03 天上院吹雪
さてデュエルアカデミアを襲った恐怖の発熱ウイルスは、その後おおよそ三日間に渡り感染者を増やし続け、島で暮らす教員生徒のうち実に約四割を昏倒させることに成功した。
学校側の対応は早急で、今回のことはひょんなことから発症した未確認のウイルスによるものであり、本土から至急持ち込まれたワクチンの投与で大体の症状は収まるからとりあえずみんな大人しく注射されてね、といういい加減な発表と同時に事態はすばやく収拾された。とはいえ、なにせ未開発の森の奥に謎の施設だとか得体の知れない野生の生き物だとかを抱える我らが母校である。この曖昧且つ大胆な言い分に対しては全員もっと慎重になっても良かったはずなんだけど、実際に発症している側は正直それどころじゃなくって、結局なにがどうなっているのかわからない僕らはなすがまま、黙って大人しく注射されるはめになったのだった。
更に言うと、これだけ大規模な集団感染を引き起こしておきながら、今回の件は別段大きなニュースにもなることなかった。その学校側の隠蔽としか思えないような不自然さを、けれど、アカデミアの生徒たちは特別つっこむことはせず普段どおりの生活に戻ってゆく。
本当なら、もっと巨大で強大な権力という名の悪との壮大で盛大なバトルみたいな、そういう感じの展開に転がっても良いような気はするのだけど、その手の方向に物事を持っていこうとする生徒は皆無だった。この島で暮らす人々は根っからのデュエリストで、基本的に、デュエル以外で解決しなきゃならないようなものごとはあんまり得意じゃないのだ。とりあえず元気にデュエルが出来ればそれで良いという、ひたすらに単純な人種ばかりなのだった。少なくとも今はまだ、物語を広く展開させる、ヒーロー的存在はアカデミアに現れていない。
とはいえ、大きな出来事が起こらなくたって小さな物語は常にかならず動いているものだ。僕個人の感想としては、ちょっと熱が出てちょっとしんどかったけど課題の提出締め切りは延期になったし、人の部屋のベッドで一日中寝るなんて滅多にない経験も出来たし、藤原と並んでごろごろして傍の机では亮が普通に勉強してて、夜遅くになるとまるでお泊まり会みたいでなんだか楽しかったなぁ、という感じだった。発端はともかく、過程と結果に文句はない。あと一週間くらいあんなふうにすごしても良かったのになぁとさえ思うほどだった。ああ、どうして特待生寮は個室なんだろう! 今度のことで確信したけれど、もしも三人部屋だったならきっと僕らの学生生活はもっと潤沢で活気に満ちたものになったに違いない。
もっとも、実際に三人一部屋なんてことになったら亮も藤原もきっと嫌がることだろう。ふたりとももう少し協調性とか人と人との調和とか、そういう他者と共存する心を学んだほうが良いように思うけど、まぁ大事な親友たちの嫌がることを無理からに実行しようとは僕は思わない。キャンプくらいは、今度誘ってみても良いかなと考えている。
というわけで、ここまではちょっとした騒動の顛末。いわばプロローグ、序章にすぎない。
真打登場、という素敵な言葉が、この国には存在する。つまり一番重要でスペシャルなものごとは、いつだって遅れてやってくるということだ。僕はあまりまどろっこしい状況説明は得意ではないので、手早く手堅く手短に、簡潔に現状を語ろう。
驚いたことに、丸藤亮は熱を出さなかったのだ。
* * *
「ああ、亮、どうしてきみはこんなにも空気が読めないんだろう!」
嘆きの声を上げる僕に対し、当の亮は大変不服そうにじっとりとこちらを睨みつけた。彼の視線は敵意がこもるとそれはもう震えあがるほど恐ろしいものなのだけど、まさか大の親友たるこの僕に向けてそんな全力で不穏な態度をとるわけがない。まして、今の彼に自由はないのだ。少しばかり睨まれたくらいで別に怖くもなんともない。
藤原はちょっと怖かったみたいだ。ほんの数日前までベッドと融合していたとは思えないほどのすばやさで、彼は亮の目から逃れるように僕のうしろに隠れてしまっていた。まったく、とんだ孤高の天才もいたものである。
「吹雪、やっぱりちょっとやりすぎだと思う」
「え、なにが?」
「なにがじゃないよ。丸藤、めちゃくちゃ怒ってるじゃないか」
俺知らないからね、と早くも藤原は無関係を装いはじめるが、本当に関係のない人間はこんなふうに主犯の背中に張り付いたりはしない。もっと堂々と振る舞い、可能なら犯人の背を蹴っ飛ばし捕らわれの友人を助けてやるものだ。それをしない限り、藤原はなにを言ったところで僕の共犯者に違いなかった。
舞台は藤原優介の部屋である。僕が倒れ、藤原自身も倒れこんだだだっ広いベッド。そこに浜辺に打ち上げられた巨大マグロの如く横になりながら、丸藤亮は実に剣呑な視線でもって僕らを睨みつけていた。めちゃくちゃ怒っている、と藤原は言ったけど、本気の彼はこんなもんじゃない。もしも本当にめちゃくちゃ怒っているとしたならば、今ごろ僕は地に伏して動かず、藤原は泣きながら帝王に許しを乞うたことだろう。
というわけで、半ば呆れ混じりの怒りを遠慮なく振りまきながら、亮は言った。
「お前たちはいったい将来なにになるつもりだ? 盗賊か、テロリストか、それとも現金輸送車の特殊警備官か?」
「あ、最後の良いね、高給っぽい」
ふたりで最強の警備員を目指そうか、といまだに僕を隠れ蓑にしている藤原に微笑みかけると、彼は真顔でふるふると首を横に振った。なんだか警備の仕事が嫌というよりは、単に僕と組む仕事に就くことが嫌みたいだった。悲しい。
とは言ったものの、僕らはそう大層なことをやらかしたわけではないのだ。ちょっと亮を部屋に呼び出し、油断したところを背後から膝かっくん、さらに足払い。よろけた彼が床に手をつくのを見計らい、さも心配して駆け寄ったように見せかけた藤原がまず両手を固定、用意しておいたビニール紐でもってそれを縛りあげた次のタイミングで僕が両足を固定しやはりビニール紐で拘束、そのままふたりでせーのっと亮を抱え上げ、すぐそばにあったベッドにぽいっと彼を放りこんだだけで簡単お手軽、打ち上げマグロは完成した。まさかこんなにあっさり上手くいくものとは思わなかったけれど、いくらなんでもこの程度でテロリストにはなれないだろう。
現に僕と会話しながら亮はあっさりと上半身を起こし打ち上げマグロから脱却すると、両手の紐をぶちっと引きちぎって、自由になった手で足の紐を解きだしていた。なんてゆるい束縛だろう。やっぱり藤原に手を任せたのは失敗だったな、と僕は自分の非を認め、それからもう一度言った。
「ああ、きみは本当に空気が読めない!」
「うるさい。なにがしたいんだお前たちは」
さすがに少しは頭に来ているらしい、なんだか乱雑な口調でそう言った亮に、藤原が反射するように「え」と声をあげた。怪訝そうにかすかに首を傾げて彼は言う。
「お前たちって、もしかして俺も入ってる?」
……? この状況でなぜ自分だけ許されると思うのだろう。藤原がときどき見せる奇妙なポジティブが、僕にはちょっと理解出来ない。
案の定、亮も、こいつはなにを言ってるんだ、という顔をしていた。クールな亮がこういう表情を見せるのは珍しいので、さすが藤原だなぁと僕は少し感心する。「入るに決まっているだろう」
うう、と藤原は観念したように首を竦めた。僕がこの作戦を発案したとき、その無垢な瞳をかすかに俯け、「階段から突き落とすとかしたほうが早くない?」などととんでもないブラックジョークを口走った人間とは思えない、じつに気弱そうな姿だった。あの発言を受けて、僕は藤原優介にだけは決して背を見せないでおこうと決意したはずだけれど、いますでに彼は僕の背後に立っているので、まぁその程度の決心だったのだろう。ともかく現在問題なのは藤原ではなく亮のほうなのだ。ああ、彼の健康と不屈の精神がうらめしい。
あっという間に足の拘束を解いた亮は、ベッドに腰掛け腕を組み、すでにお説教モードに入っている。しかし僕はそんな彼に、決して負けはしないぞというふうに指を突きつけた。なにがしたいのだと、さっき亮はそう訊ねたけれど、そんなの見れば分かるだろう。
「僕たちはきみの看病がしたい!」
びしっとキメてそう訴える、僕の背後では藤原も控えめにこくこくと頷いていた。この一点に関して僕らの心は見事にひとつにまとまっていて、こんなふうに少々乱暴な手段に出てしまったものの、根本にあるのは数日前のあの事件、我ら天才トリオの三分の二が病に倒れるという悲惨な事態に、慌てず淡々と対応してくれたあの日の亮に対する感謝の気持ちなのである。ご恩返しの心は日本人になくてはならない立派な精神だ。リスペクト星人の亮にとっても、遠からぬ思考のはずだった。
僕らの主張を聞きとどけ、亮は考えこむようにふむとひとつ頷いた。「良いだろう」と、なんとなく先生みたいな態度でそう言う彼は、しかし他人のベッドでふんぞり返ったまま、病人のふりをする気も怪我人のふりをする気もないらしいので、とりあえず僕はその場を藤原に任せることにしてひとり部屋を出た。看病ごっこさえさせてくれそうにない亮とふたりきりにされることを嫌がって、藤原は少し泣きごとめいたことを言ったけれど、まぁ仕方がない。平熱のおでこに冷たいタオルでも貼らせてくださいと、精一杯お願いしてみれば良いんじゃないだろうか。丸藤亮は真面目なシーンではどこまでも厳しい男だけれど、本人がどーでもいいと思っているものごとに関しては案外ずぼらなので、藤原の嘆願次第によっては簡単に聞きとどけてくれるかもしれない。
僕は鼻歌交じりに廊下を歩く。看病がしたいと言ったけれど、もちろんメインは本日の昼食のほうにある。言えばふたりは気分を害するだろうから控えたけれど、彼らが振る舞ってくれたお粥ときたらまったくもってなっちゃいない、不届千番にもほどのあるしろものだったのだ。米を煮ればお粥が出来あがるというわけでは決してないことを、いま彼らに教えてやることが出来るのはこの僕だけだ。
天上院家に古くから伝わる究極のお粥レシピはとうの昔に習得済みである。かつて明日香が風邪を引くたびに鍛えあげられてきた僕の看病術が、愛すべき友人たちのもとついに日の目を見ることになるのだから、まったく流行病というのも悪いことばかりではないな、と、回復しきった今なら思う。亮が発病しなかったことに文句を言ったりもしたけれど、そんなもの実際には、移さずにすんで良かったに決まっているのだ。
とはいえ、藤原には悪いことをしてしまったし、亮にも迷惑をかけたことには変わりない。とっておきのお手製料理でもって恩返ししてみせよう、と僕は意気揚々、気持ちを逸らせ袖をめくった。ひとくち食べた瞬間にきっと真のお粥というものを理解するだろう、友人たちのおどろく顔を想像して、ふふふとひとりでほくそ笑んだ。