うつくしいひと

 カーテンの向こうのその空がねむる前と変わらない暗闇に包まれていればいい。
 毎朝目覚めるごとにそれを望むのに重たいまぶたの隙間から覗くのはいつだって眩くうつくしい新たな朝で、図々しくもごく当然のようにやってくるそのまっしろな光を睥睨しながらゆっくりと呼吸を整えると俺の身体は勝手に起きあがる。起きあがらなければならないから起きあがる。悲しいけれど。とても悲しいけれどそうでなくてはならないと定められたものごとに抗う力を俺は持たないのだ。
 おはよう、と言う。口にしてはじめて呪いのように世界を包む。おはよう。さあ、さあ、優介。藤原優介というひとつの個性よ。朝です。起きなければなりません。

* * *

 学生の本分とは勉学にあるもので、もれなくその勤勉なる生き物のひとりに数え上げられる俺は本日も通常通りに着席して授業を受けている。清き平日の午前十時。ふわふわもごもごと聞き取りづらい担当教諭の声はさも教室全体に眠りの魔法を張り巡らせるようで、それでなくともデュエルと無関係の学問に対して興味と関心を失いがちな生徒たちに与えられた選択肢は大まかにふたつだ。
 つまり、常時与えられ続ける睡魔に力の限り抵抗し、うつらうつらと聴講を続けるか。あるいはすべてを受け入れて大人しく机に突っ伏してしまうか。
 先ほどからすやすやと眠りこけている隣席の天上院はどうやら後者を選びとったようで、人前でよくもこうぐっすりと夢の世界に浸かれるものだなと感心するが、かくいう俺もうつらうつら組のひとりなので、その呆れには天上院をはじめとするすやすや組を羨む気持ちも含まれるのかもしれない。どちらにせよこんな大多数の取り囲んだ状況で躊躇なく熟睡できる天上院を俺は奇怪な生き物のように感じるが、自身もこうありたいとは思わないのだ。それはもう、まったく。
 担当教諭のふわふわもごもごの呪文は解きほぐしてしまえば案外興味深い内容だったが、独自に学んだほうが実りは多そうだと判断するのにそう時間はかからなかった。呪文の解読を目的とする時間をすごすこともできるけれど、それはあまりに無益にすぎる。人の時間は有限なのだ。俺はふわふわもごもごに耳を貸すことをやめ、教科書を適当なページで開いたまま放置し、前方遠くの担当教諭の顔も手元のノートも視界から外してしまって、代わりにねむる天上院の机に伏せた横顔をぼんやりと眺める。眠りの魔法は聴覚を塞いだ者のもとへは届かない。
 天上院はうつくしいな、とふいに思う。
 腕のよい技巧の師がたわむれに作りだしたカラクリの人形のようだ。作りもののように整っているが内部はトンチンカンで予想がつかない。その内面がまったくのうつろであったところできっと誰も驚かないのに、なぜか信じられないくらいにいろんな感情をめいっぱいに詰め込んで生きている。そのくせ回路はきっと誰より単純な一本道だ。入口も出口もひとつきり。
 ふしぎと幸福そうな寝顔を惜しげなく晒す天上院は、おそらくそのまぶたを開く瞬間に果てなく続く暗闇を望んだりはしないのだろう。彼はそれでよいのだ。そうであってほしいと思う。この長い長い退屈な授業時間を俺は天上院の寝顔を見つめてすごそうと決める。決めたのに、そう決めたほとんど次の瞬間には、授業は終えてしまうのだ。奇異なほどすばやく時間はすぎる。どこまでもあっけなく響くチャイムは毎朝我が物顔で昇って来るまばゆい陽にどこか似ている。
 天上院は薄いまぶたをそっと開けて、ちょうどその顔をじいと見つめたままでいた俺を見上げて「どうしたの?」と寝ぼけた声で訊ねた。
 ん、と俺はすこし考え、けれど正直に言った。
「吹雪はうつくしいなと思って」
 天上院はぎょっとしたふうに目を丸め、伏せていた身体をのっそりと上げるとまじまじと俺の顔を見つめてからふにゃりと口元を緩めてみせた。どうやら彼は照れているようで、ええ、なに、どうしたのぉ、とまごついたふうに少し笑い、なぜか俺の頬をかるく掴んでふにふにと引っぱるようにして遊んだ。天上院はうつくしいが変わり者だ。彼はへらへらと笑みながら好きなように俺の顔面にぺたぺたと触れ、「僕は藤原の顔もきれいだと思うよ」などと言う。それを聞いて俺は、ああ彼にこちらの真意は伝わっていないのだなぁと少し落胆しそうになるけれど、それは仕方がないのだ。俺は彼をうつくしいと言い、彼には自身の顔の造形が秀でたものであるという自覚がある。だからそう解釈されるのは当然のことだ。
 天上院の細く長い指に頬の肉を遊ばれながら俺は言う。
「吹雪」
「ん?」
「そろそろ次の授業がはじまる」
 ああ、と天上院は時計を見やり、再び近付いている長い講義の時間を思うように「早く昼休みにならないかなぁ」と零した。それはおそらく同意を求める発言なのだろう。俺はあいまいに笑う。
 時間が早くすぎればよいと、そう願ったことはないように思う。ないはずだ。時が止まってしまえばと望むことのほうが俺には多い。夜の一番静かな時間。朝の来るひとつ手前。うつくしく眠る天上院。俺はそれを求めるけれど悲しいかな、けして手には入らないのだ。けして。そうでなければならないものごとに抗うすべを俺はもたない。

 ところでそのうつくしい天上院はというと実に風変わりで、寮の食事を終えて夕の匂いが夜に飲まれはじめるころにときどき俺の部屋の扉を叩く。真昼にはこの頬をいたずらに撫でまわした右手は無礼にも部屋の主の返事を待たずに戸を開き能天気な声を届かせる。「藤原、おやついらない?」
「いる」
 天上院はうつくしく、それに相対するように不可思議な人物だが、同時にひどく女子生徒に人気がある。彼は両の手にカラフルで少女的な包みをいくつか抱えてにこにこと笑いながら、たびたび俺に貰いものを裾分けしにやって来るのだ。甘いものは苦手なんだ、と言いわけにも取れるような言葉を常に携えて。
 与えられた甘い洋菓子は夜の共にするのには少しばかり賑やかで、なにより手に余った贈り物を譲るだけでなくそのまま部屋に居すわる天上院そのひとが少しどころでなく賑やかで、仕方がないので俺は予習の手を止めて客人に茶を振る舞い、並んで与太話など繰り広げる。天上院と迎える長い夜の入り口は道楽めいているように感じる。俺が頬を緩めてうつくしい彼の、ふつうの、他愛のない話に相槌をうてば、天上院はいよいよ楽しげにさまざまな言葉と身振りを用いて饒舌に磨きをかける。俺は微笑んでそれを聞く。茶請けのように甘い菓子に手をのばす。天上院に贈られるためだけにかわいらしく着飾ったはずのそれらは、かわいそうに俺の腹に収まってきっと具合が悪いことだろう。こんなはずではなかったと、しくしく泣いているのに違いない。そんなことを考えながら。

* * *

 夜はふいに途切れたりはしないで帯のように連連とつづいている。夜風を浴びたいと唐突に言いだした天上院に誘われて寮の外に出てみると、星は翳ってまるい月だけがぽっかりと浮かんだ寂しい夜が広がっていた。孤独な月は青空の存在など知らずにすごしているようで、あそこに在れば不愉快な朝に出会うこともないのだろうかと俺はぼんやり考える。きれいな月だねと天上院が笑う。
 彼はなぜだか俺の片手をとって、わけがわからないくらい優しく、とても繊細な歩調で俺を夜道にいざなった。昼にはこの頬を撫でた手。夜には扉を開いた手。うつくしい天上院の導く先にはうつくしい朝があることを俺は知っている。連なる夜のその果て、けして途切れないはずの夜空の終わりには必ず真っ白な朝がやってくる。そうだ。そうでなければならないのだ。そして俺はその必然に抗うことができない。
 天上院は機嫌よく俺の手を引いてゆっくりとゆっくりと夜空を楽しむように歩みを進めてときおり鼻歌交じりに幸福そうな横顔を見せる。俺の手は天上院に繋がれている。その歩みの先に。
 朝へと向かう天上院に連れられながら、時間が止まればよいと俺は考える。
 夜明けなど来なければよいと考える。このまま天上院とふたり、暗闇に紛れて姿を消してしまえればよい。
 けれどどうしても、どうしてもそれを伝えることはできない。どうか俺とともにいなくなってほしいとは言えない。いっしょに朝を拒んではくれないかと、そんなふうに、伝えられるわけがない。
 天上院は言う。明日のことを話す。新たな朝がやって来ることを疑いなく信じてそれを待っている。望んでいる。「このままふたりでさ、海辺まで歩けば、きっととびきりきれいな朝陽が見られるんだろうなぁ」
 俺は頷いて、頷いたふりをして項垂れて、ただただ時間が止まればよいと考える。彼の見つめるうつくしい朝をおそろしく思う。間抜けのように夜に囚われたまんまるの月はすべてを照らしている。たぶん、俺が思う以上に明確に、すべてを。
 天上院はこちらを振り向いてなにかに気付いたように歩みを止めて、ためらいがちに俺の頬に触れる。それはうつむいた顔を無理に上げさせるような乱暴な仕種ではなく、けれど昼間のようにただ無邪気に撫でさするような幼稚なものでもなかった。天上院はほんの僅かに身を伸ばすようにして俺の前頭のあたりに鼻先をうずめ、小さな小さな声で俺の名を呟いたようだった。それは口にしただけで、俺を呼んだのではない。彼の声が指すのはおそらく俺自身ではなくきっと、なにか、俺のうつわのようなところに浮かんだもっとつまらない部分でしかない。俺は天上院に俺自身の姿を教えてはいないから。そうだ、けして俺を見破ることのない天上院は本当にうつくしい。
 うつくしい天上院のあたたかく優しい手が伸びて俺のつまらない、空虚なうつわを、藤原優介という名の個体をそうっと抱きしめる。抱擁は柔らかい。夜の気配をまとうかぎり。
「――吹雪」
 名を呼ぶ。ぴくりと反応を返す天上院の身体が微かに硬い。彼の心に怯えを感じとって俺はそれをとてもいとおしく思う。俺が明日を拒絶するのと同じように彼は俺を失うことを恐れているのだ。なによりも。なにものよりも。
 けれどもうどうしようもない。
 そうでなければならないものごとに対して、人は無力だ。抗うことなどできない。俺がそうであるように、天上院もまたそうでなくてはならない。どれだけ恐れても、どれだけ拒んでも。別れはやってくるのだ。夜が明けるように陽もいずれ暮れる。天上院はそれを知ってなお眩く白んだ空を望むのだろう。時間のすぎることを願うのだろう。
 吹雪、ともう一度名を呼べば硬い声が返ってくる。ああ、と天上院は言う。感嘆のように首肯のように未知の世界に陶然とする幼子のようにつぶやく。俺を抱きしめたままで、またその名を口にする。藤原。つまらない個性に与えられた記号のような名前。
 俺はかぼそく震える吐息を零してそれから言う。このまま、と呟く。
「このまま時間が、ずっと止まってしまえば良いのに」
 それを聞いた天上院は安堵したように身体の力を抜いて、わずかに微笑んだようだった。随分とらしくないことを言ったものだとからかう空気もあったのかもしれない。わからない。ただ天上院の手つきは優しいままで、けして俺を逃すまいと力を込めるようなことはしないから、俺はその腕のなかからいずれするりと抜けだして夜に溶ける道を選ぶだろうと思う。寂しい。それはとても寂しいことだ。けれど天上院が必ず朝陽を求めるように俺は暗闇を愛するしかない。道がないのだ。他になにも。
 だからこれは今だけ。今だけだ。時を止めるはずの抱擁は破られ天上院の額が俺の額にこつりと触れて互いの鼻先が触れて、うつくしい彼の長いまつげさえかすかに俺の肌に触れてくる。今だけ。本当に、ただ、今だけ。
 ならばどうか今、この時間が止まれば良い。
 朝など二度と訪れなければ良いのに。
 天上院の望む朝の海は得られないままで俺たちはとぼとぼとふたり並んで暗い夜の道を寮まで戻り、電光の下でそれぞれの部屋に分かれてまたひとりになる。俺はひとりきりの夜を抱きしめてそれを愛さなければならない。時間はけして止まることはないから、すべては摩耗してゆく一方だから、これからいっそう深く沈んでゆく闇の気配をかき抱いて机に向かう。眠る間が惜しいのだ。夢の縁に立ちすくむうちにも朝はやって来てしまう。
 うつくしく眠る天上院の横顔を思う。彼はもう横になってしまっただろうか、この部屋とおなじ間取りの四角く広い寮室のベッドのうえで。天上院は朝を恐れず夢路を歩くだろう。はやく夜が明ければよいとさえ、きっと彼は願うだろう。朝になれば授業がはじまればまた藤原に逢うことが出来るからと、そう言って微笑む天上院の声を頭の裏側で聞きながら俺は失笑する。くだらない妄想だ。とてもくだらない。
 ふと机の上に放り出したままのカラフルな菓子の包みを思いだす。そこに詰められた天上院へのたくさんの好意。それを端から貪る俺は彼女たちにすれば淫らで欲深いハイエナのように映るのだろうかと、唐突に考えた。空腹は感じなかったがなんとなく手を伸ばす。さくりと甘いだけの洋菓子が口のなかで砕けて俺を苛むみたいにゆっくりと喉をすぎてゆく。天上院はそういえばこれらをひと口たりとも食べていないのだ。それを思うと俺の胸中には暗い歓びが芽生えるので、そう、ならばやはり俺は薄汚い欲に満ちた獣と見られても仕方がないのだろう。それが心地よくさえあるのだ。困ったことに。
 ひときわ凝った白い包み紙のひとつには、可憐な黄色が花のようにちらちらと咲いている。その中に満たされた天上院への贈り物の一番底に小さなカードが入っている。まるで誰にも見つからないことを願って潜むよう隠された紙切れには、丸くか細い文字で短いメッセージが添えられていた。こっそりと。あなたを誰より愛しています。
 思いがけずそんなものを見つけてしまった俺は少し驚いて、それから苦笑する。顔も知らない彼女に語りかける。ねえ、きみ、かわいそうに。その精一杯の言葉は彼に届いてはいないよ。俺とおんなじに。俺の声とおんなじに、けして天上院には届かないよ。そうやって隠してしまっては、ねえ。彼には探る気などないのだから。贈りつづけるその愛のひとかけらだって、食べてはくれないのだから。
 ひとつ息をつく。
 からになった包みの一番奥にカードを戻して、そのまま丸めてゴミ箱に放り込んで、俺はひとことだけ「ごめんね」と謝ってそのかわいそうな残骸を見おろすけれどふしぎと罪悪感のようなものは湧いてはこない。だってあんな言葉は不要だろう。廃棄すべき感情だろう。どうせ届かないのだから。どうせ終わってしまうのだから。
 またひとつ息をつく。朝が来なければ天上院は悲しむだろうかと考える。悲しむのだろう。彼は、悲しむのだろう。俺は天上院の悲しむことを成したいとは思わないがけれど、同時に、べつにかまわないとも感じるのだ。かまわない。どうせ忘れてしまうのだ。俺も彼も。どこのだれかわからない、彼女さえも。いずれは。

 長い長い夜の時間を俺は天上院のことを思ってすごした。どこまでも続いてゆくように感じられた闇の気配はするするとなにものかに引きずられるように後退し、いつの間にか意識を失っていた俺の前にはまた朝が現れる。まばゆい陽をカーテンの向こうに感じて俺はいつものようにそれを見つめて呼吸を整える。身体は勝手に起きあがる。朝ですよ、朝ですよ。それは亡くなったはずの母の声であるようにも、これから失うはずの人としての己自身の声であるようにも感じられた。藤原優介というひとつの個性。さあ、ほら、起きなければならない。
 まばゆく白んだ朝の空は変わらず図々しく主張を続ける。当たり前のように俺の肌に触れるうつくしい陽の光はどこか天上院に似ている。それに思い至った途端に喉の奥がじんわりと熱を発して、俺は否定するようにカーテンを開いた。そこには朝が広がっている。俺の望む闇ではない。ただの朝。朝だ。また。朝が。
 喉が熱い。たまらずそのうつくしい光から目を逸らし、俺は昨夜放り捨てた黄色い花の真っ白な包み紙をゴミ箱から拾い上げた。くしゃくしゃになった包装の奥に潜んだ小さなカードを手にする。天上院へと贈られた、とても短いメッセージ。誰にも届かない、行き先のない、彼に手放されてしまったかわいそうな言葉。けして伝わらない真実。
 そのちいさく弱々しい紙切れを胸に抱いて蹲って、声を殺して泣いていると白んだ空はひどく暖かなもののように感じられた。震える喉が身勝手にも何度か「吹雪」と零したが、それが本当に彼の名であるかどうかなんてわからない。薄汚い俺の澱んだ声が天上院の真実の部分を指してきちんと愛を告げられるだなんて思えない。愛しているのだとも愛してほしいのだとも言えるわけがない。
 けれどともに朝を終わらせてほしいのだ、本当は。彼がそれを受け入れてくれたならとありえない夢想にさえ縋りつきたくなる。吹雪。吹雪に会いたい。吹雪に触れていられる夜が欲しい。夜が。朝などいらない。けして揺るぐことなく互いの名をたしかに呼びあい触れあうことの出来る沈黙の夜だけがずっと、ずっと、ずっと続けば良い。
 それでも起きなければならない。朝は来る。もう来ている。見知らぬ彼女の言葉をそっと手放し、それから呼吸を整える。起きなければならない。そうでなければならないものごとに抗う力を俺は持たないのだ。けして、誰も持たないのだ。この朝を終わりにしない限り俺はずっとこのまま。悲しいけれどずっと、このまま。

* * *

 学生の本分とは勉学にあるもので、もれなくその勤勉なる生き物のひとりに数え上げられる俺は本日も通常通りに着席して授業を受ける。清き平日の午前十時。隣席の天上院はまた授業を聞き流して机に突っ伏してしまっていて、俺はそれに呆れながら、あのふわふわもごもごに比べれば随分と聞き取りやすく楽しい授業を極めて真面目に受けている。
 天上院は昨日のように熟睡してしまっているわけではなく、ただ退屈な座学の時間を怠慢にすごしているだけのようだった。重たげなまぶたを時々前方にやっては大きくあくびを漏らし、最終的に彼は頬杖をついて、熱心に弁を揮う教諭のほうではなくなぜか俺の顔をじいと見つめるという形で授業を放棄した。
「……吹雪」
「ん?」
「こっち見すぎ」
 嘆息混じりに指摘すると、天上院はおかしげにくすくすと笑んだ。「きみだって昨日同じことをしたじゃないか」
 仕返しだよと彼はちいさく付け足して、満足気に俺の横顔に視線を送る。座り心地の悪い俺はすこし身を捩らせて、けれどともかく黙って授業を受け続けるしかない。既に予習段階で得ている知識を再び脳に取りこみ再確認する作業を行う俺を見つめながら天上院は、「藤原の顔を見ているとあっという間に時間がすぎるんだよね」と言った。ひとりごとのように。
 その言葉に俺は幸福な気持ちになる。ひそかに息をつめて、考える。時間が止まればよいと思う。うつくしい天上院は俺を縛ることも無理に朝へと引きずりだすこともしないでただ笑んでいる。それでよい。彼はそれでよいのだ。そうであってほしいと願う。誰より愛している、うつくしいひとよ。俺の望む永劫の夜は、彼にはけして、なにひとつとして、似合いはしないのだから。

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2011-03-30