I LOVE YOUの子守唄 - 1/2

 優介はほんとうに突然現れて「どういうことだ」と言った。それはこっちのセリフだ、と俺は思った。

 三十五年ぶりに皆既日食が見られるというその日、吹雪は案の定おおはしゃぎだった。当日に限った話ではない。テレビやら雑誌やらのいろんなメディアで一週間近くまえからその日食について触れられていて、それを目にするたびに彼は「たのしみだなぁ!」と声を弾ませていた。
「午後一時半頃に観測できるんだってさ。いっしょに見ようね、藤原」
「いっしょにって、吹雪、仕事は……」
「休暇を貰ったに決まってるじゃないか!」
 これでも一応多少のスケジュール調整くらいなら口出しできるのだと、吹雪は得意気にする。そこまでするほどのイベントごとじゃないだろう、と、喉元まで出かかった言葉を俺は呑み込んだ。吹雪は本気で日食を楽しみにしているのではなくて、ただ、それが起きる瞬間に俺のそばにいられるようにって、ばかみたいに流行に乗ったふうな顔をしているだけなのかなとふいに思った。
 毎日のようにいろんなひとが、いろんなところで日食について話している。太陽を月が飲んでしまうその神秘的な現象は、とうの昔に原理が解き明かされているのにもかかわらず、人々の興味を煽ってならないようだった。俺にはそれが、あまり嬉しくない。日食と聞くだけで少し身体が硬くなる。気持ちも、たぶん、同じように硬くなる。
 吹雪はそれに気付いているんだろう。もしかしたらそんなのは俺の自意識過剰な思いこみで、単純に夏祭りやクリスマスと同じようなノリで楽しんでいるだけなのかもしれないけれど、吹雪がほんとうはなにを考えているかなんて、そんなのわざわざ口にして訊ねるようなものではない。黙ったままの俺に、彼はにこにこと笑って、たのしみだね、と言う。
 吹雪にそう言われると、なんだか本当にたのしいことが起こるような気分になるから不思議だ。

 早朝に一度出かけてから十二時頃にまた帰宅してきた吹雪は、品切れが続出しているといううわさの日食グラスをちゃっかり二人分用意していた。どういうわけだかかわいらしいマスコットキャラクターが描かれたサングラスはいろんな色が飛び交っていて賑やかで、それを装着した吹雪は、なんというか、実に天上院吹雪といった感じで俺はちょっと安心する。
「あれ、丸藤は? ぜったい連れてくるって言ってなかったっけ」
 俺の問いに、吹雪はひどくしょぼくれた顔で黙り込んでから、亮は僕らより仕事のほうがだいじなんだ、とぼそりと言った。それがあんまり悲壮な空気を漂わせていたものだから、俺はなんだかかわいそうに思えてきて彼の頭を撫でてやる。「だいじょうぶだよ。だいたい吹雪だって、日食見たさに仕事を休む丸藤なんて嫌だろう?」
 吹雪はこくりと頷いて、「そういう真面目さが、亮のいいところだからね」と言った。
 ふつうの大人はそう簡単に休暇を取ったりしないということを、彼は理解しているんだろうか。

 幸運なことにマンションのベランダからちょうどいい角度で太陽が見えるらしく、吹雪と俺は平日の真っ昼間にふたり並んで空を見上げていた。大の男が変なメガネをかけていったいなにをしているんだか、と客観的に思わないでもなかったけれど、たぶんいま、こうして太陽を仰いでいるのは俺たちだけではない。家族といっしょだったり、ひとりだったり友だちとだったり、いろんなひとが同じように、その瞬間を見届けようと空を見つめている。
 俺のとなりには吹雪がいた。当たり前みたいなそれがちょっと嬉しくて、口元がゆるむ。
 それに気付いたみたいなタイミングで、吹雪は少しこちらに寄ってきた。すごく自然な調子で、寄りかかるみたいに肩を触れ合わせて、コツンと頭を軽く俺にぶつけてくる。「今日は宇宙からたくさんのエネルギーが降ってくる日なんだって」
「皆既日食だから?」
「そう。月の影と太陽が重なる神秘の日、奇跡の時間が、いま宇宙からこの土地に届いてる。だから、とても大きくて優しい力がいっぱい降り注いで、それを浴びている人たちにも強い影響を与えるんだってさ」
 雑誌で読んだ、と吹雪は付け足して、ふふと笑った。「未来への祈りが、宇宙から運ばれてくる日なんだ。すてきだろう?」
 吹雪らしいなと俺は思う。そんな映画かドラマみたいなセリフをさらりと口にすることの出来る彼は、やっぱり絶妙なタイミングで俺の手にそっと触れて、藤原がこの先もずっとずっとしあわせでいられることが僕は嬉しい、と囁くみたいにして言った。
「……いられますように、じゃなくて?」
 あまりに恥ずかしい発言に、俺は少し俯いて、ぼそりとそう返した。すこし不機嫌そうな声になってしまったけれど、右手に触れている吹雪の手はぎゅっと握り返したままだ。吹雪は頭を俺にすりよせるみたいに少し動かして、んん、と唸るみたいな笑うみたいなあいまいな返事をする。
「遠い宇宙からはもう、僕らの未来が見えているらしいんだ。だったらやっぱり、僕はありがとうございますって言わなくちゃ。きみがしあわせでいられる未来に、お礼が言いたいんだよ」
 変かな、と吹雪がくすりと笑うから、俺はちょっとだけ泣きそうになる。いまこうして吹雪がとなりにいるだけで充分なくらいなのに、彼はこの先のずっと未来にさえ俺の幸福を探してきてくれる。遠い宇宙の見おろす遠い未来。しあわせにすごす俺のとなりには、彼自身の姿もあるに違いない。
 吹雪はとても楽しそうに、陰ってゆく太陽を見ていた。派手な日食グラスをかけたまま、ゆっくりと口を開く。「僕らの大好きな人たちが、みんなしあわせでいられる未来が来る」
 吹雪がそう言うのだから、きっとそうなるのだろうと俺は思った。

 太陽が月に食われてゆくその瞬間を、俺は吹雪とふたりで眺める。日食という言葉を聞くだけで、あの日の、あの頃の自分を思いだして硬直していた心は、いまはもうゆるやかにほどけてしまっていた。いつの間にかこうして、きっと、吹雪の言うしあわせな未来には、以前の俺が抱えていた悲しいこともぜんぶ消えていってしまうのだろう。
 そう思った瞬間に、パチン、となにかの音がした。
 それがけっこう大きく響いて聞こえたから、俺は反射的に「痛っ!」と言った。べつになにかが痛んだわけではなかったのに、そう言わずにはいられないようなことが起きた気がしたからだ。
 俺の右隣には吹雪がいて、彼はいきなり声をあげた俺にびっくりして目を丸めていた。「え、なに、どうしたの?」と困惑している。俺だって同じ気持ちだった。
 つないだままの吹雪の手に縋り、とりあえず、だいじょうぶ、と言う。なにが危険であったのか、なにがだいじょうぶなのか、俺にはまだ判断がついていなかったけれど。
 吹雪はその言葉に一応安堵したふうに目元を緩めて、でも、つぎの瞬間にははっきりと目を見開いた。彼は俺じゃなくて、俺の少し向こうを見て、呆然としていた。なにかが起こっていることは確かで、ゆるやかだったはずの気持ちが一度にまた凍えだすのを感じる。俺はゆっくりと振り向いた。
 そこには俺がいた。
 黒い服を着て、仮面をつけて、髪をぴんと跳ねさせて、彼は俺のとなりに立っていた。
 太陽はきれいに月の影に隠れてしまっていて、俺と吹雪は手をつないだままで、宇宙からは神秘の力が降り注いでいる。
 ダークネスの影響下にあったときとおなじ姿で、もうひとりの俺は無言でその仮面をはずした。そこにはもちろん俺とおなじ顔があって、彼はふしぎそうに俺たちを眺めやったあと、ゆっくりとくちびるを開いて言った。
「どういうことだ?」
「…………」
 それはこっちのセリフだ、と俺は思った。

* * *

 吹雪は彼のことを優介と呼んだ。
「優介、優介、ねえ、きみもごはん食べるんだろう? ちゃんとこっちに来て座りなよ」
 リビングに置かれたソファの隅で丸くなっている、俺の姿をしたそいつに言う。吹雪はそうやって彼のことを優介、優介と、まるで猫の子でも呼ぶみたいに連呼するから、俺の心境はもちろん複雑どころのはなしではない。どうしてそんなに気軽に彼を優介と呼んでしまえるんだろう。それを問うと、吹雪は、
「だってあの子は藤原優介だろう?」
 と当たり前に言ってのけるのだった。
「……」
「違うのかい?」
「……違わない、けど、なんか……」
 耳元がむずむずする。
 正直に白状した俺に、吹雪は「おや」というふうにちょっとだけ目を丸めて、そのあとにっこり笑って俺の耳のあたりに軽くキスをした。ゆうすけ、と彼にではなく、俺に向けて言う。「『藤原』がふたりじゃ混乱するかなと思っただけなんだけど。きみが嫌ならやめるよ」
 なんでもないことみたいにそう言った吹雪に、俺はちょっとだけ迷っているみたいなふりをして、それから、嫌ってわけじゃない、と言った。吹雪はうれしそうににこにこと笑っていた。
 そんなふうに吹雪が彼を優介と呼ぶうちに俺もなんだか慣れてきて、そのよくわからない存在を『優介』と呼ぶようになる。突然現れた優介は、ダークネスの衣服から俺の私服に着替えさせるともうまるまる俺そのもので、ふたりして並べば一卵性双生児以外の何者でもなかった。髪型くらいでしか見分けがつかない。最初のうちは困惑したようすだった彼は、しかしやっぱり次第に慣れてきたのか、三日も経てば我がもの顔で家の中に存在するようになっていた。テレビの前のソファの隅が、彼の定位置。
 優介は大方一日中そこに座ってぼんやりテレビを見たりDVDを見たり、ときどきどこから見つけ出してきたのかひとりでトランプや将棋を広げて遊んでいたりする。ああ見えてそれなりに売れっ子デュエリストの吹雪はほとんど毎日朝から晩まで仕事に出かけて、俺も基本的に日中は自分の部屋で仕事をしているから、リビングルームはもはや彼の城だった。優介は冷蔵庫から勝手に取りだしてきた食材を使ってオムライスを作ったしエビフライを作ったしポテトサラダを作ったしシーフードカレーを作ったし筑前煮を作った。それらを彼は基本的にひとりで平らげて、気が向いたときにだけ俺を部屋まで呼びにきていっしょに食べた。おいしい、と俺が言うと得意気な顔をする。優介は俺だから、彼の作る料理は俺の作るものとおなじ味付けでおなじおいしさだったけれど。
 吹雪は優介の手料理を食べたことがない。優介が振舞うのを嫌がったからだ。吹雪はもちろんいつもと変わらない調子で「藤原だけずるい」「僕も食べたい」と駄々をこねるみたいに催促したけれど、優介はそれらを完全に無視して、吹雪がいないあいだに冷蔵庫を勝手に空っぽにさせてゆく。
 吹雪の食べる分がなくなるから、と一度彼に注意をすると、あんなやつはなにも食べなくて良い、という辛辣な返答が返ってきた。つぎの日の朝、冷蔵庫に蓄えてあった吹雪の納豆がぜんぶゴミ袋のなかでぐしゃぐしゃになっていて、俺は優介を叱るのと同時に反省する。捻くれものの彼に、なにかを忠言するのは注意が必要だ。
 そうやって優介の手料理を食べさせてもらえないどころか、あまつさえ朝のおともを片っぱしから廃棄されてしまった吹雪はというと、けれど怒ったり泣いたりというようなことはしないで、ただしょんぼりしていた。どうも僕はあの子に嫌われているんだよなぁ、と自嘲気味に笑う。吹雪は「どうしてだろう」ではなく「仕方ないか」と続けて、そのあとに「僕はこんなにきみのことが好きなのにね」と言って撫でるように俺の髪に少し触れた。

 とはいえ、お気に入りのワインボトルがリビングテーブルの上ですべて空っぽになっているのを見たときは、さすがの彼もしょんぼりを通り越して泣きそうな顔になった。時刻は夜の九時を回っていて、早朝から出たっきりでようやく帰宅してすぐさま目にしたのがこの惨状では当たり前だ。吹雪は自分を落ち着かせるようにひとつ深呼吸をして、そうやって涙を引っ込めると、今度こそ悲しみの中に怒りと悔しさを滲ませた。いつものソファで丸まって寝息を立てている優介の、アルコールで赤く染まったほっぺたを無言でぎゅうっと捻りあげる。優介はすぐさま目を覚ました。
「い、った! 痛い! なにをするんだよいきなり!」
「僕のほうが聞きたいよ! なんだってきみはこうやって人のモノを勝手に飲み食いするんだ! ああもう、これはね優介、このお酒は、こんなふうにジョッキで一度に飲んでしまって良いようなものじゃないんだよ……! あーあ、あーあー、なんでこんなことするのかなぁ! 優介のバカ! 大バカ! 飲みたいならちゃんとそう言ってくれれば、一番おいしい飲み方を教えてあげられたのに!」
「耳元で騒ぐなよ、うるさいなぁ。酒なんてどう飲んだっていっしょだろう? 大事に抱えてるくらいなら、さっさと飲みほしてしまったほうが早いじゃないか」
「きみはなにも分かっちゃいない!」
 そんなふうに吹雪と優介が会話を交わすのは珍しいので、俺はすこし離れてその口論を眺めている。優介は基本的に吹雪の言葉に返事をしないからこれは本当に貴重な出来ごとだったし、吹雪が他人に向かって声を荒げる姿だって、そう滅多に見られるものじゃない。
 俺がリビングを覗いた時点でとうに飲み干されていたそれらはけっこうな高級品で、これは今度こそ注意ですませるわけにはいかないなと思っていたけれど、吹雪の反応はそれ以上だった。彼は「ああ」だの「もう」だの感情のままに声を発したかと思うと、唐突に「藤原、ちょっと優介見といて」と告げて家を飛び出してしまう。一時間もしないうちに帰ってきた吹雪の手には優介がからにしてしまったのと同じ銘柄のワインがあって、彼はすでに眠たげな優介を無理やりテーブルに着かせると、素早くワイングラスとバケットにチーズまで用意した。
「きみがちゃんと謝るまで、今夜は寝ずに飲ませるからね」
 優介はうんざりしたようすで、けれど吹雪の気迫に押されてちびちびと飲みはじめ、結局吹雪に謝ることはしなかったけれど俺にだけこっそり「おいしい」と言った。その短いひと言の前部分にはきっと、《ひとりで飲むより》という言葉が入るはずで、その省略されてしまった個所のことを思いながら俺はそれに同意する。

* * *

 そんな優介のようすについて話しをすると、丸藤は呆れた顔で「まるで反抗期の子どもだな」と言った。
 相談したいことがあるんだ、と電話で呼び出したところ、丸藤は思ったより迅速にマンションまでやってきてくれた。吹雪よりもうワンランクくらい多忙であるはずの彼は、わざわざ仕事の合間を縫って駆けつけて、手土産にとドーナツまで用意してくれていた。前回の埋め合わせも兼ねて、ということで、だから吹雪の言った『亮は僕らより仕事のほうがだいじ』というようなことは、やっぱり勿論ありえなかったのだった。その吹雪はというと、ちょうど取材が重なっていて今日は留守だったけれど。
 そうやってうちまで赴いてきてくれた丸藤は、玄関を抜けてリビングに入ってきてその視線の先に優介の姿を認めた瞬間に、手にしていたドーナツを袋ごと床へと落下させた。彼は真顔で硬直していて、俺と優介はふたりそろって「あああ……!」と声をあげながらドーナツの救出に向かうはめになる。丸藤の土産が衝撃に耐えうるドーナツでよかった。これがケーキだったら大変なことになるところだった。
 ひととおりの話を聞いた丸藤は、俺と優介とを交互に見比べて、「これはもう十代向けの案件じゃないのか」ともっともなことを言う。「俺にどうこうできるとは思えんが」
「べつにどうこうしてもらおうと思ったわけじゃないんだ。ただちょっと、見ておいてほしくて」
 と、となりでそっぽを向いてドーナツを食べている優介を見やる。彼はまるで丸藤のことなんて眼に入っていませんというふうに、ただゆっくりと咀嚼を繰り返していた。なにせ優介の存在といったら不可思議としか言いようがなく、もしかしたら彼の姿は俺と吹雪にしか見えていないなんてこともありえるんじゃないかと思っていた俺は、だから、丸藤の反応にちょっとだけ安堵する。十代向けの案件、と言われると、たしかにそのとおりだなとも思えた。その十代がいったいいまどこでなにをしているのか、俺に知るすべはなかったけれど。
 もっとも、俺は優介をどこかへ――たとえばダークネスや、あるいは、もっと別の悲しい闇のどこかへ、退けてしまいたいわけでは決してないのだ。けれど、だったらどうしたいのか、どうすべきかなのかと問われると、俺にはちょっとわからない。優介は俺自身だ。俺は俺をどうしたいんだろう?
 自分の分を食べきってしまった優介は、しばらくのあいだ吹雪のカレードーナツを恨めしそうに見つめていたかと思うと、唐突にここにはもう用なしだというふうに立ちあがっていつものソファに戻ってゆく。膝を抱えて座り込んで、リモコンでテレビの電源を入れた。メジャーなプロリーグでのデュエルが流れている。彼はそれを無言で眺める。
「あれはいつもあんな調子なのか?」
「ううん、俺とふたりだと、もう少し眼を合わせたり喋ったりしてくれるんだけど……」
 優介の丸藤への態度は、吹雪へのそれと大差なかった。そもそも丸藤は直接優介に向けて話しかけることをしなかったし、優介の方も、たとえ声をかけられたところでそれらすべてを無視しただろう。まるで相手なんて最初から存在しないみたいに、優介は極力口を閉ざす。どうしてそんなふうなのかと、問いかける必要なんてなかった。答えは決まっている。
 ゴミだからだ。彼にとって、自分に向けられる感情も自分が向かうべき世界も、すべてが取るに足らないゴミくずだからだ。いずれ自分のことを忘れてしまうようなものに、目を合わせたり言葉を返したりするなど無意味だからだ。
 テレビから吹雪の声が聞こえる。それと同時に優介はリモコンに手を伸ばして、ぶつりと電源を落としてしまう。丸藤はそれをどこか遠い場所を眺めるみたいに見やって、それからもう一度、あれもいつものことか? と聞いてきた。俺は頷く。
「……吹雪はどうしている?」
「…………」
 吹雪はいつもどおりだった。
 優介、優介となにかと連呼しては彼を構い、無視され、僕にもごはん作ってよ、と催促して、やっぱり無視されて、しょんぼりして、それでもめげずにまた優介優介と繰り返しながら彼に近づいて行って無視された。
「優介は僕のことが嫌いなんだね」「…………」「僕はきみが好きだよ」「…………」「優介」「…………」「きみともう一度話がしたい」「…………」「ねぇ、優介」「うるさい」「…………」「おまえの声なんて聞きたくない」
 そんなことを何度も何度も繰り返して、それに疲れたら吹雪は俺のとなりに戻ってくる。まただめだった、と苦笑する。
 吹雪をそうさせているのは、たぶん、未練だとか後悔だとか贖罪だとか、そういう本来ならどこへもっていくことも出来なかったはずの感情なんだろうと、俺は思う。だからそうやって、なにかと優介とコミュニケーションを取りたがる吹雪を受け入れることに抵抗はなかった。優介の冷たい態度に申しわけなく思うこともなかったし、吹雪を応援しようという気も起きなかった。ただ吹雪がなにか、過去のいろんなものごとに折り合いをつけられるのなら、何度だって「優介」と名を呼べばいいと思う。
 丸藤は俺の話に、これといってなにか意見を言うことはしなかった。「お前たちの好きにすればいい」と、投げやりともとれるような言葉だけをやさしく残して、忙しい彼はまた雑踏に帰ってゆく。新たなリーグを立ち上げるために、未来へ向けて、やるべきことは山積みだと充実した表情を浮かべて。
 帰り際、玄関先で丸藤はふとつぶやいた。
「あれがお前の内側から出てきたものなら、戻るべきはダークネスやそういう闇の世界ではなく、お前自身の中なんだろうな」
 吹雪によろしく、と静かに告げて、彼は帰って行った。俺はそれをぼんやりと見送って、リビングに戻る。ソファの上では優介が延々と流されるデュエルをなんともなしに眺めている。彼はいつだってテレビやDVDでデュエルの模様を流し見ていたけれど、そういえば、自分でカードに触れることはしなかった。ときどき行われる彼の一人遊びは知恵の輪やチェスやルービックキューブで、デュエルモンスターズに関わるものを弄っているところを見たことがない。

 優介、と俺が呼ぶと、彼はちらりとこちらを見た。なに、と返事をする。彼と一体一で向き合うことで、はたしてなにかの答えを得ることができるだろうか。
 デュエルをしようか、と出かかった言葉を、けれど寸前で飲みこんで、俺はなんでもないと言って部屋に戻った。その先には彼を駆逐する結果しか残らないだろうと、なぜか確信的にそう思った。
 夜、ときどき優介は俺の部屋にやってくる。
 広いベッドにふたりで並んで横になると、まるで本当に仲の良い双子のように見えるのだろうなと他人事のように思う。俺と彼はおなじ心臓を共有している。おなじ脳を共有している。ひとつの布団のなかで、自分とともに眠るのはひどく自然な行為だ。
 薄暗がりの中で、優介は「頭が痛い」とか「気分が悪い」と呻くような声で言う。そのたびに俺は彼の頭を撫でたり、胸や背をさすったりしてやる。優介はその手を受け入れたけれど、声音は変わらず低く呪うように「ここにいたくない」と漏らした。「……かえりたい」
 どこへ、と俺は聞かない。聞くことができない。灯りの落ちた部屋のなかで、夜の気配の満ちた空間で、俺は優介と向き合ってその両目を覗きこんでいる。俺と同じ顔をした彼は、硬く張りつめた嫌悪を孕んで、こんな未来はいらないと言う。忘れてしまえばいいのに、と吐き捨てる。
「……吹雪は、俺のことを忘れたりしないよ」
 吹雪だけじゃない。俺が大切に思うひとたちはみんな、俺がその気持ちを抱える限り、忘れてしまわない限り、だれも俺のことを忘れたりなんかしない。優介はその言葉を聞いて、ふっと身体の力を抜く。光りの少ない部屋のなかで、彼の紫の目だけがほのかに色をまとっていた。ふたつのそれを悲しげに揺らして、優介は「わかっている」と言った。
「だからお前は、俺のことを追いだしたんだろう?」
「…………」
「俺のことを忘れてしまうのは吹雪じゃない。お前だよ、優介」
 俺が返答に迷っているうちに、優介は寝がえりをうってこちらに背を向けてしまう。しばらくもしないうちに寝息が聞こえてきて、それが安らかで規則正しいものであることを確認してから、ゆっくりと息を吐いた。自分自身のものとは思えないくらいに薄っぺらくて頼りない背中。それを見つめていることが次第に苦しくなってきて、ぎゅうと瞼を閉じる。優介、と声に出さず呼びかけてみる。優介、優介。
 藤原優介。
 過去はなにも返事をしない。俺はそっと目を開けて、横たわる優介の背中に手を伸ばした。それに躊躇いが含まれなかったといえば嘘になるけれど、どうしてもそうせずにいられなかった。自分の身体を抱きしめると、思った以上にあたたかくて、俺はすこしびっくりする。優介は身じろぎもしないで俺の腕の中におさまっていた。
 ずっと、一晩中ずっと、このままこうしてひっついていれば、彼は再び俺のなかに戻らないだろうか。
 思ったけれど、同時に、それはありえないことだとも気付いている。俺は彼がこわいのだ。忘れてしまいたいわけではない、消してしまおうだなんて思っていない。それでも、俺は優介を拒んでいる。
 どうしてだろう。
《僕らの大好きな人たちがみんなしあわせでいられる未来が来る》
 吹雪はそう言ったのに。俺もそれを信じたのに。彼は藤原優介に、《きみが好きだよ》と、何度だってそう告げるのに。

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2010-12-28