優しさに雪の降り積もる - 3/5

 熱く重たい身体をベッドに横たえながら、優介は、吹雪が来なければいいと思っていた。妹の病室にだけ寄って、そのまま帰ってしまえばいい。なにもしなくても時間はすぎていって、熱でぎしぎしと軋む全身と、まだひくりと痙攣する胃を持て余しながらそんなふうに考えて、ぼんやりと時計を見つめていた。
 午後四時になってもいつもの明るい声は聞こえてこなくって、だから、きっと今日はもう彼は来ないのだろうと、優介はそう思って息をついた。こんな身体じゃどうしたって会えるわけがないから、看護師さんが今日は帰るように伝えたのかもしれない。考えながら、首を動かして枕元の戸棚に視線をやった。たくさんの吹雪のお見舞い。
 これらはもう必要としてはいけないものなのだと、優介は朦朧とする頭で思った。雪に埋もれていなくちゃならない優介の部屋に、こんなものがあってはいけない。
 けれど手放すことができるだろうか。優しさばかりに彩られた、この幸福の一角を。吹雪自身を。自分は手放すことが出来るだろうか。
 病室の扉がゆっくりと開いて、そこから吹雪が顔を出した。遅くなってごめん、と彼は寒さに赤らんだ頬をゆるめて言って、それから、だいじょうぶ? と首を傾げた。「また熱があるって聞いたんだけど、どうしても顔が見たくって……」
 すぐに帰るから、と、そう言った吹雪の姿が急に滲んで見えなくなった。枕から頭を動かすこともできないのに、ただ涙ばっかり零れて、優介はひっくひっくと喉を震わせて泣いた。慌てて近寄って来た吹雪が、おろおろとしながら何度もだいじょうぶ、と聞いてくる。どこか苦しいの? 先生を呼んでこようか?
 行かないで、と優介は思った。思っただけで、言葉にはできなかった。どこにも行かないで、家にも帰らないで、ずっとずっとここにいて。
 そんな身勝手なこと、告げられるわけがない。
 狼狽する吹雪に、だいじょうぶ、とどうにかそれだけ返して、優介は嗚咽を漏らしながら目元を拭った。身体がおかしくなってしまったみたいで怖かったから、濡れた視界に手探りで片手を伸ばし、吹雪の服の袖をぎゅうとつかんだ。彼はそれを振り払わないで、それどころか、逆の手で優介の指に触れてぎゅうと握り返してくれた。
 優介が落ち着くまで、吹雪はずっとそうしてくれる。どうして、どうしてこんなに優しい友だちを、自分は失おうとしているんだろうと、思ってぼろぼろと涙を零した。しゃっくりあげる声の隙間に、ふぶき、と名を呼ぶと、彼は震える声で、いるよ、と返した。「ずっと、ちゃんと、いるから」
 その言葉がかすかに涙に滲んで聞こえたから、吹雪はきっと泣いていたのだろう。泣きじゃくる優介のかたわらで、彼はきっと、悲しみと苦しみに満たされて、昨日は零さなかった涙を今度こそ溢れさせたのだろう。
 吹雪の手はあたたかくて、それなのに、優介の手はいつまでもずっとずっと冷たくて、だから、この雪に埋もれた両手が彼を冷やしてしまうまえに、この手を離さなくてはならない。吹雪はお陽さまにあたって、いっぱい、いっぱい光らないといけないのだから、こんな冷たいところに留めておいちゃいけない。
 優介の泣き声がちいさく静かになってゆくころ、吹雪の声からはもう涙の気配は消えうせていた。あのね、と彼は言って、まだじわじわと溢れてくる涙を片手で拭う優介の頭をそっと撫でた。
「昨日、ぼく、もっとすごいもの持ってくるって言ったでしょう? あれ、ほんとうはね、雪だるまを作ってくるつもりだったんだ」
「……ゆき、だるま……?」
「そう。病院の入り口のところで作って、いっぱいいっぱい固めて丸くして、それからこの部屋までめいっぱい走ったら、きっと溶けずにきみのところまで運べると思ったんだけど、でも自動ドアを開けてすぐに、知らないお医者さんに見つかって叱られちゃった。院内に雪は持ちこんじゃいけないんだって」
 ちょっとくらい許してくれても良いのに、と軽くくちびるをとがらせて、吹雪は優介の頭からはなした手で、いつものコートのポケットをまさぐった。
「だから、今日のお見舞いはこれだけ」
 そう言って開いた彼の手のひらの上には、むらさき色の小さい石がふたつ乗っていた。おはじきくらいの大きさで、表面がつるつるピカピカしている。まるで本物の宝石みたいなそれを優介に見せながら、吹雪はとびきりの宝物を自慢するように微笑んだ。
「病院の裏にある山の、登山するための道の入り口のところに、おおきな池があるのを知っている?」
 優介はちいさく頷いた。一年生のとき、校外学習で山登りに行ったことがあって、そのときその池の近くで写真を撮ったのを覚えている。吹雪も同じように、一年生のときに遠足でその池まで行ったことがあるらしい。
「これはそのときに拾った石。とってもきれいだったから、すぐにポケットにしまって、家に持って帰って水道で洗ってもっときれいにしてあげたんだ。ふたつもおんなじ色で、並んで落ちていたから、ふたごの石なんだろうなって思ってたんだけど……」
 吹雪はそこで言葉を区切って、涙で濡れた優介の顔に自分の顔をぐいと近付いて、それにびっくりしてまんまるに見開いた優介の目をじいと覗きこんだ。とても近い距離で、吹雪はそのきれいな顔をふわりと緩めて再び距離を取ると、やっぱり、というふうにひとつ頷いた。
「このあいだ、机のなかにしまっていたのを思い出して、あらためて磨いて見つめていたらね、わかったんだ。ふたごじゃなかった。きみの目の色にとてもよく似ているから、だからぼく、きっとふたつ見つけて拾うことができたんだよ」
 そう断言する。
 彼の目には迷いはなく、涙もなく、ただ優介と共有する時間の、共有してきた時間への、よろこびの気持ちだけが詰まっていた。
 優介はそれから目をそらすことが出来ない。むらさき色の両目はまだ濡れて潤んでいて、瞬きをしなくてもまたつうと目の端を涙が流れていった。あんなにきれいな石と、この瞳が似ているとしたら、それは吹雪のおかげなのだとそう思った。
 吹雪はその石を大事そうに指先で撫でて、それから、これで雪だるまを作ろうと思ったんだ、と言った。「きみの瞳の色の石を目にした、雪だるまを持ってこようと思ってたんだ」
 失敗しちゃったけど、と照れくさそうにはにかむ。
 優介は彼のその姿をぼんやりと眺め、そちらへと手を伸ばそうとした。力を振り絞って鈍重な腕をあげ、もう一度吹雪にすがりつきたかった。泣いて、いっぱい泣いて、彼の腕にしがみついてでも立ち上がって、そうしてこの部屋を抜け出して、病院の入り口のところにある、その雪だるまを見にゆきたいと思った。
 けれど窓のそばにはお父さんとお母さんがいる。
 悲しそうな顔で優介を見つめて、あの残酷な冬の景色のなかに立ちつくしている。
 優介が吹雪の手をとれば、きっと雪は溶けてしまうのだろう。ふたりの姿も、溶けてしまうのだろう。優介の心の真ん中から、いなくなってしまうのに違いない。
 そんなことは許されなかったから、だから、「雪だるまはむりだったけど、その代わりにこれが今日のお見舞い」と、そのふたつの石を差し出した吹雪の手から、優介は顔を背けた。
「いらない」
 そんなのいらない。
 堅く張りつめた声で、優介は言う。吹雪は一瞬ぽかんとして、それから、ん、と言葉を詰まらせながら小首を傾げた。差し出された手のひらが、そのうえに乗った小さな石が、ぴくりとほんの少しだけ震えた。
「……え、と」戸惑うように視線を迷わせながら、吹雪はその手のうえの小石をぎゅうと握りしめた。「いらないの? こういうの、嫌だった? たしかにただの石だけど、でも、えっと、ぼくの宝物なんだ」
 知っている。彼が毎日ここへ持ってきてくれるもの、優介に手渡してくれるもののすべては、彼がなにより大事に思っているものたちだ。そのどれもキラキラと輝いて、お陽さまの気配をまとって、優介の四角く白い病室を照らしてくれる。
 だからだめなんだ。
 この部屋に春が来ちゃいけないんだ。
 優介はもう一度、いらない、と言った。吹雪はとても傷ついた顔をして、そっか、と俯いたけれど、すぐに顔をあげて、「それじゃあ、明日、今度は写真を撮ってくるよ。雪だるまの。それなら良いよね? 雪の写真、ほら、このあいだの桜の木の写真は、とってもきれいだってでしょう?」
 吹雪は懸命に、なにかを取りつくろうみたいにそう告げて、慌てたふうに小石をコートのポケットにしまいこんだ。優介はゆっくりと、錆びて動かなくなった扉を無理やり閉めるみたいに、ぎこちなく首を横に振った。もう一度言う。
「いらない」
 吹雪は今度こそ息を止めて、瞠目したまま助けを求めるように優介を見た。彼はいつも笑っていたのに、真っ白な雪のなかでさえ、だれより明るく輝いてみせたのに。悲しい景色を溶かしてしまいそうなくらい、眩しかったのに。
 彼からそのぬくもりを奪ったのは優介だ。こんなにも悲しそうな顔をさせているのは、優介だ。
 心臓は思ったよりゆっくりと鼓動を奏でていたけれど、代わりに喉がはち切れそうなくらいに熱かった。いまさっきここから吐きだした嘘が、まだ舌の奥のほうに絡みついて優介を責めているみたいだった。それを無理やり飲み下して、今度は本当のことを言う。
 優介の真実を、吹雪に。
 ひどい頭痛と吐き気に襲われながら、優介はベッドに横たえていた身体を起こした。手助けをしようと伸びてきた吹雪の腕を制し、それから、ほんとうは、と言った。
「ほんとうは、ぼく、雪がきらい。吹雪だってきらい」
 吹雪は、と言う、その声が指すのは紛れもなく冬の街を覆う雪の嵐のことのはずなのに、口からこぼれたそれは目の前のきれいな少年を指しているようだった。
「……吹雪は、お父さんとお母さんを殺しちゃったから、だから、」
 嫌いなんだ。
 大嫌いなんだ。
 雪も、冬も、なにもかも大嫌いなんだよ。
 振り絞るように告げて、優介はゆっくりと浅く呼吸をした。不思議なくらい涙は乾いてしまっていて、それとおなじように喉もからからになっていた。けれど言わなくてはならない。吹雪の勘違いを、彼の過ちを、自分の弱さが招いた、間違った認識を、正さなければならない。
 熱に浮かされふわふわとする身体と意識を凍った心で支えながら、優介は言った。あのとき。
「あのとき、吹雪がぼくのことを見つけたあの日、病院のまえで空を眺めてた。ぼく、あのときね、死のうと思ってたんだ」
 お父さんとお母さんが死んでしまって、あのときの事故で負った些細な傷もほとんど治ってしまって、あとはもう孤児としてどこかの施設に預けられるだけだと思ったから、だったらあそこで死んでしまおうとした。
 お父さんとお母さんのところに行くには、雪のなかで死ぬのが一番ふさわしいと思ったから。
 冷たく凍りつく吹雪をシャワーみたいに浴びていたら、きっとあっという間に全身が冷たくなって、涙だって氷の粒になってしまうだろう。だから静かに雪の降って来る空を見上げて、強い風の訪れを待った。あの日、お父さんとお母さんを殺してしまったみたいな、あんな天侯がこの身を包み込むのを待っていた。
 雪の降る場所を探していた。
 この心臓を止めるための雪が、いっぱいいっぱい降りそそげばいいと、そう祈って空を見ていた。
 吹雪は頬を強張らせて、優介の声を聞いていた。唇がかすかに震えている。彼は呼吸することなんて忘れてしまったみたいに、ただ両目を見開いて、優介の声を聞いていた。
「でも死ねなかった。先生たちにすぐに見つかって、また熱を出して、それが下がったらすぐこの部屋に入れられたんだ。小児科病棟の大部屋には、もういられなくなっちゃったから」
 複数の人がいようといまいと、優介の孤独には大した変化がなかった。ただ主治医の先生が変わって、事故で負った怪我はもう治してもらったから、今度は心を集中的に治療してもらう、それだけだ。そう思っていた。どれだけ言葉を尽くして、手を尽くしてもらっても、お父さんとお母さんは帰ってこないのだから。優介は良い子ではいられないのだから。なにをしたってどこへ行ったって、決して変わらないと思っていた。
 けれどたった一日、たった一瞬で、優介は吹雪に見つかってしまった。ひとりきりの部屋で、今度こそひとりで死んでゆこうと決めたのに、この真っ白い部屋ですべて終わらせようと思っていたのに、未来へ向かいたいと感じてしまった。
 それは優介が弱かったせいだ。吹雪はなにも悪くない。悪くないのに、彼はこんなにも傷ついた顔で、この世の全部失ったみたいな顔で、それでも優介のそばを離れようとしない。ぎゅうと唇を噛んで、それからなにかを言おうとして、吹雪は結局押し黙った。
 だから代わりに優介が言う。
「いらないんだ、なにも。なにもいらないから、この部屋に、もう、なにもいらないから。だから、」
 だから、もう来ないで。
 ぼくに逃げ道を与えないで。
 優介は言って、吹雪が出て行ってしまうのを待った。ひどいことを言った。昨日まであんなに楽しかったのに、急に、彼のことが怖くなった。希望を見るのが怖かった。
 吹雪はいつまでもベッドのそばに突っ立っていて、だから、優介は諦めて、ゆっくりと横たわって白い布を頭からかぶった。もうなにも考えたくなかったから、ふらふらする頭の隅で、はやく出て行って、とつぶやいた。ごめんなさい、お願いだから、はやく。
 薄い布切れのその向こうで吹雪がなにかを言ったように聞こえたけれど、その声が涙に掠れていたかどうかさえ、優介にはわからなかった。

 そのあとのことを、優介はよく覚えていない。
 とにかく身体のどこかが壊れたみたいに、肉体のぜんぶが痛くて、苦しくて、呼吸も上手にできずに悪夢みたいな時間をすごした。骨の真ん中のところから、いっぱい毒がにじみ出てきたみたいだった。その害悪は外からやって来るのではなくて、内側から全身に行き渡るものだから、どうしたって防ぎきれない。
 高熱は二日間おさまらずに優介の身体のなかで蠢きつづけ、ようやく少し落ち着いたころには、記憶はあいまいになっていた。なにが夢で、なにが現実なのかわからなかったけれど、吹雪の姿が見えないから、これは悪夢の延長なんかではないのだと思う。吹雪はもう、この病室に来ないのだ。
 けれど熱が少し下がった夜、ふと枕元の戸棚のうえに、彼からのお見舞いが増えていることに気がついた。手放そうと思っていたのに、いつの間にかまた新しいものが乗っていたから、だから吹雪は、優介が気絶するように眠っているあいだ、ここに来ていたらしかった。
 どうしてだろう。
 あんなふうに冷たいことを言ったのに、傷つけてしまったのに、どうして彼はまたこんなところに来てくれるのだろう。
 優介は手を伸ばし、その棚に置かれたむらさき色のふたつの小石に触れた。いらないって言ったのに、嫌いって、言ってしまったのに。
 小石の傍らには、白い画用紙が置いてあった。なんだろうと思って広げてみると、そこには色鉛筆で雪だるまの絵が描かれている。むらさき色の石を両目にして、小枝でできた口を微笑ませている雪だるま。
 そのかたわらに、《はやく元気になってね》と、存外丁寧な文字が並んでいたから、優介はまたぽろぽろと泣きだした。どうして、どうして、と頭のなかがぐるぐるとかき交ぜられるみたいに疑問を訴えている。どうして、だって、来ないでって言った。雪は嫌いだって、そう言った。お父さんとお母さんを殺してしまった吹雪が、大嫌いだって、そう、本当のことを言ったのに。
 優介はしばらくひとりきりでしゃっくりあげながら泣いて、それから、その画用紙を両手で握りしめた。頭が痛い。もうやめにしたい、と思った。
 忘れてしまおうと決めた。
 吹雪のことなんて忘れてしまおう。ぜんぶ、なかったことにしてしまおう。
 それは優介が弱いせいで生まれたまぼろしだ。こんな優しさ、自分に与えられてはいけないものだ。
 だからすべて、忘れてしまおうと、そう決めた。
 優介は両手に力を込めて、思い切り画用紙を引き裂いた。吹雪のお見舞いの雪だるまを、破って、ぐしゃぐしゃに丸めて、病室の隅にあるゴミ箱に向けて投げつけた。むらさきの小石も、ぬいぐるみも、本も、写真も、いままで吹雪がくれたもの全部、両手で裂いて壁にぶつけた。頭がくらくらして上手く立てなかったから、床に倒れ込んで、その冷たさに身震いしながら、それでも震える両手で思い出を捨てた。こんなもの、こんなよろこび、雪のなかには連れてゆけない。
 がたがたと震えながら、優介は戸棚のうえの全てを床にぶちまけて、それから静かに呼吸を整えた。知らない、とつぶやく。知らない、知らない、もう知らない。ぜんぶいらない。
 雪はきらい。吹雪だってきらい。
 病室の窓が開いていて、そこからたくさんの氷の結晶が入って来て、優介のくたびれた身体を包んでくれる。それが心地よかったから、優介はぐったりと床に倒れ込んだ。意識を失う瞬間に、吹雪の名を呼びたかったけれど、もう忘れてしまったから、結局ひとつ吐息をこぼしただけだった。

* * *

 ふと気付くといつの間にかベッドのうえに横になっていて、それで、病室には吹雪がいた。
 彼はまたやって来たのか、と率直に思った。うれしかった。それと同時に、とても怖かった。逃がしてほしいと、そう思った。嫌いだと、もういらないと、いやなのだと、これだけ血を吐くように振り絞った嘘を、彼はいともたやすく振りほどいて、それでまたこんなところにまで来てしまうのだ。
 熱にぼんやりと揺らぐ視界で、吹雪は愕然と立ちつくしていた。その視線のさきには、からっぽになった戸棚があった。もうなにも乗っていない。吹雪の運んできた、たくさんの色が、たくさんの愛情が、なにひとつ残らずからっぽになってしまっている。
 彼は見開いた両目でそれを悲しげに見つめて、ふと、優介の視線に気付いてこちらを見た。そこに怒りや、あるいはもっと強い憎しみのようなものが灯っていればいいのに、彼のふたつの目には動揺しか映されていなかった。
 忘れてしまえばいいのに、と優介は思う。もうなにも考えたくないと訴える、思考する力も残らない頭で、けれどうっすらと考える。
 忘れてほしい。
 ぼくが言ったひどいこと、これから言うひどいこと、ぜんぶ、忘れて、今度こそこの白い病室から出て行ってほしい。
「きみはだれ」
 と、力なく開いた唇の奥で、ちいさく言った。
 それが吹雪に届かなければいいと、優介は一瞬だけそう思ったから、とても小さな声しか出なかったけれど、それでも彼の耳には聞こえたらしい。吹雪はすっと、動揺から絶望へと顔の色を変えた。え、と一文字だけ漏らす。
 だから優介はもう一度言った。
「きみは、だれ?」
「…………」
 吹雪は頬を紅潮させて、いまにも泣きだしそうに大きな目を潤ませはじめた。どうして、と、顔に書いてある。彼はもう一度戸棚の上を見やってから、優介のほうへと視線を戻して、それから、「忘れちゃったの?」と言った。「ぼくのこと、覚えてない?」
 優介は頷かなかった。代わりに、
「知らない」
 と言った。最初から知らないのだ。忘れてしまえばきっともう怖くないし、優介がぜんぶ忘れたってわかれば、吹雪だってきっと忘れてくれるだろうと思った。だから知らない。優介はもう、吹雪を知らない。
 彼は泣いてしまうだろう。いっぱい痛い思いをさせてしまったから、そのぶんだけいっぱい泣いて、そうしたらもう、きっとここには来ないだろう。誰だって痛いのはいやだし、優介はひどいことを言うから、吹雪だってもう、きっと嫌いになってしまっただろう。
 けれど彼は泣かないで、零れそうになっていた涙を両手でごしごしと拭って、そうして深呼吸をした。ほっとひとつ、安心したみたいに息を吐く。
 それに優介がびっくりしているうちに、吹雪はポケットのなかから夏の空みたいに真っ青な大きい飴玉を取りだして、はい、と優介のほうに差し出した。それを受け取る気配のないことを察すると、もうなにもなくなってしまった戸棚の上にそっと置いてしまう。
「もう一度、だ」
 と、決心するみたいに吹雪は呟いた。それはひとりごとだったけれど、はっきりと優介の耳にまで届いた。もう一度。
 なにを、と訊ねるような力が、優介にはなかった。もう一度、いったいなにをもう一度、彼は求めようとしているのだろう。実行しようとしているのだろう。
 吹雪は慈しむように優介を見つめていた。優介はそれから逃げるみたいに瞼を降ろして、混濁する熱に意識を放り投げた。

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