優しさに雪の降り積もる - 4/5

 それからも何度か、吹雪は病室にやって来たように思う。
 ゆるやかな発熱がずっと続いていて、時間も日付も感覚が曖昧になっていた。まっくらな中で目を覚ますこともあったけれど、いまが本当に夜なのかどうか、優介には判断がつかなかった。ただ天井があるだろう箇所を見つめて、気だるく重い頭を硬くなった枕に預け続けた。吐き気はなかったし、熱だってそんなに大したことはない。ただ気持ちが重くって、なにもかも億劫で、ずっとずっと眠っていたかった。眠ったままで死んでしまいたかった。
 そうやって優介が瞼を降ろしている間に、ときどき、吹雪の声が聞こえた。看護師さんとなにか喋っているのか、それとも優介に話しかけているのか、よくわからないけれどとにかく吹雪の声が聞こえた。幻聴かもしれないと思ったけれど、ある日ふと目を覚まして、それから戸棚の上を見ると、捨ててしまったはずの吹雪からのお見舞いがまたたくさん並んでいたから、彼はやっぱりここに来ているのだと思う。四角く白い部屋に。優介が忘れてしまっても、忘れないで、この冷え切った場所に足を踏み入れるのだ。
 そう考えて、思い出したことがあった。
 あの日、お陽さまで光る星のはなしをしたあの日、吹雪はベッドに突っ伏して、「ここはあったかいな」と言ったのだ。
 優介はじっと天井を見ていた。そうじゃない、と思う。ここがあったかいんじゃない、吹雪があったかいんだよ。吹雪がいるときだけ、この部屋はどこよりもあったかい場所になるんだよ。
 吹雪がお陽さまを連れてくるから、冷たい雪は溶けてしまうんだ。
 考えながら、もう一度眠りにつく。吹雪はまたやって来るのだろうか、きっと来るのだろう。今度その気配を感じたら、逃げずに目を開けようと考えた。もう一度吹雪とはなしをしようと、そう思いながら、どろりと溶けるように近付いてくる夕刻の空を見た。春はまだ来なくて、窓の向こうには雪が積もっていた。

 それから何時間経ったかはわからない。眠っていたのかも、起きていたのかもわからない。優介は看護師の呼ぶ声で意識を取り戻し、それから視線の先に吹雪を見つけた。ああ、吹雪が来たのだ。そう思ってから、けれど、すぐに否定した。
 そこに立っていたのは吹雪ではなかった。病室の入り口に、吹雪に良く似た、けれど吹雪ではない、女の子が立っていた。いつも吹雪が着ているコートと似たデザインの、だからたぶん、おなじ小学校の指定のコートを雪にまみれさせて、彼女は息をきらせてそこに立っていた。
『明日香』だ、と優介はすぐに分かった。吹雪の妹。吹雪がいつも自慢する、かわいいかわいい、彼の妹。
 明日香はほんとうに吹雪によく似ていた。優介は彼にはじめて会ったとき、ひょっとしたら女の子なんじゃないかと思ったけれど、まさしく吹雪を女の子にすればこんな姿になるのだろうと、そう思った。明日香は吹雪よりいくらか高く、それでいてなんとなく険しいような硬くなった声で、お邪魔します、と言って優介に近づいてきた。
「吹雪の妹の、明日香です。はじめまして」
 肩で息をしながら、頭にも服にも積もった雪を振り払うこともせずに、彼女はひどく動揺したようすで、けれどそれを告げなければ他のことを口にしてはいけないのだというふうに、早口で大人びた挨拶をすませた。優介がそれに言葉を返すより先に、明日香は喉を震わせた。泣きそうな声だった。
「あのね、兄さんが、兄さんが帰ってこないの」
 青い顔で彼女がそう言うのを、優介は濁った頭の奥のほうで聞いていた。
「どこへ行ったか聞いていない? ねぇ、いつもなら、もうとっくに帰ってきてる時間なのに、それなのに、帰ってこないの。おねがい。学校も、公園も、兄さんの行きそうなところは全部さがしたのに、どこにもいないの。ねぇ、おねがい。おねがいします。なにか、兄さんはなにか言っていなかった? どこへ行きたいとか、誰に会いたいとか、そういうこと、あなたに言っていなかった? 毎日あなたに会いに来てたでしょう? なにか、おねがいだから」
 何度もおねがいと繰り返しながら、明日香は次第に呂律さえ怪しくしながら、そう訴えた。優介はゆっくりと首を振る。知らない、と言った。本当に知らなかった。
「ぼく、熱が、ひかなくって……何日も、吹雪とはなし、してないから」
 乾いた喉で、どうにかそう答えた。明日香は泣き出しそうに顔をくしゃりと歪めて、けれど気丈に優介を見据えて、そう、と言った。ありがとうございました、と彼女が軽く頭を下げると、院内の暖房で溶けはじめた雪が、水になってぽたぽたと床を濡らした。
「おだいじに」
「あ、あの……。入院してたんじゃ、なかったの?」
 病室を出て行こうとして、すぐさま振り返った明日香の顔にはにわかに期待が込められている。それに申しわけなく思いながらも、優介は訊ねた。吹雪の妹は入院をしていて、だから、そのお見舞いのついでに、彼はこの病室まで来ているのではなかったか。いつの間に退院していたのだろう。彼女が病院にいなくても、吹雪はここまで来てくれていたのだろうか。優介に逢うために。でも、いつから?
 明日香は落胆したようすを隠さず、けれどどこか不思議そうに、首をかしげた。
「私が入院したのは、一日だけよ。風邪をこじらせて肺炎になりかけたから、何週間かまえに一日だけ」
「……それじゃあ、ブラウニーは?」
「? 兄さんの作ってくれた、チョコレートのブラウニーのこと?」
 優介は視線だけで頷いた。明日香はなぜそんなことを訊ねるのだろうと、先ほどまでの緊迫した気配をどこかへ捨ててしまったみたいにきょとんとしていた。
「あれは、私の退院祝いにって。おおげさよね、自分はチョコレートが苦手なくせに、なぜかいっぱい作ったの。私と、お母さんとお父さんと、もうひとりあげたい子がいるって言っていたけど……」
 あなただったのね。
 明日香は納得したように呟いて、それから病室の窓を眺めやった。その両目にはまたじんわりと涙が浮かんでいたけれど、彼女はそれを零さずに、零してしまったらもう二度と兄の姿は見つからないのだというふうに、代わりにその長い髪から溶けた氷のしずくを垂らした。

 明日香が去って行った扉を、優介はじいと見つめていた。
 吹雪はどこへ行ってしまったんだろう、と思った。いまは何時なんだろう、いったい、どれくらいのあいだ、彼は家族に心配をかけているんだろう。外は寒いのに、いったいどこへ。
 優介は考えてみたけれど、さっぱりわからなかった。吹雪と交わした言葉を思い返してみても、自分の愚かさに胸が痛むばかりだった。ぼくはきっとこの世で一番のばかだ、と思う。こんな寒い夜にどこかへ行ってしまった吹雪もばかだけれど。
 そう思って、重い頭を動かして窓へと視線をやった。閉じられたカーテンの向こうに、暗く重い夜の闇を見た。
 青い布を引っ張ると、病院から放たれる電光のなかに、まだ真っ白な雪が広がっていた。視線が音を拾いそうなくらい、ごうごうと厳しい雪が降っていた。優介はそれを目で確認して、はじめてゾッとした。こんな天気のなかを、吹雪は出かけたっきり帰ってこないのだ。いったいどこへ。
 優介は身を起して、考えた。なにか、なにか彼は言っていなかっただろうか。覚えていることを全部頭のなかで反芻しながら、優介はふいに窓のそとになにかを見つけた気がした。ひんやりと外の空気を感じさせるガラスに顔を近付け、目をこらした。
 雪だるまだった。
 吹雪がはじめてやって来たあの日、彼が立っていた小さな屋根のその端に、決して大きくはないサイズの雪だるまがちょこんと乗っていた。
 それはいまも降り積もろうとしている雪に乗りかかられて、なんとなく雪だるまの形状を保っているだけの雪のかたまりのようだったけれど、それでも優介にはわかった。あれは吹雪が作ったものだ。優介へのお見舞いにと、彼が用意した雪だるまに違いない。病室には持ち込めないから、代わりにそこへ。
 最初から、だ。
 そうつぶやいた彼の声が頭によみがえった。
 優介は息を呑んで、振り返った。ベッドの脇の戸棚の上、そこに置かれた彼のお見舞いを、どきどきと嫌に鳴り響く心臓を抑えつけながら数えた。
 青色の小瓶、赤と金の千代紙の折鶴、桜のように咲いた雪の写真、色紙でできた花束、切り絵のはがき、みっつのお手玉、うさぎのぬいぐるみ、地球儀の鉛筆削り、英語の新聞、さんすうのドリル、銀色にひかるハーモニカ、星のかたちのキーホルダー、夏の空みたいに真っ青な飴玉。
 それから、雪だるま。
 優介は混乱していた。だって、全部覚えている。忘れたと、知らないと、優介はそう言ったけれど、きちんと全部覚えていた。忘れられるわけがなかった。吹雪のことも、吹雪の手渡してくれたものも全部、忘れられるわけがなかったから、だから、全部覚えているのだ。
 優介が壊して捨ててしまったはずなのに、そこにはすべて揃っていた。あの夜、床の上で音を立てて割れてしまったはずの青い小瓶のなかにはクッキーが入っている。彼は新しく買ってきたのだ。もう一度鶴を折って、写真を撮って、花束を作って、はがきもお手玉もぬいぐるみも鉛筆削りもみんな新しく用意して、それでまた戸棚の上に並べたのだ。もう一度、と彼は言ったから、そうやってもう一度、そこに置いていったのだ。
 優介が思い出すことを願って。
 ふるふると身体が震えていた。なんで、と優介は呟いた。だって、ひとつだけ足りない。たくさんの吹雪のお見舞いのなかに、ひとつだけ足りないものがある。優介はもう一度窓に張り付いて、降り積もる真っ白な雪にいまにも埋もれてしまいそうな雪だるまを見た。
 目のない、雪だるま。
《病院の裏にある山の、登山するための道の入り口のところに、おおきな池があるのを知っている?》
 優介はベッドに腰掛けて、それから、どうするべきかを考えた。先生に、看護師さんに、それを言うべきだろうか? 吹雪は裏の山に行きましたと。ぼくへのお見舞いにくれた石をもう一度見つけてくるために、池のところまで行きましたと。そんなばかなと、彼らは笑わないだろうか。そもそも吹雪がいなくなったことを、大人たちがどれくらい深刻に受け止めているのかさえ優介にはわからない。
 あるいは、明日香にならこの推測もきちんと伝わっただろうと思う。吹雪の妹は、彼がいつも優介のもとに来ていることを知っていた。きっと優介の言葉を受け止めて、あの硬く張りつめた凛とした声で、両親に事情を説明しただろう。それは優介の言葉よりもはるかに説得力のあるもので、きっとだれより力強い。
 けれど優介には明日香に連絡する手段がなかった。彼女はもう病院を出ていってしまって、また兄を探すためにあの長い髪から雪を滴らせているのだろう。
 優介は意を決すると、ベッドから立ち上がった。
 くらりと地面が揺れるような感覚に襲われて、すぐに床に倒れ込む。足ががくがくと震えていることに驚いた。何日もベッドから出ていないうちに、この身体はこんなにも、ひとりじゃなにも出来なくなってしまっていたのだ。こみ上げてくる悪寒と吐き気を無視して、優介はもう一度立ち上がった。身体を支えるためにベッドに手をかけて、それから戸棚に並んだ吹雪のお見舞いを見る。優介は深呼吸をして、そっと一歩ずつ歩を進めると、病室の隅の小さなクローゼットを開けて、そこからジャンパーを取りだした。入院したときに誰かが家から持ってきてくれた、お母さんが買ってくれたジャンパーだ。あの日は着て行かなかったから、ここにお父さんとお母さんの死のにおいはない。
 パジャマの上にそれをはおって、スリッパからスニーカーに履き替えて手袋をつけて、優介はまた歩きだした。扉から出て行けば絶対に見つかって止められるから、窓のほうへ。鍵をあけて、きしきしと凍った窓を両手で開くと、びゅうと冷たい風が雪といっしょに病室に入って来る。優介は全身を震わせた。目も開けていられないくらい、冬の夜は寒さが吹き荒れていた。
 ふぶきだ、と優介は思う。お父さんとお母さんを殺してしまった、吹雪だ。
 狭い窓に手をかけて、足から外へと出た。ゆっくり、ゆっくりと、滑らないように気をつけて、吹雪が立っていた屋根にそろそろと足を乗せてゆく。ざくりと踏みつけた雪は凍るように冷たくて、あっというまにスニーカーのなかにまで入って来た。両足を安定させてから窓枠から手を離し、少し迷って窓を閉めた。ベッドが雪まみれになってしまうし、きっと優介が出て行ったこともすぐにバレてしまうだろうから。
 すでに手も足も感覚がないくらい、病室のそとは寒かった。凍えるくらい、寒かった。全身で風を受けるのがつらくて、優介は思わずしゃがみこんでしまいそうになったけれど、すぐそばに雪だるまがあるのを思いだしてもう一度前を向いた。吹雪はどうやってここまで登っていただろうかと思い出し、排水管を梯子のようにするのだと気付いたけれど、壁に塗り込められたそれはもう雪と氷にまみれて足をかけられそうになかった。はやくしないと、向こう側の棟からはこちらの姿が丸見えのはずだから、いつ誰に見つかって捕まえられるかわからない。優介は覚悟を決めて、あの日の彼と同じように、思いきってそこから飛び降りた。
 落下するという感覚はなかった。二階の、それも中二階ほどの屋根の上からだから、そんなにひどい衝撃はなく、ただ積もった雪の上にうまく着地できず、転んでしまったせいで全身が冷たかった。けれど平気だ。吹雪だって、平気と笑ってピースさえしていた。だから平気なのだ。
 優介は震えながら立ち上がり、頭からかぶった雪を手で払おうとして、手袋も真っ白になっていることに気付いて諦めた。ざくりざくりと雪を踏みならし、病院の裏門へと向かう。ここからなら、何分か歩けば山の入り口にまで到着できる。もちろん、普通に歩いて行った場合の話だから、いまの優介にどれくらいの時間が必要かはわからなかったけれど。
 それでもぜったい、吹雪を助けるんだ。
 優介は前を見るために、両手を顔のまえに当てて、ごうごうと迫って来る雪から逃れた。そうしていても、目を開けているのはとても難しくて、どうしてこんなに酷いことをするのだろうと泣きたい気持ちになった。
 泣きだして、うずくまって、もう一度あの部屋に戻りたかった。吹雪があったかいと言った病室。ほんとうだ、と優介はほんのすこしだけおかしな気分になった。あそこはほんとうに、あったかい場所だったんだ。
 けれど優介は泣かずに、投げ出さずに、吹雪を助けるために歩を進めた。病院の出口のところに何人か人がいて、ふしぎそうな顔をされたけれど無視をした。平気だ。靴のなかだってもうびしゃびしゃで、息をするのも苦しかったけれど、でも、平気だ。
 ただ心のなかで唱えていた。お父さん、お母さん、と唱えていた。
 この真っ白な景色のどこかに、お父さんとお母さんのいるところへ繋がる道があるはずだった。優介はずっとそこを探して、その場所で全部終わらせるのだと、そう決めていた。
 けれどいまは違った。お父さん、お母さん、と唱えながら、優介は懇願していた。
 助けてください。
 吹雪を助けてください。
 あの日ぼくを助けてくれたみたいに、守ってくれたみたいに、吹雪のことを助けてください。
 お父さん、お母さん、と吹き荒れる雪のなかで優介は願った。助けて、と祈りつづけた。そうして歩を進めているうちに、雪は少し弱まってきたように思えた。はやくしないと、この冷え切った世界のなかで、今度は吹雪まで失ってしまう。
 優介の我がままで、優介のせいで、吹雪まで死んでしまう。
 そんなのは絶対に嫌だった。だから、雪を吸って重くなったスニーカーを無理やり持ちあげて、ぼんやりとする頭を奮い立たせて、優介は歩き続けた。けれど、ふらりと身体がおかしな感じに捩れて、あっと思ったときには転んでしまっていた。立たないといけないのに。まだ山の入り口までは遠くて、池のある場所まではたくさん歩かないといけない。吹雪だってきっとこの道を歩いたのだから、優介のために、冷たい雪をかぶりながら歩いたのだから。
 けれど身体が動かなかった。お父さんとお母さんの名前を呼んで、それから、吹雪、と彼の名を呼んだ。もう息も出来なかったけれど、それでもどうにか再び立ち上がって、優介はまた歩きだした。病院の裏側から、山へと続く、人のいない道。寂しい道。
 この先にお父さんとお母さんがいなければいい。
 こんなさみしいところに、お父さんとお母さんがいちゃいけない。
 優介はそう思って、だから、だいじょうぶだと信じた。この道は間違ってない。優介はここを歩くことで、死んでしまったりしない。吹雪だって死なない。ここにお父さんとお母さんはいない。きっと吹雪を助けてくれる。
 また、足がもつれて転んだ。今度は起きあがれなかった。
 それと同時に、だれか人の駆け寄って来る気配がして、優介はぼんやりとその人影を見た。吹雪がふたりいる、と思ったところで、ふっと糸が切れるみたいに視界も途絶えてしまった。

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