少年交友記 - 2/3

02 丸藤亮

 授業は通常通り行われていた。
 俗に、学生の本分は勉学であると言われるが、しかしデュエルアカデミアに於いてその表現が適切であるかは甚だ疑問だ。一般的に必須とされる五教科七科目こそカリキュラムに組み込まれてはいるものの、学科全体で見ればそれもおざなりな傾向にある。学園の教育体制が云々という問題より先に、生徒側の認識の緩怠こそが全体的な学績の低迷を招いていると言えた。それを心の底から嘆いている教師がはたしていったいどの程度存在するのかと、当の生徒たちにそんな疑念を抱かせてしまう辺りは、たしかに学園側の失態でもあるのだろうが。
 どうしたところで、一日約三百分の授業を週休二日で受けているのは確かだ。単純計算で週に一千五百分。この膨大な受講時間のいったい何割を、俺たちはデュエルモンスターズに注ぎ込んでいるのだろう。考えるに無為で無益な思考題目だが、授業の合間の閑暇を殺すのには適したどうでも良さのように思えた。次の講義がはじまるまであと五分、頭の中で学期毎の時間割を展開し、その上で確実に「これはデュエルには関係ない」と断言出来る授業項目を数えてみる。なるほど、根気のいる作業のようでいて、パーセンテージだけなら案外簡単に導き出せそうだ。――デュエルに一切関係のない学問など、そもそも存在しないのだから。
 そんなふうに俺がひとり静かに無作為な時間を過ごすことが出来るのも、いつもなら休憩時間のごとに喧しく騒ぎ立てるクラスメイトの姿が、今日は見えないからだった。
 天上院がいないと教室の空気が違う、と、今朝方呟いたのは誰だったろうか。確かに、吹雪の不在は平和とともに活気のなさを連れてくるようだ。静かすぎるということは決してないのに、三限目を目前に控えた教室は、なんとなく彩りに欠けたように見える。
 隣の席で大人しく先の授業の復習(というか、備忘だろうか。なにやら神経質なほど綿密に、授業内容は勿論、教師の発言のひとつひとつを拾って書きこんでいるようだった。真面目なことだ)に励んでいた藤原が、ふと顔を上げてこちらを見た。どうかした? と微かに首を傾げる。
 デュエルアカデミアに於ける通常授業とデュエルモンスターズに関わる授業との比率と、それに伴うであろう生徒の基礎学力低下について考えていた、とは、俺は言わない。言っても仕方ない。
「吹雪はどうしているかと思ってな」
「部屋で寝てるんじゃないかな。たぶん、まだ熱下がってないだろうし」
 吹雪は昨夜、藤原の寮室で課題に取り組んでいる最中に、高熱を出して倒れたらしかった。吹雪以外にもちらほらと欠席者がいるようすを見ると、どうやら風邪がはやっているようだ。元より『傍迷惑』という単語を両手で掲げて振り回しながら生きているような節のある男だが、実際に他人に膨大な迷惑をかけることはそうないもので、……いや、全くもって一切ないかというと断じてそんなことはなく、まぁ、あるにはあるのだが、今回は事情が事情だ。憂慮すべきだろう。なにしろ実害を被ったのは俺ではなく藤原で、ベッドを横取りされた揚句に深夜まで友人の看病をする羽目になった彼には同情を禁じ得ないが、無論吹雪を責めるのは筋違いというものだ。助けあいの心はリスペクトの精神に通じる。
 寝場所もなかった藤原はほとんど睡眠らしい睡眠をとっていないらしい。心なしか顔色も悪いが、睡眠不足はいつものことだと言う彼は、休憩時間も休むことなくノートにペンを走らせていた。体調管理が出来ないほど子どもでもなし、まぁ、本人が平気だと言うのなら大丈夫なのだろう。
「大変だったな」と労うと、し
かし藤原はどこか気まずそうに苦笑して、「俺にも責任があるから」と返した。その穏やかでない単語には少々引っかかったが、本人が訊ねてほしくなさそうなので流しておく。そうか、とだけ答え、話題は変えず、方向性を逸らすことにした。
「食事なんかはどうしている?」
「朝は食欲ないって寝てたから、一応、昨日の残りだけ置いて来たけど。昼休みには一度寮に戻って様子見てくるつもり」
「昨日の残り?」
 そういえば昨夜、夕食の時間にふたりは揃って食堂に現れなかった。藤原は大方また時間を忘れて何事かに没頭しているのだろうと思っていたが、吹雪の不在は意外に感じたことを思い出した。恐らく時間がずれただけだろうと思っていたが、そのころにはもう吹雪は藤原の部屋でひっくり返っていたのだろうか。
 だとすれば食事は藤原が用意したことになる。寮食の振舞われる時間の規定は厳しすぎることこそないが、大幅に遅刻すれば完売は免れない。
 問いかけに、藤原は僅かに目を伏せ、どこか気まずそうに眉尻を下げた。
「寮食の時間、とっくにすぎてたから。先生に連絡して台所だけ貸してもらって、お粥作ったんだ」
「……失敗したのか?」
「いや、ちゃんと出来た。食べられないほどまずくはなかった、と、思う」
 だったらなにをそう不安げにする必要があるのだろう。藤原は困惑か、或いは倦厭するような顔をして、吹雪が、とつぶやいた。やはり顔色が悪いように見えた。
「もう、べったべたに甘えてきて……。なんだろう、あれ。熱はかなりあっただろうし苦しそうなのに、食べさせてとかなにか話してとか、いつにも増してすっごかったから、……正直ちょっと疲れた……」
「…………」
 ご苦労だったな、と言うよりほかない。哀憫を込めた眼差しを送る俺に、藤原は苦笑して、「なんでもするなんて言わなきゃよかった」と零しつつ、気を取り直すように続けた。
「でも、けっこう楽しかったかも」
 俺や吹雪と違って下に弟妹のいない藤原は、他人の面倒を見ることにあまり慣れていないような印象があった。かといって、面倒を見られる側として慣れているふうでもない。人に甘えることはしたくないのか、或いは単純に、そう出来る環境になかったのか。どちらにせよ本質的に人の良い性質だ。病気の友人の役に立てたことが嬉しいのだろう。
 吹雪はあの性格だから、甘やかすのは勿論、甘えるのにも手慣れている。少し調子に乗りすぎているようだが、藤原からすれば貴重な経験になったのだろう。そう考えれば、寝不足のはずの彼の目もいきいきと輝いているように見えた。人に頼られれば自信が生まれるのは道理だ。結構なことだと思い、俺はひとつ頷いた。
 そうこうしている間に授業がはじまり、それなりに騒々しかった教室は一転して静かなものになる。教諭の声のうえに、教科書をめくる音とノートになにか書きこむ音が重なって、時間は平穏にすぎてゆく。
 通常通りの授業風景だ。きっと誰もがそう思っていたはずのその日常に、しかし、変化はあっけなく訪れた。教師に名指され、教壇側で解説を頼まれた藤原が立ち上がり、前方に向かい歩を進める最中に突然姿を消したのだ。
 もちろん、正確には消えたのではない。人はそうそう消失などできない。単純に、俺の視界から急に外れただけだ。つまり藤原は大袈裟なほどの勢いで、教室にいる生徒全員の目の前で、昏倒したのだった。
『パタリ』というよりは『ドッターン』といった擬音の似合う、まさに引っくり返ったとしか言いようのない具合に、藤原は倒れた。なんとなくこうなる予想はついていたため、俺はさして驚かなかった。
 そもそも体力などとは無縁の彼が、一晩中病人の相手をしていて無事ですむわけがなかったのだ。

* * *

 高熱を催す種類のウイルスは、既に島全体規模で流行しているらしい。満員御礼の保健室を尻目に、俺は藤原を背負って寮に戻ることにした。授業はまだ残っていたが、緊急事態だ。不服はない。
 思ったよりいくらか軽い藤原の身体を特に苦もなく担ぎ、一路特待生寮へと帰還した俺は、そういえばこいつの部屋ではまだ吹雪が眠っているのだと思い出す。どうしたものかと思案して、結局、藤原の寮室の扉を叩いた。しばらくの間を空けてから、ずるずるとなにか這うような気配が近づいてくる。怪訝そうに、吹雪が顔を出した。
「え、亮? なに、なに、えっ、藤原?」
 まだ熱があるらしくふらついているが、立ち上がれるのなら大したことはない。説明もそこそこに室内に足を踏み入れて、ベッドに藤原を放りだす。乱暴にしたつもりはなかったが、あうう、といやに情けない声が聞こえた。どうやら意識を取り戻したらしい。重たげにまぶたを上げ下げして、藤原は不審そうに自室を見まわしていた。
「気付いたか」
「……あ、うん。え?」
「倒れたんだ、授業中に。覚えていないか?」言いながら、額に手を当てる。背中に担いでいたときより、熱が上がっているような気がした。「大方、吹雪の風邪を貰ったんだろう。流行っているようだし、感染拡大を防ぐためにもお前たちは当分この部屋から出るな」
「ええっ、僕も?」
「お前が一番タチが悪い」
 次いで触れた吹雪の額も、藤原ほどではないがまだ熱い。半端に下がったからといってふらつかれては迷惑だ。吹雪の行動範囲と交友関係の広さは、日頃ならともかくウイルス保持者としては最悪の部類だと言えた。発症次第真っ先に隔離すべき対象だ。
 なにか言いたげな吹雪を無理やりベッドに押し込んで、藤原と並んで寝かせる。幸い、特待生寮のベッドはブルー寮も蒼白な広大さを誇る。男ふたりが並んだところで、若干狭いが窮屈すぎるということはないはずだ。患者二人を横にして、俺はようやく一息ついた。校舎のほうは今ごろどうなっているだろう。保健室のようすから考えると、クラスでもまだこれから発熱する者が現れるのではないだろうか。
「あ、あの、丸藤……」
 恐々というふうに、藤原が掠れた声で言った。
「どうした」
「ごめん、ここまで連れてきてもらってありがたいんだけど、早くここから出ていったほうが……」
「なにを今さら」
 病人看護のお約束とも言えるであろう、濡れタオルを二人分用意してそれぞれの額に乗せてやる。
「誰がここまで担いで来たと思っているんだ。お前たちを含めて、既に十数人の生徒が倒れている。それほど感染力の強いウイルスなら、今になって距離を取ったところで、大して変わらん」
 そういう問題じゃ……、と異口同音に言われるが、俺からすれば充分にそういう問題だった。吹雪が倒れ、その面倒を見ていた藤原まで倒れたのだから、二人になった病人を放りっぱなしにしておくわけにはいかない。
 もう随分昔のことになるが、熱を出した翔の看病なら経験があった。これといって大袈裟になにかしなければならないわけではないし、薬や水分を用意して面倒を見てやるくらい、そう大層なことではない。翔に比べれば随分とでかい二人だが、その分手間もかからないはずだ。幼い子どもではないのだから、身体の不調にぐずることもあるまい。
 とはいえ、こうして二人並べて布団を引っ掛け、同じタオルを額に乗せている姿を見おろすと、それは妙に幼気な兄弟かなにかのように感じられた。不謹慎な話だが、なんとなく微笑ましいような気さえする。なるほど、病というものは人を小さく見せるらしい。
 吹雪と藤原は不思議そうな顔でこちらを見ている。どうした、と問うと、吹雪は熱っぽい掠れた声で、
「亮が楽しそう……」
 と呟いた。藤原がゆっくり、こくりと頷く。俺はそんなにも愉快そうな顔をしていただろうか。
「そういえば、昨日の藤原も楽しそうだったなぁ。なにかとそわそわしていたし、朝も妙に張りきってたよね」
「え、そ、そうかな……」
「うん、僕が弱ってるのってそんなに面白い?」
 言って吹雪はくすくすと笑ったが、笑い声は途中から小さな咳に変わっていった。喉の痛む時くらい黙っていれば良いものを、すぐに余計なことを言いたがる。
「あーあ、良いなぁ。僕も早く治して、次は看病する側に回りたいなぁ。もう、これでもかっていうくらい奉仕するのに。子守り歌から絵本の朗読からなんでもしちゃうのに」
 となりで藤原が苦笑いを浮かべている。口には出さないが、まぁ、思っていることは俺と同じだろう。吹雪の看護なんて受けた日には、いっそう熱が上がるか、或いは一発で下がるかのどちらかに違いない。つまるところ、心底遠慮したい事態だった。
 菌を貰ったところでどうということはないと思っていたが、万一に備えてマスクくらいはつけた方が賢明かもしれない。考えながら、藤原の部屋を出る。どこ行くの、と吹雪に訊ねられ、振り返った。並んで横になった友人たちはやはりどこか小さく見えた。
「時間も時間だ、薬を飲まないわけにいかないだろう。昼飯を用意してくる」
「用意、って、亮が?」
 頷くと、吹雪はもちろん藤原までひどく驚いた顔をしていた。失礼な奴らだ。平日の昼間、通常なら学生は寮で昼をすごすことはなく、食堂は食事を用意してくれはしない。俺が作るよりほかにないじゃないか。
「……不服なら購買まで行ってくるが」
 その場合もれなくドローパンだ。どれだけ消化の悪いものが出てきたところで、文句なく食べてもらうことになる。
 言うと、吹雪は心底物悲しげな表情を浮かべて、
「亮の手料理って、その、味はあるの……?」
 などと呟いた。藤原は黙っていたが、概ね同意であると顔に書いてある。まったく、相手が病人でなければ廊下に放りだしてやるところだ。
「熱があるのに味の濃いものを食べても仕方ないだろう」
 大人しく待ってろ、と告げて部屋を出ると、背後から「はぁい」と二人の声が重なって届いた。素直な良い返事だ。俺は少し笑って、静かに戸を閉めた。人気のない、静まった廊下に出る。
 病人食といえば粥が相場だ。味つけにうるさい吹雪のために塩でも入れてやろうと考えながら、俺は迷いない足取りで食堂へと向かった。炊事場に立った経験はあまりないが、米を煮るだけの料理なら作れるだろう。たぶん。

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2011-12-31