01 藤原優介
「頭がいたい」と吹雪が言うから、俺は少しだけ顔を上げて、「そう」と返した。
丸一日分の授業を終えた脳は、疲労を覚えるよりむしろ活性化している。睡眠によって一度リセットされた思考力が授業を通して覚醒し、俺の頭が上手く回転しだすのはいつだって午後、下手をすれば放課後からのことだった。ちなみにピークは深夜。日中に静かに蓄積させた知識と情報は、持ち主が寝静まってはじめて意識を得る子どものおもちゃの如く、夜の気配にはしゃぎ出す。自分でもちょっと感心するほどの真価を発揮できるのが草木も眠る丑三つ時というのは、はたしてデュエリストとしてはいまひとつ有益ではないようにも思えたけれど、藤原優介という人間の本質がそれであるというのなら仕方ない。眠りは脳を一度殺す。ようやく踊りだした学びの使徒を惜しむあまり、睡眠時間が極端に少なくなるのも致命的といえばそうだったけれど、誰だって個性を捨てることなど出来はしないのだ。
そもそも学習というものは学生にとっていわば労働であり、義務だ。どのタイミングでスイッチが入ろうと入るまいと、世間的にはあまり関係がないはずだった。俺は俺の労働意欲、もとい学習意欲を好意的に解釈し、今夜もせっせと知識の貯蓄に専念する。しながら、考える。
のんべんだらりと机に伏して、おざなりに開いた教材に目を通すことさえせず、しまいには「頭がいたい」などと言いだした吹雪に、はたしてその義務をまっとうしようという意識はあるのだろうか。
……だいたい、いっしょに宿題をしようと言ってきたのは吹雪のほうなのだ。たしかに今週末までに提出しないといけない課題はたくさんあって、どちらかといえばギリギリまで溜め込むタイプの彼にしては、わりあい早く動き出したものだと、俺はちょっと感心したくらいだった。見直したと言っても良い。
わからない箇所があるから教えてもらえないかと訪ねて来られて、いつになく勉学への意欲を見せる友人の頼みを無下にする理由なんてなかった。プライベートで他人と机を並べるのはあまり得意じゃないけど、それでも、吹雪ならと思って了承したのだ。しぶしぶじゃない。どちらかというと、喜んで歓迎するくらいの気持ちで、部屋に招き入れたのに。
それが、いざ向き合って教材を広げてみれば、あっという間にこれだ。
あまりの事態に思わず嘆息する。目の前でやる気なく伸びている友人は、非常に、それはもう、とんでもなくやる気に欠けた声音で、
「だるい……」
そう言って、今度こそ広げていた教材を閉じてしまった。
「なんか寒気もしてきた。熱があるのかもしれない……」
「…………」
あっそ、としか言いようのない発言だった。あるいは、あまりに幼稚な現実逃避に、お前は小学生か! と声高にツッコミでも入れてやれば良いんだろうか? そういうノリの良い返答を俺に求めるのは間違っている。軽くはしゃぎあうようなやりとりがしたいのなら、もっと別のクラスメイトの部屋に行ってほしかった。というか、勉強しないなら出て行ってほしかった。普段なら別に気にしないけれど、『いっしょにお勉強』という名目でこの部屋に入ってきた以上、きちんとまっとうしてもらわなければ座りが悪い。課題は本当にたくさんあるのだ。俺はさっさとこれらを終わらせて、自分のための勉強がしたい。
けれどじっとりと睨むこっちの視線をものともせず、吹雪はいつにない渋面を作ると、あろうことか緩慢な動作で身体を起こし、のそのそとベッドにあがりこみはじめた。もちろんここは俺の部屋なので、そこにあるのは俺のベッドである。ぎょっとする持ち主にかまわず、吹雪は「ちょっと休憩する……」と実に気だるげな声で告げて、あっさりとまぶたを降ろしてしまう。
部屋のあるじにまったく許可を求めないその奔放ぶりに、俺はいっそ感銘を受ける思いさえした。吹雪の言動の制限のなさに関して、今さらどうこうと文句を垂れるつもりはなかったし、「吹雪らしい」と言ってしまえばそれですべて片がつく。それが人得と言えるようなものなのかはさておき、ともかくその程度には、俺だって天上院吹雪の持つ個性に慣れているつもりだ。
手前に置かれたままの、吹雪のレポート用紙を覗きこむ。
その紙の上に広がった景色を簡潔に比喩表現すると、新雪に覆われた高原のようだった。名前が吹雪だからといって、勉学においてまでこんな真っ白さを追及する必要なんてどこにもないだろうに、律儀なことだと思う。気分屋のきらいのある吹雪は、たしかにデュエルにせよ勉強にせよコンディションにひどく波があるけれど、なるほど、どうやら今夜はとくに重症のようだった。
人のベッドにあおむけで寝転がった吹雪は、ときおり寝がえりを打つように身体の向きを変えつつ、ううう、と情けない声をあげる。自分から敵前逃亡を選んだわりに、放っておかれるのは寂しいのだろう。ピシャリと叱ってやれれば良いんだろうけど、俺はそういうのはあんまり得意じゃない。
「僕はもうダメかもしれないよ、藤原……」
「あー、はいはい」あまりに芝居がかった弱音に、思わず苦笑する。「わかったから、戻って来て続きやりなよ。そこで寝てるだけなら、俺、絶対に手伝わないからね」
広いベッドの上を吹雪はごろりと転がって、むにゃむにゃとなにか日本語とは思えない言葉を放ち、それから、今日はもう無理、と言った。
「無理って……」
「だって教科書見てたら気分悪くなってきたし……このまま勉強してたら死ぬかもしれない……」
そんなことを言う吹雪の声は涙ぐんでさえいて、あまりの言い分に俺はちょっと驚く。どうやら思った以上にひどい状態にあるらしい。自分からやって来ておいて、ここまでやる気を削がれるほど難しい課題ではないはずなのに。
やめにするなら別に構わないけど、それならもう部屋に帰ってほしい。俺にだってまだやるべきことは残っているし、自分のベッドで友人がサボっているその真横で勉学に励むのはなかなかに苦痛だ。率直に言うと邪魔だった。
そんな俺の訴えに、いったいどの口が言うか、吹雪は「えええ」と批難の声をあげてみせた。
「冷たいなぁ、もっと心配してよ」
本当に熱っぽいんだよぉ、と甘えた声でうそぶいて、吹雪はごろごろとベッドを転がる。シーツがしわになるからやめてほしかったけれど、なんだか段々面倒になってきて、俺は無視を決め込んだ。大丈夫、ベッドのほうにさえ意識をやらなければ、そう大した弊害じゃない。巨大な野菜かなにかを安置していると思えば気にならないし、サイズだけなら普段そばにいるオネストのほうがはるかに勝っている。
薄暮に覆われた窓の向こう。半日以上の準備体操を終えて充分あたたまった俺の学習意欲が、吹雪程度に負けるわけもない。
* * *
そうやって、小一時間ほどが経ったろうか。
そう思いふと顔をあげ、時計を確認するともう二十二時を回っていた。小一時間どころか、五時間近く机にかじりついていたらしい。しまった、と慌てるけれどもう遅い。寮の夕食の時間はとっくに過ぎて、まっとうな寮生はじきに就寝の準備に入るころだった。
ああ、やってしまった。よくあることとはいえ、またやってしまった。同じ過ちを何度も何度も繰り返すなんて、学習しないにもほどがある。きりよくまとまったレポートは我ながら会心の出来で、それに関しての充足感に胸は満たされていたけれど胃は空っぽだった。普段ならオネストが声をかけてくれるのだけれど(そしてその気遣いでさえ、俺の耳に届かないことはまれにあるのだけれど)今日に限っては客人がいた。俺が部屋に人を招いているときに、甲斐甲斐しいオネストはあまり水を差す真似をしない。
そしてその客人はというと、五時間前と変わらず、俺のベッドで眠りこけていた。
俺は一瞬呆れて、それから、おかしなことに気付く。吹雪はたしかに眠っているけれど、その姿はどうも食事さえ忘れて爆睡しているというよりは、意識を失ってぐったりしているような、そんなふうに見えるのだ。かすかに苦しげな寝息が聞こえる。ふと嫌な予感を覚えて、俺は静かに立ち上がり吹雪の側に寄った。仰向けで眠っている、友人の頬は紅潮して、そこに浮かんだ表情はひどく苦しげだった。
「……吹雪?」
おそるおそる声をかけるけれど反応はない。少しためらいつつ、汗ばんだ額にそっと手を触れると、冗談のように熱かった。
一瞬思考が停止して、なにをどうするべきかさっぱり分からなくなった。頭がいたい、寒気がする、熱っぽい――確かに吹雪はそう言って、それで、実際に涙ぐんでさえいた。あの時点ではどうだったのだろう、彼の顔色や、その体調不良を訴える声の切実さや、そういったものを俺はまったく意識していなかった。どうせただの現実逃避だろうと、適当にあしらっていたから。
「……っ!」
急に怖くなって息を飲み、俺は慌てて部屋に備えられた洗面所に走り、タオルを取りだして水に浸した。ひどく気が焦って、上手く水気を絞ることが出来ない。四苦八苦しながらもどうにか冷やしたタオルを手に、吹雪の額へそっと当てると、その急速な冷却に気付いたか彼は小さく唸った。うっすらと目がひらく。
「……つめたい。びっくりした……」
そう言う声は思ったより明確で、ちょっとだけ安堵する。どうやら意識ははっきりしているらしく、吹雪は億劫そうに何度か瞬きすると、自身の発熱を確信したようにひとつ頷き、「だるい……」とぼんやりとした熱っぽい声で言った。
「吹雪あの、ごめん、こんなに体調悪いなんて思わなくて、俺、もっと早く気付いてれば良かったのに……」
「んん、こっちこそごめん。やっちゃったなぁ……いま何時?」
「もうすぐ十時半」
吹雪はすこし驚いたみたいだった。「あちゃー」と、口にも表情にも出してから、彼はあまり似合わないしかめっつらを作った。どうやら頭が痛むらしい。正確な体温はわからないけれど、手で触れて充分に感知できるほどだから、けっこうな高熱のはずだ。
「風邪かな」
「かなぁ……。ううう、今さらなんだけど、このままベッド借りてて良い? こんな時間じゃ保健室空いてるわけないし、部屋まで動けそうにもないよ」
特待生寮に保健用の設備はない。校舎まで移動するにはこの建物は辺境に位置しすぎたし、吹雪は身体を起こすのも辛いようだった。こくこくと頷いた俺に、吹雪はふにゃっと気が抜けたみたいな表情を浮かべた。少し気だるげだけれど、どうしようもないほど辛いわけではなさそうで、俺は胸を撫で下ろす。
「なにか、欲しいものとかある?」
「えー、うーん、おなかすいたぁ」
言われ、改めて時計を見る。じっと見つめてみたところで針は逆回転しないし、おなかも膨れることはなかった。当然だ。
食欲があるのは好ましいけれど、あいにく俺の部屋にはろくな食べ物がない。栄養調整食品は単純なカロリー摂取には便利だけれど、病人食に向いているとは言い難かった。もっと食べやすくて消化に良いものがほしい。あと薬も。
誰か風邪薬を持っていそうな生徒は、と考えながら、吹雪の額に置いたタオルを取り上げてもう一度冷やしに洗面所に向かう。と、彼は何故かふふっと嬉しそうに笑った。
「な、なに。なにか変?」
「いや、ううん、なんでもないけど、なんだかラッキーだなと思って」
熱を出して倒れておいて、いったいなにがラッキーなものか。そう思うけれど、吹雪は相変わらずふにゃふにゃと、まるで熱のせいで頬が溶けはじめてしまったみたいな顔をしている。微笑んでいるのか、或いは熱に浮かされているのか判断はつきにくかったけれど、吹雪のことだからおそらく前者なのだろう。
「こんなふうに甘やかして貰えるのって、貴重だからさ。ひとり部屋だと寝るときに誰かそばにいるのだって珍しいし、藤原が僕のためにあくせくして看病してくれてると思うと、たまにはね、病気も悪くないんじゃないかなぁって」
「……まぁ、熱が出てるときくらいは、なんでも言ってくれて良いけどさ」
いや、吹雪の場合は普段からやりたい放題で周囲に甘やかされているような気もするけど、今は突き詰めて訴える場面ではないのだろう。満足そうな吹雪はまるで軽い幼児返りでも起したみたいに無邪気で、俺もその気持ちは分からないではない。ひとりで眠るのは寂しい。調子を崩した夜はとくに。
隣室の生徒から薬とスポーツドリンクを譲ってもらい、熱さましのタオルをまた新しく取り替えてから、吹雪を残して俺はひとり部屋を出た。さて、患者の御所望はなによりまず食事なのだ。困ったことに。
俺はすこし考えて、結局、食堂へと向かうことにする。遅れてきた者に夕食はもう残されていないだろうけれど、多少の食材と炊事場くらいは貸してもらえるはずだった。
オネストが心配そうにこちらを窺っている。だいじょうぶ、と俺は心の中で言った。料理なんてほとんどしたことはないけど、お粥くらいは俺にだって作れる。
……はずだ。たぶん。