1.
ぽかんと開け放った窓の外にはきれいに法線を描いた細い月が浮かんでいて、僕がそれをゆりかごのようだと考えるのと同時に「まるで爪あとだ」と彼が言う。
「夜が嫌いな誰かが引っ掻いたみたいだ」
藤原は表情を緩めることも強張らせることもせず、真顔で、けれど親しげな声で言った。僕らは並んで同じ空を見ていたけれど、どうもそこに映るものはまったく別物のようで、当然のこととわかっていても僕にはそれが少し残念だった。同じだけの数の目で同じだけの星の浮かんだ夜を見ているのだから、その感動を同じかたちで分け合うことが出来ればと思うのは、はたして自然なことではないだろうか。
夜が嫌いなのはきみだろう、と心の中でひっそりつぶやく。
「月が爪あとなら、その周りに浮かぶ星は?」
よもやナイフで刺したあとだなんて物騒なことを言い出したりはしないだろうなと、ほんの僅かに構えながら訊ねた僕に、藤原は少し考え込むみたいにしてから口を開いた。がびょう、と言った。なにかの呪文かと思った。
「画鋲?」
「そう、うん、画鋲。夜空を留めておくための」
かすかな躊躇を混ぜて語尾を濁らせながら、藤原は慣れない詩的な表現に照れたように眉尻を下げた。あまりの微笑ましさについ口元を緩める。彼はなにか言いたげに僕を見たけれど、結局ふうとひとつ息を吐くだけだった。らしくないことを口にするものじゃないと言外に語るように、自嘲めいたものがそこには含まれていた。
「僕にはね、あの月はゆりかごに見えるよ」
それを伝えると彼は、ああ、と得心したふうにひとつ頷いた。吹雪はそうだろうな、と微かに目元を緩める。
夜を恐れて立ち竦む、きみを包むためのゆりかごだと、きみに優しい眠りを与えるために細く翳った月なのだと、そう続けたかったけれどなんとなく止した。わざわざ口にして伝える必要はないように思えたから。
夜に爪を立てる彼は、けれど、瞬く星々にはそれを留めることを望むのだと、そう考えるとなんとなく嬉しかった。彼は夜を厭ってばかりではないのだ、なんて、そのときの僕はそんなふうに、随分と前向きで愚かな勘違いをした。
窓を閉じて寮の室内へと身を閉じ込める。彼の浮かべる表情はどこか憂鬱そうに見えたから、泊まっていくかいと軽い調子で声をかけると、疲れたような苦笑いが返ってきた。「意味がない」と彼は言う。「まだ研究が残ってる」
良い息抜きになったと礼を残して、彼は部屋を出て行った。僕はベッドに腰掛けて、なにひとつの声もかけられず、ただその姿を見送った。