とても広い砂漠の上を歩いている途中で急に、あ、ここは砂漠じゃなくて砂時計のなかだ、ということに気付いた僕は、それと同時に、あ、しかもこれ夢だ、ということにも気付いて立ちどまった。随分ながく歩き続けたせいで足がとても疲れていた。夢ならべつにこれ以上先に進む必要はないはずだから、僕はもうここから動かないことに決めて、そうしたらなんだか今までがんばったことが全部無駄だったような気分になってきて思わず溜め息を漏らした。だって夢っていうのは寝ているあいだに見るまぼろしのことだから、どれだけ努力したところでそれを達成させる意味なんてなにもない。
とても広い砂漠のうえに僕はひとりきりで立ちつくしている。
ああ、そうだ違った。砂漠じゃなくて砂時計だ。どこまでも続く乾ききった細やかな砂の大地はけれど本当は壊れた砂時計の底の部分で、それに気付いた僕は、じゃあ、ここから抜けだす方法を考えなくちゃならないはずだった。でもこれってただの夢だし、放っておけば目は覚めるだろうし、両脚はもうくたくたで服も髪も砂まみれで喉だって乾いているし、だから出来れば僕はもう歩きたくはないのだ。ここで立ち止まってぼんやりと空を見上げているうちに朝になるのなら、そのほうが楽じゃないか。
そんなことを考えながら、でも僕は自分がここにいちゃいけないことにも気付いている。ここはあんまりよくないところなのだ。空が暗い。雲ひとつない青空だけがモノクロ写真みたいに色を失っている。けれど頭上に広がっている薄暗い灰色が本当はとてもきれいな青空だっていうことを僕は知っているから、灯りを拒むみたいに閉ざされたその空をじっと見つめているとだんだん悲しくなってくる。僕は悲しいことから目をそらす。足元を見る。白い砂のうえには僕の足跡が残っていて、振り返るとそれはここまで歩いて来た長いみちのりに点々としるしを残している。
けれどそれは僕ひとりきりのものじゃない。
僕の足跡と重なるみたいにもうひとりぶん、誰かの歩いて来たあとが見える。
あれ、これはいったい誰のだろう? 僕はいったいどうしてひとりきりなのだろう? 夢っていうのはあやふやでいい加減なものだから、僕が彼のことを覚えていないのも仕方ないことなのだろうけれど、でも、できれば僕は思い出したいのだ。僕は彼を見つけたくて、彼の足跡をおいかけて、このいつまでも寂しくて悲しい、時の止まった場所までがんばって歩いてきたのだから。
僕は僕の知っているいろんな人の顔を思い浮かべて、はたして自分がいったい誰を追いかけてきたのかを思いだそうとする。親しい友人たちの見慣れた顔と僕を呼ぶ声を胸のなかで再生して、僕はあたたかな気持ちになる。吹雪、吹雪、と彼らは僕の名を呼んでくれるのだけど、でも、そのなかにひとりだけかたくなに口を閉ざしている子がいた。彼はどこか緊張した面持ちで唇を引き締めていたかとおもうと安堵したように微笑んだり呆れたふうに嘆息してみせたり、いろんな表情を僕に見せてくれるのに決して名前を呼んではくれない。これは誰だろう? なんで僕の名前を口にしないんだろう?
しばらく首を傾げて考えていると、理由はすぐにわかった。
僕は彼を知らないのだ。記憶にない、まったく出会ったことのない男の子。だから彼は僕の名前を呼ばない。当たり前だ、僕は彼を覚えていないんだから。えええ、じゃあ、これいったい誰? どうして僕は知らないはずの人の表情をこんなに鮮明に思い浮かべることができるんだ?
それはもちろん、ここが夢の世界だからだ。夢っていうのはあやふやでいい加減で、だから、僕がまったく知らないはずの彼のことをまるで大切な友だちみたいに感じるのも別段おかしなことではないのだ。僕は僕の胸のうちに浮かんだ彼の笑い声とか、悔しそうな声とか、ちょっとだけ拗ねた声とか、そういうのはイメージ出来るのに肝心の僕の名を呼ぶ声だけを聞けなくて、それがちょっと残念で寂しく思う。自分は彼を探しているのだということには、もうちゃんと気付いていた。けれど彼の足跡は途切れてしまっていて、どこにも残っていなくって、これ以上探すことはできない。空が暗い。ここはとても良くないところだ。
――仕方がない、帰ろう。
僕は決意して、重い足を引きずって、来た道を引き返すことにした。
せっかくがんばって彼を探しに来たのだけど、本当は、きちんと見つけて、それでふたりでいっしょに帰りたかったのだけど、でも僕は彼のことを知らないし、知らない人のためにこんな悲しい場所でずっと立ちつくしていられるほどお人よしでもない。手掛かりだって見失ってしまった。僕はもう彼を見つけ出せないのだ。
でもそうやってとぼとぼと引きかえしはじめた僕の腕を誰かが引っぱってくる。ぐいっと、まとわりつくように、でもたしかに、引っぱってくる。おや、と僕は思って振り返る。
空が暗い。
翳った視界に彼の姿は映らない。
けれどたしかに彼は僕を引きとめてひとりで帰らないでほしいと合図するから、僕は、よしじゃあやっぱり道を戻ることはやめてここにいよう、とさっき決めたことをあっさり覆し、もう一度空を見る。灰色の空は、でも、とても青くて高い。うっすらと白を纏った真冬の空のように、澄んでいるのか濁っているのかよくわからなくて、ただひたすらにきれいなだけだ。どこからか、さらさらと砂の零れる音が聞こえる。ここは砂時計の中だから。
彼が僕の腕を掴んでいる。
それはとても不安そうで、なにかに怯えるみたいに頼りなげなのに、同時に決して僕を逃すまいとするように力強い。痛みを伴うほど爪を立てながら両手で縋りついてくる。彼はこの砂の海にひとり溺れるのをひどく恐れている。
それを理解した僕は、だったら僕もいっしょに沈んであげよう、と考える。我ながら突拍子もない思いつきのようにも感じるけれど、でも、そうするのがなにより自然なことのように強く思うのだ。ほんとうはいっしょに帰りたかったけれど、この場所から抜けだしたかったけれど、どうやらそれも出来そうにはないし、だったらせめて彼の孤独を和らげるくらいのことはしたかった。僕は彼のことをとても好きなのだ。彼のためになにかをしてあげたい。
けれど彼の名前を思い出せない僕はただ隣にいることさえも許されず、結局はぱちりと目を覚ます。視界が暗く広がっている。灰色の青空はどこにもなくて砂の音もしなくて、夜の気配だけが静寂を奏でている。
なんだかとても変な夢を見たような気がするな、と漠然と思う。
陽はまだ昇っていなくて室内も窓の外も真っ暗で、僕はベッドの上で仰向けに転がったままぼんやりと夢のなかの出来ごとを辿っている。彼の顔を思いだせるような気がするけれど上手くいかなくて、段々とぼやけてくる記憶はもう彼だったのか彼女だったのか、それが本当に知らない人だったのか知らないと思いこんでいただけだったのかよくわからなくなってきて、すぐに、まぁいいか、と諦めてしまうことにする。
もう一度目を閉じるとふんわりとした眠気が身体を支配する。
夢の淵でゆらゆらと彷徨いながら、僕は考えている。彼のことを考えている。この先の道のどこかに知らないはずの彼がいるのなら、僕はまたがんばってそこまで歩いてゆこうと、そう心に決める。ほんとうに失ってしまうまえに、今度こそいっしょに帰ってこよう。それが無理なら、いっしょに沈んでしまおう。僕にはそれが出来るのだ。彼がまたこの腕をひっぱってくる限りは。
ランドマークに縋って
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