ノット・デッド・ヒーローズ

 矢後勇成は授業をサボって出かけた散歩道でだれも出現を予測していなかった大型イーターに偶然遭遇し、ヒーローらしく果敢に戦ったが、しかし力及ばずひとりきりで死ぬ。
 彼の目が最後に映したのは自身を引き裂くために振り下ろされた邪悪で巨大な鋭い爪で、それを睨めあげる眼差しはギラギラとした殺意に満ちているが、しかし苦々しげに歪められてもいる。諦念はないが、苦渋がある。ここまでか、と己の運命をあざ笑うかのようにかすかに口の端を上げてはいるものの、それでいて、決してこの終幕を迎え入れることはするまいという明確な生への執着がそこには浮かび上がっている。だから久森は、その一瞬を目前にしながらたしかに安堵したのだ。ああ、だいじょうぶだ、と思った。こんな程度のことでこの男が死ぬわけがない、という、理由のない楽観を信じた。
 けれど矢後勇成は死んだ。
 薄い腹は切り開かれ、四肢はふきとび、あの狂気すら帯びた力強い双眸はしかし巨大な影に踏みつぶされて散った。どこになにがあったかすら分からない。あまりに無惨な光景に、久森は溢れそうになる叫び声をぐっと堪えた。いま自分がすべきことはそれではない。悲鳴をあげようと、嗚咽を零そうと、目の前の出来事がどうにかなるわけではないのだ。
 せり上がる絶望を振り切って、久森は深く息を吸った。拳をにぎり、全身に軽く力をこめるとパチンとスイッチが切れるような感覚がある。目を覚ます。死色の景色は消え去って、まぶたを開いた向こうには、自分の部屋の天井が広がっている。
 それをたしかめてようやく、久森はわずかに肩の力を抜いた。全身がまるで締め付けられたかのように強張って、それでいて、ひんやりとした嫌な汗をかいている。
 まだ暗い自室の中で、久森は意識して丁寧に呼吸を繰り返した。しながら、珍しいなぁ、とまるで他人ごとのように小さく呟く。未来を視るこの力との付き合いは長い。使いこなせているかどうかはさておき、ある程度のコントロールを覚えてからは、こんなふうに夢に混じって無意識のうちに視ることなんて滅多になかったのだけれど。
「……というか、また死ぬのか、あの人は」
 ベッドから身を起こしながら、うーん、と久森は首をひねる。矢後の死を視る機会は多い。突然の雷に打たれて死ぬこともあれば、崖から落ちて死ぬこともあるし、コンビニ強盗に刺されて死んだこともあった。けれどそのたびになんだかんだで彼は生還し(コンビニ強盗は返り討ちにした)まるでなにごともなかったかのように今日も風雲児高校のトップとして君臨している。信じがたい量の薬を毎日ジャラジャラと口に放り込み、なんだかよく分からない機器で身体が軋むのをごまかしながら、不良たちとの楽しい喧嘩に明け暮れているのだ。久森にはとうてい理解できない生きざまだが、だからといって、「そんな生活してるんですから、そりゃあいつ死んだって仕方ないですよね!」と切り捨ててしまうわけにもいかない。さすがにそれは、人としてまずい。
 久森はため息をついた。憂鬱だ。だいたい、久森の能力は直接的に触れたものの未来がちょっと視える程度のものなのだ。望みもしないのに一方的に見せつけてくるような図々しい《未来》は、「視る」と決めて視た《未来》よりも厄介で、強力で、避けることが難しい。
 つまり、矢後の生死はさておいても、近いうちに強力な大型イーターが出現することは間違いないのだった。ため息も出るというものだ。

* * *

 一般的に、「あなたもうすぐ死にますよ」と宣言された人間の反応はというと、笑うか怯えるかキレるか、あるいはそのすべてか、といったところなのだが、矢後はそのどれでもなく「へえ」と味気ない相づちを返す。「いつ?」
 今日は天気がよくないせいか、彼は休み時間になっても教室から動かずに自分の机で昼寝をしていた。もちろん学校は眠るための場所ではないのだけれど、天下の矢後勇成にそんな常識を指摘する者など校内に存在するはずもなく、久森もわざわざ口にして非難することはない。存外、気ままにぶらぶらと出かけてしまうタイプの人なので、きちんと登校していることに感謝したくらいである。
 はたしてその「いつ?」という問いかけが、自身の死ぬ瞬間を訊ねているのだという自覚は彼にあるのだろうか。一切の動揺を見せないその姿に、しかし頼もしさより呆れを覚えながら、久森は「分かりません」と返した。
「なんだ、そりゃ」
「視ようと思って視たわけじゃないので。今日中なのは間違いないと思うんですけど、実際、まったくの的外れって可能性もあります」
「フーン。まあ、お前が視たってんなら、そのうち出るんだろ。場所は?」
「西口公園の裏の敷地です。いま売りに出されてる」
「ああ、あそこか」
 悪くねえな、と零す彼がなにをもってその評価を下したのか、久森にはさっぱり分からない。いや、じつを言うとちゃんと分かっているのだが、あんまり理解したくない。
「あのぉ、矢後さん? 心なしか楽しそうなところ申し訳ないんですけど、今回は一旦ストップしてくださいね。予測されていない大型が出るかもしれないわけですから、ALIVEに報告して、ちゃんと指示を受けてから行動しましょう」
「……ハァ?」
 見慣れた三白眼がぎろりと動いた。低い声でそんなふう威圧されるとさすがにちょっと怖いのだが、ビビっていては話が前に進まない。「死ぬかもしれないんですよ」
「死なねーよ」
「そりゃ矢後さんはそうかもしれませんけど。それでも、回避できる危険は避けるべきです」
 偶然に覗き見ただけの《未来》とはいえ、この力はできれば、そういうことのために使いたい。久森は至極まっとうなことを主張しているつもりだったが、しかしとうの矢後はというと、それを鼻で笑って返してみせた。「ハッ、回避してどうすんだよ。ヒーロー?」
「……」
 久森は頭を抱えたくなった。こんな似合わない冗談を口にするほど矢後は──もうじきに死ぬ予定の彼はいま、ものすごくテンションがハイなのだ。なぜかというと、まだ誰も目をつけていない、強くてでっかい相手と全力で喧嘩できるかもしれないからで、そしてそのでっかいのをひとりじめするために、他の連中にはこのことを内緒にしておけと言っているのだ。どう考えてもバカで、無謀で野蛮で、子どもじみていて協調性がなくって思慮が浅くて、ムチャクチャだ。
 けれど、ALIVEに報告する前に矢後へ知らせにきた時点で、久森だっておんなじなのだ。こうなることが分かっていてやっている。
 どうせ、矢後があの大型と対峙する《未来》そのものは変えられない。変えることに意味があるとも思えなかった。
「……ヒーローはそんな凶悪な顔で笑いませんよ」
 久森が言うと、矢後は「違いねぇな」と小さく呟き、喉の奥でくつくつと笑う。
「っし、じゃあさっそく行ってみるか。お前も来いよ、久森」
「はあ……いや、まっっったく行きたくないんですけど、でもそういう選択肢ってないですよね、やっぱり」
 どんな理由で戦うにしても、久森だって一応ヒーローなのだ。矢後の交戦中、周囲に被害が広がらないよう防ぐ役目くらいはしないわけにいかなかった。空地とはいえ、公園の裏手なのだから人通りはある。矢後が好きに暴れ回るためにも、久森の力は必要になってくるはずだった。
 なにより久森が彼とともに戦うことによって、あの《未来》は少しでも変えられるはずなのだ。
 少なくとも、矢後勇成がひとりきりで戦い、ひとりきりで死ぬという結末だけは避けられる。
 いざというときのために通信機だけは隠し持ち、久森は矢後のわずかに斜めうしろを歩く。隣というにはちょっとだけ離れていて、でも従っているというよりは、やっぱり一緒に歩いているのだと思う。この距離感に慣れてきてしまっていることに、驚きはするが嫌悪はなかった。
 道中ひそかに覗き見た矢後の横顔は、いつもどおり気だるげだが明らかに楽しそうだ。とてもではないけれど、死地へと向かう人間の浮かべる表情とは思えない。それがなんだか無邪気にすら思えてきたので、久森は、ああ、死んでほしくないな、死ななければいいのにな、と、彼と自分の無事をこっそり祈ったのであった。

* * *

 さて、結論からいうと、矢後勇成は死ななかった。
 久森が視たとおり、ALIVEの予測していなかった地区に大型のイーターは忽然と現れ、唯一その出現を知っていた風雲児高校のヒーローたちによって撃破された。交戦のさなか、たしかにイーターの巨大な爪は矢後の腹を抉ったが、しかしどういうわけだか彼は生きていた。腹部から大量出血しつつ愉しそうに大鎌をふるう矢後の姿はトラウマものであったが、さいわい近隣住民の避難は速やかにすませていたため、そのスプラッタな現場を目撃したのは久森だけだ。久森がひとり、肝を冷やしただけですんだ。
「今度こそほんとにダメかと思いましたよ……」
 いつもの八草中央病院。救急車で運び込まれて即手術を施された矢後は、いまはもう、病室のベッドの上ですやすやと眠っている。安らかな寝顔だ。重傷を負って気を失っているのだか、ただただ昼寝をしているだけなのだか、まったく見分けがつかない。
 眠る矢後のベッドの脇で、久森はぶつぶつとひとりごとを漏らしていた。もちろん、お見舞いにやって来たというわけではない。久森自身もそれなりにそれなりの大怪我を負ったため、同じ病室に入院しているだけだ。
「せっかくだから抜け出さないように見張っててほしいって、いくらなんでもこの怪我で病院抜けだすのはありえないでしょ……。矢後さん、普段どんだけ看護師さんに迷惑かけてるんですか」
 つい問いかけるような口調になるが、べつに、眠っている相手に本気で返事を求めているわけではない。仮に起きていたとしてもおそらく無視されるだけなので、これは本当にただのひとりごとだ。矢後に比べれば軽傷とはいえ、入院をすれば授業に遅れるし、出席日数にも響く。文句くらい言いたくなるというものである。
「あのあと、ALIVEの人たちにめちゃくちゃ叱られたんですよ、入手した情報の隠蔽はやめなさいって。僕だけいろいろ言われるのは腑に落ちないので、あとで絶対に矢後さんにもお説教されてもらいますからね」
 はあ、と久森は嘆息した。ここ最近、ため息の数が増えたように感じるのは気のせいではないはずだった。「叱られるし、身体は痛いし、散々だ」
 誰にともなく呟いているうちに、ふと、矢後の両目が開いた。彼は間髪入れずにむくりと起き上がり、「ぶつくさうるせえな」と低く唸るように言う。「昼寝の邪魔だ」
「ああ、はいはい。おはようございます。よく眠れたようでなによりですよ」
「……?」
「いや、一回文句を挟んでから『ここはどこだ?』みたいな顔するのやめてください。病院ですよ、病院。覚えてますか?」
「ああ……」
 肯定のような、感嘆のような、なんだかあいまいな返事を返しながら、矢後はぼさっと宙を見つめた。それから思い出したかのように久森の顔を見て、久森が着用している入院服を見て、その下に巻かれた包帯を見て、さらに自分の腕や胸や腹がそれ以上の惨事になっているのを確認する。
 非常に深刻な表情で、彼は言った。
「……腹減った」
 数時間前にちょっと内臓が零れたかもしれない人間の発言とは思えなかった。
 呆れを通り越していっそ面白い。傷口が痛むので久森は笑わなかったが、しかし、少しは笑っても良いシーンだったように思う。何にせよイーターは倒したのだし、民間人に被害はなかったのだし、矢後も久森も生きている。
 ベッドから抜け出してコンビニへ向かおうとする矢後を引き止めながら、久森はなんとなく、こういうのも悪くないなあとちょっとだけ考える。ちょっとだけ、自分が正しいことをしているような気分になってしまう。けれど勿論、こんなことを繰り返していては命がいくつあっても足りないので、出来るだけ早いうちに、この野蛮で無謀でムチャクチャなヒーローのそばを離れようとも思っている。絶対に、絶対に、この環境から逃げ出すぞ、といつだって考えているのだ。
 とはいえ、今はこの重症患者が病院を抜け出さないように見張るという役目がある。少なくとももうしばらくの間はここにいることになりそうで、久森は人知れず、やっぱりため息をついたのだった。

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