4 灰原ユウヤ
たとえば、プリンがふたつあったとして。
ユウヤがそれを「食べてもいいの?」と訊ねると、彼は決まって、どこか悲しそうな顔をする。もしかしたら、そこに浮かぶの悲しいのとは少し違う感情なのかもしれないけれど、ユウヤにはうまく判別することは難しかった。
少なくとも、嬉しそうな顔はしない。
ユウヤが自分の行動を他人に委ねようとすることを、彼はすこし、いやがるようだった。食事をとること、口を開くこと、立ち上がること、目を覚ますことさえ、今までの灰原ユウヤには許可が必要だったので、なにひとつの指示も言い渡されることのない生活そのものが、ユウヤにとっては不可解だった。それが通常の感覚でないということには気づいていたけれど、従属することに慣れきった意識は、たやすく他者に従うことを選ぶ。命令が下ることを待ってしまう。
そのくらい自分で判断しろと、そんなふうに突き放すことこそなかったけれど、彼がユウヤのその状態を悲しんでいる(哀れんでいる、のかもしれない。よくわからない)ことは理解できたので、目が覚めてすぐの灰原ユウヤが自身に課した命題のひとつめは、自分のことは自分で決める、というものだった。
たとえばプリンがふたつあったとして。
はたしてこれは本当に自分に与えられたものなのか、食べても構わないものなのか、それを問うてはいけない。
「一緒に食べよう、ジンくん」
そう伝えると彼は安心したふうに目元を緩める。ユウヤはジンの、その顔が好きだった。嬉しそう、という言葉しか、いまのユウヤには見つけられないけれど、彼のその表情には本当は、もっとたくさんの、いろんな気持ちが詰まっているのに違いなかった。それはたぶん、優しさだとか、慈しみだとか、喜びだとか、あと、愛しさだとか、そういった温かなものに満ちている。ユウヤはそれを感じ取るたびに、この気持ちに応えたい、と思う。ジンの安堵を見つけるたび、ここにいていいんだ、と実感する。
ここ、というのは、この世界のことだ。彼の暮らす世界。みんながすごしている世界。
灰原ユウヤをこの場所へと繋ぎとめる、そのための力は、海道ジンだけが持っていた。
魔術師は言った。「LBXが嫌いかい?」
夕暮れの、一歩手前の時間だった。普段ならとっくにジンが訪ねてくるころだというのに、今日に限っていつまでもノックの音は届かなくて、ユウヤはひとり、ぼんやりと窓の向こうを見ていた。病練へ向けて歩いてくる、彼の姿を探していた。
病室はいつも静かだ。その清閑に紛れこむように、ふいに、不安はユウヤの心を掠めてゆく。ひとりが恐ろしいわけではない。彼が自分を忘れて、どこかへ行ってしまうようなことだって起こり得ない。ならばなにがそんなに不安なのか、それを自分に問いかけると、決まってユウヤの気持ちは落ち着いた。たとえ今日彼が来なかったとしても、明日には、あるいは明後日には、必ず来てくれるに違いない。ユウヤにはそれを信じることが出来た。それだけで、不安の影は四散する。
けれど同時に、待っているばかりの自分を情けなくも思う。守られてばかりではだめなのだ、と考える。思索に耽る時間だけは山のようにあったので、ユウヤはいつもこの病室で、さまざまなことを考えてすごしていた。
それは自分自身のことであり、ジンのことであり、そして未来のことだった。これからのことを思うたびに、辿りつく結論はいつだって同じだ。
行動を。
起こさなければ、ならない。
いつまでもこうやって、いてはいけない。
肉体はすでに人としての機能を取り戻していた。もとより、ユウヤが長く昏睡状態にあった直接の原因は、身体的な負荷によるものではない。長く意識を失っていたことで衰弱の傾向こそあったが、そもそも人の能力を超越する存在として手を施されてきたユウヤに、疲弊や憔悴の感覚はひどく遠かった。人並みを外れた回復力に医者は目を剥いて、あとは心の問題ですね、とすこし難しい顔をする。なるほど灰原ユウヤの心というものは、どうやらまだ少し、傷んだままでいるらしいのだ。
ユウヤの魂は、ときどき、こんな身体なんて必要ないと逃げ出すみたいに、頭のてっぺんからひゅうんっとどこかへ飛んでいこうとする。足元からぞくぞくと寒気が広がって、なんにも出来なくなってしまう。それはとても恐ろしいことだ。ここにいられなくなってしまうということだ。それが分かっているはずなのに、ユウヤには自分を律することが出来ない。
ジンが駆けよってくれて、名前を呼んでくれてはじめて、この心は安定する。いまにはじまったことではない。ユウヤのこの九年、長い長い孤独の日々を、支えてくれていたのはずっとジンだった。彼とすごした、病室でのあの幼い記憶だけだった。おぼろげな思い出に縋っていたあの頃とは違い、いまは、現実に彼がそばにいてくれる。それでもこの傷は治らないだなんて、と、ユウヤは驚いてさえいた。どうしてだろう、と疑問に思い、首を捻っている。この心になにが足りないのだ、と考える。
ユウヤは最近、目を閉じては、病室を出るその日を夢想する。想像の中の自分は、自らの意思で動き、判断し、人と関わり、笑ったり怒ったりしながら暮らしている。その隣にはジンがいて、灰原ユウヤという命の在り方を喜んでくれる。急に泣き出すようなこともない、なにに怯えることも、卑屈に背を丸めることもない自分自身。ユウヤはそれになりたかった。一刻も早く、ならなければいけないとさえ、思っていた。
そんなユウヤの前に突然現れた、魔術師の言葉はそれこそ魔法のようだった。
「LBXが嫌いかい?」
ジンの友人を名乗るその男は、脈絡なく病室に乗り込んで手土産を押し付けると、なんだかひどく偉そうな態度でそう言い放った。
そのあまりの横暴にユウヤは戸惑ったが、問いかけにはどうにか、こくりとひとつ頷いた。嫌いだ、と断言すれば、いくらでも嫌いになれると思った。LBXさえなければ、と、そんなふうに考えるのは短慮にすぎると理解していたが、それでも、現状になにかの非を求めるのなら、灰原ユウヤが憎しみを向ける対象としてLBXは妥当であるように思えた。
魔術師は、ふうん、と興味深げに呟いた。値踏みするかのような目でじろじろと見られて、ユウヤはしかし、別段不快な気分にはならなかった。
「じゃあもう二度と、バトルする気はないってことか」
「…………バトル……」
「嫌いなんだろう?」
ユウヤは思案した。嫌いだ、と答えてはみたものの、本当にそれが嫌悪の感情なのかどうかさえ、いまひとつよくわからなかった。
判断ができない。
自分のことなのに。
ユウヤは悲しい気持ちになった。けれどその悲観に身を浸してしまうことは、後退するのと同じであった。ユウヤはゆるゆると首を振り、そして考える。LBXのこと、バトルのことを、こうやって他者と語りあうのははじめてだった。
ユウヤがそれについて思惟することを、ジンは喜ばない気がしたから。
「……ジャッジは、」
と、ユウヤは目覚めてはじめて、その機体の名を口にした。言葉にしてみると、驚くほど軽く、自分の声が耳にまで届いた。ジャッジは。
「……ジャッジは、僕、だったから」
うつむけた顔を少しあげると、魔術師は続きを促すような顔でユウヤを見ていた。ユウヤは息を吸い、そうして吐く。なにも不安に思うことなんてないのだと、自分自身に言い聞かせる。
「僕は自分のことが、嫌いだった。たぶん、そうだったんだと思う。でも今は、ジャッジは壊れてしまって、僕も、一度壊れてしまって、それでも今は、ここにいて良いんだって、言ってくれる人が、いて」
その言葉に報いるのにはどうすればいいのだろう。ユウヤはまだ自分のことで手いっぱいで、いつだって急に不安になるし、感情のコントロールができなくなることだってある。自分のことも分からない。いま目の前にいるこのひとが、何者なのかも知らないままで、そのくせ病室に招き入れてこんな話をしている。きっと、あとでジンに叱られる。
それでも、なにか答えが欲しかった。
このまま持続させるためのものではなく、これから先へ進むための力がユウヤには必要だった。ふいにこの身を捨て去ろうとする、この心を繋ぎとめておくためのなにか。それは彼の問いかけにこそ宿っているような、そんな気がしたのだ。
LBXが嫌いかい?
「……LBXのことは、嫌いなのかもしれない。ジャッジのことも。けど、LBXがなかったら、ジンくんともう一度会うこともきっと、できなかったんだと、思う」
ああ、だめだ。曖昧な言葉ばかりを並べても仕方がないのだ。かもしれない、だとか、だと思う、だとか、そんな回答を求めているわけではない。魔術師の視線は答えを急かすようだった。ユウヤはかぶりを振り、ゆっくりと丁寧に、言葉を選んだ。深く考えすぎてはいけない。もっと素直に、どうすればこの気持ちが落ち着くのか、それを見定めなければ。
ユウヤはまぶたを降ろした。息を吸った。未来の自分を、思い描く理想の先を考えた。僕は、と言った。
「今までのことは、僕にはまだ、分からない。分からないけど、でも、これからの僕は、LBXのことを好きになりたい」
そうやって導き出した言葉は、存外簡単なものだった。好きになること、それ自体もきっと、簡単だ。ユウヤは自分の声を耳で聞きながら、すこしおかしな気分になった。好き嫌いの判断など後回しにしても良いではないかと思う、そんな自分が奇妙で、なんだか面白いなと思った。けれどこれが、いまのユウヤの一番の気持ちなのだ。
一息つき、これでどうだという気持ちで魔術師を見やると、彼はなぜか呆れたような顔をしていた。「べつに俺は、カウンセリングをしにきたわけじゃないんだけどね」と、なんだか勝手なことを言う。
「嫌いじゃないなら、ま、話は早い。こっちだって無理強いしようだなんて考えちゃいないし、アンタの状態次第じゃ、出直すことも想定してたんだけど」
大丈夫そうだね、と彼は言った。なにやらよく分からないが、ユウヤは頷いた。そのようすに魔術師はすこし笑って、するりと、どこからともなく一枚のカードを取り出してみせた。
「死神の逆位置――終わりからの、次へと進む新たな段階。再生を示すカードだ」
「さいせい……」
「いつまでもこんな辛気くさい場所にいるもんじゃないよ、生まれ変われるもんも腐っちまう」
もう少し背筋伸ばしな、と軽く笑い、魔術師はカードをしまった。かわりに、一体のコアスケルトンをユウヤに差し出す。
「…………」
再生、とユウヤはもう一度呟いた。これを手にすることが、退化につながることもあるかもしれないと、頭の隅に警鐘が響く。ユウヤは過去のことが恐ろしい。あの実験の日々が、それがたとえ記憶の中のことであったとしても、よみがえることは恐ろしいのだ。二度と向き合うことなく、目を逸らして逃げ続けることだってきっと出来る。ジンはそれを許してくれるだろう。そんなユウヤでも、彼はきっと居場所を与えてくれる。
それを理解しながら、けれどユウヤは、手を伸ばした。
命令以外でLBXに触れるのは、はじめてのことだった。
ちいさな機体はしんと冷たく、あっけないほど容易く両手に収まってしまう。手のひらに染みるように広がる、慣れ親しんだ感覚にユウヤは背をふるわせた。LBXとはこんなにも小さく、そしてこんなにも軽かったろうか、と思った。
そうしてからふと、これが足りなかったのだと気が付いた。
そこにはユウヤ自身があった。
九年をともにすごした。心のすべてを委ねてきた。たとえそれが他者の手によって埋め込まれたものだとしても、LBXは間違いなく、灰原ユウヤの魂の一部を担っていた。
ユウヤは驚き、立ち竦んだままでそれを見つめていた。苦渋と懐古で胸がいっぱいになって、この世のすべてに焦がれるような気持ちになった。
魔術師はいつの間にか消え去っていた。ユウヤはひとり、病室の窓辺に立って、そうして思考する。取り戻してしまった。もう一度、手に入れてしまった。これでもうきっと、自分の心は二度とこの身を見捨てない。
これがふたつめだ、とユウヤは思った。
たったふたつ。
海道ジンと、LBX、このふたつがあれば、ユウヤは世界と繋がっていられる。
ゼノンの分厚い装甲を、弾けるような淡い光が包み込んだ。
決め手は必殺ファンクションであった。ビビンバードガンから放たれた無数の弾幕により、ジンのために作られたはずのフレームが、彼以外のものに操られ、穿たれる。ユウヤは両目を見開いて、その光景を見ていた。ブレイクオーバーの文字が並ぶ。
負けてしまった。
CCMを片手に、ユウヤはそうっと、息を吐いた。手が震えている。怯えているのでも、まして憤っているのでもない。それでも身体は勝手に震えて、ユウヤの鼓動を逸らせた。身体中がどきどきして、自分の頬が紅潮しているのが分かった。
こんな気持ちになるだなんて、思いもしなかった。
自分はいま、はじめて、本当のLBXバトルを経験したのだ。ユウヤはそれを理解した。今まで何度もLBXを操ってきたけれど、こんなにも無我夢中で、こんなにも胸がざわめくバトルなんて一度だってしたことがなかった。
緊張とも高揚ともつかない、不可思議な気分に困惑するユウヤのその肩に、ジンの手がそっと触れてくる。振り返ると、向けられた眼差しはとても優しいもので、それを見つめ返すことでユウヤの震えは自然と収まった。ほう、とひとつ息を吐く。おつかれさま、とジンが言った。
「……ごめん。せっかくゼノン、貸してもらったのに。勝てなかった」
気にすることはないというふうに、ジンはかすかに首を振る。ユウヤとて、最初から勝てるバトルだなどとは思っていなかった。この三日間、ジンとふたりで話し合い、ユウヤの手になじむようにと機体の調整を繰り返してきたけれど、所詮は付け焼き刃だ。数ヶ月のブランクは簡単には取り戻せない。なによりユウヤが求めたのは、過去の自分が得ていたような完璧な勝利のための技術ではなかった。
再生だ。
そのことを思うと、再び足が震えだした。自分を囲うもののない、広大なこの場所はやはり恐ろしかった。言い渡される言葉に従い、自身を殺して空っぽに生きる、過去の日々は気が触れるような絶望に充ちていたけれど、それらをひどく懐かしく思った。
ここから動きださなければならない。自分の意思で。
ユウヤはCCMを握りしめ、そして、空いた片方の手でゼノンに触れた。強化ダンボールの中から掬い上げると、LBXはやはり、やるせないほどに優しくいまのユウヤを認めてくれる。
「ありがとう、ございました」
ゼノンを抱きしめながら頭を下げると、青年は赤いマスクを脱ぎながら、慌ててDキューブの向こうから駆けよってきた。ぺこぺこと会釈を繰り返し、「こちらこそ、ありがとうございました」とハキハキした声で言う。「楽しかったです、とても!」
言いながら、ユジンは右手を差し出した。
「また、バトルしましょう」
「……また」
その言葉に含まれる『またいつか』に、『いつでも』の意味を見出して、ユウヤはやはり、CCMを持つ手に力を込めた。また、またすぐに、いつか、いつでも、LBXが出来るのだと思うと、恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになって、きゅっと唇を噛みながら彼の手を取る。
やるべきことはすべて終えたとでもいうふうに、魔術師とヒーローの奇妙な二人組は、あっけなく背を向け去って行った。ユウヤにとって今日という日は、このバトルは、間違いなく大きなひとつの転機だったというのに、彼らにはただの日常にすぎないのだ。それはとても素晴らしく、羨ましいことであるように思えた。自分もいつか、そんなふうになりたい。
公園から出てゆく二人にもう一度頭を下げ、ユウヤは笑った。ジンがとても驚いた顔をしていたので、きっとそれは、いまの自分に出来る極上の笑顔だったに違いない。どうだ、とユウヤは胸を張りたい気分であった。どうだ、僕にだってこんな、表情が出せるんだ。
「楽しかった!」
その笑みを浮かべたまま、ジンに向けて声を張る。これ以上に、いまの自分の気持ちを伝える言葉がユウヤには思いつかなかった。楽しかった、とても楽しかった。LBXも、病室の外に出ることも、だれかと向き合いすごすことも、握手を交わすことも笑顔になることも、すべてが楽しかった。
ジンは虚をつかれたような顔をしていた。それから、ユウヤのその言葉を噛みしめるみたいに、静かに目を伏せる。すこし逡巡するように口を開き、また結んでから、彼は言った。一瞬だれのものか分からないくらいにか細い、かすれた声で、僕は、と呟いた。
「……僕はずっと、分からなかった。きみにどう接するのが正しいのか。僕たちの関係が、いったいなんなのか。明確な答えが出せないままで、それでも会いに来ずにはいられなくて、本当はきみがなにを考えて、どう思って僕を迎えてくれているのか、ずっと不安に思っていた」
ぽつぽつと言葉を紡ぐジンは、たしかにその頬に心細く頼りない影を滲ませていた。ユウヤはそれを見つめながら、これが正体か、と思った。彼が時折こちらに向ける、どこか悲しげな視線。それは悲嘆ではなく、まして憐憫などではなく、ただの迷いだった。海道ジンなりの、当惑だったのだ。
彼の言葉は贖罪のようだった。そんなことを口にする必要はないのに、とユウヤは思う。きみがそんなことに罪悪を覚える必要なんてない。それを伝えるべく口を開こうとしたけれど、それより先に、ジンの頬が僅かにほころんだ。それは自嘲なのかもしれなかったけれど、決して投げやりなものでなく、むしろ優しい気持ちを包含した、ユウヤの好きな笑みだった。
「けれど今日、はっきりと分かったことがある」
ジンはかすかに眉尻を下げ、目を細めた。なにかに困ったふうな、切なげとも取れる、やわらかな微笑だった。
「きみは頑張りすぎだ、ユウヤ」
もっとゆっくりしても構わないのに、と、その表情のままでジンは言った。少し、呆れているような気配もあった。
「そんなふうに焦る必要なんてない。少なくとも、僕はそのつもりだった。治療法がないと告げられたとき、何年でも何十年でも、待つ覚悟を決めていた。きみが安心して世界と向き合うことが出来るようになるまで、僕の生涯をかけて償うつもりだったんだ」
「償うだなんて……」
「僕は海道ジンだ」
穏やかな声で、ジンは言った。その名を誇る以上ほかの言葉はいらないと、そう言明するような、柔らかだけれど断言的なもの言いだった。
「きみのために、なにより自分自身のけじめのために、出来ることはなんでもしたい。そう考えていた。たぶん、ただ、それだけだったんだ。むつかしいことじゃない。僕はきみに、もっと緩やかな生を歩んでもらいたかった。これ以上傷つくことのないように、過去のことを思い出さずにすむように。けれどそれは、そんなことをきみは、望まないんだな」
ユウヤは、それに返す答えを迷った。その道を選ぶことは、彼の優しさに反するのかもしれない、という気持ちがあった。ジンに寄り縋ってすごすことはきっと楽だろう。海道の名に守られていれば、夢路を歩くように日々を渡ることが出来る。ジンはそれを許してくれる。きっと、ユウヤが崩折れたときには抱きとめてくれる。
けれどそれでは、同じなのだ。今までと。廃頽の日々、まぶたを閉ざした、からっぽの世界。ユウヤはそれを望まない。
自分がこの先どうなりたいのか、なにを求めるのか、その答えはまだ見つからないけれど。ユウヤはまだ、自分のことが上手に理解できないけれど。
それでも、知りたいことならいくつもあった。ジンのこと、ジンが信頼を置く人々のこと、LBXのこと。灰原ユウヤにはなにも分からない。だから、それらを早く、知りたいと思う。見たいと思う。焦らずにはいられなかった。
「……僕はジンくんに、はやく、追いつきたいんだ。きみと同じ場所に立ちたい。それが出来る僕に、はやくなりたい」
何年も、何十年も、待たせたりはしない。絶対に。
「僕も、きみと同じ世界が見たいんだ」
ジンはユウヤの声を、なにかを吸い込むみたいにして聞いていた。身体のすべてを使って、その言葉の持つ意味を感じ取っているかのようだった。ふいに彼の手が伸びて、ユウヤの抱えていたゼノンに触れる。その意を察して手渡すと、紫暗の機体は自らの意思を主張するかのように、ジンのもとへと帰っていった。LBXが彼の手に戻ったことを、ユウヤは心から嬉しく思った。
ジンはしばらくゼノンを見つめていたけれど、じきに顔を上げて、ユウヤを見た。決意を込めたような強い眼差しは、なによりも海道ジンに相応しいものだった。
「退院については、医師と話し合いながら検討していこう。こればかりは僕に決定権はない。きみ自身が、努力するしかないことだ。そのあとのことは八神さんに相談してみる。きみが生活しやすいように、僕も、出来る限りのことはさせてもらおう」
ジンの言葉に、ユウヤはひとつ、頷いた。ジンはやっぱり少し寂しげに微笑んで、わずかにためらってから、一歩、こちらに近づいた。以前に比べてずいぶんと長くなった、ユウヤの黒い髪に片手を伸ばす。まるで幼い子どもにでもそうするふうに優しく撫でながら、待っているよ、と彼は言った。
「僕はさきに世界を見てくる。だから、はやく追いついてこい。待っているから」
それはたぶん、わかれの言葉だった。旅立ちのためのあいさつだった。ユウヤはやっぱりひとつだけ頷いて、それから思った。いままでのことと、これからのこと。それらをきちんと両手で抱えて、まっすぐ歩いてゆけるだろうか、と考えた。
きっとだいじょうぶ。
すぐに追いついてみせるから。
灰原ユウヤは広い世界のなかにいた。だれに命令されることもなく、自ら選びとった未来を目指していた。これからはずっと、ずっと、この場所で生きてゆく。彼と同じ、この世界で生きてゆく。