この場所に何もないというのは嘘だと、私は密かに思っている。
空っぽの闇の中には個というものが存在しないようで、つまるところそれが彼の言う平等で均一された世界であるのだが、それでいながら私は私という個体と彼という個体を認識している。無秩序に広がる闇に包まれながら、彼と私はここに存在していた。個人として、或いは、個性として。何者も平らでなくてはならない筈の地平に、私は私の名など存在し得ないものだと思っていた。少なくとも、意識として目を覚まして直ぐには、何の根拠もなくそう信じ込んでいた。集束する闇の一欠けらに名など。
けれど彼は私を《吹雪》と呼ぶから、どうやら私は、《吹雪》という名のようなのだ。
それが何を指すのか、或いはどういった意味合いを孕むのか、私に知る術はなかったしその必要も感じなかったが、兎も角彼が《吹雪》とそう呼ぶ声色を私は好んだ。彼、というのは、光を持たない世界の中で唯一その存在を確かにしている、一人の人間だ。名は知らない。彼は私を《吹雪》と呼ぶが、私は彼の名を口にしたことがない。
私は元々闇であり、私と似たような存在は他にも在った。彼らは無数だったが私は個だった。それだけが違って、それだけが、彼にとっての全てであるようだった。彼はこの世界に居場所を設けてそこに座し、唯一の個としてそこに在った。ふと目覚めると私は彼の側に居た。
《吹雪》と彼は私を呼び、私は彼の声に応える、ただそれだけの関係だった。彼は私の顔を覆う仮面が、触れればこつりと無機質な音を立てることを嫌った。苛立ちを隠さず、指を絡ませ脚を撫でながら、硬質の頬を舌で舐め上げる。過剰なまでに唇の音を響かせて、時折憎らしげに歯を立てては、決して剥がれることのない私の仮面を揶揄するようにせせら笑った。けれどどれほどその頬に嘲笑を貼り付けたところで、《吹雪》とその名を口にする彼の声は優しく、愛おしさを惜しまないものだったから、私は黙って奉仕とも懲罰とも取れない行為を受け入れた。
冷たい闇に呼応するように彼の肌は常に冷え切っている。《吹雪》と呼ぶその声音だけが仄かに熱を帯びていたから、私は彼のその声がとても好きだった。私が触れれば彼は悦んだ。頬を撫でれば無邪気に擦り寄って、恍惚と笑みを浮かべた。彼は多くの場合自らを傷めつける様に行為に没頭したけれど、私から触れる時には、緩慢にたゆたう水面の様に愛して欲しいと言外に語った。従順な私に彼は満ち足りた風であったし、私は彼の発する《吹雪》という声を与えられるだけで充足していた。幸福という単語を用いるのには不自然だが、敢えてそれに近しい比喩を求めるのなら、私にとって彼との時間は慢性的に訪れる眠りのようなものだった。夢のように不確かで、掴みどころがなく、何より心地良いのと同時にどうしたって避けられないものだった。
彼は光を厭っていた。
闇の中には時折光が届く。微かに、けれど確実に、飲み込み切れない光芒は窓のように差し込んで我々の目を汚した。彼はそれを憎悪し、ほんの僅かでも気配を感じると、腕を伸ばしその光の筋を引き裂いた。カシャリと繊細な音を残して、闇に生まれた空白は脆く消え去る。光の窓は彼によって破壊される。
私は彼を好いていた為、彼の嫌悪の対象は私にとっても同義であった。私は彼の手足と成りたかった。窓を壊すことは私にも出来たのに、しかし彼は、決してそれを良しとはしなかった。
《吹雪》の手はなにも壊さない。
彼はそう言って私の指を愛おしげに撫でた。だから光の窓は彼の手か、或いは、別の闇の意識達によって砕かれる。世界は静かに暗く、どこからか迷い込んだ眩さは、彼と無尽蔵な闇の集合体に覆われ直ぐに潰える。
私は彼に必要とされていたし、守られてもいた。個である私は彼の為に尽くし、求められればいつでもそれに応えた。眠りは浅いが満ち足りていた。彼の舌がこの身を貪ることも、私の上でその白い喉を浅ましく震わせることも、個を喪失させる闇には相応しく思えた。融け合うように我々は身を寄せていたから、恐らく彼が《吹雪》と個の名を口にしなければ、二人は色のない無数の存在と成るのだろう。私は何より彼の声が好きだったから、それを惜しいとは感じなかったけれど。
彼はいつだって私を《吹雪》と呼んだ。そこに感情を滲ませて、愛おしさを含ませて、逃れようのない熱を絡ませて、私のことを《吹雪》と呼んでいた。
だから自分は《吹雪》であるらしいと、私はそう思っていた。自身が名を持つ事への実感はなかったが、彼が私をそう呼ぶ限り私は《吹雪》であるのだろうと、そう信じ込んでいた。
けれどどうやらそれは大きな誤りで、《吹雪》は私ではなく、私という個ではなく、ただ私を入れた器の名であるらしいと、そう気付いた時には全てを失っていた。私は器を逃し、《吹雪》ではなくなった。彼は私を《吹雪》とは呼ばなくなった。私は個ではなくなった。名などない、ただの闇のひとつに戻った。
悲しみを感じる事はなかった。彼は私ではなく、闇の中にぽっかりと空いた一つの窓を見つめて《吹雪》と言った。その向こう側に《吹雪》は居る。だからもうここには居ない。
《吹雪》は時折その窓から姿を見せた。それは酷く眩く、闇の輪郭を容易くぼやけさせた。光暈は我々の視界を遮り、身を切り裂き、喉を殺した。《吹雪》が我らを求め、その力を欲する毎に、闇はその窓を怨憎した。けれど彼は、誰より光の窓を厭うたはずの彼は、決してその綻びを壊さなかった。彼はそれをじっと見ていた。その光の向こうを見つめていた。
《吹雪》と言った。
その声が私に向けられることはもう二度とないのだ。
ひたりと何か感情らしきものが胸の辺りを這ったが、それは恐らくこの空虚に相応しいものだ。個を喪失した私のその意思は、闇の一部として空間に融けた。程なく一体となる。闇は色を増す。途方に暮れたように光を眺め佇んだままの彼を包み込む。
永劫に続く闇に浮かんだ薄っぺらな窓を、彼はそのまま見つめ続けはしなかった。ただ、それを壊すのではなく飲み込もうとした。彼は《吹雪》を取り戻そうとし、果たしてそれに成功したが、より大きな光が彼を包むのに時間は掛らなかった。彼は姿を消した。光の彼方へと集束されてゆく姿は、自らその道を選択したようにも見えた。
闇はただ取り残され、我々は個を喪失した。彼という唯一に置き去りにされた暗闇の存在は滑稽だった。そうやって世界の色は薄らいだが、不思議と、彼が居た時分よりも光の筋は差し込まなくなった。闇は安定したように思えた。彼の消失と共に、我らは本来の姿を取り戻したのだとさえ感じた。
焦がれるような想いはなかった。ただ再び彼の声を聞きたいと願う瞬間は間々あった。あの冷たい唇が象る音を求めた。《吹雪》と、私を見つめて呼びかける。
あるとき、扉が開くように窓が現れた。我らはそれを排斥しようとしたが、けれどその向こうには彼の姿があった。彼は何より嫌悪したはずのその光の向こう側に居た。存在していた。生を傍受し、道に立っていた。私の知る蔑みと非哀に歪んだ目はそこにはなく、氷のような忘却さえ彼はもう失っていた。闇はそれを怨んだけれど、私は求めた。器を持たない闇と同化した身で彼を求めた。窓を覗きこんだ。
彼は穏やかな顔つきでそこに居た。私の目の前に居た。私を見つけた瞬間にその安寧の表情を凍らせた。私は器を取り戻した事を知り、歓喜した。《吹雪》だ。この身は《吹雪》だ。
すぐ傍らに在った手首を掴む。彼の肌は変わらず冷たく、頬は白く、瞳には絶望を映していた。私は心から安堵した。光を浴びても彼は彼だった、どれ程安穏とした悲しい光の中に暮らしても、彼は変わらずに居てくれた。白い肌の上に侮蔑の両目はなかったが、代わりに暗澹とした恐怖と戸惑いが灯っていた。闇の気配。それがそこに在るだけで、私は彼を彼と認められた。何も変わらない、暗闇に浮かぶ唯一の個。
私は彼を引き寄せ、青く強張った頬に手を触れた。冷たい肌。いつかと同様に彼は目を細め、愛おしげに私に擦り寄るものだと思っていた。そうでなくてはいけなかった。器を取り戻した私は《吹雪》で、だから彼は私を《吹雪》と呼ぶはずだった。あの熱を孕んだ声で、指を這わせて脚を絡めて。
けれど彼は引き攣った声で私を拒んだ。私の愛した彼の唇からは拒絶の言葉だけが飛び出して、強かにこの手を振り払った。私は驚いて、もう一度今度は彼の腕を取った。彼は泣き出しそうな顔をしていた。そこに私の信じた闇の気配などなく、恐慌だけが広がっていた。目尻に浮かんだ涙に触れるとそれは熱く震えていた。仮面を、闇の中では決して剥がれる事のなかった仮面を失った私は、初めて彼に唇を重ねた。かつてあんなにも冷たく、自嘲と絶望に塗れていた筈の彼の唇は、今はもう人の温もりを帯びていた。口内も、抵抗を抑えつけている手首も、彼の身体の全てが暖かい。それを否定するように、彼が彼であることを確かめるように、何度も深く口付けた。逃げる舌を捕えて呼吸を塞ぐと、彼は次第に力を失ってゆくようだった。唇を離すとぐったりと身を弛緩させる。息だけが浅く震えていた。その目に浮かぶのは確かに非哀と絶望であるはずなのに、彼はかつての彼とは決定的に別のモノだった。私は苛立ち、荒々しく彼を床に倒して髪を引いた。哀願するような目を弱々しくこちらへ向けて、彼はしかし、もう抗うことをしなかった。苦痛と恐怖を受け入れていた。
自然と息が漏れた。それは諦めのようだった。私は乱暴に掴んだ彼の髪を手放し、床に崩れたその身体を組み敷いた。脚を、腹を、胸を、喉を、頬を、確かめるようにゆっくりと撫でた。私の手に合わせて跳ねる身体、ひくりと震える喉。それは私のよく知る彼の肉体だった。
けれど彼は私を《吹雪》とは呼ばない。
器は確かに《吹雪》であるのに、この身は間違いなく、《吹雪》そのものであるのに。彼の嫌った仮面も消えた、私はもう紛いなく《吹雪》である、その筈なのに。
暗闇に沈み忘却にたゆたう、あの美しい彼はどこにもなかった。《吹雪》としての私がもう存在し得ないように、どれほど愛しても、青白く震えるばかりの唇が私の名を紡ぐことはもうないのだ。彼でなくなってしまった見知らぬ青年はいっそ哀れな程に身を固くして、けれど許しを請う事はしなかった。人は絶望の淵に助けを求めるものだが、彼はそれを無意味だと知っているようだった。
《吹雪》と。
そう、名を呼んでほしいだけだった。それが叶わないのなら、ここに存在する意味などなかったし、彼がここに在る必要も感じなかった。私は彼の髪を撫ぜ回し、硬直するその頬を、丁度彼がいつか私の仮面に対してそうしたように舐め上げた。輪郭を確かめるように舌を這わせ、辿りついた先の耳に歯を立てる。は、と肌にかかった怯えの息は熱かった。私は祈った。どうか一度で良いからと。
それでも彼は贖罪に身を浸すように震えるだけだったから、私は悲しみ、次いで昇って来た怒りのままにその白い喉に手をかけた。両掌を首に食いこませる。かつて甘く喘いだそこを塞いでしまうと、ぐうと苦しげに呻く声ばかり喧しく漏れた。濁音を放ち、呼吸を求めて彼は身体を揺さぶったけれど、その目はどこか私の殺意を受け入れているように思えた。
ああ、彼は彼だ。そこに宿った暗闇への諦観は、私の愛した彼そのものだ。
光を厭うた彼はその窓に飲まれて、光そのものと化していた。私はそれでも彼を愛した。名を、どうか名を、一言で良いから、《吹雪》と呼んでほしかった。それが叶わないのならせめて私から、彼の名を呼びたかった。私は彼の名を知らない。彼を包んだ闇の名しか、知らない。
びくびくと彼は痙攣するように身体を反らし、白かったはずの頬を紅潮させていた。絞るようにか細く醜い声を上げて、大きな両目を見開きながら私を見つめる。その焦点が定まらなくなってくる。彼はこのまま死を迎えるだろう。私が殺す。私が壊す。私に名を与えた、私を個として存在させた彼を、私の両手が終わらせる。
《吹雪》は、と彼が言った。記憶に執着した彼の、私を呼ぶ記憶。
──《吹雪》の手はなにも壊さない。
全身から感情が抜け落ちた気がした。力の限り彼の首を絞めつけていた両の手が、あっけなく緩んだ。急速に得られた酸素に、彼は身を丸めて咽込んでいた。可哀想に私の下で貪るように生にしがみ付いている。
無様だった。あれほど高潔に闇に座した彼はもう居ないのだと、改めて思うと喉の奥が焼けるように熱くなった。怒りのような悲しみのようなそれは、けれど、あの深い闇の中では決してこの身を焦がさない感情だ。
私は《吹雪》だった。
未だ激しく呼吸を繰り返しながら、それでも彼は私から目を逸らす事はしなかった。喉を鳴らしながら息を吸い、両の目を赤く染めて私を見ていた。そこに憎しみはなく、ただ自責を映していた。彼は己の罪を見つめていた。
そんな顔をさせたいわけでは、決してなかった。
全てを擲っても高慢と笑う王の如く、己の棄てた過去を嘲笑って良かったのだ。彼は、光を選んだ彼にはそれが出来るはずだった。そうでないのなら消えてしまえと思ったけれど、この器はそれすらも許さない。
私は《吹雪》だから、器を得た私は間違いなく彼の《吹雪》だったから、闇を失った彼を憎む事も壊す事も出来なかった。《吹雪》の両手は光を壊す為にない。
窓を閉じた。
世界は再び闇に包まれ、私は器を手放した。彼を、彼の声を、誰より愛したその名を、失った。私はただの無数に戻った。収束する闇の一欠けら。
闇は深閑と広がっていた。彼の愛した沈黙と平等の世界だった。私はそこに残った光の筋に手を伸ばし、今度こそ引き裂いて壊した。《吹雪》ではない私にはそれが出来たから、光の窓はもう二度と姿を見せなかった。
光の窓
0