この世に存在するすべての柔らかくてなんだかふかふかふよふよしたものが人に与えてくれるしあわせっていうのは母の胎内を思い起こさせることから生まれるのだとなにかの本で読んだことがある。それが科学的な根拠に基づいた見解なのか一個人によるただの感想なのかどうか僕は知らないけれど、ともかくその説を万人が共通して持つ生物のサガのようなものなのだと仮定すれば、藤原はひょっとしたら母親の中で胎児としてすごした経験がないのかもしれなかった。
特待生寮の僕の部屋のベッドの上には僕が個人的に持ち込んだ大きな丸いクッションが置かれていて、そいつの柔らかさといったらフカフカとかフヨフヨなんて言葉ではちょっと表現しきれないようなレベルなのだけれど、藤原は僕のベッドを占領しておきながらこともあろうにそのクッションの存在を完全に無視して真っ直ぐうつ伏せに転がって眠る。
昼夜問わず僕の部屋に突然やって来るたび彼は、「もうほんのあと一時間ほどでこの島には邪悪且つ狂暴な最悪の悪魔が大挙して押し寄せてくるっていうのに僕にはもうそれを止めるすべがありません」とか言いだしそうな悲壮な顔をしてふらふらと室内に歩を進め、倒れ込むように僕のベッドにダイブしていつもそのまま気絶でもするように眠ってしまうのだ。
ベッドを取られること自体は別にかまわない。このところ常にその終末預言者みたいな酷い顔をしている藤原が、ここに来てきちんと睡眠をとれるというのなら寝場所くらいいくらでも提供するし、なにより彼の方から僕のもとを選んで訪ねて来てくれているという事実は正直、軽く小躍りしたいくらいに嬉しいのだ。
僕は藤原がこの部屋の前までやって来た時に鳴らす、やや控えめにすぎるノックの音がとても好きだ。僕が返事をするや否やずるずると入りこんできて無言でベッドに倒れ込んでしまう彼が、三十分ほどの短い眠りから目覚めたときに見せる気だるげな表情がとてもとても好きなのだ。僕が「おはよう」と言うと藤原は「おはよう」と言うし、僕が「よく眠れた?」と訊ねると藤原は「とても」と返す。嬉しくなった僕がにっこり笑うと藤原は申し訳なさそうにはにかむ。これを幸福より他になんて呼べばいい?
けれどそうやってベッドに横たわる藤原はじっと顔をうつ伏せたきり、僕のとびっきりのクッションを脇に放置して身動ぎひとつしない。僕にはそれがふしぎでならなかった。あの感動的な柔らかさを、さも眠るのに邪魔な物体であるかのように扱うだなんて。僕はあれをいつも両手で抱えたり時に背中で押しつぶしてみたり、頭を預けたり肩を預けたりでそのふかふかに全身を包んでもらうような心地良い気分を味わっているのに、藤原ときたらあのまんまるがどこに置いてあろうと片手で引っ掴んでぽいっとベッドの隅に放り投げ、なんにもない平らな空間に顔を伏せて眠るのだ。
息苦しくないのかな?
藤原は静かに眠りつづける。広いベッドに足を伸ばしてまっすぐ横になる彼の傍らには、どうぞこちらに腰掛けてお待ちくださいと言わんばかりのスペースがあるので僕はいつもそこに座る。眠っている藤原を見おろしてすごす時間はちょっとだけ退屈だ。寝顔が見たいなぁ、と僕は思いながら藤原の少し癖のある髪を弄って遊ぶけれど、あんまりそれをやりすぎて起こしてしまったら元も子もないので控えめに、乱れた箇所をそっと整える程度でやめておく。恋は盲目とはよく言ったもので、僕はいつも藤原の髪をまるで上質で上等な絹糸のように神々しく感じるのだけれど、実際に触ってみるとまったくそんなことはなくてむしろ少し痛んでいるくらいで、そういうふうに現実の藤原優介を改めて見つめるたびに僕は彼のことをとても好きだと再認識する。僕の好きな藤原はべつに特別神々しい必要なんてこれっぽっちもないのだ。もちろん、トリートメントは薦めるけれど。
そんなふうに藤原が眠っているあいだひとりでくふくふと頬を緩ませたりしている僕はきっと傍目に見ればまるっきり不審者だ。けれどここは僕の部屋で、ベッドでは好きな相手があまり可愛らしいとは言い難い姿勢で眠りこけていて、そのあどけない寝顔を拝むことさえ出来ないのだから、まぁ多少不審でも許されるはずだった。寝込みを襲うような真似だって僕は一度もしたことがない。天上院吹雪はいつでもどこでも、まったくもって紳士なのだ。だってプリンスだからね。
その王子さまのベッドで死んだように眠る藤原はさながら呪いにかけられたお姫さまといったところなのだろうけれど、もちろん目覚めのキスなどさせてくれるわけはない。ベッドシーツに顔面を突っ込んだままどうあっても寝顔を覗かせてくれない彼は、今日に限ってなぜか突然がばりと頭をあげ、あまりに突然の起床を果たしたのだった。
「……おはよう?」
驚いた僕が思わず疑問形で挨拶すると、寝ぼけ眼を何度か瞬かせた藤原は、けれど僕のほうをちらりとも見ることなく、再びベッドに倒れ込むように顔を伏せてしまった。おやおや、ようすがおかしいな。藤原は別にただ寝ぼけているだけってわけじゃないらしく、どうしたのと訊ねる代わりに僕がそっと頭を撫でてやると、くぐもった声でかすかに呻いた。うう、と苦々しげに。
「いやな夢を見た」
それは大変だ。
「どんな夢?」
「……言いたくない」
「言ったほうが良いよ? 悪い夢は起きてすぐにだれかに喋っちゃえば、そのままどこかに飛んでいくんだから」
もちろんなんの根拠もない話だけれど、古今東西おまじないとはそういうものだ。藤原は逡巡するように黙り込んで、少ししてからやっぱり「言いたくない」と返した。「忘れたいような夢ってわけじゃ、ないから」
けれどそう零したきり藤原はまた押し黙って、そっか、とだけ返した僕が再び彼の髪を撫でるのに従事しはじめてしばらくすると、降りだした雨粒がぽつりと肌に触れるような微かな声で話しはじめる。
「吹雪と一緒にいる夢を見たんだ」
「僕?」
「そう。……俺がいて、吹雪がいて、それでふたりいろんなところへ行って、ずっとずっと遊ぶ夢」
「…………」
予想外の発言に僕はなんと返していいものやら悩み、とりあえず、「そんなにいやな夢かな?」と首を傾げてみることにした。いまだに顔を上げない藤原はもちろん僕のそんなお茶目なジェスチャーなんて見えていない。ああ、と彼はあっさりすぎるほどあっさり肯定した。
「とんでもなくいやな夢。最悪だよ」
「……そ、そんなにも?」
僕がそれと同じ夢を見た日には、目覚めた瞬間に幸福のあまり転げ回り、ひとしきり喜んでから続きを堪能すべく気合い充分に二度寝へ挑むに違いないのに……。
それとも藤原の夢には続きがあって、僕とふたりでいろんなところへ行って遊んで回るというそのハッピーな内容から一変、とんでもなく悲惨な救いようのない結末を迎えるのだろうか。それは最悪だ。間違いなく悪夢だ。
けれど藤原はその夢についてそれ以上の展開を語らずじっと伏せているので、どうやら物語はただひたすら楽しいだけの、最初から最後まで尽きることなく幸福なもののようだった。
つまりどういうことだろう。
まさかとは思うが、ひょっとして彼は僕のことが嫌いなんだろうか。
藤原は呼吸のために胸のあたりをかすかに上下させるばかりで随分黙っていて、その沈黙の時間は僕の不安を意味もなく掻き立てたけど、もちろんそんなバカなことあるわけがない。彼はふうと嘆息しながらごろんと寝がえりを打って仰向けになると、天井をじっと睨みつけながら言った。「俺は預言者じゃない」
「そりゃあそうだろうさ」
「……だから、いやなんだよ」
低やかに呟いて、藤原は再び重く息を吐いた。
対する僕はというと、ようやく藤原が顔を見せてくれたことを素直に喜んでいた。
むろん、沈痛な面持ちの彼に配慮することを忘れたりはしない。あんまりにこにこしすぎないように気をつけながら、どうやら預言の力など持っていないことをきちんと自覚しているらしい藤原の、その髪を撫でていた手を滑らせて頬へ。耳のあたりをくすぐってやると藤原は少し身を捩ったけれどそれは別に気持ち良さからというわけではないようで、彼はどちらかといえば呆れたような、もっといえば拗ねてしまったような、あまり穏やかでない視線を僕に向ける。どうやら配慮は不発だったようだ。
「吹雪、笑いすぎ」
「いや、ごめん。嬉しくってつい」
バレてしまっては仕方ない。遠慮なく微笑むことにした僕に、藤原はすこし眉根を寄せて訝しげな顔をした。
「なにがそんなに嬉しいんだか」
「そりゃ嬉しいさ」
「だから、なにが?」
「だって要するにきみは、それが正夢にならないのが嫌なんだろう?」
どれほど楽しい時間を過ごしたところで、夢はしょせん夢でしかない。そこから現実へと結びつくような道筋は普通、成立しなくて当然だった。彼は預言者ではない。僕とふたりですごす素敵な夢路は、しかしこうやって目覚めてしまったいま、あっけなく失われてしまったのだ。そう考えればなるほど、たしかにそれは随分寂しいことのように思えた。
うんうんと頷く僕を藤原はやっぱり怪訝そうに見つめたけれど、その言葉を否定することはしなかった。彼はどことなくバツが悪そうに視線を泳がせていて、このままだとまた引っくり返って顔を隠してしまいそうだから、そうなる前にと僕は藤原の頬に軽くキスをした。唇にしなかったのはもちろん、目覚めの魔法の出番はまだ先だからだ。「もう一度眠ってしまえば、続きが見られるかもしれないよ」
藤原はその口づけを嫌がったようすはなく、でも、それじゃあそうしますとあっさりまぶたを降ろすようなこともなかった。まるで夢の続きなど最初から期待していないというふうに苦笑う。
「良いよ、もう充分眠った。そろそろ戻らないと」
「嘘だね。自分じゃわからないかもしれないけど、きみ、まだまだ寝足りないって顔してる」
と、いうのは口から出まかせで、単に僕がまだ一緒にいたいっていうだけなんだけど。
藤原は僕の本心を見破ったのかそうじゃないのか、とにかく気まずそうなようすでこちらを見上げていて、けれど僕を押しのけてでも起きあがろうという気配はないのできっと諦めたのだろう。僕は笑んで、次いでベッドの隅に追いやられた例のクッションの存在をふと思い出す。楽園を彷彿とさせるあの柔らかさなら、きっと彼に再び幸福な夢を見させてくれるに違いない。
でも僕のその提案に、藤原は首を横に振る。その仕草に込められたのは、遠慮ではなく峻拒であるように、僕には思えた。
「なぜだい? 前々から思っていたんだけどね、藤原、どうしてきみはあれをあんなふうに、まるで邪魔ものみたいに扱うのさ。腕に抱えるなり枕にするなりすればいいのに」そうしたら僕も、少なからずきみの寝顔を見られる可能性が出てくるのに。「言っておくけれど、この柔らかさはちょっとすごいよ。そんじょそこらのクッションとはわけが違う。もう、奇跡の寝心地。天使の羽根ってきっとこんな感じだと思うんだ。ほら」
言いながらクッションを差し出すと、藤原はそれを受け取ってなぜかちょっと愉快そうに微笑んだ。「天使の羽根ほどじゃないよ」なんて嘯きながら、触り心地をたしかめるように両手で抱えて、けれど結局僕に返してくる。「ありがとう吹雪。でも、やっぱりやめておく」
「どうして?」
こんなに気持ちいいのに、いったいなにが気に入らないっていうんだろう。
唇をとがらせた僕に、藤原はちょっと困ったような素振りを見せてから、「だってそれ、気持ちよくって」と照れくさそうに眉尻を下げた。
「あんまり居心地がよすぎると、このままずっとここで眠って、部屋に戻れなくなりそうなんだ」
――ああ。
父さん、母さん、そして明日香。
僕の好きな人はこんなにかわいい顔でこんなにかわいいことを言ってくれる、こんなにもかわいい人です。
「……ずっとここにいていいのに」
「そういうわけにはいかない」言いながら、藤原は重たげなまぶたをゆっくりと降ろした。彼は僕の提案通り再び眠りに落ちるつもりのようで、やっぱり顔を隠すように寝がえりを打ってしまう。その髪にまた少し触れながら、僕は言った。
「今度、授業のない日にさ、島を抜け出して出かけようよ。で、ふたりで一日中、いろんなところへ遊びに行こう」
「…………」
「きみの夢は、僕が正夢にしてあげる」
だから安心して眠っていいよ。
囁くようにそう告げる。藤原からの返事はない。もう眠ってしまったのかな、と思って僕は触れていた手を離して、相変わらず寝顔を見せてくれない彼をぼんやりと眺めていた。と、
「――……そういう短い時間での話じゃないんだ」
そう、重く悲しげな声で呟くのが聞こえた。
彼の浮かべる表情は僕からは見えなくて、けれどその言葉にはためらいや迷いに似たものが積もっているように思えた。僕は一度離した手で、再び彼の髪に触れる。優しく、宥めるように頭を撫でながら、「僕もだよ」と言う。たった一日で終わりなんてとんでもない。僕だってもっと、ずっとずっと、きみと一緒にいたいんだ。
藤原はもうなにも言わなかった。彼はどうやら今度こそ本当に眠ったようで、ゆっくりとした呼吸のリズムだけが手のひらに伝わって来る。
僕の手を受け入れながら藤原は静かにここにいる。僕のベッドで眠っている。けれどもうじききっと目を覚まして、ここからいなくなってしまうのだろう。
この手があのクッションの代わりになれば良いな、と僕は思う。人を幸福にしてくれる柔らかなまんまる。彼にそれを受け取ってほしかった。天使の羽根ほどではないらしいけど、その安らぎは彼を、藤原を、きっと僕のそばに留めておいてくれるものだから。
幸福のはなしをしよう。
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