺るぎない彼のその言葉の奥にはたしかに闇が潜んでいる。俺を救えなかったこと、伸ばした手が届かなかったこと、引きとめることも、同じ闇を纏うことさえも許されなかったこと。吹雪はそれらを苦しげに握りしめたままで、痛みを抱えたままで、けれどそのすべてが必要なのだと言った。
俺はそれを、遠いような近いような場所で眺めていた。
吹雪に腕を掴まれて逃げ出せない優介はその表情を自嘲するみたいに悲しげに歪めている。吹雪はバカだ、と、詰るみたいな言葉を、力なく口にした。「忘れてしまえば楽になれるのに」
吹雪はちょっと困ったみたいに微笑して、強く握りしめていた優介の手をそっと離した。
「あの日の僕はきみを救うことが出来なかった。それが悲しくて、悔しくて、ずっと謝りたかったんだ。けど、そんなことじゃ僕の暗闇は晴れないし、きみ自身を救うことだって出来やしないって、いまはもうちゃんと気付いてる」
だから帰ろう、と吹雪は言った。心の闇を映じさせる薄暗い世界のなかで、もう一度俺に向けて言った。
「きみが生きていること、この先をしあわせに生きられること。僕はそれが嬉しいから、きみの記憶のすべてに愛してると言えるよ」
パチン、となにかが弾けるみたいな音がした。
灯りを失いつつあった世界にひどく大きく響いたそれを、俺は驚くことなく受け入れる。痛みなんてない。すべてひとつに戻っただけだから、悲しむ必要も寂しさを覚える必要もない。
霧が晴れるように四散してゆく暗闇の気配を感じながら、俺は吹雪に抱き寄せられていた。とんとんと落ち着いたリズムで自分の心臓が動いている。優介の心臓。
「おかえり」と吹雪が言って、俺はそれに「ただいま」と返す。海辺の町に潮の香りを見つけて、吹雪がこの場所を選んだ理由を知った。海の気配はデュエルアカデミアを思い出させる。
彼がなにものであったのか、この二週間にいったいどんな意味があったのか、あの暗闇は本当にダークネスに準ずるものなのか、わからないことはたくさんあって、けれどそれがおそらく俺の不安から生まれたものなのは間違いない。姿を取り戻した太陽が夕暮れの街を染めるのを視界に捉えて、俺はなんと言うべきか少し迷い、それから「ごめん」と口にした。
吹雪はそれに穏やかに微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
「ありがとう」
* * *
その暗闇は当然のようにどんな気象観測にも見咎められないままで、家に戻っても優介のいた痕跡なんてなにもなくて、彼が着ていたはずの俺の服はクローゼットに仕舞われたままで、けれど水族館の半券はたしかに三枚残っていたから俺たちはその日のうちにそのチケットをアルバムに張りつけることにする。吹雪が撮りたがった写真の代わりだ。その辺のコピー機で簡単に量産してしまえそうな薄っぺらい紙きれを三枚並べてアルバムを閉じて、それからふたりで夕食を作ることにする。
自分がいてもいなくてもこの家に変化はないと、優介はそう言っていたけれど、俺はそれを否定しようとしたけれど、でもそれはたしかにその通りなのだろうなと今さら思った。最初から、彼が存在しようがしまいが俺たちの生活はそう変わらなかったのだ。
けれど吹雪は素直に「ちょっと寂しいな」と言うから、俺もそれに同意して、夜はふたりでひっついて眠った。吹雪の身体は優介よりあったかいから、ちゃんと彼のそばにいられていることを深く感じて俺はちょっと嬉しくて笑う。吹雪もくすくすと笑う。キスもセックスもしないでただ寄り添いあって、お互いの身体とあたたかなベッドに沈むみたいにゆらゆらとまどろんだ。
そうやって目を閉じているあいだに気付くと朝がやってきて、空っぽになった優介のソファには適当に俺や吹雪が座るようになって、あの二週間は本当にいったいなんだったんだろうなぁ、と感じていると、なんの前置きもないタイミングで遊城十代がうちにやって来る。
あの水族館から三日目、月曜日の夕刻。ゆるやかに陰りを見せ始めた街の真ん中になにか赤い姿があるなと思ったらそれが十代で、仕事で出ていた俺はびっくりして足を止める。立ち並ぶビル群にあまりに不釣り合いな彼は異常に目立っていて、けれどその違和をまったくものともしない気易い調子で「よっ」と片手を上げてみせた。「久しぶり、元気?」
どのくらい久しぶりなのかもわからないほど久しく顔を見ていなかったのに、その時間を意識させないくらい、彼の姿も声も人格もあまりに変化がない。十代は旧知の友のように自然に俺のようすを訊ねて自分の近況をあいまいに語り、そのままマンションにまでやって来たのだった。
夕方に帰ると言っていた吹雪はすでに家にいて、帰宅した俺のうしろから十代が顔を出したのに盛大にびっくりしてから、すぐさま携帯電話を取り出した。
「だれにかけるの?」
「もちろん明日香だよ、明日香!」
十代が慌ててそれを阻止するのを苦笑いで見守りながら、俺はお茶の用意をはじめる。彼がここまで来たのにはなにか理由があるはずだと思っていたら、案の定十代はきょろきょろと部屋を見回して、あーあ、と納得したように、けれどどこか残念そうに嘆息した。「やっぱもう全部終わったよな。これでもけっこう急いで来たんだけど、俺の出る幕じゃなかったってことか」
まぁいいや、と簡単に言う十代は、つい先日までどこか名前さえ不明瞭な小さな国を探索していたのだという。詳細まではわからないけれど、日食の影響でこの近辺に妙な磁波が生まれていたのは確からしく、それを気にかけているうちに優介のことを知ったらしかった。精霊の情報網というのは侮りがたく、国境もなにもあったものではないと十代はいやに神妙に語った。
そんなふうに国を越えてまでやって来てくれた十代に心からお礼を言って、この数週間に起きた、どうやら過去が俺から抜け出してしまったらしいその現象について掻い摘んで話す。椅子に腰かけてクッキーをつまみながら、ことの事情を聞き終えた十代は苦笑した。ばかだなぁ、と言う。
「忘れたいから追い出したんじゃなくて、忘れたくないから、目に映る場所に呼んだんだろ?」
いつまでそんな脆弱な感情に囚われているのかと、そう優しく諭すように告げる十代の言葉は、いまなお成長しない俺自身の根源を言い当てるようだった。彼はそれを責めることも嘲ることもしないで、ただそう心配するなというふうに緩く口の端をあげるので、きまり悪さを隠すために俺もちょっと笑う。
十代の言葉をそのまま信じるとすれば、だったら、俺が忘れたくないと望んだのとおんなじに、きっと優介も忘れられたくないから現れたのだろう。ひそかに夢見た幸福な未来に、自身の姿のないことを恐れたのだろう。
俺がそうやってひとりで結論付ける間に、十代は適当に自身の調子や、アカデミアで親しかった友人たちの近況なんかをちらほらと口にして、おしゃべりに飽きたころ夕食にとエビフライを出すと上機嫌でそれを平らげた。
このまま泊まり込んで一カ月くらいうちに滞在してゆくんじゃないかと思えるくらい彼は容易くこの場に溶け込んでいたけれど、結局夕飯のあと少ししてから、街中で「よっ」と言ったのと同じような軽さで「そろそろ行くわ」と言った。
吹雪とふたり、玄関先まで十代を見送る。本当は階下か、あるいは彼がどこかへ向かうのなら駅まででも送っていきたいくらいだったのだけれど、十代は溌剌と笑いそれらをやんわり断った。いいっていいって、と笑顔で片手を振る。
「それじゃ、まぁ、おしあわせに」
茶化すようにそれだけ残して、ぱたりと扉は閉まった。
彼の姿が見えなくなってようやく、思いがけず貴重な時間をすごしてしまったことに気付く。十代の存在は夢想めいていて不確かで、彼をよく知る人々にこの来訪を伝えてもにわかには信じてもらえないような気さえした。同時に、彼らしい言動だと親しみのこもった呆れ顔が返ってくるのだろうなとも思う。
俺と吹雪は十代の出て行った玄関扉を並んで眺めている。なんとなくそうしたままでいたい気分だったから、今度は俺の方から吹雪に寄って、そっと肩に肩を触れさせた。
「優介」と吹雪が呼ぶから、俺はそれに「なに?」と返す。
彼はちょっと照れくさそうにはにかんで、俺の手を取って指を絡ませてからもう一度「優介」と言った。俺がそれにまた返事をすると、いっそう嬉しげにふふと笑う。それがちょっと恥ずかしかったから、俺はなにがおかしいのかわからないような顔をして、「何度も呼ばなくたって聞こえてる」と言った。
すこし不機嫌そうな声になってしまったけれど、右手に触れている吹雪の手はぎゅっと握り返したままだ。
そとの陽はとうに落ちていまはもう夜空には月が顔を出しているはずで、その影にひそむ夕闇を思って俺は過去のことを考える。自分自身の記憶を辿る。父さんのこと、母さんのこと、求めるあまり失うことを選んだ長い時間のこと。
それら全部が本当に必要なものだったから、忘れてしまわなくても先に進めるとわかったから、俺も俺の記憶のすべてを愛していられる。