純愛モラトリアム - 6/7

 そうして夏休みはあっけなく終わってしまって、怒涛の二学期がはじまる。
 まだまだ衰える気配を見せない太陽に後押しされるように幕を開けた文化祭が光の速さで終了して、それと同時に総務管理会は後期体制に切り替わる。三年生が引退して、新たに一年生がメンバーに加わるのだ。
 あの三人が抜けて、それと入れ替わるように万丈目と明日香と、それからなんと翔が、正式に総務管理会に籍を置くことになる。春先からずっと管理会室にたむろっていた面子が、俺を除いて全員総務管理会役員になってしまったのだ。万丈目と明日香はともかく、翔の立候補と学校側の認可には正直ちょっと驚いたけれど、本人なりに思うところがあったのだろう。伊達に管理会室に入り浸っていたわけじゃないと言わんばかりの翔は、堂々と執務を引き継いで、きっと体育祭のころにはバッチリ全校生徒をまとめて管理統括していってくれるに違いない。
 で、晴れてお役御免となった旧管理会の三年生たちをどうするかというと、もちろんもう用済みですとあっさり追い出すことはしないで、ささやかながらそれなりの誠意と予算でもってお疲れさま会が催される。毎年恒例らしいその小規模なパーティは、けれど新旧の役員たちはもちろん世話になった先生たちや、あと卒業していった昔の管理会役員なんかも集まって、それなりに広いはずの総務管理会室をちょっとばかり窮屈にさせていた。
 そして俺はというと、思いっきり部外者のくせになぜかその会合にお呼ばれしてしまい、振る舞われるお菓子だのジュースだのをありがたく頂戴している真っ最中である。
 勝手に管理会室を溜まり場にしていただけの俺がこんな集まりにまで参加しちゃっていいのかは疑問だったけど、意外とあんまり関係なさそうな人もちらほらいるから問題ないのだろう。翔とふたりでふらふらと、場違いながらもそれなりに楽しみながらすごしていると、ふと藤原の姿が見えないことに気がついた。お菓子の山の真ん中にメインディッシュのように置いてあるケーキは例の駅前の店のもので、まだ手つかずのホールのままで残っている。あれ食べないのかな、と思い何気なく藤原を探したらどこにもいなかったのだ。さっきまで輪の中心のほうでカメラ片手に楽しそうにしていたのに。一体どこいったんだろう、トイレ?
 俺はなんとなく気になって管理会室の空けっぱなしの扉をくぐって廊下に出て、まっすぐに続く冷たい床の先のほうにひとりきりで突っ立っている藤原を見つけてぎょっとする。うわっ、と思う。夕暮れの特別教室練は静かだ。管理会室にいるたくさんの人のざわめきが中途半端に耳の奥のほうに残って、それが反響することで静寂は色を増している。藤原は長い廊下に細い影を落としながら、大きく開いた窓のそとをじっと見つめている。
 あの日とおなじだ。
 夏は終わってしまって秋に近付いているはずなのに、日中の熱をため込んでおいたみたいに校舎はじんわりと蒸し暑い。俺は一回深呼吸して、今にもそこから飛び降りてしまいそうな藤原の横顔をちゃんと見て、今度は慌てて駆けよって窓を閉めてとりあえず一安心みたいな愚は犯さず、もちろん見なかったふりして逃げ出したりもしないで、ただゆっくりと歩み寄る。藤原はすぐに俺に気がついて頬を緩めた気がするけどよくわからない。でも、思ったより平気そうだ。うわー、よかったー。びっくりしたー。今度こそ暴れる場面にまで遭遇するのかと思ったー。
 俺は内心めちゃくちゃ安心しつつ、藤原に近寄りながら言う。「なにしてんの?」
「ちょっと人が多くて疲れたから、休憩中」
「なんだそっか。あ、カメラ持ってる? さっきからすげー写真撮ってたじゃん。見せてくれよ」
「いいよ」と藤原は手にしていた小さなデジタルカメラを渡そうとするけれど、使い方が分からないので俺は手を出さずに、藤原が写真を表示させていくのを覗きこんで見せてもらうだけにする。いろんな人がいろんな顔で写っているたくさんの写真は、今日撮った分だけでもそれなりの枚数になりそうだ。
「お前ほんっと写真好きだよな。これ、印刷してアルバムも作るんだろ?」
「うん、まあ、気に入ったやつだけだけど」
「はー、すごいな。もう立派な趣味じゃん。あ、でもなんか、あれだ、面白いな」
「なにが?」
「いや、べつに撮るのが上手いわけじゃないってあたり、趣味って感じで良いよなぁと思って」
「…………」
 藤原はとても傷ついた顔をした。
 しまった。どうやらそれなりに上手に撮っているつもりだったらしい。
「あー……、いやいや冗談だって。素人なんだから仕方ないだろそんなの。真に受けるなよ。な?」
「それ全然フォローになってないよ……」悲しげに嘆息し、藤原はデジカメの画面を切ってしまった。「面と向かって酷いこと言うなぁ、もう」
「あはは、ごめんごめん、悪かった。あ、俺も撮ってくれよ、写真。っていうかせっかくだし、いっしょに撮ろうぜ」
「んー」
 慣れた手つきでボタンを押して、藤原は左手を伸ばしてカメラを自分のほうへと向けた。なんの気兼ねもなく俺と肩を並べるように少し背を屈める。そういえば藤原とふたりで写真に写るのははじめてだった。こっちを向いたちいさいモニターにはまるで鏡に映るみたいにふたりの顔が収まっていて、俺はそれを見て改めて、あ、こいつ顔色悪いな、と藤原のようすがやっぱりちょっといつもと違うことに気付く。気付いた瞬間に、藤原はシャッターを切っていた。
 そのなんの合図も掛け声もない作業めいた電子音は、ピピッ、ピピッ、と連続で何度も鳴りまくり、俺がびっくりして固まっているあいだにたぶん十枚くらい、俺と藤原の似たような顔がコマ送りみたいにカメラの中におさめられたはずだった。
 え、なに、なんか怒ってんの?
 慌てて藤原を見やると、すぐ隣にある横顔はぼんやりとカメラを見つめて黙り込んでいて、俺は思ったより平気そうだとか気軽に判断した自分自身の浅はかさを恨む。なんだなんだ、全然だいじょうぶじゃないじゃないか。藤原はまた空っぽになっていて、でもそんなに恐い感じではなくって、ただ薄ぼんやりとなにかを纏ったままでいる。
 カメラを支えていた左手をだらりと下げて、藤原は、そのままずるずると崩れるみたいに廊下に蹲ってしまった。
 膝を抱えて顔を伏せて三角座りのような姿勢で、はあ、とひとつ息を吐く。それは決して悲しく陰鬱なだけのものじゃなくて、ただ自分を落ち着かせるために、あるいは納得させるために、どうにか現実と折り合いをつけるために空気を震わせたくて口から零しただけのもののようで、寂しげなのにどこかあたたかだった。
 藤原はとても静かに口を開いて、言った。
「卒業したくないなぁ……」
 淡々としているのに切実な声だった。そこに含まれているのは拒絶ではなくて諦めで、もうどうしようもないことだと分かっていても口にせずにいられない、そういう懸命さを孕んでいた。俺は思わず頷く。「わかるわかる」と言う。
 藤原は三角座りは解かないで廊下に座りこんだままで、けどちょっとだけ顔を上げて隣に立つ俺を見つめた。ほんの少し笑ったみたいだった。「わかるんだ?」
「わかるよ」
「十代くんはまだ卒業しないのに?」
「まだ卒業しないけど、でも、そのうちするじゃん」
「…………」
「学校めちゃくちゃ楽しいし、俺も卒業したくねーよ」
 心底からの本音だった。だってこのまますぐに寒くなってまた暖かくなって、この調子でいくと俺もあっという間に三年生になって卒業することになるのだ。来年も再来年もまだまだ遠い先のことで、でも二週間後の体育祭とかそのあとに控えた校外オリエンテーションとか、期末とか、そういうイベントは絶え間なくやってきて時間が前に進んでいることを気付かせる。中学のときもそうだったし、夏休みだってそうだ。楽しいことを楽しんだ分、あれって思ったときには遠い未来だったはずの場所に立っている。
 藤原はなんかちょっと意外そうな顔でじっと俺を見あげて、またもう一度顔を伏せて息を吐いたけれど、それは溜め息じゃなくてたぶん深呼吸だ。深く吐いて、それから吸って、顔をあげる。
「そっか。……十代くんでもそういう難しいこと考えるんだ」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
 そう言って、藤原はちょっとからかうみたいに目を細めた。
 と、思ったら泣きだした。
 それはまるでコップの縁から溢れた水がとろーっとこぼれ出したみたいな泣きかたで、藤原は自分でも想定していなかったその水漏れにびっくりしたみたいな感じで何度か目をぱちぱちやるけど、そのたびに涙は量を増すみたいだった。
 結局藤原は慌てて俯いて顔をごしごししだして、それを見おろしながら俺がなにをしてたかっていうと、とりあえずパニックだ。ぎゃー、泣いた! っていうか俺が泣かせた?
 藤原はべつに肩をふるわせてしくしく泣いているわけじゃなくて、とにかく溢れた水を拭いて拭いて、これ以上零れないように気をつけて、っていう作業をひたすら行っているって感じで、でも泣いてることには変わりないから俺はちょっとどうしていいかわかんなくて隣でおろおろそわそわしている。なんとなくポケットをまさぐるけどもちろんハンカチなんて気の利いたもの持ってない。ど、どうしよう……。年上の男の人がこんなふうに蹲って泣いてる場面なんてもちろん出くわしたことないし、これから先もそうそう体験できないシチュエーションに違いない。この貴重な機会に俺はいったいなにをどうすればいいんだろう。とか考えながら、結局はまぁふつうに「なんだよ泣くなよ~」とか言いながら、気付けば藤原の隣に腰を下ろしている。
「…………ごめん」
「謝んなくてもいいけど。っていうか、こっちこそごめん? 俺、なんかイヤなこと言った?」
 藤原は俯いたままでかすかに首を横に振る。あ、よかった。藤原ってちょっと神経過敏っていうか情緒不安定っていうか、そういうわけわかんないとこのあるヤツだから、気付かないうちになんか無神経なこと言っちゃったかと思ったけど、でも、べつに俺の発言がどうってわけじゃないらしい。
 それでも俺は藤原の隣に座ってやっぱりそわそわしてて、藤原はどうやらもう泣きやんだみたいだけど顔はあげないでじっとしている。いきなり泣きだしてしまった手前、どう繕っていいのかわかんなくなってるのかもしれない。
 俺は藤原とおなじように三角座りして、口を開くのをためらってますみたいな素振りで、あー、とか、あのさー、とか言って、でも、とりあえず言うだけ言ってみよう、と決める。「なあ、いま言ってもだいじょうぶ?」と聞くと、藤原はようやくそっと顔をあげて、まだちょっと涙っぽい目で俺のことを見る。それを見つめかえしながら俺は言う。
「余計なお世話かもしんないけどさ、でも好きな人にはやっぱりちゃんと、好きって言って、それで一緒にいたほうが、俺はいいと思う」
 明日香は《このまま逃げ切っても良い》と言ったけれど、俺はやっぱりそうは思わない。拒絶してしまうのならまだしも、逃げるのじゃダメだ。逃避は選択肢には含まれるのかもしれないけど、でも、俺は藤原にそれを選んでほしくはない。逃げて逃げて、そのせいで部屋のなか荒らしたり、今にも飛び降りそうな空っぽの顔なんてしてほしくないのだ。
 唐突に話題をすり替えられた藤原は一瞬なにを言われたのかわからないみたいな顔をして、でも、もちろん本気でわからないなんてわけはなくて、俺の顔をじっと見つめて丸めた目を何度か瞬きさせてからひどく動揺した表情を浮かべる。なんで今そういうこと言うの? って顔に書いてある。卒業するのがいやで、総務管理会を引退するのもいやで、とりあえず逃げ出して廊下の隅っこで丸まって泣いてるのに、どうしてわざわざこのタイミングでそういうこと言うの?
 俺はもちろんなにかを計算していたわけじゃない。なんとなく、あー今言っちゃおうかな、言っちゃっていいかな、って思ったから言ってみただけだ。でも実際にそれは俺がいつでも藤原に言いたかったことで、だから、べつに今じゃなくても良かったけれどとにかく今が一番言いやすかったのだ。わざと動揺させようと思ったわけじゃない。
 でも藤原は硬直して眉を歪ませていてなんかまた泣きだしそうで、まるで俺がいじめてるみたいだし謝ったほうがいいのかな……とか思っていると、先に藤原の方が口を開く。「わかってる」と言う。「……そんなのわかってる」
 それは硬い声だったけれど弱々しく絞り出すような感じのものじゃなくて、どっちかっていうと決意を固めたみたいな、ちょっと怒ったような雰囲気で、俺はおっと思う。なんだ、思ったより手応えがあるっていうか、その返答は予測してなかったぞ。そんなこと言われても無理なものは無理、みたいなことしかどうせ言わないだろうと思っていた。意外だ。
 で、俺がそんなふうに意外に思っていると、藤原が突然ぱっと顔の色を変えた。気まずいような、でもなんかちょっと嬉しそうな安心したような表情。その視線の先、長い廊下の先を辿ると当たり前のように吹雪さんがいて、ようやくお迎えか、と思って俺はちょっと呆れる。遅いんだよ来るのがー。
 吹雪さんは俺が藤原と一緒にいるのをとくに意外そうに感じたようすもなく、ちょっと苦笑いとかしながらゆっくりこっちに近付いてくる。ってことは俺はもうお邪魔だよなーと思って、蹲ったままの藤原を置いて吹雪さんのほうに駆けよって、すれ違いざまに一応謝っておく。
「ごめん、ちょっと泣かせちゃった」
 えっ、と吹雪さんはびっくりして俺のほうを見るけど俺は無視してそのまま総務管理会室に飛び込んで、出てきたときと全然変わらないでお別れ会を楽しんでいる人たちの中に紛れ込む。明日香を見つけて、ケーキ食おうぜケーキ、と声をかける。
「勝手に食べちゃだめよ。あれ、藤原くんのリクエストで用意したんだから」
「でもあいつら当分戻ってこないと思うぜ?」
 明日香は室内を見回して、ふたり分の姿が見えないことを確認すると心底疲れたふうに嘆息した。そうね、と言う。「兄さんと藤原くんの分は残しておいて、先に切り分けちゃいましょう」
 特別に注文したらしい特大のホールケーキは、みんなで分けると思ったより少ししか当たらない。プラスチックのフォークでそれをつついて食べながら、俺は廊下で蹲ってる藤原のことを考える。ひょっとしたら今ごろ、上手いことケリついてんじゃないかなーと思う。そしたら藤原に「そんなことわかってる」とちゃんと言わせたうえで吹雪さんと二人きりにしてやった俺って、もしかしてかなりキューピッドな役割を果たしたことになるんじゃないの? とか考えて、だったら藤原のぶんのケーキも食べちゃっていいんじゃないのかなあとか思うんだけど、また泣かれると困るからやめておく。
 いやー、ほんとに焦った。もう二度とあんな場面に遭遇したくないし、出来ればそういうの全部吹雪さんに任せたいし、そのためには今日中にでもくっついちゃってほしいのだ。正直。
 でも俺の予想は大きく外れてその日の藤原と吹雪さんにべつに進展はなくて、つまり俺はキューピッド的ななにかにはまったくなれずじまいだったので藤原のケーキは食べなくて正解だった。
 吹雪さんが通算十一回目の告白を終え、藤原がそれを受け入れたのは総務管理会引退から半年足らず後。
 まだ肌寒さの残る三月上旬。校歌と涙と別れの言葉の混じりあう、卒業式の日のことだった。

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