不可視の足音

「見つけた」と確かに僕は言ったのだけれど、はたして空き部屋の隅で膝を抱えて蹲っている藤原はというと、まるで恐ろしい獣を前に死んだふりを決め込んだちいさな子どもみたいなふうでひどく置き物めいていて、目の前の彼が本当に藤原優介なのか実際のところ僕にはあまり自信がなかった。
 朝から行方をくらませていた彼は授業をサボってずっとここで丸まっていたのだろうか。じっと、じっと、ほんの僅かでも身動ぎをすれば得体の知れない何者かに発見され捕食されてしまうかのように、それを心から恐れるように、彼は顔を伏せてただじっとしていて、正直に言うとその姿に僕は少しギクリとしたのだけれど、それと同時に安堵したのだ。瞬間的に何者だかわからない気配を纏っていたそれは、けれどたしかに藤原だ。藤原優介。僕は確認して確信して、胸をなでおろす。よかった、見つけた。
 もう随分使われていないらしい、物置部屋と呼ばれても差し支えなさそうな室内はどことなく埃っぽい。くすんだ窓から入り込んでくる真昼の陽の光はぼんやりと軽減されていて、ばかみたいに陽気な今日の天気を拒絶するように色を落としていた。空気がちらちらと微かに輝いている。鬱蒼とした森の奥に光が届ききらないのに似ている。
 藤原はほんとうに石像かなにかのように微塵も動かなくて、ちゃんと呼吸しているのかな、と不安に思った僕は彼に近づいて顔を覗きこもうとした。それと同時に、重たげなまぶたがゆっくりと開く。藤原のむらさき色の両目が億劫そうに僕を見る。
「なんだ、吹雪か」
「なんだとは酷いなぁ、心配して探しにきたのにさ」
 僕は少し笑って藤原のとなりに腰をおろす。硬い床は思ったより冷たく、触れた指先がかすかに土埃を拾った。せっかくの白い制服がよごれてしまうなぁ、と他人ごとのように考えていると、藤原がぽつりとつぶやいた。「サボり魔」
「どっちが」僕はきみを追いかけてきたのに。「まったく、きみは日ごろ真面目なくせに、どうしてそうなんの脈絡もなくいなくなるかなぁ。部屋にいるのかと思っていたら声をかけても出てこないし、心配するじゃないか。こんなところでいったいなにをしてるんだい?」
 藤原はもう一度身を固めるみたいに膝を抱え直して、それから、べつになにも、と答えになってない返事をした。淡々と、抑揚のない無表情な声で。
「ただ、眠くて……」
「また? ダメだよ、ちゃんと夜眠らないと」
「わかってる。わかってるけど、でも、夜のほうが頭は冴えるんだから仕方ない」
 僕の目から見れば、彼の頭脳はもう日中にも充分冴えわたっているように思うのだけど、どうやら深夜となるとそれはさらに加速するらしい。そうやってどこまでも自身の能力を追求し閉塞する不器用な天才は、くあぁ、とまるで子どもみたいなかわいらしい欠伸をちいさく漏らして、再びまぶたを降ろしてしまった。
「肩、貸したげようか」
「……ん」
 藤原は少しだけ逡巡するような素振りを見せてから、かすかに頷いて僕の左肩に頭を乗せて身体を預けてくる。きっと朝も昼もろくに食べてやしないんだろう。藤原は軽くて、うすっぺらくて、儚げというよりはただ頼りないといったふうだった。さっき彼を見つけたときに僕はその姿を置き物のようだと思ったけれど、それでいうのならこの身体は陶器ではなくまるで発泡スチロールだ。ただそこに置かれているだけで危うげで、なにもしなくたって勝手にバランスを崩して倒れてしまいそう。
 こんなにも覚束ない形をどうにか保つ、彼の恐れる獣はどこにいるのだろうと僕は考える。それは夜の帳に乗じて彼のすぐそばにまで近づきその眠りを妨げるもののようで、けれど同時に、たとえば友人たちの笑い声が軽やかに響く教室だとか、或いは背に触れたこの壁のすぐ向こうだとか、へたをすればこの静かな午後の部屋のなかにさえ、容易く侵入しその不可視の姿をくゆらせながら闊歩しているのかもしれなかった。僕にはまったく感じられないその気配を藤原は敏感に察していつも怯えて震えている。真実の死を与えられることのないよう、仮想の死を選んで過ごす。
 遠目には呼吸さえ怪しく固まっていた藤原は、けれど僕の肩に触れることでその存在をきちんと安定させているように見えた。すうすうと、規則正しい呼吸がゆったりと届く。藤原はどうやら本当に眠ってしまったようで、僕もここでこのまま寝てしまおうかなと目を閉じる。薄汚れた部屋の中は間違ったって昼寝に最適な環境とは言えなかったけれど、ひみつの隠れ家みたいでちょっとだけわくわくする。藤原と並んで眠ることで僕は彼の見ている夢と同じものが見られれば良いと思う。それがどんなに物悲しく、彼に死の真似ごとを強要するような残酷なものであろうと、僕はその足音を聞きたい。
 けれど僕がまどろみに身を任せるより先に、吹雪、と藤原が言った。僕を呼んだ。
 それは存外ハッキリとした声で放られたから、夢うつつに口から零れただけのうわごととは違ったから、つまり彼は本当のところまったく眠ってなどいなかったのだろう。僕は驚き、目を丸め、随分と素っ頓狂な声で「なに?」と返した。僕の肩に頭を押し付けたままの藤原の顔は見えない。
 吹雪、ともう一度彼は言った。僕は頷く。うん、と口にする。
「……吹雪」
「なんだい?」
 藤原はやっぱりなにか見えない化物にでも怯えるみたいに身を強張らせていて、その姿をやはり僕は死んだふりをした幼子のようだと思う。恐いものが自分を見過ごし、いずれどこか遠くへ去ってしまうのを待っている小さな子ども。
 藤原は乾いた喉を湿らせるように少し間を置いて、それから言った。吹雪は、と、僕の名前を、けれど僕の顔を見ることなく口にした。
「吹雪は、いつも俺のことを好きだって言うけど……」
「ん、そうだね」
 いままで数え切れないほど彼に送ってきた告白はそうだ、きっと『いつも』と表現するのに適している。僕は首肯した。次の言葉を探すように藤原は口を噤んでいた。
「……でも、俺はとてもつまらない人間で、本当に簡単なことも出来なくて、ダメなんだ。自分のことばっかりで。そのくせ、好きって言われるのは嫌いじゃない」
「うん」
「卑怯だって分かってる。怒られても仕方ないと思う。けど」
 じっと、なにかをやり過ごすみたいに藤原はじっと、じっと固まって、顔を伏せたままでそんなことを言う。なにも卑怯なんかじゃないのに、誰も彼を責めたり、怒ったりなんかしないのに、それでも自分の罪を恥じるみたいに藤原は言う。ごめん、とつぶやく。
「恐いんだ。いま、すごく恐い。俺はこのままで良いんだろうか、それがわからない。ここでこうやってしゃがみこんで、俯いていてもなにも変わらないのに、どこにいたって不安がつきまとう。これを、この気持ちを、拭いさるための努力でさえ、俺はまだ迷ってる。自分で決めたことなのに。……吹雪」
 藤原はぎゅうといっそう力を込めて膝を抱えて、かすかに震えてさえいるようだった。硬い声で、喉の奥に鋭い刃物を突き立てるように、か細い悲鳴を上げるように彼は言った。吹雪、と僕に語りかけた。
「俺が俺を捨ててしまっても吹雪は、それでも俺のことを好きだと思える?」
 その言葉の意味を僕は知らない。彼が恐れている獣の名を、僕は知らないのだ。
 薄暗がりのなかに微かに入り込む陽の光は藤原の身体を撫でるみたいに照らしていて、そこにまとわりついた悲しげな気配ばかり浮き上がらせるくせに彼の表情そのものは決して見せようとしない。藤原は顔をあげずにじっと死んだふりを続けていて、僕は彼を守らなければならないと思う。出来ることなら彼を蝕むその不安の正体を見破って、蹴散らしてやろうと、たしかにそう思うのに、僕は藤原が顔をあげて低く悲しい声で闇の名を告げることを恐れてもいる。僕はきっと彼が急に顔を上げてこう言うことに怯えている。《ああ見えないのか感じないのか吹雪それはお前の背後にだってとうに迫っているのに?》
 だから僕は彼がそれを告げるまえに言う。もちろん、と我ながら感心するほど能天気な声でわざとらしく口にする。僕が手にした最大限の希望や優しい言葉や心を尽くした愛情は、すぐさまに僕の不安をかき消すことができる。
「だいじょうぶだよ、藤原。僕はきみが好きだって、そう何度でも言うし、今までもこれからもそれはずっと変わらない。たとえきみがきみを見失っても、僕は変わらずにきみを好きだと言い続けるさ」
 そうやって口にして僕は微笑む。そうだ、だいじょうぶだ。たとえ彼が自分自身を捨ててしまったとしても、僕は必ずそれを拾い上げて、きちんと掬いあげてみせる。だからだいじょうぶ。
「僕はずっと、ずっときみのことが好きだよ。それは絶対に変わらない」
 藤原はそれを聞いて、ふと肩の力を抜いたように思えた。それと同時に彼は僕に身を預けるのをやめて、ほうと息を吐いた。心から安心したみたいに、少し笑んだようだった。藤原がそうやって微笑むのは随分と久しぶりに見るような気がした。ああそうか、と吐息みたいな声で彼は言う。ああ、良かった、だいじょうぶだ、これで、平気だ、ようやく、これで俺は。
 藤原は今度こそ顔をあげて僕と目をあわせた。むらさき色のきれいな瞳がふたつ、ひどく静謐な色を湛えて並んでいた。僕がそれに見惚れている間に藤原は身体を伸ばして僕のほうへといっそう寄って、それからそっと唇を重ねた。とても短いキスだった。音も立てずに離れていった柔らかな感触に僕がびっくりしていると、彼はおかしそうにちょっとだけ目元を緩めて、ゆっくりとした動作で立ち上がった。危うげに直立する彼の身体は、かすんだ窓からそれでも微かに届いていたはずの陽の光を断った。床が冷たい。僕は座り込んだままで藤原を見上げている。
 藤原はうっすらと笑みを浮かべていた。だいじょうぶだ、と彼は言った。これでだいじょうぶだ。そう、誰か大切なひとに繰り返し言い聞かせるように呟いていた。
「ありがとう吹雪。……これで、もう恐くない」
 彼は死んだふりをするのをやめたのだと僕は気付いた。それは、けれど、徘徊する獣を見据え、立ち向かう決意を固めたものとは、おそらく違うように思う。どうか見逃して欲しいと祈るばかりでぎゅっと閉じていた目を開き、眼前に横たわる悲しみや苦しみと対峙するために立ちあがったのとは、きっと、まったく違うものだ。たたかう覚悟を決めたのでも、向き合うための力を得たのでもない。藤原は、
「俺はたぶん、ずっと、吹雪がそう言ってくれるのを待ってたんだ」
 ―-藤原は、ぞっとするくらいきれいな目をして僕を見ていた。
 灰色に濁った深い沼の淵に彼は立っている。誰も手を差し伸べることのできない場所に、ひとりきりで立っている。僕が彼に好きだと告げることでおそらくその足場は保たれている。だから声を途切れさせてはならないはずなのに、僕は藤原のその美しいふたつの視線に喉を奪われて冷たい床に座り込んだままでいた。
 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴って、藤原はそれをかくれんぼの終了の合図とするようだった。そろそろ戻ろうかな、と彼はあっさりすぎるほど簡単な声音で告げる。「行こう、吹雪」
 どこへ、彼はどこへ、行くつもりなのだろう。思いながら僕は、けれど、その声が僕を求めていてくれることに安堵する。「俺はもう行くよ」ではなく、「いっしょに行こう」と僕を招いてくれていることに感謝する。ああ、と僕は頷いて立ち上がって藤原のとなりに立ってそれから、彼の顔を覗きこんでもう一度あのきれいな両目をきちんと見つめて好きだよと言った。
 藤原はちょっとまごつくみたいに視線をうろうろさせていた。ん、と彼はかすかに頷いたようだった。遠い、遠い場所から壊れた喉を無理やり振り絞って叫ぶみたいに掠れた声で、俺も、と言った。

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2011-02-19