コンコン、と合宿施設の部屋の扉が控えめにノックされた丁度その時、久森はとても忙しかった。
本日十五時までのあいだ、曜日ステージの素材ドロップ率がなんと五倍なのである。念願かなって先日引くことができたSSRカードの育成に欠かせない進化素材は高難易度ステージでしか入手できず、その上ドロップの確率は非常に低い。たとえ五倍でもそうたやすく落ちてきてはくれないだろうが、とはいえ、五倍は五倍だ。望みをかけるには十分である。このところヒーロー活動で慌ただしく、キャンペーンの告知に今の今まで気づいていなかったことを久森は大いに悔いていたが、しかし十五時まであと一時間ある。一時間あれば、えーっと、体力回復アイテムを使ったとして……、
コンコンコン!
「…………うう」
聞こえないふりも出来ないではないが、居留守を使うのはさすがに少々気が咎める。「ちょ、ちょっと、ちょっとだけ待ってください!」と、ほとんどひとりごとサイズの声量で返事をして、久森はやむなくスマートフォンを手放した。訓練のない真昼間に、わざわざ自分の部屋を訪ねてきたのだ。なにか、やむにやまれぬ用事があるのに違いない。
「はーい……」と、ガッカリ声で開けた扉の向こうには、小柄な少年が立っている。
「わ、よかった、いた。こんにちは、久森さん」と、三津木慎は言ってぺこりと頭を下げた。「あの、ちょっとだけ良いですか?」
思いがけない来客に、久森は目を丸めた。これはいよいよなにかあったに違いないぞ、という予感が働くのと同時に、三津木の向こうからさらにふたりの少年が顔を出す。
「お休みのところすみません、じつはお願いがあって」
「久森センパイ助けて~」
「佐海くんと倫理くんも? え、なに、どうしたの?」
仲良しの一年生たちだ。これといって珍しい組み合わせというわけではないが、しかし久森に用事があるとは思えないメンバーだった。自分でいうのもなんだが、後輩の面倒をよく見るようなタイプでは決してないのだ。頼りにされる覚えがない。
「えーっと、どこから話すべきかな……」「指揮官さんに映画のディスクを借りたんです。それで、みんなで談話室で見ようと思ったんですけど」「あそこのテレビ無駄に大きいから、迫力あって良いよねー」「そうそう。ソーク製の最新型だから、めちゃくちゃ画質良いしな」「センタースピーカーもRTDシリーズの新型を使ってるもんね。浅桐さんが配線しなおしたから、たぶん今ある国内産のオーディオでもトップレベルの設備だと思うよ」「あはは、なにを思ってヒーローの寝泊まりする施設にプロ級の音響設備整えちゃったんだろうね!」
ああ、だからあそこのテレビはあんなにも映画館っぽい音が響くのか。久森は納得したが、それにしても一年生たちは自由にしゃべりすぎだった。間違いなく先輩として敬われていないな、と思いつつ、久森は悲しむでもなくただただ置き去りのゲームのことを考える。部屋に戻っちゃだめだろうか。
「それでですね、矢後さんが……」
「あ、やっぱりそれ系だよね」久森に用事があるとすれば、矢後や風雲児高校の不良たち周りの苦情に決まっている。「矢後さんがどうかしたの?」
「矢後さんが、談話室でずーっと寝てるんです」
なるほど、よくある平和なクレームだ。
「なんだ、そんなことか。どうせ映画の音くらいじゃ起きないから、気にしなくて良いよ」
「普段は俺らも気にしないんですけど、ちょっと今日はさすがに……」
「なんだか、機嫌が悪いみたいなんです」そう言って三津木は困ったふうに微笑むが、もともと大人しい気質の後輩からより控えめな笑みを寄せられるのは非常に心苦しい。気を使って言葉を濁してくれているのが丸わかりである。
「健全な男子高校生に聞かせるにはあまりにおぞましい罵詈雑言の数々を浴びせられて、ボクら慌てて逃げてきたんだからね。あれはもう一種のパワハラだよ。優良組織にあるまじき人権侵害だよ」
「いや、かなり男子高校生らしいボキャブラリーの、極めて健全な罵倒だっただろ……」
罵倒に健全とか不健全とかあるのだろうか。久森には疑問だったが、どのみち、矢後に後輩たちへの配慮など期待するだけ無駄である。機嫌が悪ければ、そりゃあ適当にあしらうくらいはするだろう。「……機嫌ねぇ……」
「あんな感じの矢後さん、はじめて見たのでびっくりして。久森さんならって思って頼りに来ちゃったんですけど、……一緒に来て貰えませんか?」
「ううーん、僕と矢後さんは同じ学校の先輩後輩ってだけで、僕が特別に矢後さんの取り扱いが上手ってわけではないんだけど……」
というか正直、部屋に戻ってゲームがしたい。
そんな本音を、しかし後輩たちに直接伝える大胆さなど持ち合わせているわけもない。並んだ六つの眼差しにじっと見つめられ、久森はやむなく肩を落とした。
「……だからまあ、あんまり期待しないでね」
* * *
談話室の机の下で、矢後は目を閉じてじっとしている。
久森は一年生たちと並んで、そのようすを遠くから観察していた。たしかに、遠目から見てもめちゃくちゃに機嫌が悪そうだ。表情までは伺えないが、なんとなく、彼の周りだけ空気がピリピリしていて近寄りがたい。
「そういや、矢後さんってよく机の下で寝てるよな」「うん。不思議だよね、窮屈じゃないのかなぁ」「いやいや、あれはバリケードでしょ。ああやって全身を潜めて、寝ている間に攻撃されても身を守れるようにしてるんだよ。分かるなぁ、共感できちゃうなぁ」
相変わらず自由におしゃべりしている一年生たちをその場に置いて、久森はひとり机に近づいた。身をかがめ、話しかけてみる。「矢後さーん? あの、生きてますか?」
「…………」
返事がない。
が、呼吸はしている。バリケードの甲斐あってどうやら死んではいないらしい。最悪の事態ではないことに、久森はひとまず安堵した。
「……うーん、どうしよっかな」と、小さく呟き、とりあえず三津木たちのもとに戻る。せっかく久森が頑張ってこわいヤンキーに話しかけて来たというのに、彼らはさして羨望の視線を送るでもなく普通に「どうでしたか?」と訊ねてきた。まあこんなことで憧れてほしいわけではないので別に良い。
「ん、そうだね、すーっごく機嫌悪そう。だから、一度みんな部屋に戻っててくれる? 僕がなだめて、どこかへ移動させておくから、映画はそのあとで見ると良いよ」
「へー」と、ふいに北村倫理が少しだけ目を細めた。「大変そうだし、ボクらも手伝おうか?」
この子はときどきこういう顔をするから怖いなぁ、と久森は思う。矢後に恨みがあるわけでもないだろうに、そのくせなんとなく、冗談じゃすまないような危害を及ぼしてきそうに感じてしまう。とても協力を仰ぐ気にはならなかった。「遠慮しとくよ」と言うと、北村は素直に「はーい」と返してにっこり笑う。
「じゃ、ヤンキーの先輩のことはヤンキーの先輩に任せて、ボクらは部屋で青春トークでもして時間を潰そうぜっ!」
「えっ、ま、待って! ヤンキーの先輩って誰のこと!?」
せめてヤンキー校の先輩と言ってほしい。それはそれでどうかと思うが、ヤンキーそのもの扱いされるよりははるかにマシだ。久森の慌てっぷりに笑い声を上げる北村と、「失礼だろ」と顔をしかめる佐海と、そのようすをちょっとだけ楽しそうに見ている三津木。三人は揃って自分たちの部屋へと去っていく。
その背中を見送りながら、仲良しだなぁ、と久森は少しだけ羨ましく思う。入る高校さえ違えば、自分にも彼らのように気兼ねなく遊べる友だちが出来ていたかもしれない。まあ、仮にそんな友だちがいたとしても、今日はドロップ率五倍だからひとりでゲームをしていただろうけど。
「さて、と」
仲睦まじいはしゃぎ声が遠のくのを待ってから、久森は再び机へと近づき、床に転がる矢後を覗き込んだ。
「──一年生たち、行っちゃいましたけど。どうします? 救急車、呼んだ方が良いですか?」
「……」矢後のまぶたが、重たげにわずかに開く。暗い色の目がなにかを確認するふうにきょろりと動き、それからまた、気だるげにまぶたの裏にしまわれた。低く、小さな声でぼそりと言う。「……薬」
「『薬』だけじゃ、僕には分かんないですよ。飲むやつですか? 吸う方?」
「……」
「救急車呼びますからね」
と、言ったは良いがスマートフォンは部屋に置いてきてしまっていた。さて人を呼ぶのが早いか、部屋までスマホを取りに戻るほうが早いか。そう考えて立ち上がろうとした久森を、矢後が引き止めた。
「動くな」地の底を這うようなくぐもった声で彼は言う。「殺すぞ」
「…………」
まさかこんなサスペンスドラマみたいな呼び止められ方をする人生になるとは。謎の感銘を覚えつつも、久森は眉をひそめた。言葉のわりに覇気のない矢後の両目を、しっかりと見据えながら口を開く。
「あのですねえ、具合が悪いからって人に当たるのやめてください。年下の子たちまで脅して、いったいどうしたいんですか?」
「……脅してねえし」
「罵倒されたって言ってましたよ」
「頭の上でぎゃあぎゃあ騒ぐから、『うるせえからよそでやれ』って言っただけだ」
「そこに『調子が悪いから静かにしてね』のニュアンスをちょっとでも加えていたら、僕じゃなくて慎くんたちが救急車呼んでくれてたはずですけどね!」
久森が言い放つのと同時に、ヒュウ、と矢後の喉が音を鳴らした。もちろん、久森の指摘にどきりとして息をのんだ音などではなく、彼の肉体の欠陥部分が軋んだ音だ。矢後はそのまま身を丸めてゴホゴホと激しく咳き込んで、それから、なにごともなかったかのように「クソが」と毒づく。
「……立てますか? 薬、僕じゃどこにあるか分からないので、部屋まで送るくらいしか出来ないですけど」
「……」
「あの、一応言っておくと、慎くんたちに矢後さん移動させとくねって約束しちゃったんで、立てないのならやっぱり救急車を呼ぶことになります」
どっちか決めてください、と言う自分の声は、もしかするとちょっと冷たいのかもしれない。久森は思ったが、だからといって、勝手に救急車を呼ぶと殺すとか言われるのだ。選んでもらうより他にない。
のろのろと机の下から出てきた矢後はいつもよりヘアバンドがずれ落ちていて、顔がまったく窺えないほどではないものの表情はほとんど隠されている。顔色が悪い。はたして手を貸すべきだろうか、と、久森は右手を伸ばそうとして結局引っ込めたが、その瞬間に、矢後の身体がずるりと横に滑った。
べしゃりと勢いよく彼はすっころび、久森の度肝を抜いた。目に見えないなにかが矢後の片足を引っ張って無理やり転ばせたとしか思えないぶっ倒れ方だったが、きれいに清掃された床の上にはもちろんなにもない。一度引いた右手を、久森は結局差し出すことになった。「だ、だいじょうぶですか……?」
「ウッゼェ……」と、突っ伏したままで矢後は吐き捨てる。「ウゼェしダセェ。イライラする。おい久森」
「は、はい」
「手ぇ貸せ」
言われたとおり、久森は矢後の身体を支えて立たせた。ずいぶん熱があるらしく、触れた部分がじっとりと汗ばんでいる。「いや、もう絶対救急車でしょ」
「うるさい。ゲホッ……呼んだら殴る」
「はぁ」こんな状態の人に殴られても……と、一瞬思うが、どんな状態であろうと矢後の拳が当たったら久森などひとたまりもない。
半ば引きずるように矢後を支えて歩いていると、耳元でヒューヒューと変な音が聞こえてくる。矢後の身体のどこかにたぶん大きな穴が空いていて、そこから冷たい風が吹き抜けて彼の喉から少しずつ漏れ出ているのだと久森は思う。何度か大きな手術もしていると聞いたけれど、結局穴は塞がらないままで、だからこうやって時々、久森の耳にまで届いてくるのだ。もう、こればっかりはどうしようもない。いくら未来を視ることができても、まったく、手も足も出ない。
部屋に戻ると、矢後は無造作に自分の鞄に手をつっこみ、そこから袋に入った大量の錠剤を慣れた手つきで選びとって、水も含まずに口の中に放り込む。矢後の身体のなんらかの部分を救ってくれているはずの薬剤たちは、しかしこれといって感謝されることもなくあのヒューヒューと吹く穴の中に消えていった。健気な薬たちの奮闘に久森はなんとなく同情するような気持ちになるが、矢後は構うことなく流れ作業のように小型の吸入器に手を伸ばし、なんらかの手法で彼の肉体を補強してくれているはずのなにかを手早く吸ってポイと捨てた。
「あー……だる」
そう言って、矢後は倒れこむようにベッドに横たわる。ずれたヘアバンドはすでに彼の目元を完全に覆っていた。
「本当に病院行かなくて良いんですか? 救急車が嫌なら、先生にこっちに来て貰うとか。主治医の人じゃなくても、ALIVEで医者くらい手配して貰えますよ」
「いらない、邪魔。呼んだら泣かす」
殺す、殴るの次は泣かすと来た。段々と軟化しているということは、おそらく、医者を呼ぶくらいはしたほうが良いのだろう。久森は呆れつつ、最後通告とばかりに語気を強めて言った。
「指揮官さんには報告しますからね。それで、どうするか判断してもらいます」
「…………」
無視したのか、それとも眠ってしまっただけか。矢後の返事はなかったが、久森はそれを了承と受け取った。
間もなくして聞こえはじめた矢後の寝息は思いのほか穏やかだ。聞きなれた呼吸のリズムに、久森はようやく肩の力を抜く。まったくもう、と呟く声には、「変なところで手のかかる人だなあ」という気持ちと、「どうして僕がこんなことを」という気持ちと、それからちょっとだけ、「本当に大丈夫かなあ」という気持ちが混ざっている。もちろん、大丈夫じゃなかったら困るのだけれど。
念のために久森は矢後の顔を覗き込んだが、見てみたところで容体なんて分かるはずもない。まあ、ちゃんと息をしているので大丈夫なのだろう。おそらく。自己満足と理解しつつも久森は納得し、きびすを返した。こんな程度のことで起きるわけがないと分かっているものの、音を立てないよう静かに矢後の部屋のドアを閉める。
自分の部屋に戻ってスマホを手に取ると、すぐにチャットで三津木たちに連絡をして、それから、指揮官に矢後の状態のことを伝える。間髪入れず、医者を連れてすぐ施設に行くと返信があった。
時計を見ると、十五時までまだ十分弱残っている。
「……なんか、もうやる気なくなっちゃったなぁ」
人の意欲とはかくも儚いものなのか。ほんの少し前までたしかに溢れていたやる気の行方を捜索しつつ、久森は、わずかに残った惰性で再度ゲームにログインすることにした。なんといってもやはり五倍は捨てがたいのだ。せめて今ある体力だけでも使い切ろうと思ってステージに挑むと、テテテテン、と軽やかな音を立てて表示されたドロップ一覧の中に、目当てのレアアイテムが含まれている。
「…………」
無言でスクリーンショットを撮ってから、久森は机に突っ伏した。やはり物欲センサーは侮りがたい。本来なら諸手を挙げて喜びたいはずの瞬間なのに、なぜか虚しさと、それから罪悪感のようなものに襲われて、盛大なため息が出た。矢後さんのせいだ、とふいに思ったので、腹いせに撮れたてのスクリーンショットを矢後とのチャットルームに貼り付けて送信する。
眠っている矢後からの返事はもちろんないが、起きあがった彼が通知を見て、なにこれ、と真顔で呟く姿を想像すると、なんとなくだが気が晴れた。