優しさに雪の降り積もる - 2/5

 その日から、吹雪は毎日病室にやってきた。
 妹が入院していると言っていたから、きっとそのお見舞いのついでだろう。彼は、平日は授業が終わってから制服姿で、休日は私服で朝のうちから優介のもとにやって来て、パイプ椅子にすわっていろんな話をした。優介はやっぱりよく熱を出したし、相変わらず食事らしい食事もままならなかったから身体はとても怠かったけれど、吹雪が訪れるときには出来る限り身を起して彼を迎え入れた。たとえ看護師さんが、おでこに手をあてて難しい顔で今日はだめだと言っても、顔を見るだけでいいからと無理を言って、吹雪が心配そうに顔を覗かせる姿に安堵した。
 彼はお見舞いと言っていろんなものを持ってきてくれる。それは優介の枕元の戸棚の上に並んで、四角く白い病室のなかにごちゃごちゃと色を加えていった。
 千羽鶴の代わりにと、赤と金色の千代紙で出来た豪奢な一羽の折鶴。
 校庭の桜の木に積もった雪が、朝陽に輝いてまるで花咲いているように見える写真。
 ほんものの花が見つからなかったからと言って、色とりどりの紙で作られたちいさな花束。
 授業で刷った、切り絵の貼られた絵はがき。
 吹雪の両手の上で、見事に宙を舞ってみせたみっつのお手玉。
 優介はなにも返すものがないのに、吹雪はそれを手渡すこと自体が嬉しいのだというふうに、いつもなにか手土産を持ってきては披露してみせた。彼は漢字のテストで百点満点を取ったのだと誇らしげに答案を見せたかと思うと、次の日には廊下で遊んでいて先生にぶつかって叱られたことを弱った顔で報告してきた。優介はずっと病室にいるのに、吹雪のはなしを聞いているとまるで自分も彼の教室でおなじ授業を受けているような気分になってくるから、絶え間なくつむがれるさまざまなエピソードを飽きることなく聞いていた。
 優介はもうひと月以上、小学校に行っていない。担任の先生は何度かお見舞いに来てくれたけれど、クラスメイトの顔はもう忘れてしまいそうなくらい長く見ていない気がした。
 学校へ行きたいな、と思う。
 陽が落ちて吹雪が帰ってしまうころ、優介は天井を見上げて考える。腕の先につながった点滴をじいと見つめてみる。窓の外にはまた雪が降りはじめていて、あたたかな病室だけはその寒さから守られていた。優介はぎゅうとまぶたを閉じて、ごめんなさい、と心のなかで呟いた。外へ向かってはいけないのに。悲しみや苦しみを、お父さんとお母さんのことを、ぜったいに忘れちゃいけないのに。
 そっとまぶたを開くと、また窓が開いている。
 冷たい雪がしたたかに全身を包み込む。
 優介は身体を起こして、凍りついた外の気配に手を伸ばした。二階の窓から見下ろす雪景色に、ほうとひとつ息を吐く。まっしろだ。全身が震えるほどにまっしろだ。
 階下にはお父さんとお母さんの身体が落ちていて、優介はそれを助けにいかなくちゃいけないと思う。
 お父さん、お母さん、と言ったけれど、やっぱり吹き荒ぶ冷たい風に声は遮られてばかりで、このままではいつまでもふたりのもとに届かないと、焦燥が心を逸らせる。声を、声が届かないのなら、いっそ手を。ここから飛び下りればきっとふたりは受け止めてくれる。白銀の夢のその奥で、お父さんとお母さんは待ってくれている。
 けれど優介の身体はやっぱり熱くがたがたと震えだして、うまくその向こうへ飛びこめないでいた。早く、早くしなくてはならないのに、お父さんとお母さんはすぐそこにいるのに、全身が熱を発して優介の衝動を拒んでいる。
 からりと本当に窓の開く音がした。びゅう、と、幻ではない本物の風雪が身体を打った。優介は鍵を解いて、ガラスの窓をその手で開けて、それから外を覗きこんだ。
 おしまいだ。
 この部屋で終わりにするって決めたんだ。
 けれど身を乗り出した窓の下にはお父さんもお母さんもいなくて、代わりに夜の闇に決して負けない力強い声が響いた。真白く積もった雪の上で、降りつづける雪の下で。
 吹雪! と、彼は笑って言った。
「天上院吹雪だよ、僕の名前!」
 彼は優介のことなどなにも知らない。どうして小児科の病棟を追いだされてこんなところにひとりでいるのか、どうしてブラウニーもクッキーも食べられないのか、どうして怪我が治ってもいつまでも寝たきりでいるのか、学校に行けないのか、だれもお見舞いにこないのか、あの日、どうしてあの日、空を見上げて雪を浴びていたのか、彼はなにも知らないはずなのに。
 友だちになろうと言ったのだ。
 優介はぎゅうと喉を詰まらせて、何度も深く呼吸を繰り返して、それから「吹雪」と言ってみた。
 冷たい空気はごうごうと風を鳴らしたけれど、その名はしっかりと、吹き荒れる悲しみに押しつぶされることなく、優介の耳にまで優しく届いた。

* * *

 お父さんとお母さんがいなくなってしまったのは、年があけて少ししてからのことだ。
 終業式の日に突然あらわれた雪の世界は、冬休みのあいだじゅう消え去ることなく街を覆いつづけていた。大晦日の夜も、お正月の朝も、凍った空気はときおり休憩を挟みながらも雪を作りだすことをやめずにいる。優介はお父さんに言われたとおり、降雪の少ない日には近くに住む友だち数人とそとで遊び、雪合戦をしたり雪だるまを作ったり、稀にみる遊び道具を相手に短い冬休みをすごしていた。
 三箇日が明けて、学校から出た宿題もすべて終えてしまって、けれどお父さんとお母さんの仕事は決して少なくならなかった。ふたりはおなじ企業に勤めているから、出勤する日も時間もだいたいいっしょだ。お父さんとお母さんが仕事に出かけているあいだ、優介はお手伝いさんに面倒を見てもらっている。お父さんは年が明けたら雪合戦をしようと言ったけれど、もうじきに学校がはじまるという頃になっても、どうやらそんな暇は出来そうにないらしかった。
 明日から三学期がはじまる、その早朝に、お父さんとお母さんは慌ただしく出かける準備をしていた。優介はぱたぱたと走り回るお母さんの足音で目をさまして、まだ重いまぶたをこすりながら、どこへ行くのとふたりに訊ねた。
 返って来たのは優介の知らない土地の名前で、そこはきっと遠いのだろうと思う。夜までには帰ってくるわとお母さんが言って、忙しく動き回る足をとめて優介の頭を撫でた。ごめんね、と悲しそうにお母さんは言う。もうすぐお手伝いさんが来てくれるから、それまで良い子で待っていて、と。
 優介は首をふった。
「ぼくもいっしょに行きたい」と、その日はじめて、いままで口にしたことのない我がままを言った。
 ふたりは顔を見合わせて、しばらく難しい言葉でなにかを相談していたけれど、じきにお父さんが眉尻を下げてそっと笑って、お母さんは嬉しそうに微笑んだ。困らせてしまうかもしれないと、優介はそう思っていたのだけれど、思ったよりあっさりと、ふたりは優介の同行を許してくれた。そうと決まれば急がないと、と、お母さんはいよいよ忙しそうに、今度は優介の洋服を用意するためにまたぱたぱたと駆けだした。
 お手伝いさんに断りの連絡を入れてから、三人して慌てて車に乗り込んだ。あたたかなコートを着て、お母さんの用意してくれたコーンスープの入った水筒と、家にあったチョコレートのパンを朝食用に抱えて、優介は座席でほっと息をついた。急ごう、とお父さんが言って、いつもよりスピードを出して車が走り出す。
 こぽこぽとそそがれたスープをゆっくり飲みながら、優介はお父さんとお母さんに、ごめんなさい、と言った。いつも忙しそうなふたりが、自分の我がままのせいでもっと忙しく仕事に向かうはめになってしまった。
 決してそんなつもりではなかったのだ。ただ、冬休み最後の日なのに、雪で覆われた広い家にひとり取り残されるのがどうしようもなく寂しくて、たとえ雪合戦はできなくても、せめていっしょにいたいと、そう思っただけだった。
 しょぼくれる優介に、お父さんは怒ったようすも焦ったようすもなく、それどころか、お父さんこそごめん、と少し悲しげに言った。雪合戦しようって言ったのに、約束破ってばかりでごめんな、と。お母さんはスープの残った優介の口元をハンカチで拭って、優介がこんなこと言うのは珍しいから、お母さんはちょっと嬉しいな、と微笑んだ。
 あたたかなのはきっと、車の暖房が効いてきたせいだけではないと、優介は思う。
 除雪された道路を、がらがらと音を立てながらお父さんの車が走っていた。滑らないように気をつけて、けれど目的地へ向けて素早く、速度をあげて、車はまっすぐに走っていた。さらさらと流れるみたいに消えてゆく窓の外の白銀の世界を眺めながら、優介は、あっと言った。仕事帰りにお母さんがよくお土産を買って帰ってきてくれる、大好きなケーキ屋さんの看板が見えた。まだ朝の早い時間だから、お店は閉まっている。
 優介が良い子にしていられたら、帰りにあそこでチョコレートのケーキを買いましょう。
 お母さんがそう言ったから、優介は笑顔で頷いた。良い子にしていよう。我がままを言ってお父さんとお母さんの仕事先に連れて行ってもらうのだから、絶対に迷惑をかけないようにしよう。そう心に決めて、移り変わる景色を楽しんだ。車の中には優介とお父さんとお母さんの三人だけで、目的地に着くまではずっとこのあたたかい時間が続くのだと思うと、言葉を見つけられないくらいに嬉しかった。
 次第に雪は深まって、窓の外がまったく知らない景色に移り変わったころ、お父さんは何度も時計を確認して、お母さんは携帯電話で誰かと通話をはじめていた。ごめんなさい、思った以上に雪がすごくて、すこし遅れそうなの、ほんとうにごめんなさい、急いでいるけれどきっと時間には間に合わないわ。
 優介は不安になったけれど、電話を切ったお母さんは笑みを絶やさなかった。だいじょうぶ、と言う。優介のせいじゃない、こんな吹雪になるなんて、だれも思いもしなかったもの。
「ふぶき?」
 たくさん雪が降って、強い風がそれを吹き荒すのを、吹雪と言うのだとお母さんは教えてくれた。吹く、雪と書いて、吹雪。
 吹雪はお父さんとお母さんを急かすように車を揺らしていた。間に合わないと言いながら、お父さんは懸命に運転を続ける。雪はどんどんと降りつづけていて、あっと思ったときには、車は変な方向へ走りだしていた。くるりくるりと視界が回って、どしゃん、と怖い音がした。
 チョコレートのケーキは、だから、買って帰ることができなかった。
 それは当然のことだったのだ。「ぼくもいっしょに行きたい」なんて、そんな我がままを言いだした時点で、優介は決して良い子なんかではなかった。お母さんは、優介が良い子にしていたらケーキを買おうと、そう言ったのだから。
 車のそとではたくさん雪が降っていて、まっしろなその景色に熱い赤色が混じってゆくのを、優介はお母さんの腕のなかで見つめていた。
 お父さんとお母さんが助けてくれたのね、と、ひとり生き残った優介に誰かが向けた言葉は、お前のせいでふたりは死んだんだよと、そう頭の奥に冷たく響いた。
 枕元に吹雪のお見舞いが増えてゆくのを、優介はひとり数えていた。青色の小瓶からはじまったそれは、大小さまざまな色形で、いまはもう戸棚のうえをいっぱいに埋めてしまっている。
 まっしろだったはずの空間に、まっしろでなくてはならないはずの景色に、吹雪が色を描きくわえてゆくのが、優介にはうれしかった。うれしく感じてはいけないはずなのに。お父さんとお母さんが死んでしまったいま、優介は冷たい闇に囲われて、静かに泣いているのが当たり前だったはずなのに。
 夜毎訪れる悪夢は熱ではなくぬくもりを帯びて、次第にただ安息だけを示した未来を映しはじめる。優介が学校へ行くと、みんな笑顔で迎えてくれて、教室のなかには吹雪もいて、その安寧の空間に窓のそとの冷たさは入ってはこられない。お父さんとお母さんはそこにいない。ふたりは優介のせいで死んでしまったのに、ほかでもない優介自身が、そのことを忘れてしまおうとしていた。
 白く塗り込める夜の夢が明るさを手に入れたころ、こんこんと誰かが病室の窓を叩きはじめた。それは吹雪が帰ってしまってすぐのころにやって来て、こんこん、こんこん、と優介に合図を繰り返した。ここを開けて、あたたかなところから出て、もう一度冷え切った闇の底を見つめなさいと、そいつは優介にそう告げていた。
 ほんとうに少しずつだけれど、食事がとれるようになってきた。
 錯乱することだって少なくなって、病院の先生も看護師さんもうれしそうだった。
 けれどそれは、優介が無視しはじめたからだ。雪に怯えながら、その恐怖へきちんと向き合うことを、優介が拒むようになってしまったからだ。恐ろしいものを見ないように、寒い場所から離れるように。やさしい気配だけを手探りで求めるのは簡単で、なによりこの手を取って導いてくれる存在が現れてしまった。吹雪がやって来て、微笑んで、いろんな話をしてくれるのが嬉しかったから、優介はその喜びだけで簡単にぜんぶ手放そうとしている。お父さんとお母さんのことを。
 優介はカーテンを閉じた。
 もう隙間からなにも見えないように。お父さんとお母さんを殺してしまった残酷な景色が、もう視界に飛び込んで来ないように。青色のカーテンの向こうからはときどきこんこんと音がしたけれど、優介はそれから耳を閉ざして、目を逸らして、吹雪の持ち寄る色鮮やかなよろこびの数をかぞえた。
 青色の小瓶、赤と金の千代紙の折鶴、桜のように咲いた雪の写真、色紙でできた花束、切り絵のはがき、みっつのお手玉、二羽のうさぎのぬいぐるみ、ちいさな地球儀の鉛筆削り、英語の新聞、さんすうのドリル、銀色にひかるハーモニカ。
 それらを眺めているのはとても楽しかったけれど、ときどき急に胸の奥が罪悪で潰れそうになって、呼吸ができなくて、そんなとき優介はやっぱりベッドにもぐりこんで静かに涙を流した。そうやって泣いているあいだ、きっと、窓のそとにはお父さんとお母さんが来ているのだと、そう思うといっそうつらくて、優介はまた何度もごめんなさいと繰り返した。

* * *

「最近なんだか元気そうだね」と吹雪は笑んだ。
 そうかな、と優介が首をかしげると、彼はまるで大人を真似るみたいにおごそかに頷いた。「うん、とても顔色が良い」
 その日の吹雪のお見舞いは色とりどりのちいさな星が連なったキーホルダーだった。くらいところで光るんだよ、と、特別な秘密を共有するみたいに彼は言って、両手のひらを重ねて空洞にすると、その中でうっすらと黄緑色に光るキーホルダーを指の隙間から覗きこんだ。蛍光塗料だ、と優介がつぶやくと、なにそれ、と目を丸める。
「ええと、明るいうちに光を吸収して、暗い所で光るように、コーティングしてあるんだ。だから電気みたいにずっと光ってるわけじゃなくて、溜め込んだぶんを使いきっちゃうと、光らなくなる」
 ふうん、と吹雪は感心したように言って発光するキーホルダーを見つめていたけれど、しばらくしてから「いっぱいお陽さまがないとだめなのかぁ」と言った。「なんだか植物みたいだね」
 彼の言うのは少し違うように思えたけれど、あながちまったくの筋違いでもないような気がして、優介は微笑んだ。きっとそうだ。蛍光塗料も植物も、人間だって、いっぱいお陽さまがあったほうが、たくさん光ることができるに決まっている。
 吹雪は病室にひとつっきりの窓をじっと見つめていた。青色のカーテンはぴっしりと閉じたままで、それでも室内はきちんと明るいし暖かい。
「雪、まだ降ってるかなぁ」とつぶやいた彼の声が、なんとなくしょんぼりしていたので、優介は首をかしげた。
「やんでてほしいの?」
「降っててほしいけど、寒いのはヤなんだよ」
「雪も冬も好きって言ったくせに」
 優介がくすりと笑うと、吹雪はううんと唸って、それから優介のベッドのうえに上半身を倒した。布団のうえに両手を伸ばして、ぼすりと突っ伏してしまう。ここはあったかいな、と、くぐもった声で言った。
「……吹雪?」
「…………」
 吹雪は顔を伏せたままぎゅうと優介の布団を握りしめて、何度か大きく深呼吸をしたようだった。ゆっくりと視線だけを上げて、彼は優介の顔を見た。
 しっかりと両目を射抜くように捉えた視線に、優介はぎくりとして、目を逸らすこともできずに身体を強張らせた。吹雪の大きな目は力強いのに、なぜかとてつもなく悲しげで、優介は彼が泣きだしてしまうのではないかと思ってうろたえた。
 吹雪は泣いたりしないで、ただちいさな声で、春になったら、と言った。
「春になったら、ぜんぶ溶けるかなぁ」
 お父さんとお母さんが死んでしまってから、もうひと月が経っていた。カレンダーは月を変えて、いまはもう二月で、いつまでも寒さは変わらなかったけれど、それでもじきに雪は溶けだすだろう。
 お陽さまに当たらないと、光ることができないから。
 吹雪はもう一度だけ息を吐いて、それから急に顔を上げるとふにゃりと頬を緩めた。握りしめていたキーホルダーを優介に手渡して、明日はもっとすごいもの持ってきてあげる、と胸を張った。「ぜったいびっくりするから、楽しみにしててね」

* * *

 きみはカーテンを開けないのかと、たぶん吹雪はそう問いたかったのだろうと、優介は思う。泣き出しそうな目で、彼はそう訴えるつもりだったのだろう。雪はたくさん積もっているけれど、冬はとても寒いけれど、もうじきに春が来るから。春がくれば、きっとぜんぶ溶けるから。悲しいことも、つらいことも、お陽さまにあたれば消え去ってしまうから。だからそうやってカーテンを閉じていちゃいけない。
 彼の帰ってしまった病室では、また外の暗闇が手招いていた。
 こんこんと窓を叩き続けるそれは、氷でできた闇に優介を連れ込もうとしているのではない。この手を取って、雪解けの春へ向けて、優介を外へと連れ出そうとしているのだ。それに気付くと、とたんに気持ちが揺らいだ。
 吹雪の手。
 ぴたりと閉じたまま微塵も揺れることのない青い布を、優介は見つめた。触れてみようと手を伸ばして、ふたたびこんこんと鳴ったノック音にびくりと肩をゆらす。この向こうにいるのが、お父さんとお母さんを殺した荒れ狂う吹雪なのか、あの日とおなじように自分を見つけ出してくれた優しい吹雪なのか、まったくわからなくなってしまっていた。
 けれどどちらであろうと、この音は優介をここから引き離そうとしているのに変わりない。この部屋から。もぐりこんで静かに泣くための、このベッドから。
 この部屋で終わりにすると、そう決めたのに。
 ぬくもりも冷たさも、どちらを選ぶこともできずに、優介はふたたび毛布のなかに丸まった。誰かに殴られているかのように心臓がばんばんと音をあげている。上手に呼吸ができない。気分が悪い。お腹の底のほうから喉の奥に空洞が出来て、そこをびゅうびゅうと風が通っているみたいだった。その流れを自分の力で止めることはできない。は、と息を吐いて、ひゅうと吸ってから、ぐらりと顔を上げてナースコールに手を伸ばす。
 だめなんだと思った。
 看護師に背を撫でられながら嘔吐し、浅い呼吸に身体を震わせて、優介はだめなんだと思った。
 雪は溶けない。春が来ても、陽が射しても、自分を縛り付ける雪はぜったいに溶けない。溶かしてはならない。お父さんとお母さんが雪のなかにいる限り、優介も同じ冷たさのなかにいなくてはならない。そんなことわかっていたはずなのに。
 心が痛くてたくさん泣いた。身体はこんなに熱いのに、全身が寒くて仕方がなかった。なんにもないはずのおなかから、狂ったみたいに体液ばかり吐き出しながら、優介は心のなかで名前を呼んだ。お父さんとお母さんではなく、吹雪、と彼の名を呼んだ。
 吹雪の手を取りたいのに。
 彼が窓を叩くのなら、何度だってその鍵を解いて、どれだけ風が冷たくたって、優介は戸を開けて迎え入れたかった。おんなじ教室で授業を受けたり、いっしょに雪合戦をしたり、あまいブラウニーもあまくないクッキーも、ふたりで笑って食べたかった。
 けれどだめなんだ。
 雪は溶けない。この部屋から出てゆくことはできない。
 頭がおかしくなりそうなくらい吐いて、カーテンの向こうが白んでくるのを力なく眺めた。こんこん、と音がする。優介は重い腕をむりやり伸ばして、その青い布を引いた。
 そこにはお父さんとお母さんがいる。
 お父さんとお母さんが、まっしろな雪に埋もれて立っている。優介の窓を叩いている。
 最初からそうだった。優介は最初から、ふたりがそこにいることを望んでいたのだ。ふたりは悲しげに優介のことを見ていたから、すこしでも安心させるために、優介は微笑んだ。それから、ごめんなさい、と言ってまたぽろぽろと泣いたけれど、きっとふたりは許してくれるだろう。
 まだ薄暗い冬の朝には細やかな雪が降りつづけていて、優介はそれに心から安堵した。雪が好きと言った彼がそれでも陽の光を望むように、優介はこの白い絶望を厭いながら、同時に渇望している。自分を包んでくれることを。許容し、受諾してくれることを。
 うっすらと濁ってゆく意識は、過去への悲哀や後悔より未来への恐怖に満ちていて、それが悲しくて優介はまた泣いた。この悲しみこそが自分にふさわしいのだと、そう思った。

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