告白

 両親を喪ってすぐに優介が連れてこられたのはそれなりに大きな規模の養護施設で、そこは物語に出てきたような大きな赤い屋根も緑溢れた広い庭も真っ白な壁もなかったけれど、いままで読んだ本に登場してきた孤児院に比べればはるかにすてきな場所だった。
 ひとりきりになってしまった優介は、オネストが手をとってくれたことでふたりになって、ここに連れて来られたことでみんなになった。そこには優介と似た境遇の子どもたちが何人もいて、親のいない彼らを優しく護り導いてくれる先生たちが何人もいた。奇跡みたいに、そこにいるみんなが優介にやさしかった。嫌な人なんてひとりもいなくて、だから、優介はここで生活することになってよかったと思う。お父さんとお母さんが死んでしまったことは悲しいけれど、誰も彼らの代わりになんてなれないけれど、この施設のやさしいみんなと出逢えたことだけは本当に良かったと思う。
 けれど優介をその穏やかな気持ちから切り離そうとする人間がいる。彼らはいつだって外からやってきて、優介を施設から連れ出そうと懸命な声をかけてきた。それがどうしてなのか最初はわからなかったけれど、どうやら自分の知能が他の子たちに比べていくらか高いことに関係しているらしい。ここよりもっと良い環境で学習すべきだと言うその人たちは、きっと、悪人というわけではないのだろう。優介を気に入って、養子に欲しいと言ってくれるのだから、きっと本当の親みたいに優しくしてくれるのだろう。
 けれどここより良い環境なんて存在するんだろうか。優介は声をかけてくれる彼らの話をしっかりと聞き、どう応えるのが正しいかをきちんと考えた。ずっとここにはいられないんだよと誰かに言われ、それを自覚するとひどく悲しい気持ちになった。
「マスターの思うとおりにすればいいんですよ」とオネストは言った。「マスターがどこへ行って、だれと暮らしても、僕はずっとマスターの側にいます」
 その言葉は随分と優介の心を軽くしたけれど、だからといって誘いの声が止むわけではない。オネストの言うとおり、自分の気持ちにただ素直になるのなら、優介の答えはいつだって同じだった。
「ぼくは藤原優介のままでいたいです」
 けれど優介が施設を離れることを拒んでいるうちに、ほかの子たちにだって声はかかる。ひとりひとりと、優介とともに暮らした子たちは新しい親に貰われてゆく。仲の良い子を見送るたびに、優介はベッドの中でひっそりと泣いた。寂しくて寂しくて、こんな気持ちになるのなら、こんな優しい場所に来るんじゃなかったと悔やむ思いさえした。
 そうやって優介が寂しさに泣く夜は、いつもそばに彼がいてくれた。
 布団の中で丸まって枕に顔を押し付けている優介の背中を、ゆっくりゆっくり撫でてくれる。その手のぬしはオネストではなくて、先生たちでもなくて、優介と同い年くらいの子どもだった。顔は知らない。涙で濡れた優介の目がその子を視認したことはない。
 けれど彼の声は知っている。布団越しに背を撫でながら、彼はいつも優介にやさしく言った。
「かわいそうな優介」
「こんなところになんか来なければよかった」
「そうすれば寂しい気持ちになんかならなかったのに」
「ずっとひとりきりでいればよかったんだ」
「いつかまたひとりきりになってしまうんだから」
「みんなといればいるほど、ひとりになったときこんなにも寂しいのに」
「ひとりぼっちで隠れて泣いているなんて」
 かわいそうな優介、とその子は何度も繰り返した。同情を孕んだ声を向け、優介の寂しさを指摘し続けた。こんなにも優しい手つきで慰めてくれるのに、彼の声はひどく冷たく乾いて聞こえた。優介は寂しい夜にその子がやって来てくれることを心の隅で喜んだけれど、自分のことを気にかけて慰めてくれることを嬉しく思ったけれど、どうしても、顔をあげてその子の姿を見ることができずにいた。
 こんなにも優しくしてくれる、その子の表情をまっすぐに見ることが、なぜかとても怖かった。

 ある夜、優介ははじめて彼に言葉を返した。いつものように「かわいそう」と繰り返すそのなかに、「オネスト」という単語が混じったからだ。
「オネストだって、いつか優介のところからいなくなっちゃうんだ」
 彼は吐き捨てるみたいにそう言った。いつも淡々とゆっくりと喋るのに、その部分だけは、いやに重く嫌悪を含んだ声音で放られた。優介はびっくりして、反射的に顔をあげた。
「そんなことない!」
 かわいそうな優介、さみしい優介、ひとりぼっちの優介。何度も並べられた声は冷たいのにどこか心地よく、その子を否定する気にはなれなかったけれど、その言葉だけはぜったいに違うと思った。
 オネストがいる。
 優介にはオネストがいるのだ。
「オネストは、いつもぼくのそばにいるって言ってくれた!」
 優介はそのときはじめて、その子の姿をまっすぐに見た。暗い部屋のなかにぼんやりと佇む彼は闇みたいに真っ黒で、顔が見えなくて、優介はすぐさま目をそらした。こわかった。顔のない彼をじっと見つめることで、いつか視線があうことがこわかった。
「……かわいそうな優介」と、いつもみたいに彼は言った。「なにもわかってない。世界の真実を、ことわりを、なにもわかってない。人はいつか死んでしまって、いつか忘れてしまって、忘れられてしまって、最後にはひとりぼっちになるんだって、お前は知っているはずなのに。お父さんとお母さんがそうだったろう? つい昨日までいっしょにいた友だちもみんなそうだったろう? 忘れられちゃうんだよ。いなくなっちゃうんだよ。消えちゃうんだ。死んじゃうんだ。それが悲しいんだろう? こんな思いをするくらいなら、最初からここに来なければ良かったと、そう思ったろう? ぼくは知ってる。優介の全部を知ってる。優介がかなしいって思う気持ちも、さみしいって思う気持ちも、全部全部知ってる。だから受け止めてあげられる。やさしく背を撫でてあげられる。抱きしめてあげられる。ぼくは誰よりお前の味方だよ。かわいそうな優介。さみしい優介。ひとりぼっちの優介。ずっとお前のそばにいられるのは、ほんとうはぼくだけなんだ」
 気付いてるんだろう?
 彼はそう言って、闇の底から溶けだすみたいに優介に向って手を伸ばした。それが怖くて、その手が自分に触れるのが怖くて、優介は懸命にかぶりを振る。そうじゃない。そうじゃないんだ。
「ぼくは、ひとりぼっちなんかじゃ、ない……」
 オネストがいる。先生たちがいる。離れてしまったって、友だちはみんな優介に「また会おうね」と言ってくれた。
 ひとりなんかじゃない。
 さみしくなんかない。
 かわいそうなんかじゃないんだ。
 絞り出すようにそう言うと、彼は動きを止め、俯いたままの優介をじいと見つめて、それからケラケラと笑いだした。哄笑は悪夢みたいに長く、優介は降りかかってくるその声を聞きながらぎゅっと目を閉じた。オネスト、オネスト、と心のなかで唱えたけれど、なぜかオネストは助けに来てはくれなかった。きっと彼がここにいるからなのだろうと優介は思う。優介がほんの少しでも、この子が慰めにきてくれることを喜んでしまったせいなのだろうと、そう思う。
 ひとしきり笑い終え、彼は言った。
「うそつき」

 優介が中学に上がるまでその施設ですごすことが出来たのは、両親の残してくれたお金がたくさんあったからだ。少なくとも成人するまでは生活にも学費にも不自由せずにすむ、たくさんの遺産。かたくなに藤原の姓を失いたくないと主張する優介の意思を尊重し、それらを上手に振り分けて生活できるよう取り計らってくれたのは施設の先生たちで、金銭に対し無頓着な優介をきちんと指導してくれたのも彼らだった。親や保護者というよりは、まさしく教師として信頼できる彼らのことが、優介はとても好きだった。
 けれどどれだけ好きだからといって、ずっと同じ場所にはいられない。
 寮制の学校に進学してすぐはやっぱり寂しくて、そして優介がそんなふうに寂しいと思うたびにあの子は姿を現した。かわいそうな優介。またひとりぼっちになってしまった優介。友だちなんて作ってどうするっていうんだ。どうせまたすぐに離れなくちゃならないのに。
 彼は優介の成長といっしょに大きくなっているみたいだった。相変わらず顔は見えない。そして彼が現れるとき、やっぱりオネストはいなくなってしまう。優介はそれを自分の心が弱いせいだと思い、彼の囁きに耳を貸してしまう自分を何度となく責めた。だいじょうぶ。だいじょうぶ。俺はかわいそうなんかじゃない。俺は寂しくなんかない。俺はひとりぼっちなんかじゃないんだ。
 けれどどれだけ唱えても一笑に伏して彼は言う。「かわいそうな優介。俺がお前を肯定してあげる。この世のすべてを見せてあげる。俺の手を取ればいいんだよ。俺といっしょに来ればいいんだよ。俺だけがお前を守ってあげられる。こんなにも悲しくて寂しくてつらいことばっかりの世界から、俺だけがお前を救ってあげられる。俺はお前を見捨てない。裏切らない。絶対に死なないし死なせないし、忘れないし、忘れさせない。親なんていらない。友だちなんていらない。カードだっていらない。みんなゴミくずなんだ。捨てられるまえに、こっちから捨ててしまえばいいんだ」
 彼が現れるのは決まって優介が不安や寂しさを感じたときで、だから、彼の言うことはきっとその通りなのだろう。親なんていらない。友だちなんていらない。いつかいなくなってしまうものは、全部いらない。だって誰にも死んでほしくないし、死にたくないし、忘れられたくないし、忘れたくないのだ。それが叶う世界があるのなら、誰のことも忘れず永遠を生きていられる世界があるのなら、きっと今持っているすべて捨ててでも優介は縋りついてしまう。
 けれどそれはだめだ。
 そんなふうにしか生きられないのなら、自分がひとり生き残った意味なんてなくなってしまう。
 優介は背を丸めて、彼の笑い声を聞きながら長い長い夜をすごした。何度も真理を説くその声に両耳を支配されながら、けれど必死にかぶりを振った。暗闇の向こうからまっすぐに伸びてくる両手を、ただがむしゃらに振り払った。
 それでも「優介」と自分を呼んでくれる、彼の声は優しく心地よかった。

* * *

 卒業したあとはどうする?
 そんな話題が昇るのはどういった環境の学生にしても同じことだけれど、優介はこの言葉がどうしても好きにはなれなかった。《大きくなったらなにになりたい?》《将来はどんな職業に就きたい?》そんなあいまいな問いかけが、昔から苦手だった。幼いころからずっと。中学を卒業し、デュエルの道を選んでからも。
 未来を見据えるのは苦痛だ。それがどうしようもない我儘で、まさしく自分自身の弱さを強調する感情だとわかっていても、優介はその言葉を聞くとたまらない気持ちになる。ぎくりとする。逃げ続けることは不可能だと、そう弾圧されるような気分になる。
 けれどその問いはどこにだって転がっている。好奇心か話題作りか、ともかく、やはり誰かはそれを口にする。「お前らは卒業したらどうするつもり?」
 教室で数人の生徒と雑談をしている最中だった。問いかけたクラスメイトは、「俺さぁ」と真っ先に言葉を続ける。「プロになりたくてこの学校に来たけど、なんか、こうやって授業受けてると、いろんな道があるもんだなぁって思っちゃって、いまちょっと悩んでんだよね」
 その発言に、口々に同調する声があがった。デュエルアカデミアはまさにその名の通りデュエルを学ぶための学舎だが、卒業した先の道は無数にある。入学してしばらく経った今、その数え切れないほどの道筋が、ほのかに現実感を持って認識できるようになってきたのだろう。彼らは自身の将来を真っ直ぐに見つめ、その先を見極めようとしている。
「丸藤は? やっぱプロ?」
 クラスメイトの声に、丸藤亮はしずかに頷く。可能なら、だとか、今のところは、だとか、そんなあいまいなものを一切含まない眼差しで、歩を進めれば確実に手に入る世界を、恥じることなく周囲に開示するようだった。カイザーである彼には、その首肯が許された。
 丸藤亮はプロデュエリストになるのだろう、と優介は思う。それでいい。きっとそれが相応しい。誰より強く、何者にも劣らず、頂点に立つ彼の姿を思うと、優介は友として誇らしい気持ちになる。
 次いで振られた、天上院吹雪の声は軽かった。
「僕? 僕もプロ志望だけど、まぁ、プロっていってもいろいろあるからねぇ」
 歌ったり踊ったりの、アイドルみたいなことをしたいのだと彼は茶化したふうに言う。その場にいるみんな笑ったけれど、それは彼のそのビジョンが見えたからだろう。違和感なく、そうして派手に振舞いながら大勢の前に立つ天上院吹雪の姿を、たやすく想像することが出来るからだろう。
「藤原は?」
「ん、俺は……まだあんまりそういうの、決まってないな……」
 プロというのがひとつ、おそらく一番自分に近く用意されている道だ。優介は特待生で、学園内での扱いもその分高い。丸藤亮が、天上院吹雪がそうであるように、入学してすぐのころから、デュエル雑誌やプロリーグと提携する企業のたぐいからも何度か声をかけられている。順当にゆけば、真っ先に見えてくる世界。
 けれどどうだろう。常に勝者と敗者に分かたれ、衆目を集めながらカードを操る。職業としてのデュエリストは過酷だ。勝負の世界に真正面からぶつかることは優介にはおそろしく、どこか別の次元のものごとのように眩しく輝いていた。その光りを渇望する想いがないことはなかったが、けれど、それよりさきに優介は目を逸らしてしまう。ギラギラと閃光を放つ道筋は、自らの不安定な感情を浮き彫りにするような気がした。
「藤原はさ、いま独学でデュエル研究とかに手を出してるんだろう? だから僕、きみはあっちのほうに進むつもりなのかなってなんとなく思ってたんだけど、そういうわけじゃないんだ?」
「え、ああ。……うーん、研究自体は楽しいけど、それを職業に結びつけようとは、特に思ってなかったな」
 へえ、と天上院吹雪は意外そうにする。けれど、意外なのは優介のほうだ。授業内容とは別のデュエル史に凝っているのは事実だが、それはあくまで趣味であり、放課後の時間つぶしみたいなものだ。地道にひっそりと行っているものごとを、他人にそんなふうに見られているなんて思わなかった。
 丸藤亮を見やる。彼はとくに驚いたようすを見せず、優介の言葉に「そうか」と頷いてみせた。「向いていそうに見えるが」
 そういうものか、と優介は思う。
 とくになにも伝えなくても、なんとなく知られてしまうものなのか。そうだ。優介と彼らは友人同士だ。
 言われてみれば、研究分野としてのデュエルモンスターズには、それだけで無限の可能性がある。優介は自分が、学ぶこと、未知を知ることに喜びを感じる性質だという自覚があったし、学問の世界は広大だ。脚光を浴びることは少なく、けれど確実になにかを支えるそのステージは、なるほど、自分に向いているのかもしれない。
 いま感謝を伝えても良いだろうか、そういうシーンではないだろうか。少し考えたが、優介は結局「ありがとう」と言ってみることにした。「うん、ふたりがそう言うなら、考えてみる」
 天上院吹雪と丸藤亮は笑っていた。優介も笑った。そこにいるみんな、笑顔でその未来を見ていた。この先にあるなにものかを思うことは、優介にはやはり恐ろしい。けれどそれでも、こうして親しみを覚える友人たちと未来を考えられるのは、やはり幸福なことなのだろうと思う。
 いつか迎えるこの道のずっと先よりも、いまここにいることを愛おしいと思う。
「けど俺、やっぱりまだ将来のことなんてわからないな。できるなら、ずっとこうしてみんなと、この学校ですごしていたい」
 それが叶わないことは、優介にだってわかっている。ずっと同じ場所にはいられない。ここを出て、外に出て、だれも知る者のない世界へ、いつかは必ず踏み出すことになる。
 けれど今はここにいたい。
 ずっといっしょにいられればと、そう願うことをどうか許してほしい。
 そうして出来るなら、みんな自分と同じように、ずっとここにいたいと望んでほしかった。叶わないことはわかっていても、いずれすぎ去る、失うことの確定した景色だと知っていても、どうかみんな同じ気持ちで、本当はずっとこうして笑いあっていたいのだと、そう思ってほしい。
 だから言ったのだ。できるなら、ずっとこうしてみんなと、この学校ですごしていたい。
 優介のその声は、手放した言葉の持つ意味は、自身で思うよりはるかに軽かったろうか。
「おいおい、なに恥ずかしいこと言ってんだよ」とひとりが苦笑した。
「オレ留年はやだなぁ」と、ひとりが大袈裟に天井を仰いだ。
「ここにいる全員が留年したら、先生たち泣くぞ」とひとりが茶化して笑った。
 天上院吹雪と丸藤亮を見る。
 彼らは各々でその声を聞き、それを受け入れ、少し笑ったり、口をはさんだり、そうして優介に言葉をかけた。なんと言っただろう。優介はその声をきちんと聞き取れていない。
 わかったことがひとつある。
 この本音は、優介の心からの願いは、誰からも同意を得られないもの。ぜったいに、二度と外に漏らしてはいけないものだ。

* * *

 今夜も彼が来た。
 その日の優介はかつてのようにシーツに丸まって泣いてはいなかった。薄暗い部屋で、悲しみから隠れるふうにして蹲ってはいなかった。窓の外は暗く、代わりに室内は煌々と明るい。天井から落ちるライトは優介自身を、そしてその手元に並ぶ書物と資料を明確に照らし出していた。
 彼の姿はどうだろう。優介は自らの手元につらなった字列から目を離さなかったから、はたしてこの電光が闇みたいに真っ暗な彼のすべてを明るみに晒しているのか、それを確認することはできなかった。する気もなかった。彼が背後に立っているのはわかったけれど、振り返ったところで、きっと彼の姿は目には見えないのだろうと優介は思った。
「かわいそうな優介」
 いつもの通りに告げられるその声は、幼い記憶に残ったそれとは比べ物にならないほど大人びていた。彼は成長している。幼かった優介の背を撫でてくれた小さな手は、そうだ、きっといまの優介とおなじくらいになっているのに違いない。
 いつからだったろう。彼がかたわらに寄り添うことに、優介は違和を覚えなくなっていた。拒絶することさえ億劫なくらい、彼はいつだって優介のそばに佇んでいる。声が聞こえないときも、姿の見えないときも、おそらく彼は常に優介のことを見つめているのだろう。
 優介は顔をあげることなく、その心地よい声に耳を傾けた。「かわいそうな優介。いつまでもずっと、ひとりぼっちで泣いている、さみしい優介」
 泣いてはいない。優介はじっと、ただ目の前に揃えた古い文献の数々に集中している。寮内にある寂れた書庫から取りだしてきたそれらの量は膨大だ。優介は日々その解読と理解に取り組んで、終わりない学術の世界に没頭していた。放課後の時間つぶし程度にはじめたはずのそれが、最近は、時間を惜しむあまり授業を休むことさえあった。結果が出るのならそれで構わないと、書庫の鍵をくれた教師はそう言った。
 視界の悪い沼地にずぶずぶと足を踏み入れるような感覚が続いていた。
 まだだれも見たことのない景色が、その深淵には広がっている。優介の好奇心は尽きなかった。
 だから優介は泣いてなどいない。ひとりぼっちでもない。自分が授業を休むたび、どうしたの、だいじょうぶか、と声をかけてくれる友はたしかにいた。優介はそれにだいじょうぶと返す。いま自分が蓄えている知識、吸収している常識、そして解き明かそうとしている世界。それを彼らに見せる日が楽しみだった。彼らが優介に「向いている」と、そう言った作業。ほんとうだ、と優介は思う。ほんとうだ、丸藤、天上院。お前たちはほんとうに、俺のことをよく知ってくれている。
 それだけに残念だった。彼らもいずれ、自分の前から消えてしまう。いなくなってしまう。
 けれど仕方ないのだろうと、いまはもう優介も理解していた。そうだ、仕方のないことだ。今までずっとそうだったのだから。父も母も、親しかった友人も、先生たちも、みんないつかは離れていった。ずっと同じ場所にはいられないし、ずっとだれかといっしょにいることなんてできないのだ。みんなそうだ。優介が悲しく、寂しく、ひとりぼっちであるというのなら、それはこの世界に生きる者みんながそうなのだ。みんな悲しく、寂しく、ひとりぼっちでいるのだ。
 優介だけではない。
「かわいそうな優介、さみしい優介、ひとりぼっちの優介」
 いつものように彼は言う。優介はその誰より優しい声音に耳を傾け、そっとつぶやいた。
「わかってる。……もう、ちゃんとわかったから」
 だから俺は平気だよ。
 彼はそれを聞いて、以前のように笑いだすことはなく、うそつきと優介を罵ることもなく、ただ黙ってその気配を消した。優介はひとつ息を吐く。もう何時間もひたすらに追い続けていた文字の羅列から、ようやく目を離した。ずいぶんと肩が痛むことに気付き、大きく背伸びをする。
 それを見て、オネストが言った。
「マスター、もう遅い時間です。そろそろお休みになってください」
「うん、わかってる」
 あと少しだけ、と続けたいところだったが、オネストの視線は真剣だ。時計を見ると、たしかに、じきに夜更けから朝方へと近づいてゆくような時刻になっていた。優介はそれに少し驚き、苦笑する。これでは心配もかけるはずだと思い、すぐに手元の書物を閉じた。
「明日はどうするおつもりですか」
「授業? 受けるよ。いい加減にしないと、みんなにおいていかれる」
 優介の返答に、オネストは心底安心したというふうに微笑んだ。ベッドへ移動する優介に付き従い、優しい眼差しをこちらへ向ける。
「おやすみなさい、マスター」
 おやすみ、と優介も言った。おやすみ、オネスト。

* * *

 道すがら、天上院吹雪はずいぶんとはしゃいでいた。
 この風変わりな友人は、優介の知る限りいつだって前向きで明るい。献身することに躊躇がない。しばらくぶりに顔をあわせてもそれは変わらず、教室で優介の顔を見るや飛び上がらんばかりに喜んでみせた。すぐさまこちらへ駆けよって、どれほど心配したことか、食事や睡眠はきちんととっているのか、いろんなことをいっぺんに言った。「きみがいないと、亮の相手をするのが僕ばかりになっちゃって大変だよ!」
 丸藤亮はというと、友人のそんなようすをいつも通りに静かに眺め、優介に向ってはひと言、「順調か」と訊ねた。優介は笑って頷いた。
 丸三日ほど抜けた授業内容は、けれど充分に追いつける範囲だった。これならもう少し休んでも平気だったかなと思ったけれど、クラスメイトのいる空間は居心地が良く、優介はその時間を無駄には思わなかった。デュエルはひとりきりでは出来ないものだ。いとしいカードたちは主人に触れられるのを待ちわびていたかのように従順で、癖も気心もよく知った相手と戦うのは、勝利にも勝る喜びがあった。
 昼休み、友人二人から食事の誘いを受けた。食欲はあまりなかったけれど、優介はそれを二つ返事で了承し、海辺へ出たいと言った。天気が良かったから、昼間の真っ直ぐな陽光の反射する海を見たいと思った。
 購買で、天上院吹雪がたくさんの食べ物を買った。
「……だれがこんなに食べるんだよ……」
「余ったら持って帰ればいいじゃないか。あ、ちなみにこれと、これは僕ので、こっちに入ってるのは亮の分。残りは藤原のだから、いっぱい食べてよね」
 嫌がらせかなにかかと思えるような分け前を手渡され、優介は閉口した。いや、これはこれで、単純に彼からの厚意なのだから、無下にするわけにはいかない。ここ数週間で、優介は少し痩せた。そのくらいの自覚はある。
「食べきれないと思う分は教室で配ればいい」と丸藤亮は言った。「育ち盛りばかりだからな、夜食にでもしろと言えばあっという間になくなるだろう。気にするな、どうせ吹雪が買ったものだ」
 直球な物言いに、優介は苦笑した。彼の言う方法は最終手段として、出来る限りの努力はしようと思った。
 たくさんの荷物をもって浜辺につくと、まるでピクニックでもしに来たような気分だ。太陽は眩しく、けれど照りすぎることはなく暖かだった。嗅ぎ慣れたはずの海のにおいも、改めて吸い込むと新鮮な気分になる。すこし湿った風が気持ちいい。
 生徒用に置かれた簡易のラウンジに昼食を広げ、他愛のない会話と、栄養の摂取のために口を動かす。昼休みの時間は決して長くない。承知のうえでここまで足を運んだものの、そうのんびりとしていられないのは残念だった。いつか授業のない日に、改めて二人を誘おうと優介は思った。そうだ、つぎは自分が食事を用意しよう。
 そんなことを考えながら、優介はけれど、ふいに波打ち際を見やって目を細めた。なにかが海に浮かんでいるように見えたのだ。波の影にゆらゆらと、複数のちいさな、見慣れたなにか。
 優介はふらりと立ちあがった。じっと、じっと、寄せてくる波に揉まれるみたいに、ちらちらと輝くそれらに目を凝らす。
 カードだ。
 誰か、たぶん、生徒の誰かが、捨てたのだろう。投げ捨てただけではない、破って、引き裂いて、捨てたのだ。散り散りになって波間を漂うそれは、もはやカードの形を成していなかった。おそらく、一瞥しただけではそれをカードだと判別することさえ難しいだろう。ゴミくずだ。一番近い形容はそれだ。海に廃棄された、ただの紙切れだ。
 けれど優介にはわかった。すぐに見えた。優介の目はときおり、カードに宿った精霊を映す。
 突っ立ったままでそれを眺める優介に、丸藤亮が「どうした」と言った。彼には見えないのか。見えないだろう。ここから波打ち際まで、大した距離はない。けれど、見えないだろう。優介にしか見えないのだろう。
「……なんでもない」
 つぶやき、もう一度その場に座る。ふたりは不思議そうに優介を見やり、また優介の見つめていた波の向こうへと視線をやったが、けれどもう、そこにはなにも残っていない。ざわざわと押し寄せる波に飲み込まれた、そのせいだけではない。カードに灯っていたちいさな魂はかき消えたから、優介にだって、もう見えない。 痛ましいことだと優介は思う。
 カードにも死は訪れるのだ。それも、だれにも気付かれないくらいにあっさりと。だれでもないその持ち主の手によって殺されることだって、現実にはあるのだ。
 そんなのは昔から知っていることだ。優介は一度に味気の失せたパンを無理やり口に押し込み、飲みこんだ。
 じきに午後の授業がはじまる。
 今度また、休日に三人でここに来よう。お菓子をたくさん用意して、海にも入ろう。帰り際に優介から提案すると、ふたりは賛成してくれた。

 部屋に戻ると彼がいた。
 優介はさして驚かなかった。ただ、真正面から彼を見据えたのはいつかの夜以来で、記憶に残るその姿がまったく違和感なく一致することは意外だった。闇色の彼はあの頃に比べて背丈が伸びて、けれどたしかに、幼い優介を見おろして笑ったのと変わらないようすで、薄暗い部屋の中に佇んでいた。
 恐怖は覚えなかった。優介はもう、寂しさに捕らわれて泣いてばかりだった幼いころとは違う。答えを見つけて、受け入れて、そうして理解していた。だから平気だ、と思う。もう涙をこぼさない優介のそばに、彼がやってくることがそもそもおかしいのだ。
「かわいそうな優介」
 彼はそう言った。その声音が、いつもみたいに慈しむような、儚むような、手を差し伸べるようなものでなかったことが、優介には不思議に思えた。彼はこちらを見ていた。いつか闇に塗りこめられて見えなかった彼の顔が、仮面に覆われているのだと、優介はそのときはじめて気がついた。あれだけ恐ろしく、決して目を合わせないようにと震えて拒絶していた存在に、あっさりと視線を奪われている。優介にはそれがずいぶんと滑稽に思えた。
「気付いたんだ」
 と彼が言った。優介は首をかしげ、なにに、と訊ねた。訊ねてから後悔した。仮面の彼はうっすらと笑んで、優介のほうへとひとつ歩み寄った。とたんに背筋が冷たくなる。なにかを言おうと思って口を開いたけれど、うまく喋ることが出来なかった。
 彼はそれ以上優介のほうへは寄らず、代わりに、「お前がとても寂しくて悲しくて、ずっとひとりきりで泣いていること、俺はだれより知っているよ」と言った。
「隠れているのは辛いだろう? だれにも、なんにも言わずに、充たされたふりをするのは悲しいだろう? 俺は全部知ってる。お前の全部、知っている。優介、優介、だれもお前のそばには残らないって、気付いてしまったんだろう?」
 優介は頷く。そうだ、気付いた。知ってしまった。天上院吹雪も、丸藤亮も、クラスのみんなも、決して自分のそばには残らない。いずれいなくなってしまう。忘れてしまうし、忘れられてしまう。だれも優介のそばには残らない。
 彼らが笑顔で語る未来の世界に、彼らの夢見るこの先のビジョンに、優介の姿はない。
 けれど、それがどうしたっていうんだろう。そんなのは当たり前のことだ。いままでずっと、ずっとそうだったんだ。優介の大切な人、大好きだって思った人、ずっとそばにいたいと願った人、みんないなくなってしまう。忘れてしまう、忘れられてしまう。優介はかつてあんなにも大好きだった施設の仲間たちの、その顔と名前をもう明確には記憶していない。
 この世界ではそれで当然だ。
 優介はそれを知ったし、理解した。だからもう悲しくないし、寂しくない。つらくない。優介は泣かなくなった。受け入れてしまえば、それは簡単なことだった。
 けれど彼は言うのだった。あの夜と同じように、あるいは、あの夜よりもいくらか憐みを含んだ声で。
「うそつき」
 優介は目を逸らした。
「気付いたんだ。俺がずっとお前に言っていたこと。いつかみんな消えてしまうってこと。お前は気付いて、理解して、受け入れたのに、それでもまだそんなところで泣いている」
 みんな忘れてしまえばいい。彼は侮蔑を含んだ声音でそう言った。
「天上院吹雪はお前を大切だと、仲間だと、そう言ったろう? あいつにとってはすべてがそうだ。目に映る世界、そこにいる人々、あいつにとってはすべてが大切で、すべてが仲間だ。優介、かわいそうな優介、お前はあいつの特別な仲間なんかじゃない。あいつは卒業すればすぐ、お前のことなんて忘れて、また別の大切な仲間といっしょにすごす」
「……そんなこと」
「丸藤亮はお前を大切だと、仲間だと、そう口にはしないだろう? あいつにとってはそうだ。だってあいつは、だれのことだって見ちゃいない。あいつは賢い。本当に価値のあるものしか認めない。優介、優介、ねぇ、お前みたいなのが、あいつに認めてもらえるわけがないじゃないか。あいつは卒業すればすぐ、お前のことなんて忘れて、もっと価値ある友を見つけ出す」
「そんなこと、くらい、……ちゃんとわかってる……」
 知っている。わかっている。そんなこと、言われなくたって、全部気付いてる。
 優介はかぶりを振って、彼の放つ言葉から逃れようとした。これはなんだ、と思った。こんなのはおかしい、理不尽だ。自分はただ、世界のことわりを、彼の言う真実を、きちんと把握したはずだ。なにを責められなくてはならないのか、そうやって、冷たい声を浴びせられなければならないのかわからない。
「期待をするなよ。偽りに気付いたなら、すぐに捨ててしまえばいい。こっちに来ればいい。お前がそれをしないのは、まだあいつらを信じたいと思っているからだ」
「うるさい、うるさい!」
 なにがいけないのだ。だって、海に行くと、言ったのだ。こうして約束を繋いでいる限り、彼らは自分のことを忘れない。まだいられる。いつかはなれてしまっても、まだ、もうすこし、いっしょにいられる。
「ずっと一緒にいられなくても、別に良い。かまわない。俺は、だって、俺は……」
「お前はそうでも、あいつらは違う」
 彼は言う。断言する。
「あいつらは、お前とずっと一緒にいたいなんて、これっぽっちも思っちゃいない」
 さあ、どうしようか。
 彼はまた一歩こちらへと近づいた。かわいそうな優介、と言った。「これで本当に理解できたか?」
 優介は身を竦ませ、仮面の彼から必死に目を逸らした。恐ろしくない。彼は恐ろしい存在ではない。優介が真に恐れているのは、目の前にいるこの闇ではない。
「……お前は俺に、どうしろって言うんだ」
 ずっとむかしから、いったいなにを伝えようとしているんだ。優介のすべてを知っていると、救えるのは自分だけだと何度も言った彼の言葉を、優介はもう理解している。彼の存在を受け入れた。さみしい気持ちを、自分自身の不安を受け入れたではないか。
 まだ足りないのか。
 優介の問いに、彼はくすくすと笑ってみせた。答えは簡潔だ。「こっちに来て」と彼は言う。
「こっちに来て、俺を見て、そんな悲しい世界から、姿を消して、ぜんぶ忘れて、俺だけを見て、俺だけを受け入れて、俺だけを必要として、俺のそばから離れないで、俺の名前を呼んで、俺の世界を愛して」
 淡々と、彼は子どものようなことを言う。おねがい、と彼は言った。
「俺のことを忘れないで」
 頭がひどく痛かった。その声をいつか、どこかで聞いたような気がした。誰かに向けて、その気持ちを言葉にしたような気がした。優介は俯き、ずきずきと痛む額に片手を添えた。
「オネスト……」
 オネストはいつもそばにいてくれた、優介を寂しさから護ってくれた。そうだ、だれもがいつか消えてゆくこの世界で、彼だけは、ぜったいにいなくならない。ずっとそばにいると、そう約束してくれた。優介がどこにいたって、どこへ行ったって、この先になにが起こったって、優介がなにものになったって、オネストだけは。
「オネストは、ずっとそばにいるって、言ってくれた……」
 助けてほしい。
 どうかこの恐ろしい感情から、助け出してほしい。
 どれだけ望んでも、この真っ暗闇のなかにオネストは現れない。昔からそうだ。優介が彼とふたりきりになるその時に、オネストは決して姿を見せない。
「知っているくせに」
 乾いた声で笑う彼は、そう言って一枚のカードを優介に呈示してみせた。それがなんであるのか、だれであるのか、優介には確認しなくたってすぐにわかる。「ずっといっしょにいることなんて、だれにもできないって、お前はもう知っているくせに」
 なぜ彼がオネストを手にしているのか、そんな疑問を持つ間などなかった。優介は両目を見開き、息を飲み、その闇に手を伸ばした。やめろ、と、声にならない声を張り上げた。オネストは、自分の最愛のパートナーだけは、彼のその手に触れさせてはならないと思った。
 伸ばした右手が捕まえられる。決して触れられることのないよう、過去に幾度も拒絶してきた彼の手のひらが、まっすぐに自分の手首を掴んでいた。
「……はなせ」震える声をどうにか振り絞る。優介はすぐ目の前にある仮面を睨めつけて言った。「オネストを、はなせ」
 優介はその言葉に怒りと拒絶をこめたつもりだった。けれど、彼はその感情を喜ばしげに受け止め、「ああ」と容易に頷くと、手にしていたオネストのカードをぽいとほうった。
 ちいさなカードは重力に抗うことなく床に落ちる。ぽたりと。
 そのさまがあまりに悲しくて、優介は顔を歪めた。オネスト、と名を呼んだけれど、そこにはまるでだれもいないかのように、ただからっぽの紙きれが落ちていた。
「これでわかっただろう」と彼は言った。
 優介は頷かない。わかったのではなく、ずっとわかっていたのだ。オネストはずっとそばにいると言ってくれたけれど、それでもやっぱり、そんなことは不可能だと。本当はずっと前から気付いていた。
 あの夜、「うそつき」と彼は言っただろう。
 そうだ。そのとおりだ。
 全部うそだった。「気付いた」「わかった」「理解した」「だから平気だ」優介がそう言って諦めたもの、すべてがうそだった。
 彼に掴まれたままの手首が冷たい。
 じわじわと熱を奪うそれは、けれど、優介の心の冷えよりはまだ暖かい。いつの間にか身体の中心から氷が生まれて、指先まで痺れるくらいに優介は凍えていた。その寒さに比べれば、彼の手はとても暖かい。
 与えられるぬくもりが気持ち良くて、「かわいそうな優介」と言う彼の声が気持ち良くて、優介はゆっくりと頬を撫でてくれるその手を受け入れた。緩慢に鳴り響く彼の心臓の音が、自分とまったく同じリズムを刻んでいることに気付いた。
 ならばその手が心地よいのは当然だ。最初から、自分と彼は同一だった。
「かわいそうな優介。いつまでもずっと、ひとりぼっちで泣いている、さみしい優介」
 優介は泣いていた。彼の言うように、ずっとずっと、泣いていたのだ。父と母を喪ったあの日からずっと、だれかと別れるたびに、なにかを失うたびに、それを諦めるたびに、ずっとずっと泣いていた。ひとりぼっちが悲しかった。さみしくて、惨めで、ずっとずっとつらかった。
 冷たい闇に抱きしめられて、優介は静かに泣いていた。
 優介、と彼は優しい声で言った。「ねぇ、優介、顔を上げて。俺のことを見て」
 涙でぼやけた視界に、真っ暗な仮面が浮かんでいた。優介、と彼は何度も言う。優介、ねぇ、優介。「ほんとうのことを言って」
 お前の真実をおしえて。
 彼は優介を抱きしめて、優しく背を撫でながらそう告げる。かつて寂しさに泣きじゃくった幼い夜を、ともにすごしてくれたちいさな手。それと同じしぐさで、おなじリズムで、ゆっくりと背中を撫でてくれる。
 優介は口を開いた。
「……おれ、は」
 いけない、と思う。
 決めたのだ。もうだれにも告げないと。優介の本当の言葉は、きっとだれにも届かない。この感情は、ただの幼稚な我儘にすぎないのだから。
「俺は、ほんとうは……」
 それでも彼の声が心地よくて、触れてくれる手が優しくて、優介はそれを口にした。
「ず、ずっと、いっしょにいたい。そばで、いつも、となりにいて、ずっと……俺がどこへ行っても、なにになっても、ずっといっしょにいてほしい……」
 それから、と彼は言った。
 それから、ほかには? ねぇ優介、お前はほんとうは、なにを望む? ねぇ、どうしてほしい?
 俺が全部叶えてあげるよ。
 お前の全部、俺が受け止めてあげるよ。
「……いっぱい名前を、呼んで。俺が笑ったら、笑い返してほしい……。俺のこと、好きだって、思って、言って、それで……それでいっぱい、優しくしてほしい」
 それから、と優介は言う。だめだと思ったけれど、それを言葉にしてはいけないと、わかっていたけれど。
 ずっとだれにも言えなかったこと。ただひとりにしか告げなかったこと。自分がなによりもおそれていること。平気だと、この世界ではそれで当然なのだと、そう言い聞かせて諦めてきたこと。
 優介がずっと抱えてきた、ほんとうのこと。
「俺のことをわすれないで」
 彼の冷たい腕のなかで、しずかにそう告げた。

* * *

 特待生寮にはだれにも使われていない資料室がある。
 優介がその存在に気付いたのは入学して半年も経たないころのことで、それに興味を示した彼に、その部屋を管理していた教師はよろこんで鍵を貸してくれた。「なにか面白い発見があったら、ぜひ先生にも報告してほしいですニャー」
 最初は興味本位だった。知らない情報の詰まった古い書物は面白かった。放課後の時間つぶし程度にはじめたそれは、あっというまに優介のライフワークとなった。就寝までの時間を埋める作業が、じきに睡眠時間を侵食しはじめる。朝方まで夢中で読みふけり、教師に言われたとおり、気付いたものごとはすべてレポートにまとめて提出した。研究者としての才能があると言われた。友人たちも応援してくれた。
 優介はひとりきりでそこに立っていた。
 暗闇を手探りで進むような日々が続いていた。そこにいる限りはだれにも見つかることなく、ひとりでいることが出来るから楽しかった。鬼のいないかくれんぼをしているような感覚だった。もういいかいと誰も言ってくれない、もういいよと返す必要もない。だからだれも探しには来ない。
 けれど優介がひとりでいるときに、必ずそばにいてくれる子がいるのだ。ずっと昔から、優介にやさしくしてくれる。優介のかくれんぼに付き合ってくれる。もういいかいと言うことも、もういいよと返すこともしない。ただ、いっしょに隠れていてくれる。優介の寂しさを、となりで同じだけ抱えていてくれる。
 特待生寮にはだれにも使われていない資料室がある。
 優介はそこで彼を見つけた。彼の言う真理を見つけた。自分と同一である彼と、ひとつになる方法を見つけた。
 一瞬で理解した。彼はずっとここで優介のことを待っていたのだ。ほんとうに長い間、ずっとずっと、優介に見つけてもらえるのを待っていたのだ。この先に本当の、彼の言う世界のことわりを具現化した地がある。
 遅くなってしまった。けれど、まだ間に合う。だれも死なず、だれも失われない、最初からなにもない永遠。優介がずっと求めていたもの。彼がずっと説いてきたもの。
 幼いころからずっと、優介のそばにあるもの。
 優介はそこに述べられた魔術の羅列を丁寧に紐解いた。時間はかかったけれど、苦はなかった。これは優介が彼とひとつになるためのものだから、今までのように教師になにか報告することはしなかった。いずれ忘れてしまうものだから、そうする意味さえ感じなかった。
 優介はひとりぼっちだったけれど、彼が手を伸ばしてくれたことでふたりになり、そしてじきに開かれるこの世界へ行くことで無限になる。永遠になる。その日のことを思うと心が逸った。
 優介が眠らなくなったから、おやすみなさいと言うオネストの声が聞けなくなった。だから代わりに優介が言うことにした。おやすみなさい。
「おやすみ、オネスト」
 海には行かなかった。約束など彼らはじきに忘れてしまうだろう。

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2010-10-21