なんの挨拶も脈絡もなく、天上院吹雪は突然部屋にやってきて言った。
「僕はね亮、彼のためにならいつだって最高の自分でありたいと思っているんだ。ほかの誰にも決して負けない、そしてなにより、過去のあらゆる自分自身に決して引けを取らない、誇れる僕でありたい。分かるかい、すべての苦難を乗り越え、どんな険しい試練にも耐え抜き、僕は僕史上最強の天上院吹雪でありたいんだよ。さいわい僕は若いしカッコいい。頭も良いし、スポーツだって出来る。ごらんのとおりちょっとやそっとじゃお目にかかれないミラクルボーイさ。だがひとつ、たったひとつだけ、僕にはどうしようもない弱点があるんだ。ああ、神さまは本当に意地が悪い! 僕と彼との交遊を阻む障害として、こんな大きな壁を用意してくるんだから! けれど僕は誓ったんだ、必ず誰にも負けない自分であろうと! 彼のためならどんな厳しい危険や苦悩にも立ち向かってみせる! それこそが僕の戦いであり愛の証明であると! だってそうだろう? ロミオは翼でその障壁を軽々と飛び越え、ポーシャは愛する夫のために叡智を尽くした。戯曲の恋人たちに出来ることがどうして僕に不可能だと言いきれるんだろう! 僕は僕自身の弱みを前向きに克服していきたい。そのために亮、きみの力を借りたいんだ」
唐突に押しかけて来た友人はあいさつもそこそこに、身振り手振り怒涛の勢いでそれだけ一気にまくしたてた。亮は沈黙でそれを聞きとどけ、そうしてなるほどと頷いてみせた。
「つまりその喧しい口を、ガムテープかなにかで塞げば良いんだな」
「? どこからそんな発想が湧き出てくるんだい?」
きみは少し天然だよね、とけろりと言ってのけた吹雪に、亮は再び沈黙した。皮肉の通じないこの男のほうがよほど天然なのではないだろうかと思ったが、それについて言及することがいっそうの体力の消耗を招くことは想像に難くない。口を閉ざした亮の分も空気を震わせるのが自身の使命だとでもいうように、吹雪はまたもしゃべりだした。ごく真面目に忠告するかのような素振りで「人の話は最後まで聞くべきだよ」などと腹の立つことを言ってのける。
「つまりね亮、僕はきみの意見が聞きたい。僕と彼のことをよくよく知るきみならば、この恋にまつわる相談ごとを誰より深く聞きとどけ、そしてより最適なアドバイスでもって僕をいっそうの高みへと導いてくれるに違いないと、そう思うんだ」
「そうか」亮は適当に相槌を打った。「さっさと本題に入れ」
リスペクトが聞いてあきれるような冷たい物言いになったが、吹雪はまったく意に介したようすなく、それどころかにっこりと微笑んでさえみせた。それきたと言わんばかりに制服のポケットをまさぐり、ちいさな小瓶をひとつ取り出したかと思うと、慣れた手つきで手首に霧状のなにかを吹きかけてみせる。
いくら亮だとて、その小瓶が香水であるということは理解できた。男がそんなものを、などと古くさい価値観を口にする気は毛頭ないし、天上院吹雪はむしろそういったコジャレたものがやたらに似合う男だ。なんの違和も感じず友人の様子を眺めやる亮に対し、吹雪はというと、期待に満ちたまなざしで「どうだい?」と言いながら、香りの吹きかかった部位をこちらに向けた。
「なにがどうだって?」
「感想だよ。この香り、きみはどう思う?」
「……」亮は軽く鼻を寄せ、吹雪の晒した手首の香りに意識を傾けた。ずいぶんと甘ったるい、それも花や果実を模したような微香ではなく、もっと直接的に甘味を意識させる香りだった。とろりとした重たさを感じる。亮はかすかに眉をひそめ、首を傾けた。「お前には似合わないな」と素直に言った。
「こんな子どもじみた香料より、もっと自然なものが好みかと思っていたが」
「そのとおりだよ。そのとおりだけど、ねえ亮、きみ本当に僕の話を聞いていたかい?」
僕は彼について相談しにきたって言ったよね?
吹雪はそういってあからさまに落胆したようすを見せた。そういえばそうだったな、と思いだし、亮は彼への返答を修正する。なるほど、たしかにこれは吹雪にとってはひとつの大いなる挑戦に違いない。
「藤原の好みそうな香りだ」
おそらく望みどおりであろう言葉を口にしてやると、彼は我が意を得たりとばかりに得意げな笑みを浮かべ、「そうだろう?」と言った。
「食べ物は無理でも、せめて香水くらいは彼の好みに合わせたいなと思ってさ。ショコラの香りなんだよ、これ」
言いながら吹雪は自身の手首を鼻へ近づけ、なんとも複雑そうな顔をした。苦々しげというよりは、哀愁と憐憫の漂う表情だった。その健気なようすに亮は少しばかりの感慨を覚え、友人の健闘を称えてやりたい気分になったがそれを口にするより先に本人が「僕ってなんて健気なんだろう」などとのたまったので黙っておく。代わりに亮は、「喜ぶんじゃないか」と言った。
吹雪はいかにも嬉しそうに、喜ばせてみせるさ、と余裕に満ちた笑顔を見せた。
さて藤原優介が亮の部屋にやってきたのはその翌夜のことである。
ノック音というのは案外繊細なもので、冷静に耳を澄ませればドアの向こうにどのような人物が立っているのかおおよその検討がつく。見知った相手ならばなおのこと、扉から響くほんのわずかな振動にはその表情さえ滲み出るというものだ。
藤原のノックは中でも大変に分かりやすい。こつり、こつり、と少々控えめに届く合図は彼の心情そのものを表していて、それはつまり気づかれないようなら気づかれないままで構わないが出来ればどうか気づいて部屋に招き入れてほしい、あるいは、気づいてくれるのなら気づいてくれても構わないが出来ればどうか気づかないでこのまま放っておいてほしい、というような、なにやら複雑で混迷した感情の渦をひしひしと感じる実にかすかな音なのである。こういうノックを響かせるときの藤原は大抵の場合亮にはいまひとつ理解できないような悩みごとを抱えていて、五分ほど前から扉の向こうを右往左往していた気配がようやくそのこつり、こつり、を届かせたとき亮は深く嘆息したのだった。ふつうなら「どうした」やら「開いているぞ」などと返答をよこすところを、無言で立ち上がり自らの手でドアを開ける。案の定、どうにも顔色のすぐれないようすでそこには藤原が立っている。
「……ごめん、こんな時間に」
「かまわん。入れ」
藤原はちいさく頷いて、しかしいまだためらうようにゆっくり、ゆっくりと亮の部屋に足を踏み入れた。決して特別に小柄な体躯というわけではないのに、こういうときの彼はいつだって妙に縮こまって見える。もっと胸を張れ、と言ってやりたくなるところだが、自分がそれを口にしても彼は一層俯きがちになるだけなので黙っておく。亮の与えるものはおそらくこの男には少し過剰なのだ。背中を叩くだけでは萎れてしまう。元気がないからといってひたすら養分を注いでいれば良いというわけでないあたり、髪の色も相まってまるで植物のようだなと亮はときどき考える。
椅子を勧めてやると藤原は素直に腰掛け、そして押し黙った。亮も沈黙する。こちらからなにも言わなくたって夜の静けさが彼に発言を促すことはわかっていた。
藤原はしばらくのあいだ喉を詰まらせたりかすかにため息をついたりちらりちらりと時計を見やったりと忙しなくしていたが、結局はなにかに根負けしたかのように口を開いた。「吹雪から……」と言った。
「吹雪、から……なにか、甘いにおいが……」
「……」
藤原はそうつぶやいて再び黙り込んだ。沈痛なため息をもらし、頭さえ抱えて見せた。なんとも憂悶に満ちたそのしぐさは不思議なほど彼によく似合ったが、しかし現状においては少々ばかばかしく感じる動作だと亮は思った。彼らのあいだで起こっているすれ違いを、なんとなく理解してしまったのである。
亮は腕を組み、苦悩する友人に向けてなんと言葉をかけるべきかを考えた。直接的な単語は避けたいが、あまり迂遠なものいいではさらなる誤解を招きかねない。
「……吹雪が香水をつけることになにか問題があるのか?」
藤原は首を振った。「けれど吹雪はあんな、……甘いのは苦手だって、言ってたのに」
「あいつはその苦手を克服したいと言っていた。口にするのはまだ無理だがせめて香りくらいは、誰かさんの好みにあわせてやりたいそうだ」
「…………」
藤原は沈痛な面もちを崩すことなく、それどころかいっそうに深い傷を負ったかのように顔を青くさせた。やっぱりそうか、と憂いと一緒に吐き出すようなか細い声でつぶやく。
「吹雪らしい理由だな」言いながら、藤原は自嘲するようにうすく苦笑いを浮かべてみせた。「その誰かっていうのが誰なのか、丸藤は知ってるんだ?」
「……ああ」
ぎこちなく頷いた亮に、藤原はやはり苦笑した。そっか、と言う彼のその優秀なはずの頭のなかを一度広げてきちんと整頓してやりたいと亮は思った。自覚しろ、と心底念じる。自覚しろ、吹雪の努力はすべてお前のために行われているということを。
しかしどれほど心中で唱えたところでなにも伝わるわけはない。目の前の天才は自身に差し向けられる好意に対してことさら鈍く、己が誰かに愛されているなどとは露ほども感じていない。たとえそれを亮の口から教えてやったとしても信じないし、それどころか疑心暗鬼に陥ってなにをやらかすやらわかったものではなかった。片や百の愛を語りながら最初の一を大事に隠し持ったまま手渡さずにいる吹雪である。「きみのためさ」といつもの調子でただ一言、藤原に伝えてやればこんな妙な誤解を生むことはなかったろうに、それが出来ないのはどういった理屈だというのだろう。喜ばせてみせるのではなかったのか。
藤原は青白く憔悴した顔で、はあ、と分かりやすく落ち込んだため息をつく。仕方なく、亮は言った。白々しいと自覚しながら。
「吹雪は、あいつは甘いものが苦手だろう」
「……うん」
「お前はどうだ」
「なにが?」
「……吹雪のあれは、ショコラの香りらしいんだが。お前としてはどうだ、気に入ったか?」
亮の問いかけに藤原は疑問符を浮かべながら、しかしこくりと頷いた。いい匂いだと思う、と言う彼の言葉は吹雪の努力の成就を思わせたが、
「でも俺は、ふだんのままの吹雪のほうが好き」
藤原はそういって少し照れくさそうに頬をゆるませたので、それ以上の問答を亮はあきらめることにした。
翌朝、吹雪は上機嫌だった。
食堂で亮の顔を見つけるなり飛び上がらんばかりの勢いで彼はこちらに駆けよってきたかと思うと、あろうことか実際にぴょんこぴょんこと跳ねはじめた。「亮! ちょっと聞いてよ亮!」と早口でまくし立てる。感情がダイレクトに行動に現れてしまっているそのようすから、友人がなにやら形容しがたい喜びに満ちているらしいことは明白で、亮は箸と茶碗をテーブルに置いてからとりあえず「落ち着け」と言った。言いながら、この男に落ち着きを求めるのがどれほどの無理難題であるかを考えたが、だからといって躾のなっていない犬のようにはしゃぐ友人を放置していてはこちらのほうが落ち着けない。朝食の席ではなおのことである。
ともかく一度腰掛けるように促した亮に、吹雪はこくこくと頷いて、ようやく謎の喜びの動きを停止させた。まったく容姿に見合わず風変わりな男だと亮は思うが、吹雪はというと実に自然体なようすでにこにこと笑顔を浮かべ、聞いてくれよ亮、とふたたび言った。
「藤原がね、もうびっくりなんだけど、僕がつけてた香水をね、なぜかどこかの女子生徒からの移り香だと勘違いしちゃってたみたいでさぁ」
「……」
「まいっちゃうよね! ね! 嫉妬だよこれ。ジェラシーだよ。もう昨夜急に部屋に来たと思ったらめちゃくちゃ堅い顔しちゃっててさぁ、僕もあわてて誤解をといて謝って、そうしたら彼なんて言ったと思う?」
「……普段のお前のほうが良いと言ったんだろう」
「え、すごい、大正解! どうしてわかったんだい? 超能力? きみはついにカイザー亮からエスパー亮に進化したのか! いつの間に!」
朝から全開の吹雪に、亮は再び「落ち着け」と言った。
「超能力なわけないだろう。昨夜お前の部屋に行くよう藤原に言ったのは俺だ」
このままでは埒が開かないと判断した亮は結局、本人同士にすべてを丸投げすべく藤原を部屋から追い出し、吹雪のもとへ行くようにと指示したのである。廊下へと放り出された藤原は神に見放された囚人のような悲壮さを湛えていて、このまま自室へとぼとぼ帰ってしまう可能性もないではないなと危惧したものだが、いくらなんでもそこまで小心ではなかったらしい。その後すぐさま就寝の準備を整えた亮が深い眠りに落ちているころ、どうやら友人たちの誤解は思った通りの展開でもって解かれたようだった。
吹雪は亮の言葉に、ひどく感銘を受けたようだった。どことなく潤んだような気さえする、感動を如実に表現した眼差しでこちらをみつめ、「亮……きみって男は……」などと芝居がかった口調で呟く。「ああ、ありがとう亮。僕はきみのような親友と巡り会うことが出来て、本当にしあわせだ」
いちいち大げさである。
亮は少々呆れたが、しかし吹雪は真剣だった。彼は制服のポケットをまさぐり、例の香水瓶を取り出してそれをテーブルの上、亮の食事の脇にそっと置いた。これはきみにあげるよ、と言う。
「僕らの友情の証として、どうか受け取ってほしい」
「…………?」
亮には吹雪の言っていることの意味がさっぱりわからなかった。なぜこれが友情の証になるのだ。例の弱点克服作戦において不要となったアイテムを、単にだれかに押しつけてしまいたいだけではないのか。亮は小瓶をじいと見つめ、考えたが、しかし無用な勘ぐりはするまいと決めた。この男の酔狂な言動はいまにはじまったことではないのだ。吹雪が友情の証と言うのなら、おそらくこれはそのとおりの意味を持つもので、自分は彼からの友情をしっかと受け止め、そして同等のものを返すべきなのだろう。
もらっておく、と頷いた亮に吹雪は嬉しげな表情を浮かべ、「よーし僕も朝ごはん食べよう」と一度座席を立った。
亮は小瓶を手に取り、吹雪がそうしていたように軽く手首に吹きかけてみる。思ったより多く噴出されて、顔を近づけなくとも甘い香りがじかに届いた。とろりと絡みつくような重たい香りは決して亮の好みでもなかったが、悪くはないと思った。案外このくらい甘ったるいほうが、自分たちの関係には似合うのではないだろうかと考える。少なくとも、変に苦々しいよりはよほど気楽だ。
食堂に現れた藤原は、亮の顔を見るなり申し訳なさそうにかすかにはにかんだ。おはよう、と言うと、おはよう、と返す。「昨日はごめん」と言いながらこちらに近づき、彼はしかし、ぴたりと動きを停止させ、それからまじまじと亮の顔を見つめた。
「どうかしたか?」
「……ん」
藤原は眉をひそめ、小首を傾げた。なにかを思案するように目を伏せてから、意を決したふうにずいと亮の肩のあたりに顔を近づける。くんくんと鼻を鳴らす、彼がなにに反応しているのか亮にはすぐに見当がついた。案の定、顔を上げた藤原はひどく硬い顔をしていた。
「丸藤から吹雪のにおいがする……」
いままで生きてきたなかで、これほどまでに理不尽な誤謬を向けられたことがあっただろうか。
とんでもない曲解でもって藤原がこちらを見ていることは明らかだったが、亮は慌てず騒がず、むしろ訂正するのもアホらしいと言わんばかりに堂々と「そうか」とだけ返し、無言で狼狽を訴える藤原に例の香水瓶を差し出した。彼の頭部に向けて、おもいきり噴きかけてやる。まるで水でも撒くように。
突如として謎の噴出に襲われた藤原はひどく驚いた声をあげ、慌てて両手で庇った頭をぶるぶると振ったが、しかしもう遅い。香りの粒は彼の全身を覆う勢いで散乱し、爽やかな朝食の場に不似合いな甘ったるいにおいを辺り一面に振りまいていた。動けば動くだけハタ迷惑である。
「な、なに、丸藤。これなに」
「昨日吹雪がつけていた香水だ」
「それは、わかるんだけど。どうして丸藤がこれを持っていて、それでなんで俺に噴きかける必要が……」
藤原はいっそ引きつった表情を浮かべ、これ以上なにか襲撃を受けることのないよう亮に対して防御の姿勢を取っていた。そんなふうに構えなくとも、異常に甘いにおいを放つ彼にこれ以上一歩たりとも近付く気はおきない。
おろおろとこちらのようすを窺う藤原に「友情の証だ」とだけ言ってやると、彼はいよいよ意味不明だというふうに疑問符を浮かべて顔を引きつらせたが、しかしその後朝食を手にして再び現れた吹雪のほうがよほど引きつった顔をしていたので、亮は深く頷いた。
完璧だ。
要は最初からこうしておけば、余計な手間などかからずすんだのだ。
「苦難を乗り越え、試練を耐え抜くんだろう?」
言ってやると、吹雪は頭痛を堪えるように眉を寄せ、きみちょっと怒ってるよね、と呟いた。非哀に充ちた視線で、甘い香りの想い人を凝視している。亮は少し笑ってやった。まさか、と言うと、吹雪は少々恨みがましく横目でこちらを見やったが、結局はひとつ嘆息した。
手にした食事をテーブルに起いてから、いまだ訝しげに警戒を解かない藤原に近づき、なんの脈絡もなく抱きしめる。
「友情ってすばらしいね!」
吹雪はそう言い放って、朝っぱらから公衆の面前で大いなる試練に打ち勝ってみせたが、しかし抱きすくめられた藤原はというと現状をまったく把握できていないようすでただびっくりした顔をしていた。
その言いまわしでは彼には友への抱擁としか伝わらないのにな、と亮は思ったが、横から茶々を入れる場面でないことくらいは分かるので、置いていた茶碗と箸を持ち直し、黙って朝食を再開することにした。