「ぼくはただきみにさよならを言う練習をする」

 もしかして僕は藤原に避けられているのではないだろうか、と吹雪が気づいたのは、なんの変哲もない、いつもの教室ですごす昼下がりのことだった。
 その日の最後の授業は特別な専門性を持たない数学科目で、吹雪は教材の準備もそこそこに、短い休み時間を友人たちとの雑談に費やしている真っ最中であった。やれ昨夜のプロリーグがどうのといった他愛のない会話のやりとりに、藤原の声は混じらない。吹雪の隣の席で彼は静かに自分のノートと向き合っていて、クラスメイトたちの談笑をのんびりと聞き流しているように見えた。
 吹雪の声はよく通る。
 教室全体に響かせるように、けれど決して大声でがなるようなことはしないままで吹雪は笑う。その言葉と笑顔を教室の中心へと向けながら、吹雪はけれど、いつものとおりに藤原の隣に座っていた。真面目な友人の勉学を邪魔する気など微塵もないが、誰と会話をしようと、そこから移動しようとはあまり考えなかった。
 そうやって意味もなく自分の隣席を陣取る賑やかな友人に対し、とうの藤原はというと特別に嫌な顔を見せることもなく(実際には皆無というわけではなかったが)大抵は黙々と机に向かっていたので、概ね容認されているものと吹雪は思ってすごしていた。吹雪は藤原のことが好きだった。だってきみの隣は居心地が良いんだ、ここが僕の特等席なのさ、と大袈裟に口にしてやると、友人はなにをばかなと呆れた言葉を返しながら、目に見えて嬉しげに頬をほころばせるのだ。
 露骨な愛情表現には常に戸惑いを見せる彼が、けれど自分自身から溢れる歓喜や情愛にまったく制御を設けないのを見ていると、吹雪はいつだって奇妙なまでに嬉しくなった。藤原は好意を隠さない。愛に正直なたちである吹雪にとって、やんわりと愛情を溢れさせる彼の両目は好ましかった。藤原が嬉しげだと吹雪も嬉しくなる。もっと喜ばせてやりたくなる。シンプルな欲求のまま慈しむように接すると、彼はまた不慣れなようすで幸福を滲ませるのだった。
 そういうわけだったので、吹雪は藤原を好きだと感じるのと同時に、彼が自分のことを好いているということにも強い確信を持っていた。本人による自覚の有無はさておき、少なくとも吹雪自身は胸を張り、藤原優介は天上院吹雪を愛しているものだと信じていたのである。
 ところが振り払われた。クラスメイトと交わす言葉の隙間、隣の藤原がちいさく「あ」と零すのが聴こえ、同時に自分の足元に彼のペンが転がり落ちてきた、その時だった。吹雪はぺちゃくちゃと喋りつづける口を閉じることなく身を屈め、当たり前にそれを拾い上げて藤原の手元へ置くと、視線だけで「どうぞ」というふうに微笑んだ。彼のくちびるの隙間から、漏れるように微かな「ありがとう」が返ってくる。自然なやりとりだった、と思う。ただペンを手渡す先の指がほんのすこし不安げに見えたから、何気なく、その手に軽く触れたのだ。なにかあったのかな、と考えながら、笑顔はあっけなく教室の中央へと戻し、会話の矛先はクラスメイトへと向けたままで、けれど藤原のことを思って彼の手に触れたのだ。
 途端に、ぱしん、と軽く音さえ立てて、吹雪の手は払われた。もちろん藤原本人によってである。
 なにせ吹雪はすでに彼から視線を逸らしてしまっていたので、その瞬間にはなにが起こったのかまったく理解出来なかった。自身の手を跳ねかえした謎の衝撃がいったいなんだったのかを考え、天才と称賛されるその頭脳を瞬時に高速回転させてから、吹雪はぽかんとした。そばにいた友人たち全員が、ぎょっと目を丸めるほどの見事なぽかんであった。
 あっという間に教室全体が戸惑うような空気に支配されたが、そんなことを気にしている場合ではない。継続するぽかんの合間に何度か両目を瞬かせ、吹雪は言った。「どうしたの?」
 なにか気に障るようなことをしただろうか、と、極真面目に吹雪は思案し、その結果の問いかけだった。それを受けて藤原が返したのは、机に伏せられた少しばかり強張った視線と、べつに、という淡々とした声だけだった。

 どうやら自分は彼に避けられているらしいぞ、と吹雪が気づいたのは、つまりこのときなのだった。
 半ば唖然としたままの友人に目もくれず、藤原はすっくと立ち上がりついに座席を移動した。慌ててそれを追おうとした吹雪を、授業開始のチャイムと教師の声が引き止める。
 困惑のまま着席した吹雪は、話半分に授業を聞き流しながら考えた。なぜだろう、なにが悪かったのだろう、僕はなにか彼を怒らせるようなことをしただろうか。心当たりを懸命に思い出そうとするが、しかし、まったく見事に覚えがない。原因の究明に思考を走らせながら、吹雪はすこし離れた前方の席に座る藤原を見ていた。生真面目に背筋を伸ばし、几帳面にペンを滑らせる白い制服。
 それをぼんやりと眺めるうちに、思い至る。そういえば今日の朝、廊下で「おはよう」と声をかけたときにも、藤原は吹雪に一瞥もくれることなくすっと通りすぎて行ったのではなかったか。あのときは単に気づかなかっただけだろうとしか感じなかったが、よくよく考えてみれば、今朝から藤原と会話らしい会話などひとことも交わしていない。こちらから何度か話しかけはしたものの、彼の返す言葉は「ん」だの「まぁ」だの「へぇ」だのといった単調な、相槌っぽく取り繕っただけの適当な返答ばかりで、滑稽にも吹雪はそれに一方的に話題を投げつけることで彼とコミュニケーションをとっているつもりになっていた。いつもどおりのやりとりが行われていると、そんな錯覚を起こしていた。
 なんということだ。
 吹雪は気づき、愕然とした。教師がこちらに向けてなにかを言っているけれどよく聞こえなかった。今朝方からの藤原にとって吹雪とは、まさにこの教師のように、なにを言われても適当に頷いて見せればあしらえるような存在だったのだ。
 吹雪はもう一度思う。なんということだ。いったいいつから、こんなことになってしまっていたのだ。
 昨日はどうだったろう。彼の態度におかしいところはなかっただろうか。その前は? 吹雪は頭を捻り続けた。教師がまたなにか言ってくるのに対し、やはりハイハイと適当に流してしまおうとも思ったが、けれど今しがたそれをされる悲しみを思い知ったばかりの吹雪は結局真面目に授業を受けることにした。
 次々と提示される数式を解きながら、吹雪の出した結論はひとつ。
 昨日までは普通だった、それは間違いない。今朝からなにかがおかしくなったのだ。つまり、いま求めるべきは原因だ。
 いったいなにが藤原の機嫌を損ねてしまったのか、吹雪にはそれがさっぱりわからない。

* * *

 授業を終え、寮へと戻り、吹雪は亮と向かい合っていた。
 はたして自分のなにが悪かったのか、あるいはただの気まぐれなのか、聴講を終えてからの吹雪は真偽を確かめるべく幾度となく藤原に近付いたが、接触はことごとく無視された。「藤原」と名前を呼べば、彼はさもなにも聞こえませんでしたという表情でふっと身を翻し、大して親しくもないような教員を相手にこれ見よがしにむつかしげな会話などはじめてしまう。どうにか割って入り、寮へと引き返す彼を追いかけながら問いかけてみたものの、返ってくるのは相変わらずの「なに?」「そう」「ふうん」といった気のない相槌のローテーションで、結局彼は吹雪の疑問にはなにひとつ回答を示さなかった。「なぜ僕を避けるんだい?」「べつに」では話にならない。
 吹雪は混乱し、そして大変悲しんでいた。彼のあとを追いながら、どうして? なぜ? と繰り返す自分は、きっとみっともないほどオロオロとしていたことだろう。そのせいで藤原を引き止めきれず、「課題やるから」という一言を寄こしたきり目の前でぱったり閉じられた、薄いドアをノックすることさえ出来なかった。それほど吹雪は落ち込んでいたのだ。ショックだったのだ。時間が経つほどその憂いは積もり、結局彼は藤原に突っぱねられたその足でふらふらと、丸藤亮の部屋を訪ねたのであった。
 けれど迎え入れてくれた亮は不審そうに、「なにかの勘違いじゃないか?」と言ったので、傷心の吹雪は悲しみから一転、がっくりと肩を落とした。彼はいったいどこに目をつけているのだろう、と、自分のことを棚にあげて呆れかえる。
「きみ、あれだよね、今日ずっと僕のとなりにいたよね? さっきの休み時間の藤原の態度も見てたよね?」
「たしかに見ていたが、あれは突然触られて動転しただけじゃないのか? 藤原は自習に集中していたし、驚いたんだろう」
「ええ、でも僕、よく自習中の藤原の手とか髪とか触って遊んでるよ?」
「…………」亮は少々うろんな目つきで吹雪を見つめ、それから、「それがストレスになっていたんじゃないか?」といやに神妙に言った。
「ストレス背負ってそうに見えた?」
「いや。だがあれは、ときどき妙に不安定なところがあるからな。瞬間的に機嫌が悪かっただけかもしれん」
 なるほど、見解としては妥当である。
 けれど吹雪は納得しきれず、やはり首を捻った。どうもそんな簡単なことではないように思えるのだ。もしも彼が単純に、驚いただけだとか、一瞬の気まぐれで吹雪を疎ましく感じただけなのだとしたら、「どうしたの?」という問いかけに「べつに」とは返さない。あんなふうに硬い視線だけで感情を閉ざさず、きっともっと、彼の方が傷ついたような顔をする。
 オロオロとあとをついてくる吹雪を、拒絶するようにあしらったりはしないはずだ。絶対に。
 そう考えるといよいよ憂欝な気持ちになってきて、吹雪は再びうなだれた。自分は藤原に拒絶されたのだと改めて思い至り、一層気分が沈んでくる。大袈裟に溜め息をつく吹雪を、亮は多少なりと気の毒そうに眺め、やれやれとばかりに肩をすくめて立ち上がった。
「どこへ行くんだい?」
「当事者を抜きに悩んでも埒が明かん。藤原を連れてくる」
 そう一言残して立ち上がり、部屋をあとにした亮の背中は大変に格好良かった。
 吹雪は少々感動しながらその姿を見送ったが、しかし十五分ほど後、自室へと帰還してきた彼はあまり格好よくはなかった。
 連れてくると豪語したわりに、藤原の姿はどこにもなかった。きりりと眉を寄せた亮は無愛想に怒っているようにも見えたが、傷つき悲しみ落ち込んでいるのだと吹雪にはひと目で理解できた。扉は開かれなかったのだ。丸藤亮の言葉にさえ。
 つまり、これで亮の言う勘違い説は否定されたことになる。ついでに藤原は吹雪だけを避けているわけではないことも判明した。
「……心中お察しするけど、でもさ、なんの根拠もなく自分だけは特別だと思い込んで行動するのは、きみの悪い癖だと思うよ?」
 吹雪の率直な感想に、亮は気分を害したようすもなくただ沈痛な溜め息を漏らすと、ごくごく深刻な声音で「お前の巻き添えを食らっただけだ」と返した。そうかな、と言うと、そうだ、と断言された。本当に悪い癖だと吹雪は思う。
「なにをしたか知らんが、さっさと謝って来い」
 はあい、と叱られた子どものように間延びした声で答え、吹雪は再び悩みこむように腕を組んだ。
 もはや理由や原因を推測するよりも、なにより藤原を部屋から引っぱりだす方法ばかりを思案していた。

* * *

 さて夕食時になっても一向に部屋から出てこない藤原に対し、吹雪がまず思いついたのは《天岩戸作戦》だった。
 藤原の部屋の前で歌ったり踊ったりデュエルしたりするという、実に単純な計画である。突然のどんちゃんさわぎに驚いた彼が顔を出してくれるのを期待する、ただそれだけの作戦は、しかし丸藤亮の一言によってあっさりと却下された。他の寮生に迷惑をかけるな、という常識的なものが理由の第一だが、なによりその程度で藤原が出てくるわけがないと彼は主張した。
「返事すらなかったんだぞ。一言もだ。外が騒がしい程度で出てくるものか」
 憮然とそう訴える亮を苦笑いで慰めながら、吹雪は、それではどうしようかと考えていた。いくらなんでもドアや窓を破るような真似をするほど焦ってはいない。甘いもので釣るのは彼を構ううえでの定石だが、今その手を使おうと思うほどバカでもない。
 というわけで、最終的に吹雪のとった行動は彼らしくないシンプルで地味なものになった。早朝、まだ朝陽の見えない頃から藤原の部屋の前で張り込み、彼が部屋を出てくるのを待つことにしたのである。
 藤原に授業を受ける気があるかどうかはわからなかった。基本的に彼は真面目な生徒だが、ときどき、なにかを求めるようにふらりと教室から姿を消してしまうことがある。藤原がそうするのはたぶん亮の言ったような不安定な感情を抱えているときで、吹雪はその揺らぎの気配に気付くのが、実はすこし苦手だった。
 いつだって遅れてしまうのだ。藤原が教室からいなくなってはじめて、吹雪は彼の不安を知る。探しにゆくのはそのあとで、だから本当は、今日こそはと、そう思ったのだ。今日こそ自分は間に合うはずだった。その気配をきちんと察して、彼の不安を取り除くことが出来るのだと信じて、かすかに怯えを滲ませた藤原の指先に手を伸ばした。だいじょうぶだと伝えたくて触れたのだ。
 薄暗い廊下にひとり佇みながら、藤原は僕のこういうところが嫌になったのかもしれない、とふいに思う。
 吹雪はすごいな、と言われることが多かった。大勢の前で派手にデュエルを行うとき、学校中の人々に声をかけてビーチでのスポーツ大会を主催したとき、授業でも遊びでも、吹雪はすごいな、と藤原は呟くようにしてよくそう言った。彼がほほえんでそれを告げるとき、吹雪はまっすぐに受け止めて、褒められたことをただただ嬉しく思っていた。向けられる笑顔から信頼や愛情を感じとって、それと同じだけのものを自分からも彼に手渡したいと、そんなことばかりを考えていた。
 けれど実のところ、吹雪はべつにすごくはないのだ。よく失敗するし、すぐに間違える。後悔するのは得意ではないけれど、日々人並みに反省しながら生きているつもりだった。
 言われなければわからないことがたくさんあるのだ。
 藤原がなにを思っているのかなんて、そんなの全てを理解できるとはもちろん思っていない。けれど隣にいることで、少しでも知れれば嬉しいし、自分のことを知ってもらえればもっともっと嬉しかった。感情は相互に積み重なって成長する。吹雪はそれを愛と呼んでやまないけれど、それでも気付けないことばかりだった。せっかく隣席を手に入れても、それを許されていたとしても、きちんと見つめていないのでは意味がない。
 今日こそはと思ったのに、まったく全てが遅すぎた。避けられていることにさえ、拒絶されるまで気付けなかった。
 これでは嫌われても仕方がない。もう何度目ともわからない嘆息に自嘲を交えていると、それを遮るようなタイミングで、かすかに人の動く気配がした。おや、と思うのと同時に、扉が開く。吹雪は顔を上げた。窓の外では太陽が筋のような光を生んで、ゆっくりと朝を作りだそうとしていた。
 控えめに開いたドアから顔を出した藤原は、そこに吹雪の存在を感じとって出てきたわけではないようだった。彼は一瞬なにごとかというふうに目を丸めてこちらを見つめ、次の瞬間には大慌てで再び部屋へと戻ろうとしたが、しかし先に動いたのは吹雪のほうだった。
 閉まりかけたドアの隙間にすばやく身体をねじ入れ、するりと室内にもぐりこむ。ついでに藤原の手を取って、驚きのあまり今にも悲鳴をあげそうな彼の口を片手で塞いだ。完全に押し込み強盗の体であるが、こんな早朝に騒がれては天岩戸作戦を取りやめた意味がなくなってしまう。
 藤原はしばらくじたばたともがいていたが、吹雪がゆっくりと手を離すのと同時に、少なくとも叫ぶことはやめにしたらしい。まだ混乱しているようで、いかにも挙動不審な目つきできょろきょろと吹雪を見やり、言葉を探すように口を開けたり閉じたりしている。
 そのようすがあまりにいつも通りの藤原優介だったので、吹雪は思わずくすりと笑んだ。不安げに見つめてくる藤原に、驚かせてごめんね、と言うと彼はぎゅっとくちびるを噛んだ。すこしだけ、吹雪を睨んだみたいだった。
「ほんとは昨日の夜、食事の時間にも亮とずっと待ってたんだけど、結局出てこなかっただろう? 仕方ないから朝にしてみた。早めに来ておいて正解だったね」
「……なんで」
「たしかめたかったんだ」
「…………」
 なにを、と藤原は問わなかった。吹雪から目を逸らして、前髪で表情を隠そうとするように俯いたきり押し黙る。再びぴったりと閉じられた扉を背に、吹雪は柔和に笑んだ。彼の姿を見た途端、さっきまでの不安が嘘みたいに消えてゆくのが、自分のことなのにひどくおかしかった。
「ね、藤原。どうして僕を避けるだい? 僕だけじゃないよね、亮のことも、クラスのみんなのことも、昨日の朝から急に不自然に接するようになった。気付くのが遅くてごめん。でも知りたいんだ、きみのこと。理由があるなら教えてほしい」
「……避けていたわけじゃない」
「そう?」
「みんなを避けようと思ったわけじゃない。……でも吹雪が、いたから。吹雪は絶対、俺のそばにいようとするから、だから」
 ぽつりぽつりと、不明瞭な言葉を断片的に落とすように藤原は言った。俯きながら、あれこれと口実を思案するようにぎゅうと身を縮こまらせていた彼は、けれど急に意を決したように顔を上げた。
「嫌いなんだ」
 むらさきの目を揺らしながら、藤原は吹雪を見つめていた。かすかに震えるくちびるを一度閉じて、再びこじ開け、彼は言った。
「吹雪のこと、嫌いになった。だからもう近付かないでほしい。隣に座るのも、触ってくるのも、やめてくれないか。嫌なんだ、吹雪のこと。もう嫌になった」
 藤原の部屋のカーテンはぴたりと閉じられていて、その向こうにはもう朝陽が見えているはずなのに室内は薄暗いままだった。夜の闇からまだ抜け出せていない、広い室内に彼の言葉が溶け込むのを、吹雪は不思議な気持ちで聞いていた。
 藤原は僕のことが嫌いになったのかもしれない。
 ほんのついさっきまでそう考え、たしかに落ち込んでいたはずなのに、いざ目の前の彼に同じことを告げられてもさっぱり傷つかないのが不思議だった。明確な拒絶の言葉にきょとんと目を丸めながら、吹雪は言った。
「それは嘘だ」
 さらりと口から出た本音は、思いがけず軽い声だった。まるで今にも歌いだしそうな朗らかな口調に、自分でも少し驚いた。「きみは嘘をついている」
 藤原は再びくちびるを噛んで黙り込み、吹雪の視線から逃れるみたいに顔を俯けた。嘘じゃない、とか細い声で言ったようだった。
 彼がときおり見せるその寂しさのようなものを感じとるのが、吹雪は少し苦手だった。正直、よく分からないのだ。藤原がなにに怯えているのか、なにを拒絶しようとしているのか、吹雪にはさっぱり理解できない。「嫌いだ」ともう一度ちいさく呟く、その呪文のような言葉に彼はなにを閉じ込めようとしているのだろう。
 よく分からない。もっと耳を傾け、触れて、無理にでも彼の内側に踏み込むような真似をすれば、ひょっとしたらなにかが変わるのかもしれない。けれど敢えてそれをしなくても、知っていることがひとつだけあった。それさえ理解していればあとのことは些末であると、吹雪はそう思っていた。
 他のことはともかく、これだけは断言出来る。
「嫌いになったなんて嘘だ。きみは僕のことが大好きだって、そう顔に書いてある」
 目を見ればわかるよ、と微笑んだ吹雪に、藤原は一瞬だけ呆けたふうに目を丸めた。言われたことの意味を噛みしめるみたいにくしゃりと顔をしかめ、彼はなにか言い返す言葉を探したようだったけれど、結局くちびるを閉ざしてそれから深く深く息を吐いた。否定するのを諦めるみたいに、強張らせていた身体をゆっくり解いて「そっか」と彼は言った。柔らかな声だった。
「こんな理由じゃ、やっぱりだめか。もしかしたら納得してくれるかもしれないと思ったんだけど、――吹雪はすごいな」
 吹雪が言葉を返すより先に、藤原は顔を歪めるようにして笑った。安堵に泣きだすのを堪えるような声で、彼はごめんと呟き、恥じ入るように眉を下げた。
「吹雪のこともみんなのことも、本当は嫌いになんかなってない。ただちょっと試してみたかっただけなんだ」
「試す?」
「うん、でも失敗した。顔に書いてあるなら仕方ないな」
 言いながら苦笑し、藤原は片手で自分の頬にぺたぺたと触れた。けっこう頑張ったんだけど、と自嘲めいた声で言う。「嫌いになるなんて無理だった。俺、吹雪のこと好きだよ」
 思いがけずさらりと寄せられた一言に、吹雪は一瞬固まった。珍しく声にして手渡された好意に驚き、ついで何度も頭の中で繰り返し再生し、それから照れた。嬉しかったので「ありがとう」と返すと、礼を言われるとは思わなかったようで、藤原は少し驚いた顔をしていた。

* * *

 吹雪が藤原を引きつれて食堂に現れると、すでに朝食を前にしていた亮は別段驚いたようすも、悔しそうなようすも見せることはなく「おはよう」とだけ言った。かすかに緊張した声音で藤原が「おはよう」と返すのを、彼はどこか満足そうに眺め、それからいつもの通りに無駄なく食事の摂取を終えるとさっさと教室へと向かってしまった。
「ああやってクールに振る舞ってるけど、亮ね、昨日はすごく落ち込んでたんだよ」
 意地悪く笑って告げ口してやると、藤原は思ってもみなかったというように目を丸め、それからバツが悪そうな顔をした。「あとで謝っとく」と呟く彼の目に丸藤亮への好意が映る。吹雪は嬉しくなってくすくすと笑った。
 はたして藤原が試したかったのは、吹雪の反応だったのだろうか。あるいは、吹雪を嫌うことが出来るか、それを知りたかったのだろうか。嫌悪の感情を、ただ誰かにぶつけてみたくなったのだろうか。少ない朝食を食べ終えた藤原は所在なげに時計を見やっている。そろそろ頃あいだろうかというふうに立ち上がろうとした彼の、その右手に吹雪は触れてみた。今度こそ振り払われることなく受け入れられた、冷たい指先は少し戸惑うような素振りのあとで、吹雪のあたたかな手を僅かに握り返した。
「僕も藤原のこと大好きだから、藤原にも、僕のことをずっと好きでいてもらいたいな」
 言いながら顔を覗きこむ。むらさきの両目がどこか悲しげな歓喜を滲ませる。
 藤原は口をもごもごとさせてなにか言葉を探していたようだけれど、結局は羞恥を隠すように長く嘆息してみせた。「吹雪は本当、すぐにそういうことを言う」と、呆れ混じりにぶつぶつと零しながら、彼はやはりいつものように頬を緩めている。
 そうやって目に見えて愛情を振りまきながら、しかし藤原は付け足すように小さく「ごめん」と呟いた。その謝罪にかすかに首を傾げてから、吹雪は気にしていないよというふうに笑ってみせる。彼はそれにもまた「ごめん」と言った。
 懺悔の理由はわからなかった。吹雪は理解しなくても良いのだというふうに、藤原はどこか申し訳なさそうにはにかんだけれど、そこに浮かび上がるのは間違いなく、吹雪の愛する偽りない愛情そのものなのだった。

0
2011-08-18