あったかくて優しい場所にいた。
お父さんがソファにすわっていて、お母さんが台所でケーキをお皿に取り分けていた。
お父さんは男の人なのに甘いケーキがだいすきで、優介といっしょね、とお母さんはいつも笑っていた。優介もチョコレートのケーキがだいすきだったから、お父さんといっしょでうれしかった。
お母さんの用意したケーキはとてもおいしそうで、優介は、でも、それを目の前にすると突然、フォークを手にしてはいけないと思った。どうしたの、とお母さんが首をかしげて、お父さんもふしぎそうな顔をしていた。優介はふるふると首をふった。だめなんだ、と言う。
だめなんだ。
ぼくは良い子じゃなかったから、これは、良い子の優介に買ってもらえるはずだったケーキだから、ぼくが食べちゃだめなんだ。
優介がそう答えると、お父さんとお母さんは目を丸めて顔を見合わせた。それからじきに、お父さんが眉尻を下げてそっと笑って、お母さんはやさしく微笑んだ。その笑顔のままで、優介はとっても良い子、とお母さんはそっと囁いた。お父さんも頷いた。
優介はおそるおそる、フォークに手を伸ばした。お父さんとお母さんが見守るなかで、チョコレートのケーキをひとくち食べた。
それはとても甘くて、泣きたくなるくらいおいしかった。
気がつくとベッドの中だった。
身体が動かなくて、ふと見ると、腕が固定されてまた点滴の管が伸びていたから、ここは病院なのだと優介は気付く。ついさっきまで凍るほど寒かったように思うのだけれど、もうその冷たさも思い出せないくらい、心も身体もあたたまっていた。何日も見続けてきた白い天井を、やっぱり変わらず眺めていると、お腹のあたりでなにかが動く気配がした。視線を動かすと、そこでは吹雪がいつものパイプ椅子に座って、丸まってベッドに顔を伏せていた。
彼は身じろぎをするように何度か身体を動かして、それから、突然がばりと顔をあげた。びっくりしている優介のほうを見て、吹雪もびっくりしたようだった。「わ、わ、わっ」と、彼はなぜかパニックを起こしたようにきょろきょろと周りを見回して、時計を見てから嘆息した。「ね、寝ちゃってた……」
優介は目をまるめて、それから、くすくすと笑った。時間はお昼の一時を指していた。いったい彼は何時からここにいて、どれくらい優介の寝顔を眺めていたんだろう。いつの間に、眠ってしまったのだろう。
「あ、あの……あれっ、あの、ええっと……」
「吹雪」
混乱したふうに言葉を探す彼に、優介はちいさく声をかけた。吹雪、吹雪。
「吹雪、あのね、ぼく、吹雪のことね、ちゃんと覚えてるよ」
忘れてなんかないよ。
言うと、吹雪は時間が止まってしまったみたいにじっと固まって優介を見つめて、それから、もう一度顔を伏せてベッドにしがみついた。よかった、と彼は泣き声で言ったから、優介は、ごめんね、とやっぱり泣きそうな声で返した。
「うそだったんだ。ぜんぶ、最初っから、吹雪のこと忘れてなんかいなかった。ごめんね」
「うんん」吹雪は顔をあげないで、シーツをぎゅっと握りしめたままで首を振った。「実は、ぼくも気付いてた。うそだって、きみが、ぼくを遠ざけようとして、それでうそをついたんだって、気付いてたよ」
だからおあいこ、と、真っ赤になった顔をようやくあげて、吹雪はにっこり笑ってみせた。
「うそだってわかってたけど、でもね、そのほうが良いかもしれないって、あのときちょっとだけ思っちゃったんだ。きみがぜんぶ忘れてしまったなら、もう一度、最初からぜんぶやりなおせるかもしれないって、そう思った。ぼくは吹雪じゃなくなって、今度こそ、きみのこと傷つけたりしないで、新しく友だちになれるかなぁって」
でもだめだった、と吹雪は苦笑した。「そんなんじゃだめなんだ。ぼくは吹雪で、あの日きみを見つけたのは、間違いなくぼくだったんだ。だからだめなんだよ、ぼくはきみと、もう友だちになったんだから」
優介は返す言葉を探して、けれど見つけられなくて、だからこくこくと頷いた。声を出したらまた泣いてしまいそうだった。そうしたら今度こそ吹雪もきっと泣いてしまって、ふたりで泣きだしたら、きっとあとからすごく照れくさい。
あのあと、優介が雪道に倒れてしまったあと、駆けよってきたのは吹雪と明日香だった。一度家に戻った彼女は、兄の部屋の机のうえにハンカチが広げられているのを見つけて、それを包んでいたはずの彼の宝物の石がなくなっていることに気付いた。病院の裏の山にいるかもしれない、と両親に説明して、僅かばかりの可能性を無視することなく吹雪のもとまで辿りついたらしかった。
たいしたものだろう、と吹雪は自分の妹の推理力を誇らしげに話してみせたけれど、そのあとしこたま叱られたらしい。発見されたとき、吹雪は池のほとりに立っていて、これはどうしたって石なんて見つからないぞ、なんて呑気に凍りついた水面と睨めっこしていたというのだから、当たり前だった。久しぶりに泣かれちゃったよ、と吹雪は弱った顔で言って、そのあとで優介を見つけたのだと語った。
あんまり雪が降っていたから、車やまして自転車なんて使う気になれず、ふたりとその両親は徒歩で雪道を歩いていた。そのころには降雪は落ち着きはじめていたから、駅まではバスに乗って戻ろうかと、病院の前のバス停に向けてそぞろ歩を進めている最中に、倒れ込んだ優介を発見したらしかった。
優介の身体は冷たくなっていて、最初、もう死んでしまったんじゃないかと思ったと吹雪は深刻な顔で言った。「きっとぼくと明日香だけだったら、どうしたってきみを助けることなんてできなかったよ」
意識を失ってぐったりと倒れ込んだ優介を、抱えて病院まで連れてきてくれたのは吹雪のお父さんだった。病院の先生に事情を説明してくれたのは、吹雪のお母さんだった。
「だからね、お父さんとお母さんが助けてくれたんだよ」
吹雪はそう言った。
お父さんとお母さんが助けてくれたのだと、そう言った。
優介はずっと、雪の中を歩きながらずっと、お父さんとお母さんに助けを求めていた。吹雪を助けてくださいと、そう唱えつづけていた。吹雪は彼の妹のおかげでお父さんとお母さんに見つけられて、それで、優介も助けてもらった。
吹雪はすこしだけ言うべきか迷うようなそぶりを見せてから、結局、優介に耳打ちするように小さな声で告げた。
「お父さんとお母さんはね、いつも、助けてくれるんだ」
そうだ、と優介も思う。いつだってそうだ、お父さんとお母さんは、助けてくれるんだ。助けて、くれたんだ。吹雪のお父さんとお母さんがそうだったみたいに、優介のお父さんとお母さんも、優介のことを助けてくれたんだ。
優介がやっぱり泣きだしそうになったそのとたんに、病室の扉が開いた。看護師さんが怖い顔をして立っていて、吹雪に、気が付いたらすぐに呼んでってお願いしたでしょう、と厳しく言った。しまったというふうに肩をすくめてから、吹雪はこほこほと咳き込んで、やっぱり看護師さんに叱られた。どうやら彼は風邪をひいてしまったみたいだった。
看護師さんにマスクをつけられ、吹雪はすぐに病室を追いだされた。優介に風邪が移ったら今度こそ死んでしまうかもしれないと脅されて、彼は慌ててマスクの上から口元を押さえ、
「治ったら、またすぐ来るから!」
そう言って、病人とは思えない軽い足取りで病室を出て行った。看護師さんが、あの日の夜から一日半経っていて、吹雪は優介が目覚めるまでぜったいに動かないと駄々をこねてここに残っていたのだと教えてくれた。
良いお友だちね、と言われて、優介は頷いた。
戸棚のうえには、彼からのお見舞いが、変わらない色鮮やかさを放って並んでいた。
* * *
吹雪は三日ほど病室に現れなくて、優介もあれだけの無茶をしたツケを払うように熱を出して、ようやく落ち着いたころには、窓のそとはすっかり晴れてしまっていた。
二月は短くて、もうじきに終わりに近づいている。当然のように雪は溶けて、まだ肌寒さは消えなかったけれど、あれだけの白い景色が嘘みたいに水に変わってゆくのを、優介は窓辺のベッドでどこか別世界を見るように眺めていた。
カーテンは開いている。お陽さまがそっと、冬のようすを窺うように顔を見せていた。
ふと優介はそとの気配に気付き、からからと窓を開けた。風はまだ充分に冷たく、ひそかに身を震わせたけれど、すこしだけ顔を出して、すぐに吹雪の姿を見つけた。
彼は植木の脇にほんの少しだけ残った雪をかきあつめているらしかった。優介に向けた背を丸めて、きれいな白色を見つけてはちょっとずつ手繰り寄せている。
吹雪! と、精一杯の声で名を呼ぶと、振り返った彼はどことなく気まずそうな顔をしていて、優介は首をかしげた。どうしたの? と視線で問うと、彼は手にしたほんのちょっとの雪を、所在なげに手のひらで丸めて、それからぽいっと放った。あーあ、と嘆く。
「雪、溶けちゃったー」
「……」
「ひどいよね、ぼくが風邪で寝込んでるあいだに、気が付いたら全部なくなっちゃってるんだから! ひどいよ! あと一日、もうあと一日だけでも、ほんのちょっとだけでも、残しておいてくれたって良いのに!」
あーあ、と彼はもう一度嘆息した。「雪だるま、ちゃんときみにプレゼントしたかったのになぁ……」
「あ、雪だるま、見たよ?」
「え?」
「そこに、その屋根のところに、おいていってくれたでしょう? ぼく、ちゃんと見つけたよ。ありがとう、すっごく嬉しかった」
優介の言葉に、さっきまでのふくれっ面なんて忘れてしまったみたいに破顔して、吹雪は「そっかぁ」と言った。それから、駆け足で病棟のほうへ近づいてくる。その姿が少しのあいだ見えなくなって、優介はおとなしく病室に彼が来るのを待っていたけれど、ふと気付くと部屋の扉のほうではなく窓の向こうに吹雪は現れた。また、屋根のうえによじ登って来たらしかった。
窓枠から顔だけ覗かせながら、吹雪は、「けどやっぱり、ちゃんと完成させたかったな」と漏らす。それが雪だるまのことを、つまり、その目のことを指しているのだと気付き、優介は苦笑した。ごめんね、と言うと、吹雪はふるふると首を振って、けれどやっぱり残念そうに病室の奥の戸棚を見つめていた。
「…………」
優介もしばらく、その彼のくれたお見舞いの品々を、ひとつだけ欠けてしまったままのそれらを眺めていたけれど、ついに決意して、あのね、と言った。変に上ずった声が出て恥ずかしかった。
「あの、あのね、ぼくが、退院したら……ええと、できたら、の、はなしなんだけど」
吹雪が意外そうな顔でこちらを見た。優介は一度口をつぐんで、ぎゅうとパジャマの裾を握りしめてから、もう一度くちびるを開いた。退院、できたら。
「そうしたら、いっしょに、今度はいっしょに、池のところにね、探しに行こうよ。ぼくの石だけじゃなくて、吹雪の石も見つけて、それでね、来年の……冬、に……」
声が震えてしまって最後まで言えなかった。途絶えた先の言葉は、でも、口にしなくても届いたらしい。吹雪は何度もこくこくと頷いて、それから、本当に嬉しそうに、空を見た。控えめにお陽さまの覗く、冬の空を見た。
雪の降る場所を探しているんだ、と優介はすぐに気がついた。吹雪はその場所を凝視して、
「次の冬も、いっぱいいっぱい降りますように!」
と、大きな声で言った。向かいの棟の廊下から、知らない誰かがぎょっとしたふうに吹雪を見ていた。優介が少し笑うと、吹雪はくるりと振り返り、やっぱりにこにこと笑った。
もうひとつだけ、と、優介は心に決めていた言葉を伝えるために身を乗り出した。窓の枠のところにある、吹雪の耳元に顔を寄せる。
内緒のはなしをするみたいに、あのね、と言った。「ぼく、もうひとつ嘘をついてた」
「? どんな?」
そう返した吹雪の声が、とても軽かったから、優介は思わず笑ってしまう。そう、そんな大きな嘘じゃないんだ。けれど、とっても重要なことだから、優介はそっと彼に耳打ちした。
「ほんとうはね、ぼく、甘いものがだいすきなんだ」
告げると、吹雪はきょとんと目を丸めて、そのあとでくすくすと笑いはじめた。優介はすこし照れくさかったけれど、吹雪の笑顔がとても柔らかかったから、大好きなチョコレートみたいに甘くて優しかったから、いっしょになって微笑んだ。お父さんとお母さんがそうしてくれたみたいに、あまいケーキを、優介に与えてくれたみたいに。
吹雪はひとしきり笑ってから、まかせて、と言った。「きみの退院祝いには、とびっきりのチョコブラウニーを作って持って来るよ」
どきどきと胸が鳴っていた。春が来るのはまだ少し怖かった。ここを出ても、優介に帰る場所はなかったし、お父さんもお母さんももうどこにもいないのだ。でも、雪はもう溶けてしまった。
優介は冷たい空気を吸って、吐いて、雪どけの景色を全身で見つめた。いまにも震えて泣きだしてしまいそうだったけれど、窓の向こうには吹雪がいた。はじめて会った日とおなじように、冷たく白い病室の向こう側に吹雪がいた。
だから平気だと、まだそんなふうに思えるほど、強くはなれなかったけれど。それでも吹雪がそこに、すぐそばにいるのだと思って、優介は決めた。お父さんとお母さんが差し出してくれたフォークを手に取って、良い子と言ってくれたその言葉を信じて、甘くて優しい未来が自分に訪れることを祈ることにした。そうやって願うことを、自分自身に許すことにした。
「ぼくは吹雪だから」と窓枠の向こうで吹雪が言った。
「冬が好きで、雪が好きだけど、でも、春も夏も秋も、みんな大好きなんだ。それで、それとね……」
きみのことも好き、と、吹雪は優介をじっと見つめて、どこか控えめな声でそう告げた。はじめてこの窓辺に来たときみたいに、緊張したような顔をしていた。
それがおかしくって少し笑ってから、ぼくも、と優介は返した。
吹雪はそれに顔をまっかにして、けれど、にこにこと嬉しそうに笑っていたから、きっと優しい未来は、雪の名前の彼が運んで来てくれるんだろうなぁと、優介はそう思った。