浮かんでいるのか沈んでいるのか、あるいは溺れているのか、よくわからないけれどどうやら、俺は水の中にいるようだった。
目を閉じても開いてもなにも見えなくて、どちらが上でどちらが下なのかも判然としない。まるで巨大な真っ黒い生き物の中にでも収まってしまったようで、けれどこの場所がそうでないことを俺は知っている。ここは水の中だ。深い、とても深い水中で、俺の身体はゆらゆらと漂っている。
まるで夢を見ているようだ、と思うので、だったらこれは決して夢なんかじゃないのだろう。
はたしてなぜ自分がこんなところにいるのかはわからない。突然暗闇に放り出されたのにも関わらず、不思議と気持ちは落ち着いていた。俺は自ら望んでここに来たのかもしれない、と思う。だったらきっとそうなのだろう。俺は自分の意思でこの深海を選んだのだ。
まっくらだ、と呟くと、まっくらだろう、となにかが返した。それは打てば響くこだまのようで、寄せては返す波のようで、とても自然な音だったので俺はまったく驚かない。まっくらだ。そうとも、まっくらだ。当たり前のことを繰り返し呟くたびに、口の端から漏れた酸素がどこだかわからない場所へぼこぼこと消えていってしまうのを感じる。このままじきに息が持たなくなって、俺は死んでしまうのだろうか。そう考えるとふと恐怖らしき感情が芽生えた。死にたいわけではないのだ。ここは心地がいいけれど、俺は決して、死を望んでいるわけではない。
その恐れをごまかすように、ただ水の揺れるのに任せるだけだった手足を伸ばしてみる。液体は思うより細やかだ。まるで砂塵のように粒となって肌に触れるようで、それらがゆっくりと、俺の身体のどこかにある隙間を探して内側へと入り込んでくるような感じがする。不快ではないけれどなんだかむずがゆくて俺はすこし笑う。俺の全身から呼吸をするためのすべてが泡となってどこか遠くへ行ってしまって、代わりにまっくらな冷たい水が入り込んできている。
それは傷口から溢れる血液のように止めどない。前へ前へとひたすらに進むだけの時間の流れにも少し似ていた。俺から零れ続けるこの気泡は、だとすれば、記憶だ。
気づいた俺は慌ててそれらを取り戻そうと手を伸ばした。もがくように水をかくと、そのたびにまたごぼごぼと崩れ落ちてゆく。だめだ、と思う。消えてはいけないのに、失ってはいけないのに、俺から零れ出た記憶たちは指のあいだをすり抜けてまっくらの水の中に溶けていってしまう。俺は悲しくて涙を流すけれどそれさえも冷たい水に飲み込まれてゆく。どうにか取り戻そうとがむしゃらに手を伸ばしてもがいているうちに、指先になにかが触れるのがわかった。思わずそれを握りしめる。
冷え切った闇のなかでそれは妙にあたたかだった。無意識に力をこめ、爪を立てるように両手で縋りつく。俺の記憶のひとかけら。大事な、とても大事な、思い出のひとつ。
まっくらでなにも見えないけれど、どうやら俺がしがみ付いているのは誰かの腕のようだった。力任せに掴まれてきっと痛いだろうに、彼は怒りだすようなそぶりもなく、むしろ嬉しげな声音で言った。「やっと会えた」
声は優しかった。俺の独白に返ってくる、冷たい波のような音とはまったく違っていた。それが懐かしくて俺はまた泣き出したくなるのだけれど、これ以上を失ってはならないと必死で押しとどめた。俺の両の手は彼の腕を握りしめるのに精一杯で、他の記憶たちはいまこの瞬間にもしゃぼんのように四散している。
「ずっと探していたんだ」と彼は言った。「きみに会いたくて、きみを助けたくて、探しに来たんだ」
あたたかな気配はそう言って俺に微笑んだようだった。暗い水の向こうに彼の表情は伺えない。穏やかに届くその声すら、いまの俺の記憶には残っていない。彼はだれだろう、どこからやって来たのだろう。俺を助けたいと、そう言ったけれど、はたしていったいなにから救うというのだろう。
わからないことばかりだった。ただ、唯一残された大切だったはずのものに、必死に縋りついていた。
恐慌にでも陥るようにただ夢中で両手に力を込める俺を、彼は振り払う素振りさえ見せずに受け入れていた。このままでは一緒に沈んでしまうだけなのに、それすら構わないのだというふうに彼は優しげな手付きで俺の肩に少し触れたようだった。あたたかい。呼吸が出来ない。俺は彼の腕を握りしめる。
苦しくはないのかと訊ねると、彼は「少しだけ」と言って苦笑した。「けど、平気だよ。随分深くまで来てしまった。本当はこんなところまで沈んでしまう前に助けたかったんだけど、ごめんね、間に合わなくて」
愛しい声は冷たさを孕み始めていた。俺と同じように、彼の内側にもまた、この冷たいまっくらな水がひたひたと入り込んでいるようだった。間に合わなかったと言う彼はすでになにかを諦めてしまっていて、俺の両手を受け入れるのと同時にこの暗闇も受諾している。疲れきった四肢をなげうつように彼は俺に身を任せている。
俺はその身体に懸命に縋りつくだけなので、ふたりは決して、もう浮かびあがることはないのだろう。俺はかすかに安堵したけれど、それが孤独を和らげてくれる彼の存在に対してなのか、あるいはもう後戻り出来ないという事実に対してなのかはわからなかった。ただどれほどの安寧を心に覚えたところで、呼吸は苦しいままだ。まっくらな闇は俺の全部を飲み込んでしまう。
もうなんの記憶も俺には残されていなかった。彼のことを知っているはずなのに、すでになにも覚えてはいなかった。彼がどんな姿をしていて俺にどんな声で語りかけたのか、僅かな残滓さえ失って、ただ彼のことを大事に思う感情だけが甘く粘ついたクリームみたいに心臓のあたりに纏わりついている。
自分の名前さえ覚えてはいない。俺はこのまま冷たい水に飲まれるだけだから、個を失って、まっくらに染まるだけだから、きっと名など必要ないのだ。それを確信しながら、けれどやっぱり寂しくて、失うことは恐ろしくて、俺はまた彼に取り縋った。大事な俺の記憶。こんなところまで追いかけて来てくれた、探しに来てくれた、このまま一緒に沈んでくれるという彼にだけは、俺のことを覚えていてほしいと思った。
彼に伝えるための言葉を探して口を開く。もうなにも残っていない口の端からそれでも小さな泡の粒が漏れた。呼吸が出来ない。なにかが足りない。完全に沈んでしまうためのなにかが。
――俺を忘れないで。
硬く握りしめた両手にいっそう力を込めて、ただどうにかそれだけを伝えようとした、俺の言葉を遮ったのはあの冷たい声だった。もう遅い。もう手遅れだ。なにもかもが、もう、とっくに終わりを迎えている。
彼は変わらず微笑んだようすで俺を見つめていた。闇の中でもそれは妙に鮮やかに俺の視界を彩った。彼は俺のことを大切なのだと言い、力になりたいのだと言い、そばにいたいのだと言った。それからふいになにかを、そういえば、と切り出すような口調で、彼は言った。僕はきみを知らないんだ、と、あの優しい声のままで言った。
「きみは誰だい?」
俺は手を離した。
囚人を捕えるような力強さで握っていたはずの彼の腕があっさりと手元を離れてゆく。彼の身体が離れてゆく。零れた泡のように水中を舞い、塵屑のようにあっけなくかき消えた。ああ、と俺は嘆息する。そのひと息のなかに、零れる気泡はもう欠片も含まれてはいなかった。
あの声が言う。記憶はお前を裏切り続ける。すべて手放してしまわない限り、何度でも裏切り、傷つけ続ける。俺は沈んでゆく身体をその声に預けながら、やはり、まっくらだ、と呟く。すると声は、そうとも、と返す。まっくらだとも、お前の望んだ、まっくらだ。
このまっくらの中で俺に手放された彼ははたしてどこへ向かったろうか。闇に溶けて、もう、失くなってしまったのだろうか。
不思議と息はもう苦しくはなかった。
これが夢ならよかったのになとふいに思う。夢ならばどんなにかよかったろうと考える。まっくらに食い荒されながら俺の身体はゆらゆらと静かに沈んでゆく。夢ならばきっと、もう二度と目覚めることはない。
ランドマークが壊れて
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