真白の夜

 そのとき藤原が考えていたのはかの偉大なるアイザック・ニュートンの残した万有引力定数のことで、ゆらりゆらりと霞みゆく視界を尻目に、彼は心中で繰り返しG=6.67259×10-11N・m2kg-2と唱えていた。
 万有引力とはその名のとおり万物が有する引力のことなのでつまり自分はいま地球に手招かれていると同時に地球を手招いてもいるのだ、と、そんなことをしみじみ考えながら、己の置かれた状態を物理学的に観測する。この巨大な惑星と、こんなにちっぽけな自分、それぞれの持つ引力が同等であるという事実は、頭では理解していてもやはり奇妙なもので、藤原は自身の抱える知識に対し今さらながら強い疑念を覚えはじめていた。これら物理学の常識たちは、けれど実のところ、すべて間違っているのではないだろうかとふいに思った。作用反作用も、等速直線運動も、ケプラーの三法則も、授業で習い書物で知ったものごとの全部、本当は、なにもかもでたらめなのではないだろうか。
 だってどう考えたっておかしいではないか。藤原自身はかけらだってそんなこと望んじゃいないのに、身体は勝手に傾いでゆく。大地の有する引力は強大で、ちっぽけなこの身体には、それに抗う力はもちろんのこと逆に引き寄せる力さえ微塵も感じられない。星と同じだけの値など、人間に持ち得るわけがない。当然だ。しかしなるほど二本の脚は、その靴底は、たしかに地球に引かれ地球を引いているかもしれない。ゆらりと再び大きく揺れた視界は藤原の全身をふわふわとどこか遠い場所へ放り投げてしまいそうなのに、そうならないのは確かに引力、いわゆる重力の働きによるものなのだろう。リンゴが必ず木から落ちるように、誰も大地への衝突は避けられない。
 ぼんやりと、けれど確実に、藤原の思考力は狭まっていた。地面が揺れているのだか身体が揺れているのだか、よく分からないままでとにかく唱える。G=6.67259×10-11N・m2kg-2という、いかにも怪しい、地上の常識。繰り返すほどに、すうっと身体の溶けるような感覚が強く濃くなってゆくのが分かる。頭がおかしくなってしまったみたいだ。
 霞む視界にクラスメイトの顔が横切って、もはや誰とも判別のつかないその人物がふと思い立ったようにこちらを覗きこんだ。その影が「おい、どうした、平気か?」と不審げに言うのを聞いて、藤原はようやく公式を唱えるのを止めにした。
「……平気」
「いや、でも、めちゃくちゃ顔色悪いぞ。先生呼ぼうか?」
 藤原は首を横に振る。もう一度、平気、と低く呟くように返したが、しかしクラスメイトのほうはその言葉を信じる気にはならなかったらしい。親切にも大きく手を振り「先生!」と声をあげる。「藤原が気分悪いみたいです!」
 そんなふうに声高に訴える必要などないのに。藤原は思って、ざわめきの広がる気配に羞恥した。この程度の眩暈、別に、どうってことはないのだ。大袈裟に騒ぐようなことではないし、わざわざ呼び立たされる先生にだって迷惑だ。
 平気です、大丈夫です、すぐに治まります。
 近づいてきた教師にそう伝えようと口を開くが、しかしふしぎと上手く呂律が回らない。ふにゃふにゃと軸を失ったような唇から漏れた「大丈夫」は「らいりょ」という謎の単語として発音され、そうして次の瞬間には、ものすごい速度で地面がこちらに突撃して来ていた。
 万有引力の法則を一瞬でも疑った自分を、藤原は心底恥じた。この身に引き寄せる力があるからこそ、地球からこんなにも熱烈なダイレクトアタックを食らう破目になるのだ、とそらっとぼけた頭で思う。
 どうした、平気か、立てるか、と多くの声に取り囲まれながら、藤原は地面に蹲ったままひたすらに「平気だ」「大丈夫だ」とだけ返した。しながら、まるで許しでも請うかのように、心中ではやはり万有引力定数について考える。
 G=6.67259×10-11N・m2kg-2……G=6.67259×10-11N・m2kg-2……。
 そうやって不可解な方法で衆目に晒される羞恥に耐える藤原に、人の輪を裂いて飛び込んできた人影が言った。
「藤原! どうしたんだい、大丈夫? 立てる?」
 藤原はかすかに視線を上げた。その声のぬしが他でもない天上院吹雪であったので、なにやら急に安堵を覚え、次いでまぶたをおろしてから、ためらわずに返した。
「……むり、立てない。気持ちわるい」
 平日三時間目、体育の授業の真っ最中のできごとであった。

* * *

「貧血ね」と鮎川女史が告げたことと、微笑んだ彼女が「少し休んだらよくなるわ」とだけ残して会議に出かけてしまったことは覚えていた。
 保健室の天井は高くて白い。目を凝らせば純白の中に埃や染みのひとつでも見つけられるだろうが、藤原がその遠い頭上に貼りついた壁を思わず凝視したのはそんな粗探しなどではなく、単にその白い壁までが先ほどの地面ように勢いよくこちらへ迫ってきたりしないだろうかと不安に思ったからである。それが単なる杞憂である事を確信してから、藤原はぱちりぱちりと何度か瞬いた。眠っていた、とようやく気がついた。
 少し休めと、鮎川教諭はそう言っていたはずだった。貧血で倒れるなど中学生の女の子ではあるまいし、と内心忸怩する思いもあったが、起きてしまったことは仕方がない。原因不明の脳の裂傷なんかでなくて良かったと、前向きに考えなくては己の晒した醜態に呼吸さえままならなくなりそうだった。
 とはいえ、それとこれとは話が別だ。壁にかけられた時計はすでに昼過ぎを指しており、具体的には今はもう、じきに昼休みの終わってしまう頃あいである。三限目のはじめに倒れて保健室までやってきたのだから、実に二時間、藤原はこのベッドでひとりぐうすかと寝こけていたことになるのだった。
 二時間。そう、二時間である。二時間とはつまり分にすると百二十分で、百二十分あればいったいどれほどのことが出来るか、藤原の優秀な頭脳をもってしても数え上げればきりがない。
 貴重な時間をまさかこんなふうに消費してしまうとは思いもよらず、悔やむより嘆くより先に藤原は感心した。まったく愚かな自分自身に、辟易するような呆れかえるような不思議な気分になった。ちいさく身動ぎすると、まぶたの裏に残った眠気がうっすらと疼いていよいようんざりする。
 自身の愚行を考えれば考えるほど、起きあがって授業を受けに戻らなければと思うほど、次第に億劫になってきて藤原は嘆息した。藤原優介は稀に見る勤勉な学生であったけれど、同時に、まるでその反動だとでもいうような急速な怠慢に支配されることもままあった。それが逃避衝動であることには気付いていたが、はたしてなにから逃げ出したいと考えているのかは、本人にも明確に理解できないままだった。
 ともかくこのままサボってしまっても構わないものだろうか。午後からは特待生のみ集めた特別授業があったはずで、それは、藤原の不参加がなにか影響を及ぼすような内容だろうか。おそらくそんなことはないだろう。自分がどこにいようと、どこにもいまいと、どうせ大した違いはない。
 藤原は思って再び深く嘆息したが、しかしその瞬間に、さもその後ろ向きの思考を叱咤するかのようなタイミングで、保健室のドアが開いた。鮎川が戻ってきたものだと考え、藤原はベッドから追い出される覚悟をしたが、そうではなかった。
 軽快な足取りでこちらへ近づき、ひょいと藤原の顔を覗きこむ。いつの間にか随分と見慣れてしまった整った容姿にひどくのんきな表情を浮かべて、そこに立っていたのは吹雪であった。
 驚く藤原に、彼は「おはよう」とやはり軽い口調で言って微笑んだ。「いつまでも戻ってこないから心配してたんだけど、さっきよりは顔色も戻ってるし、平気そうだね」
 良かった、と言葉通りに安堵したようすで言いながら、吹雪はベッドの傍らまで椅子を運んできてそこに腰掛けた。彼の手にぶら下がった購買の袋を見て、藤原は今が昼休みだということを思い出す。なにかにつけて友情や仲間意識を大切にしたがる吹雪のことだ、休み時間を利用して、わざわざようすを見舞いに来てくれたのだろう。
 藤原はその厚意に素直に感謝した。自然と気持ちがゆるんだが、こんなふうに心配をかけさせておいて、いまのいままで惰眠を貪っていましたと白状するのには少し勇気がいった。礼と謝罪とどちらを先に口にするのがふさわしいか迷いながら、ともかく身体を起こそうとすると、吹雪はふふとなぜかおかしげに笑い、「寝てていいよ」と言った。
「まだ眠気が取れないんだろう? このままサボって、もう少し眠っちゃいなよ。帰るころには起こしてあげる」
 そういえば最初から、彼は「おはよう」と藤原に声をかけたのだった。藤原が二時間かけて昏々と眠っていたことはバレバレで、睡魔と怠惰の混ざったぐにゃぐにゃとした感情が、いまだに胸に巣くったままでいることも、どうやら吹雪にはお見通しのようだった。
 藤原はなぜだか胸を撫で下ろし、うん、と自分でも不思議なほど素直に頷いた。吹雪がそう言うのならサボってしまおう、と、心中で燻っていたはずの罪悪感もあっという間に消し飛んだ。
「昨日、眠れなかったのかい?」
 なんでもなさげな吹雪の問いかけに、藤原はやはりこくりと頷き肯定した。貧血はたしかにそうなのだろうが、体調管理が出来ていなかったことが恐らくそもそもの原因だ。藤原はすこし考え、言葉を選びながら口を開いた。「写真が」と呟くと、続きを促すように吹雪が「うん」と穏やかな相槌を打ったので、そこから先はするすると口にすることが出来た。
「……今まで撮った写真がたくさん溜まってきていたから、改めて整理していたんだ。昔の、この学校に来る前のものから順番に。でも、そうなってくるとさすがに多いし、取捨するのも難しくて、それで夢中になっているうちに、気付いたら夜が明けてた」
 はにかむようにそう告白すると、吹雪は得心したふうにやはりゆったりとした相槌を打ってきた。どこか呆れたふうな、まったく仕方がないなとゆるやかに嗜めるような、そんな優しい視線を受けて、藤原も笑んだ。藤原の言葉は嘘だった。写真の片づけをしていたことは事実だが、その作業は夢中になるというような無邪気なものではなく、ただこの気持ちを黒々と沈めては苛む、ひたすらに苦々しいものだった。思い出はあたたかいのに、それらを見つめる夜は奇妙なまでにつめたい。冷え切った手足で愕然と佇んでいる間に、星の瞬くような速度で真夜中は過ぎていった。藤原の虚実に吹雪は気づくことなく、いつもの彼らしくあっけらかんと微笑んで、きみは極端なんだよとおかしげに言った。そのとおりだと藤原も苦笑した。「これからは気をつけるよ」
 はたしてなにに気をつければ良いのだろうな、と心中でぼんやりと考える藤原に、吹雪はしかしそれ以上を語ることはしなかった。ちらりと時計を見やり、そろそろ昼休みが終わることを確認した彼は、手にした購買の袋を藤原へと差し出して見せた。
「これ、お見舞いね。クラスのみんなから。飲みものとかお菓子とかいろいろ入ってるから、食べられそうなら食べて」
「え、あ、ありがとう」
「ちなみに一番のおすすめは、我らが丸藤亮による渾身のドローで引き当てたドローパンです。まず間違いなく黄金のたまごパンが入っているはずだから、感謝して頂くように」
 茶化した口調でそう言って、吹雪は自らの功績を誇るように胸を張った。そのようすがおかしくて藤原はかすかに笑い、もう一度ありがとうと口にしてから、ふと思い立って「吹雪からは?」と訊ねてみた。らしくない、どこかねだるような声音に、吹雪は驚いたふうに目を瞬かせた。
「僕からは、僕さ」
 告げられた言葉の意味が分からず、藤原は訊ね返すようにかすかに眉を寄せた。なにかを聞き間違えたかと思ったが、しかし吹雪はにっこりと笑う。
「だから、僕自身がきみへのお見舞いだよ。癒されただろう?」
「…………」
 予想になかった回答を受け、藤原は少々沈黙したが、最終的にはぎくしゃくと頷いた。「う、うん……」という困惑した首肯を、吹雪は満足気に眺めやり、「もちろんそれだけじゃないよ」と種明かしを楽しむ手品師のように吹雪は言った。
「四時間目のノート、藤原の分も取っておいたから。僕からのお見舞いはそれってことで」
 きみにはなにより嬉しいだろう、と彼は当然のように言ってのけた。それはたしかにそのとおりなので藤原はありがたく頷いたが、けれど見舞いの品として比較してみれば、ノートなどより吹雪自身のほうが圧倒的に魅力的であるようにも思えた。癒されたかどうかはさておき、と言いわけするように心中で呟きながら、藤原はまぶたを降ろす。じきに昼休みは終わるので、吹雪はもうここを出て教室に戻ってしまうだろう。
 ちっぽけな自分の、なんだか醜い、侘びしさばかりを一方的に訴える感情が、静かな部屋のなかでぽとりぽとりと転がっていた。藤原はそっと息を吐いてそれらをやり過ごし、それから目を開ける。吹雪は変わらずベッドの傍らで椅子に腰掛けて、出てゆくような素振りを見せるどころか、どこからか教科書を取り出して広げ、黙ったままで目を通していた。
 午後の授業の開始を告げる鐘が響く。
「……吹雪」
「なんだい?」
「授業、はじまってるけど」
「ん? ああ」吹雪は見つめていた字列から顔をあげ、あっけなく言った。「特待生は午後から自習だってさ。何人かは寮のほうに呼び出されていたけれど、ほとんどの生徒は教室で待機だから、せっかくだしここできみの寝顔でも見ていることにするよ」
 そう、と藤原が呟くようにして言うと、吹雪は、うん、と愉快そうに笑んだ。
「だって藤原、きみ、僕にまだ出ていってほしくないんだろう?」
 顔に書いてあるよとでも言いたげに、当たり前にそんなことを告げる。藤原が返答をためらっていると、吹雪はいっそう楽しげに口の端を上げた。自然な動作で手を伸ばし、横になったままの藤原の、額に貼りついた前髪を少し整えた。そのまま柔らかく頭を撫でながら、おやすみ、と彼は口ずさむみたいに呟いた。同じ声がついさっき、帰るころには起こしてあげる、と言っていたことを思い出した。
 藤原は再びまぶたを降ろした。優しく髪を梳く、その手があたたかかったので、出来ればもっとずっと撫でていてほしいなと思ったけれど、どうやら吹雪はそこまでは藤原の顔色を読むことは出来ないらしく、ぬくもりはあっけなく離れていった。その寂しさを、けれど追いかけることはしないで、代わりに藤原は口を開いた。閉ざした視界の内側は冷たい夜に似ている、とふいに思ったが、昨夜のような痛みと焦燥はもう、どこか遠くへ行ってしまったようだった。
「寮に戻ったら」と呟くと、「うん」と吹雪が返すのが聞こえた。穏やかな相槌に、藤原はすこし頬を緩めた。
「俺の部屋に来て、一緒に、写真の整理を手伝ってくれないか」
 寝言でも零すように、どこか夢想めいた甘えた声でそう言うと、すこしびっくりしたように吹雪が息を吸う音が聞こえた。彼は一度深呼吸をしたようだった。なんだか大袈裟だな、と藤原は思ったけれど、次に聞こえてきた「よろこんで」という声がひどく嬉しげだったので、充たされた気持ちになって、今度こそ再び、とろんと押し寄せる優しい眠りに身を任せた。

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2012-04-02