あたらしい病室は広い真四角の空間にまっしろなベッドだけを無理やり詰め込んだみたいな部屋で、決して狭くはないのになんとなく窮屈だった。ぱたりぱたりとサイズの合わないスリッパの音を響かせて、自分の足でベッドに向かいシーツに触れてみる。真新しい布は、けれどもちろん新品ではない。以前にこれを使っていたのはどんな人だろう、と考え、優介はその手を離した。なんだか急に気分が悪くなってきたけれど、そばにいた看護師にそれを悟られないようきゅっと唇を噛んで、それから再びベッドに手を伸ばした。今度はなにも考えず、ゆっくりと上がり込む。ぱたぱたとスリッパが床に落ちた。
無機質なベッドのうえに広がる冷たい白は雪のようだと思う。
新雪の布団のうえで、優介は窓の外を見る。青色のカーテンが囲ったガラスの向こうは、この部屋と同じで真っ白だ。
いつになったら雪はやむのだろうか。
飽きることなくしんしんと雪の降りつづける、ベッドからほど近い場所にある窓の、その外に広がる氷の世界をしばらく眺めやってから、優介はそっとまぶたを閉じた。気分が悪い。吐き気がする。それを伝える気力さえ見当たらずに、無言で身体を横たえ枕に頭を預けた。病室の壁も、外の景色も、そこに広がる白色のすべてを見ていたくないから、毛布を引っ張って頭からかぶった。
けれどそうやってもぐりこんだ薄い布団のなかにも同じ白が広がっていて、だから、もうどこにも逃げ場はないのだと、優介はひとりそう思った。ここが最後。この部屋が最後だ。
ここで全部終わりにしよう。
そう考えて身体を丸める。病室から看護師の出てゆく気配を確認してから、お父さん、お母さん、とちいさくつぶやいた。
それに応えるように、こつんこつんと音が聞こえた。
優介は最初それを気のせいだと思い、けれど、もう一度同じ音が聞こえて、それが誰かが窓を叩く音だと気付いた瞬間に、がばりと顔を上げた。お父さんとお母さんが窓のそとにいて、こつこつと優介に合図しているのではと思って、慌ててかぶっていた布団を剥いだ。
窓の向こうには男の子がいた。
お父さんでも、お母さんでもない。優介と同い年くらいの、けれど、とてもきれいな顔をした男の子だ。曇った窓のふちから顔だけを覗かせて、大きな両目でじいと部屋を見つめていた彼は、ぽかんとあっけにとられた優介の顔を確認した瞬間に、ぱあっと輝くような笑顔を浮かべてみせた。
病室は二階で、そこに人の姿があるわけがない。
優介はぎょっとして、おろおろと周囲を見回し、それからもう一度彼の顔を見た。見れば見るほどかわいらしい容姿をしているから、ひょっとしたら女の子なのかもしれないなと優介は思った。正体不明の客人は、こんこんともう一度窓を叩いて、鍵の部分をちょいちょいと指さして優介に開錠を訴えている。
少し迷ってから、そろそろと手を伸ばして鍵を開けた。
凍てついて硬くなった窓をそっと開けると、とたんに冷たい風が室内に侵入してくる。空からはまだ雪がちらほらと降っていて、急速に入り込んできた冷気に、優介は身体を震わせた。あたたかな病室には、外の空気は凍るほど冷たく感じられた。
「えっと、こ、こんにちは!」
と、どこか緊張した面持ちで頬を紅潮させながら彼は言った。寒さに震えることのない、まっすぐな声だ。優介はそれを受け取って、ほんの少し口ごもってから、けれどきちんと言葉を返した。
「こんにちは……」
その簡潔な返事に、彼は飛び上がらんばかりに嬉しそうな顔をする。にこにこと笑みを浮かべながら、あの、あのね、と変にハイになったように言葉を探し、ごそごそとなにかをポケットから取り出してみせた。「これ、お見舞いに! よかったら食べて!」
差し出されたのは、透明な袋に包まれたチョコレートブラウニーだ。オレンジ色のリボンで飾られたそれはどうやら手作りで、けれど、優介にはそれを受けとる理由がわからない。
目を丸めたまま固まっている優介に、彼はふたたび言葉を探すようにぱちぱちと瞬きを繰り返し、手のうえのブラウニーを軽く握った。
「明日香の、えっとね、妹のお見舞いに持ってきたんだ。これはお母さんといっしょに作ったんだけど、ひとつ余ってて、だからきみにあげようって思って!」
「……ぼくに?」
優介が軽く首をかしげると、彼はこくこくと頷いて、またにこにこと笑みを浮かべた。それがあんまり突然で、けれどなんだかとっても暖かな気配をまとっていたから、優介は思わず手を伸ばしそうになった。けれど、その瞬間にびゅうと冷たい風が頬を切り裂くみたいに撫でていって、ひやりと背中を凍らせる。優介は右手を押しとどめ、ふるふると首を横に振った。
今度は彼が首をかしげた。
「……甘いのはきらいだった?」
そうじゃない。ただ、食べられないのだ。
甘いものも、辛いものも、パンもごはんもぜんぶ、いまの優介はなにも食べられない。食べてもぜんぶ吐いてしまう。食事なんてぜったいにとりたくないと思ったときから、身体が勝手にそんなふうになってしまった。
けれどそれをそのまま告げると彼を傷つける気がして、優介はこくりとひとつ頷いた。甘いものが嫌いなんだ、だからそれを受け取るわけにはいかないんだ。そう言っておけば、ともかくいまは、彼の差し出した厚意からは一歩退くことができると思った。
彼は「そっかぁ」と残念そうにつぶやき、それをそっとコートのポケットにしまいこむと、またぱっと顔をあげて笑顔を浮かべた。実はぼくもなんだ、と目を細める。「ぼくも、甘いの食べられないんだ。いっしょだね」
白い息を弾ませながら、彼はにっこりと笑った。
よくよく見てみると、彼は窓の下に備えられた小さな屋根のうえに立っているらしい。五十センチほどの幅のそこにももちろん雪が積もっていて、足元はきっと危うく覚束ないことだろう。人気の少ない病院の裏側に位置するこの窓の向こうに積もったのはほとんどが新雪で、彼の歩いてきた道にだけくっきりと足跡が残っていた。壁伝いに塗り込められた排水パイプに足を引っ掛けて、どうやらここまでよじ登ってきたようだった。
どうして彼はそうまでして、この病室の窓を叩いたんだろう。
優介が疑問に思うのと同時に、またひときわ冷たい風が強く病室に吹きこんだ。薄いパジャマをすり抜けて、ぱたぱたと雪の粒さえ顔や頭に飛びかかって来る。優介はくしゅんとひとつくしゃみをした。慣れない外の空気に、全身が粟立ちっぱなしだった。
両手で身体を抱きしめるように身を震わせると、彼ははっと大袈裟なくらいに息を飲んだ。
「ご、ごめんね! さむいよね! ぼく、もう帰るよ。本当にごめん!」
「え、あの……」
彼は慌てて窓枠から手を離し、立っていた屋根から飛び降りた。姿の消えた窓の下から、「わぁっ」という声とどさりという音がほとんど同時に聞こえて、優介はすぐさま窓から顔を出して外を見おろす。真っ白に積もった雪のうえで、彼は転んで尻もちをついていた。
「だいじょうぶ!?」
「へ、平気ぃ……」
頭にのっかった雪を払いのけながら、彼は照れくさそうにはにかむと、見下ろす優介に右手でピースを向けた。かっこわるいとこ見られちゃったな、とつぶやく。
「急に邪魔してごめんね、向こうの廊下からきみの姿が見えたから、思わず嬉しくなっちゃって」
「あの、どうしてぼくの部屋に来たの? きみ、だれ?」
今さらながら、もっともな優介の問いかけに、彼は立ち上がって声を張り上げた。
「吹雪!」
と、どうしようもなく白く、ただ降り続けるばかりの雪の下で、積もり続けるばかりの雪の上で、彼は誇らしげにそう言った。
「天上院吹雪だよ、ぼくの名前! きみは?」
病室のなかは狭く、四角く、冷たく白く。そして外の世界は広く、遮るものなどなにもなく、それでもやっぱり冷たく白いままだ。なにも変わらない。どこへ行っても、なにを見ても、白は白のまま、お父さんとお母さんはどこにもいないまま、優介を囲う現実は冷えきった姿でそこに横たわったままだった。
けれど窓の向こうに現れた彼は、なにより冷たく吹き荒れる氷雪の名をたからかに告げながら、その寒さをものともしない笑顔をおしみなく優介に向けて言った。
きみは?
喉を伝って肺へと届き、全身のすべてを凍らせようとする冷たい空気を吸い込んで、優介はけれど、声を軋ませることなく言葉を放った。ぼくは、と言う。
「ぼくは優介。……藤原、優介」
* * *
この街には毎年雪が降る。
とても寒い土地というのはほかにもたくさんあって、そういう極寒の街に比べれば子どもの遊びのようなものだったけれど、幼い身にとって冬とは雪の匂いからもたらされるものだった。吹き荒ぶ嵐のような豪雪はほとんどない、ただ冬のあいだ、ふわふわと妖精のような粉雪が降り続いている。それは大地に届くころには水の粒みたいに溶けてしまって、道の合間や屋根の上にほんの数センチ積もるばかりで、街の姿を白銀に変貌させるのには程遠いかわいらしいものだ。
けれど今年は少々ようすが違った。
終業式の朝、寒さに目を覚ますと、窓のそとが真っ白になっていた。今年の冬は寒くなると、テレビではたしかにそう言っていたけれど、それでも優介にとって冬の寒さとはちらほらと舞い降りる雪のことで、だからこんなふうに、こんなにも急に、がらりと見たこともない姿に変わってしまうとは思いもしなかった。
優介はこんなにたくさんの雪を見るのははじめてね、と、カップにあたたかなスープをいれながら、お母さんは言った。窓にはりついて外を眺めていた優介に、そっとそれを差し出すと、まだ空から降り続ける雪の粒を不安そうに見やった。小学校まで送っていくわと言うお母さんに、お父さんは、出かけるたびに送り迎えをするわけにいかないだろうと苦笑した。こんなにたくさん雪が積もるのは珍しいから、外を歩いて好きなだけ触って、いっぱい遊んでおいで、とお父さんは優介に言った。年が明けたらお父さんたちの仕事も少し減るから、そしたら休みの日は、いっしょに雪合戦をしよう。
「いっしょに?」
ああ、とお父さんは優介の頭を撫でてくれた。それまではお友だちとたくさん特訓をしておくと良い。優介は頷いて、もう一度窓のそとを見た。雪が冷たいことはわかっていたけれど、それでもそこに降り積もった真っ白な景色はあたたかく、マシュマロみたいに甘く優しいもののように、優介には思えた。
けれどそれがとんだ勘違いで、窓の外には冷酷な静けさしか広がっていないことを、優介はもう知ってしまっている。
病院のベッドのなかで、ずくずくと身体の内側から広がる寒気を感じて、優介は目を覚ました。あたたかな夢はさみしいから、凍える手足を丸めて抱えて、静かに涙をこぼした。両目からぽろぽろと止まらないそれは熱くて、頬を伝って熱を訴えるのに、身体の根っこのほうが冷え切っているから、枕に染み込むまえに冷たくなってしまう。内臓と皮膚が分裂したように熱さと冷えを同時に主張してくる。ぼんやりとした頭の片隅で、ごう、と風の吹き荒れる音がして、優介はそっと毛布から顔を出した。ベッドの脇の窓が開いている。
眠るまえはたしかに閉じていたはずなのに、夜の闇の向こうから真っ白な雪が病室に入り込んでいた。びゅうびゅうと音をかきまぜながら、それは冷え切った優介の身体をそれ以上に凍らせるために全身を包み込もうとしてくる。優介は抵抗しない。指先も足先もとうに凍えて感覚がなくなっていて、だから、ここでこうやって全部終わってしまえばいいと思う。
窓の外は真っ白で、そのなかにはお父さんとお母さんが埋まっている。
吹き荒ぶ深雪が病室に積もって、いまはもう床もベッドも凍りついてしまっていた。けれど最初からそれらは真っ白だったから、優介も真っ白だったから、こうやって消えてしまってもきっとおんなじだ。おんなじなはずなのに、優介の身体はがたがたと震えて、その冷たさを退けようと燃え上がる。雪を溶かそうと熱くなってゆく全身を強張らせて、優介は口をひらいた。お父さん、お母さん、と。
お父さん、お母さん、お父さん、お母さん。
何度も何度も叫ぶのに、激しく舞う豪雪がそれを遮って声が聞こえない。自分の声が聞こえない。お父さん、お母さん、と優介は泣きわめくように声を張り上げた。お父さん、お母さん。返事がないとわかっていても、白い悪夢に塗りつぶされてしまうとわかっていても、その先にはたしかにふたりがいるはずなのだ。お父さんとお母さんは、雪に埋もれてしまったのだから。
ベッドの上で暴れながら泣き叫ぶ優介の身体を、知らない人の手が押さえつけている。優しく、けれど焦ったような声で、だいじょうぶ、と繰り返す。ガンガンと打ちつけるように痛む頭のその奥では、それが病院の先生と看護師さんであることを理解していたけれど、本当は窓だって開いていなくて、暖房の入った病室はいつだって暖かなままで、冬の気配なんて決して侵入してこないことも、とっくに気付いていたけれど、優介はそれでもつらくて悲しくて、ただお父さんお母さんと叫んだ。
窮屈な病室のなかに、自分の声だけが聞こえない。
喉を振り絞るようにふたりの姿を求めながら、優介は次第に全身を侵す熱に身を任せ、ふわりと意識を放棄した。
* * *
泣き疲れた身体はあっという間に熱を帯びて、夜が明けても優介の身体を縛るように支配しつづけた。発熱には慣れている。お父さんとお母さんがいなくなってしまって以来、優介の毎日は熱と嘔吐を繰り返すだけの単調なものだ。
白い悪夢は夜毎訪れるし、それを拒む力も優介には残っていなかった。ただ泣き喚いて過ごすだけの夜に疲弊して、日中もベッドに横たわり高熱をやりすごす。気が狂ったように暴れて気絶したときにだけ、なにも映さない死のような睡眠が与えられたけれど、優介はそんな自身が許せなかった。苦しみも悲しみも手放して、ふたりのことを忘れたみたいに深い眠りにつくことは、とんでもない罪悪のように思えた。
青いカーテンの隙間から、高い陽の光を感じて優介は目を覚ました。先ほどまで燃えるように熱かった身体が、いくらか落ち着きを取り戻している。時刻は昼の三時をすこし回ったところで、優介は横になったままうっすらと開いた目を天井に向けてから、再び布団にもぐりこんだ。
ここでずっとこうして、ただひとり泣いていればいいわけでないことは気付いている。
けれど、だったらどうすれば良いのか、優介にはそれがわからなかった。心は壊れてしまったみたいに空虚で凍てつくばかりだし、身体はそれを拒むみたいにすぐに熱を発して、ものを食べることすらままならない。こんな身でいったいどうすればいいのだろう。お父さんもお母さんも、もうどこにもいないのに。
それを思うとまたじわりと悲しみが広がってきて、優介はベッドの中で声を殺して泣いた。どれほど泣いても涙は枯れることがない。こうして静かに涙を零しているのが、なにより自然なことのようにさえ思えた。ずっとずっと、こうやってひとりぼっちでいればいいのだと、それが自分を罰する一番の方法だと。
白い布団に包まれる優介の耳に、病室の扉が開く音が届く。看護師が優介の名を呼んだ。慌てて顔をこすって涙を止めて、毛布からそっと顔を出すと、見慣れた白衣の女性のそのむこうには吹雪がいた。
昨日、窓を叩いたときと同じコートを着て、天上院吹雪が今度は病室のなかに立っていた。
予想していなかったその姿に、優介はまたぽかんと目をまるめた。お友だちがお見舞いに来てるけど、どうする? と看護師は優介の顔を覗きこむように手を伸ばし、額に触れて熱を計った。優介はそれに、平気、と返す。看護師はほっとしたような顔をした。
なにかあったら呼ぶようにと吹雪に声をかけて、看護師は病室から静かに出ていった。吹雪は居心地を確かめるみたいにきょろきょろと室内を見回してから、なにか困ったように、言いわけを探すように笑って、また来ちゃった、と言った。
「……どうして?」
「昨日、名前教えてもらったから、受付のところで病室を聞いたんだ。小児科病棟以外ってはじめてだったから、ちょっと迷っちゃった」
「そうじゃなくて、あの、どうしてぼくなの?」
昨日だってそうだ。あんなふうに危険な真似をしてまで、どうして彼は優介のところに来たのだろう。今日も、どうしてわざわざ、病院のはずれにあるこの部屋を訪れたのだろう。
心のそこから疑問に思った優介に、吹雪は焦るようすなくゆったりとした仕草でコートを脱いで、ベッドの脇にあったパイプ椅子に腰かけた。彼の着ているのは、駅前からほど近い場所にある私立の小学校の制服で、たぶん病院まではバスで十五分ほどかかるはずだ。授業が終わってからすぐにここへ向かってきたのだろうか。
身体を起こした優介に、寝ててもいいよと軽い声で言ってから、吹雪は「二日前にね」と言葉を続けた。
「あ、昨日の二日前だから、もう三日前か。ぼく、きみのこと見てたんだ。明日香の病室からちょうど中庭が見えて、いっぱい雪が降っていたのに、きみ、そこでじっと空を見あげてたよね?」
優介ははっとして、手元のシーツを握りしめた。見られていた。そうだ、いくらいつもに増して降雪の多い日だったとはいえ、病院の真ん中でひとり突っ立っていれば、それは充分に目立つ姿だったろう。あの日、優介はたしかに彼の言うとおり、はらはらと絶え間なく舞い降りる雪のなかにひとり佇んでいた。薄い寝間着姿のままで、空を見上げていた。
それを奇妙に思われただろうか。だから吹雪は、あんなバカな真似をするのはどんなヤツかと興味を持って、この窓を叩いたのだろうか。
急に心臓が縮まるように軋んで、優介は唇をかんだ。あれからずっと探してたんだ、と吹雪が微笑む表情さえ、いやに大きく鳴る心音に塞がれる思いだった。
けれど吹雪は、あのときさ、となぜかちょっとおかしそうに笑ってつづけた。
「雪の降って来る場所を見つけようとしてるのかなぁって、そう思ったんだ。そしたら、きみと話をしてみたくなって」
予想していなかった言葉に、一瞬思考を奪われて、優介は押し黙った。雪の降って来る場所、という聞き慣れない単語を放り投げられ、それを飲みこむのに数秒を要した。吹雪はにこにこと笑っている。
「だから昨日、偶然窓の向こうにきみを見つけて、すごく嬉しかった。もう退院しちゃったのかなって思ってたんだけど、諦めないでよかったよ」
言い終えてから、後半部分は不謹慎だったと思ったか、吹雪ははたりと表情を固めて、ごめんね? と弱った顔をした。優介はそれに首を振ってから、雪の降って来る場所、と口に出して言ってみた。「雪は、雲が溶けて降ってくるんじゃないの?」
氷の結晶は、もともとは水だ。それは雨が降るのと同じ原理で、蒸発して空で固まり雲になった水滴が、また大地に落ちてくる、そういう循環で自然はなりたっているのだと、本で読んだことがある。
吹雪はそれに頷いて、でもそれじゃつまんない、と言った。なにがおもしろいのか、くすくすと笑っている。
「終業式の日にね、朝起きたら、いきなり外が真っ白になっていてびっくりしたんだ。空におおきな穴があいて、そこから雪がどっさりと落ちてきたのかと思った。そんなことはありえないって、友だちも明日香も、父さんも母さんも言ったけど、でも、ぼくがどういうふうに想像しようとぼくの自由だと思ったから、空の一番高いところには雪の降る場所があって、今年はそこに、とびきりおおきな穴があいたんだって考えることにしたんだよ」
ぼくは吹雪だから、と彼は言った。
吹き荒ぶ雪の名を誇負するように。
「冬も雪も大好きなんだ。今年はこんなにたくさん積もったから、きっとなにか特別なことが起きるんだろうって思ってた。ひょっとしたら雪の降る場所が見つかるかもしれないって考えて、授業中とか休み時間とか、ひとりでよく空を見上げてたんだ。あのときもそうだった。ぼくは首が疲れてすぐに見るのをやめちゃったのに、きみはずっとずっと、いつまでも雪の降る場所を見上げてたから、きっときみはぼくより雪が好きなんだろうなって、そう思ったんだ」
「……ぼくはべつに、雪が好きってわけじゃ、ないよ」
ぽつりとそう返す。彼は勘違いをしているのだ。優介は決して、雪の降る場所を探して空を見ていたわけではない。まして、舞い降りてくる白い結晶に好意をもって、無邪気に見上げてなどいない。
けれど吹雪は、雪を名乗る彼は、優介の言葉にやはりにっこりと笑って、そうかもね、と言った。真実がどうあれ、べつにかまわないといったようすで。
「ぼくがきみを見つけて、ずっと気になっていた理由は以上。それでね、おねがいがあるんだ」
「おねがい?」
「うん。もし良かったらさ、ぼくと友だちになってくれないかな」
そんなふうに、言葉にして友情を求められたのははじめてだった。友だちというのは、もっと自然に出来るもので、そんな契約ごとみたいな申し出でなりたつものではないと、優介はそう思っていた。
たぶん、それは吹雪もそうだろう。見ず知らずの病人の窓をノックしてしまえるような、そんな人懐こい彼のことだから、きっと友だちなんて学校にも近所にも山のようにいて、けれどそのひとりひとりに「友だちになろうよ」と言葉をかけたわけでは決してないはずだ。その証拠に、彼は昨日「こんにちは」と言ったときのように面映ゆい表情を浮かべて、どことなく頬を赤らめて優介をじっと見ていた。
ほんとうを言うと優介はすこし戸惑ったけれど、それにどう応えるべきかをじっくり考えなければと思ったけれど、そうやって頭の中を動かすよりもさきに、気が付いたらこくりと頷いていた。自分でもびっくりするくらいあっけなく、優介は吹雪と友だちになった。
彼はぱっと笑顔を浮かべて、ほんとうに嬉しそうににこにこと微笑んだと思うと、脇に置いていた通学用らしき鞄をごそごそと漁りだした。昨日チョコレートブラウニーを差し出したときのように、吹雪はそこから、手のひらほどのサイズの青い小瓶を取り出して優介へと向けた。
底のほうが小さくて、壺みたいな形をしたきれいな瓶だった。ところどころに切れ目が入って、まるで色つき水晶みたいに光っている。
「これね、ぼくの家の近くにある、洋菓子屋さんのクッキーの瓶なんだ。これに入ったバタークッキーはぜんぜん甘くなくてとってもおいしいから、きみもきっと好きになると思ったんだけど、お小遣いがなくて買えなかったから瓶だけ持ってきた」
言いながら、吹雪はそれをはいと優介に差し出した。お見舞い、と笑ってから、ふと思い立ったみたいにふたたび鞄のなかを漁って、昨日のブラウニーを飾っていたオレンジ色のリボンを取りだすと、器用に小瓶のふたの括れた部分に巻きつけた。きゅっと、手品みたいな速さで蝶々結びを終えてから、今度こそ優介に瓶を手渡す。
「ありがとう……」
「今度は中身も持ってくるね。ほんとうにおいしいから、いっしょに食べよう」
吹雪は今度と言った。だから、彼はまたここに来るつもりなのだろう。優介と友だちになったから、また、お見舞いに来てくれるのだろう。
優介はなんだか急にどきどきしてきて、けれど、たぶんクッキーは食べられないから、ちいさな声で「クッキーよりこれのほうがうれしい」と青い小瓶につぶやいた。それを聞いた吹雪はきょとんと目を丸めてから、やっぱりにこりと笑って、わかった、と言った。