1 仙道ダイキ
ゲームセンターを出ると外はもうずいぶんと暗くて、おや、と見上げた空にはちらちらとかすかな星が瞬いていた。
ロマンティックだねぇ、とダイキは思う。こういうほんの小さな、当たり前のものごとをふと見つけてようやく、苛立っていた気持ちがほんのすこしだけ、落ち着く気配を見せるような気がした。
夏は過ぎ、木枯らしの秋が近づいてきている。
季節を実感したのは久しぶりのことだった。なにせ今年は忙しなく、自分でもよく分からないままに世界を滅ぼす悪と戦って、気が付いたら勝っていた。子ども向けのゲームかなにかのような怒涛の日々は、しかし渦中に置かれてみれば案外あっけなく、一連の騒動から数カ月が経過したいまでもダイキは半ばぽかんとしたままで過ごしている。夢のような時間だった、などと少女のようなコメントを残すつもりはない。
どちらかといえば、ダイキにとってそれは幻惑的な経験となった。仙道ダイキには誇りがあったが、それはこの狭い、ミソラ町という世界の中だけに通用するちっぽけなものだったということを理解した。強い相手と戦うことが好きなダイキは、けれど負けることは嫌いで、だったらそれは結局、自分より弱い相手と戦うことを好んでいただけだったのだ。
と、いうことを、思い知った。
この数ヶ月間、そこらじゅうのLBXプレイヤーに片っ端からバトルをふっかけ、散らして回ったすえの結論である。
どいつもこいつも弱かった。ダイキが経験した、あの渦を成すような命がけの戦いからは程遠い、それは子どもの遊びであった。なにを賭けることもなく、なにを失うこともない、ごっこ遊びのようなバトルはそれでも魅力に満ちていたけれど、そうではない。
楽しい、だけでは駄目だ。勝つことは無論大前提だが、相手を倒すだけでは駄目なのだ。そこまでは分かった。それ以上のことは、よく分からなかった。
自分のことなのに、とダイキは苛立つ。己が求めているものが理解出来ないのは腹立たしい。だれに負けたわけでもないのに、なにものかに嘲笑われているような気分になる。奇妙に静かな夜の下、ダイキは無造作にポケットへ両手をつっこみ、いかにも消化不良であるという不服そうな表情を浮かべながら歩きだした。時間も時間であったので、今日はもう家に帰ろうと決めて駅へと向かう。昨夜とは比べ物にならない気温の低さに、ほんとうに、このまま季節は過ぎ行くのだな、と思った。
――あいつらはどうするのだろう。
同じ敵を相手に、同じ戦場に立った。それでも仲間と呼ぶのにはどこかちぐはぐな関係のままの、少年たちのことを思い出す。海道義光の死がおおやけになったことで世間は賑わい、国はかすかに揺らいでいる。この程度のことではなにも変わらないぞと、その巨大さを見つけるかのように、ほんのかすかに。
通い慣れない、知らない街の駅のホームに風が舞い、ダイキは肩をふるわせた。さむっ、と思わず小声でつぶやく。あいつらはどうするのだろう、ともう一度だけ考えた。それから、自分はどうしたいのだろう、と思案する。とりとめのない自問自答。夜気は人をナーバスにさせるものだ。
自動販売機にあたたかな飲み物が置かれているのを見つけ、ダイキはCCMをかざした。電車が来るまではまだ少し時間があったので、真冬に比べれば笑ってしまうほど生ぬるい、けれど初秋には明らかに厳しい寒さを、ちいさな缶コーヒーの熱でやりすごす。
プルトップを引っぱると、うっすらと湯気がたちのぼった。
本当に今夜はよく冷える、と、ダイキはすこし驚きながら口をつけた。舌に絡まったあつい液体は思ったより苦く、すぐに離す。
持て余したちいさな缶をぼんやりと見つめていると、突然、背後に誰かが立った。
「あ、あ、あ、あ、あ、あのっ!」
とんでもないどもり口調で声をかけられて、ダイキは思わず肩を跳ねさせ、それから怪訝に振り返った。ラッシュアワーを外れたホームに人影は少なく、相手はすぐに判別できる。スーツ姿で仁王立ちをし、そこには見たことのない男がひとり、屹然と佇んでいた。
佇んではいたが、しかし、目が泳いでいた。ダイキと視線を合わせることなくおろおろと眼球をさまよわせながら、それでも堂々たる音量で叫ぶ。
「た、たた、た、た、タバコはダメだと思います!」
「…………」
そのすっとんきょうな発言に、ダイキは一瞬思考を失い、それから、ハァ? と眉をひそめた。
「なに、言ってんのさ。アンタ」
「だ、だから、その、未成年の喫煙は法律で禁止されていまして、そ、そのうえ主流煙というものは、つまりタバコの煙はとても身体に! わ、悪いんです! 子どもが吸っちゃダメなんですよ!」
「…………」
挙動不審のていでそれでも声高に言い放つ男を、ダイキは半ば困惑気味の沈黙で見つめ返した。彼の言うのは正論だ。けれどダイキはタバコなど吸っていないし、所持していないし、実をいうと喫煙経験もない。
珍妙な光景をせせら笑うかのように、薄い湯気が手元の缶コーヒーから立ち昇っている。そのようすを視界の端に見つけ、ダイキは「あ」とつぶやいた。「これ?」
言いながら、片手で缶を軽く振る。ゆらりと霞むほのかな白線は、なるほどタバコの煙に見えなくもない。
……見えなくもない、が、ふつうは有り得ない見間違いのはずだ。
ダイキが缶コーヒーを示してみせると、男はようやく視線を留めてこちらを向き、ついでぽっかりと口を開けた。どことなく、公園で餌をついばむ鳩に似ているな、とダイキは思った。豆鉄砲を食らった、という套語があるが、いかにもそんなふうだ。ダイキはあまり鳩が好きではないので(無償で餌を撒いてもらえて当然とする、その態度が腹立たしい)いよいよもって眉をひそめたが、しかし次の瞬間、ハッとした。男の姿には見覚えがあった。
ところどころ奇妙な方向に跳ねた髪。サラリーマンふうの安っぽいスーツ。なによりいかにも空気を読まなさそうなこの声。この口調。
鳥の姿の赤いLBXが頭をよぎる。
「アンタ……」
「ウワァーッ! すみませんすみません! 勘違いでした!」
「っておい、こら、待ちな」
「ぎゃー!」
大慌てで逃げ出そうとする背中を思わず掴むと、男はとたんに悲鳴を上げた。まばらとはいえ、ホームに点在する人影がなにごとかとこちらを見やる。ダイキは舌打ちした。
「うるさいよ。他の客に迷惑だろう」
「うえっ、えっ、ひゅっ、ひゅみまへん……」
このとおりなので許してください、と男は両手を挙げて項垂れた。どうやらまだ気付いていないらしいので、うろうろと逃げ続ける視線を捕まえるべく頭を掴んで顔を突きつける。男はふたたび「ひゃー」と奇妙な声をあげたが、その直後、「あれっ」と言った。
「ん? んんん?」両目を細め、眉もひそめ、まじまじとこちらの顔を見る。「わっ、仙道くんだ!」
たやすく頭突きさえかませそうな至近距離で見つめ、ユジンはようやく、自分が声をかけた相手の正体に気がついたようだった。よもや忘れたとは言わせないつもりであったが、それにしたって随分と間の抜けた再会である。「いやあ、久しぶりですねえ」などと呑気にあいさつしてくるユジンにダイキは呆れたが、どういうわけか今日のユジンは眼鏡をかけていなかったので、仕方がないといえば仕方がないのだろう。これだけ印象が違うのだから、ダイキが気がついたことのほうが褒められるべきだ。
それにしてもこれはひょっとして、実に幸運な巡り合わせなのではないだろうか。
屈辱のアルテミスから早数カ月、あの赤いジャージを求めて幾度となくアキハバラ近辺を散策したものだが、結局再戦の機会に恵まれないままで今日に至っている。チャンスだ、とダイキは思った。偶然にしては出来過ぎている。
「ちょうど良い、付き合いなよ。この辺りにはろくなプレイヤーがいなくてねぇ、鬱憤が溜まっていたところなんだ。アンタには借りがあるし、今度こそ晴らさせてもらうよ」
低く言い放ち、愛機たるナイトメアとDキューブを手のひらに乗せて指し示す。さすがに駅のホームではマナー違反であるし、そもそも寒いが、とにかくバトルだ。意気揚々とCCMを開いたダイキに、しかし、ユジンはきょとんとそれを見つめ、そして言った。
「あの、すみません。今日は無理です」
「……あ?」
なんで、と軽く首を傾げると、ユジンは困ったふうに眉尻を下げた。
「連れてきていないんですよ、ビビンバードXを。最近うちの部署が取引させて頂いている先の重役が、なにやらLBXに苦い思い出があるらしくって。話題にするのはもちろん、社内への持ち込みなんかも全面禁止みたいな風潮になっちゃってるんです。今日は先方での会議があったものですから余計に厳しくって……それに……」
「それに?」
「眼鏡がありません」
「ああ」
どうやらやはりコンタクトを入れているというわけではないらしい。どうしたんだい、それ、と問うと、ユジンはへにゃりと眉尻を下げた。いろいろあって、と頭をかく。ダイキには検討もつかないが、どうやらいろいろあるらしかった。
「本当にすみません」
言って、ぺこりと頭を下げる。その姿はまったくもってただのサラリーマンで、ダイキは少々辟易した気持ちになったが、同時に毒気を抜かれて嘆息した。アホらしい、と思った。取引先だかなんだか知らないけれど、そんな手前勝手なオッサンのためにどうして自分の趣味まで制限されなくてはならないのだ。
それを問うと、ユジンは苦笑いを浮かべた。社会ってそういうものなんですよ、とあいまいに返す。「仙道くんも、大人になればわかります」
「……ふうん」
これといって迂遠なもの言いではなく、まっすぐそのまま、子どものお前には分からないだろうと言われてしまったが、その通りなのでダイキは言い返さなかった。もっと他に言い方があるだろうという気持ちにはなったけれど、この程度でムキになるほどガキではないのだ。反論する代わりに、ダイキは、もうぬるくなってしまった缶コーヒーをくいっと一口飲んだ。砂糖の少ない大人のコーヒー。少々苦味が強いとは感じるが、べつに、決して飲めないわけではない。このくらいには自分だって大人なのだ。
ユジンはしかし案の定、ダイキのそのさりげない主張に気付くような気配はまったくなかった。残念だなぁなどと言いながら呑気に頭をかいて、それから、思い出したように続ける。
「あ、でも、タバコは私の勘違いでしたけど、こんな夜遅くまで出歩くのはやっぱり感心しませんよ。仙道くん、まだ高校生でしょう? このあたりはオフィスビルも少し入っていて比較的治安も良いですけど、親御さんにあんまり心配かけちゃいけません。変なトラブルに巻き込まれたりしたらどうするんですか」
さも良識のある大人のようにそんな説教を聞かせてくるユジンに、ダイキは無論、重ねてイラっとした。世界の存続を賭けたレベルでのトラブルになら散々巻き込まれた直後であるし、おそらく彼の想定しているような小競り合い程度のトラブルならば、どちらかといえば自分は巻き込む側、あるいは、自ら関わりにゆく側だ。ミソラ一中の番長格、箱の中の魔術師。仙道ダイキはおそらく、一介のサラリーマンが想像するのよりはるかに、あらゆるイザコザに慣れている。
とはいえダイキが腹を立てた直接の原因は、上から目線の説教でも、過剰な子ども扱いでも、ユジンの低基準な『トラブル』に対する憤りからでもない。
目の前の鳥頭に、まだ中身の残った缶コーヒーをぶん投げて、ダイキは怒鳴った。
「ガキで悪かったね。どうせ、俺はまだ中学生だよ!」
通された部屋は、思ったよりはいくらか片付いていた。
ただし物が多い。整然と並んではいるが、とにかく多種多様な色が散らばっているため視覚的にひどくごちゃごちゃとして見える。棚には本や雑誌がぎっしりと詰め込まれ、このご時世に電子書籍という言葉を知らないのかとあきれ返りたくなるような景観となってしまっているし、壁という壁を隠してしまえと言わんばかりに立ち並んだガラスケースには、案の定というかなんというか、少女からモンスターのような生き物まで、さまざまなタイプのちいさな人形が飾られていた。フィギュア、というものだろう。奇妙なフリルの衣装でグラビアアイドルのようなポーズを取る、年齢不詳のアニメキャラクターと目があって、ダイキは背筋が寒くなった。こんな空間、マンガやニュースでしか見たことがない。いわゆるオタクの部屋である。
ゴミや衣類で足の踏み場もないような、汚らしい一室でないだけマシだ。ダイキはそう考え、あらためて室内を見回した。やや広めの1DKはいかにも一人暮らしに最適といった間取りだが、マンションそのものの外観は案外小奇麗な感じで、あまり安っぽさを感じさせない造りになっている。駅からもほど近い距離に位置しているし、もしかしてこの男、見た目とは裏腹にそれなりの収入を得ているのではないだろうか。
恋人候補を値踏みする意地汚い女のようにそんなことを考えつつ、ダイキは部屋のあるじを見やった。小柄な青年は背中を丸め、「めがねめがね」と呟きながら机の引き出しを漁っている。じつに冴えない風貌だ、とダイキは思った。見事に頭からコーヒーを被ってしまったユジンは、髪もスーツも良い具合に茶色く染まって、いよいよ使えない新入社員といった感じの情けなさを色濃くしていた。
「じゃーん」謎の効果音を自らの口で発しながら、振り返ったユジンはいつもの分厚い眼鏡を装着して、「おっ、仙道くんだ!」などととぼけた口調で笑う。視界がよくなったことが嬉しいらしい。見慣れた顔が現れたことでダイキは少しばかり安心したが、ユジンのそのテンションは大変に鬱陶しいものだった。
「仙道くん、ウーロン茶とサイダーどっちが良いですか?」
「お構いなく。そんなことより風呂でも入ってきなよ、コーヒーくさい」
「だ、だれのせいなんですかぁ……」
「避けられなかったアンタが悪い」
言いきったダイキに、ユジンは「あうう」と謎の言葉を発して項垂れた。「じゃあ、ちょっと先にシャワー浴びてきます」
適当に座って待っていてください、とだけ残して浴室に消えたユジンの、その言葉を無視して、ダイキは勝手に冷蔵庫を開けてサイダーを取りだし適当なコップに注いだ。飲みながら、部屋の隅に移動する。そこに四角いジオラマが広がっていることには、入ってすぐに気が付いていた。
常時展開型のバトルフィールドだ。大きめのゲームセンターやLBX専門ショップなんかに常設されている、そこそこ値の張るしろものである。Dキューブと違って小型圧縮されないが、だからこそ空間転移を要しない自由なカスタマイズが可能となるため、個人で所有しているプレイヤーも少なからず存在するらしいことは聞いていた。実際に人の家で目にするのははじめてだが、なるほど、どうやらお手製のものらしい。丁寧な細工に感心しつつ、このオタクめ、とダイキは改めてユジンをそう評価した。もっとも、こういったものに興味を覚える以上、結局はダイキとて同じ穴の狢ではあるのだけれど。
このフィールドを中心とする一角が、どうやらユジンの部屋における、LBX区域となるらしい。カスタマイズと組み立て、塗装、メンテナンスに使用するものと思われるデスクがあり、その周辺には工具やパーツ類が所狭しと散乱していた。
そしてまるでそれらを見定めるような角度で、かつてジョーカーを粉砕したあのLBX――ビビンバードXが、ちいさな工具箱に腰掛けている。
ダイキはかすかに目を細め、その赤い機体を睨みつけていた。思い出すのも忌々しい、アルテミス準決勝戦。力押しでも、速さや技術で負けたのでもない。状況はすべてこちらに有利に動いていたし、実際にダイキは、なぜ自分が勝てなかったのか今でも不思議に思っている。負けるはずがない試合だったのだ。このヒーローめいたLBXが、ただ、倒れなかっただけで。
LBXバトルはホビーゲームだ。魔法のように己の指先で操ることが出来るけれど、そこには確たるテクノロジーが横たわっている。まるで生き物めいた滑らかな動きを見せたとしても、自分の声に応えてくれたように感じることがあっても、所詮はただのロボットなのだ。必要なのは丁寧なメンテナンスと精確なテクニック。間違っても、根性論でなんとかなるようなものではない。
それでも立ち上がってきた。
あんなバトルをしたのははじめてだった。
偶然とは思えないタイミングで再会した駅のホーム。ここぞとばかり再戦を申し込むダイキに、コーヒーまみれのユジンは今日は無理だと何度も言った。LBXがないのなら家まで取りに戻れと言うと、情けない声で「そんなぁ……」と漏らす。
「アドレス、交換しましょう。それで後日改めてということで。ね?」
「イヤだね。今日、今すぐ、これから、アンタとバトルしなけりゃ気がすまない」
頑なに言い張り続けたところ、最終的にユジンは折れた。帰宅が遅くなる旨を親に連絡することを条件にして、結局ダイキは、彼の家まで乗り込むことに成功したのだった。思えば随分とおとなげない駄々をこねたが、しかし、どうせ自分はまだまだガキだ。開き直ってしまえばどうということはない。
だって高校生でさえ、ユジンから見れば充分に子どもなのだ。
思い出し、ダイキは知れず舌打ちした。自分がまだ中学生であるという当然の事実が、なぜかひどく腹立たしく思えた。
しかしどれほど積憤を覚える相手であろうと、他人のプライベートな空間、それもLBXに関わる精密な領域を侵すようなつもりはない。怒りに任せて部屋を荒らし、そのままさっさと退散することも出来る状況だが、いくらなんでもそこまで悪党になる気は起きなかった。ダイキは黙ったままで小物の散らばったデスクの上を眺め、それからそっと手を伸ばして、ビビンバードXの赤いフレームに軽く触れた。世界大会という巨大な舞台のうえで自分を辱めた、もっとも憎きLBXだ。今日こそ必ず、あの屈辱を晴らすのだ。
なかば恨みの籠った視線でもって、ヘッド部分を指先で軽くつつく。この頭の悪そうな鳥面を、二度と使えなくなるくらいまで粉砕してやろうと決意した。アンリミテッドバトルにおいてLBXの破壊は許容されているものだ。決して文句など言わせない。
その瞬間を思って、ダイキはふふんと軽く笑った。
「覚悟しなよ」と、いまだ風呂場にいるであろうユジンに向けて唱える。「ぶっ壊してやる」
そんな物騒なことを呟いたその瞬間であった。
指先で触れていたヘッドパーツが、ぽろりと外れて転がった。
「…………」
ころん、と、ビビンバードXはまるでホラー映画の死体役のように首を落としていた。言葉を失うダイキの目の前に、赤い生首が着地する。ダイキは頬を引き攣らせた。
「おっ待たせしましたぁ」
「ひっ!」
扉の開閉する音と同時に、呑気な声が聞こえてくる。ダイキは思わず肩をすくめた。浴室からここまで、間違ってもそう遠い距離ではない。ユジンはすぐにこちらに寄って、それからこの惨事を発見するだろう。ダイキはおろおろと狼狽しながら、必死で言い訳を考えた。壊すつもりなどかけらもなかったのだ。そもそもこんなに簡単にLBXの首が取れるわけがないじゃないか。そうだ、最初から欠陥品だったのだ、そうに違いない。俺は悪くない。ちょっと触っただけで。ちょっとだけ、殺意のようなものを視線に加えただけで。うっかり言葉にしてしまっただけで。
蒼白になって硬直するダイキの背後に、ユジンの影が迫る。相変わらずの安閑とした口調で、またも「サイダーで良いですか?」などと言いながらこちらへ近づいてくる。おや、とデスクの上を覗きこんで、彼は首を傾げた。
「あれ? ビビンバードエッ」
「わざとじゃない!」
ユジンの言葉を思わず遮り、振り返るとしかしそこに立っていたのはスーツ姿の青年ではなく、赤いジャージを着こんだ正義のヒーローオタレッドであった。ダイキは一瞬ぎょっとしたが、直後、このふざけたマスクと同じデザインの生首がすぐそこに転がっているという現実にめまいを覚えた。けれど、わざとじゃない。勝手に落ちたのだ。
ユジン、もといオタレッドは、狼狽するダイキをきょとんと眺め(もちろん表情は窺えなかったが)それから言った。状況はだいたい把握した、といったふうな、おだやかな声だった。
「ああ、だいじょうぶですよ、仙道くん。その初代ビビンバードXは以前バトルで破壊されてしまったもので、ちょっと動かすだけで簡単に首が取れちゃうんです」
「……そ、そうか」
「はい」
だから安心してください、と、ユジンはそう言ってヘッドパーツを拾いあげ、そっと元の位置に戻した。ビビンバードXの頭部はくちばしを半開きにしたまま、カチンと音を立ててボディに嵌めこまれたように見えたが、ユジンの手のなかでまたすぐにぽろりと首を落とす。ほらね、と彼は苦笑し、けれどそれをきちんともとの箇所に座らせた。壊れたLBXを、どうやら破棄することもどこかに仕舞いこむこともなく、彼は常にそこに置いているようだった。
修理、は、おそらく出来ないのだろう。
切断面を見るまでもなく、コアスケルトンを抉るように壊されている。それも刃物類の武器で断ち切られたようなようすではなく、もっと暴力的な、無理やりに捩じり切られたかたちでの破損だ。どんな相手と戦い、なにが起きればこんなふうになるのか、普通に考えて想像がつかない。
けれど、そうなのだ。ダイキは知っていた。見ていた。
ビビンバードXがこんなふうに惨たらしい敗北を迎えたバトルを、ダイキ自身もあの会場で見ていたのだ。
「……なあ、ユジン」
「なんですか?」
「アンタ、これ、悔しくはないのかい」
思えば、この男の持つものは、『圧倒的な強さ』などでは決してなかった。
特撮ヒーローを彷彿とさせるような戦い。それはむしろ、王道すぎて動きを読まれやすいというウィークポイントであるように思えた。奇怪な言動によって隠されてはいるが、ユジンの戦い方そのものは、さほどトリッキーさを含むものではない。
それどころか、呆れかえるくらいまっすぐなのだ。
大胆で、実直で、こちらの攻撃を真っ向から迎え撃とうとするような、そんな愚直なバトルスタイルだった。三対一という明らかに不利な状況でも、ヒーローは逃げも隠れもしないのだと宣言するように、堂々と立ち向かってきてみせた。ダイキは、ダイキのジョーカーは、それを嘲笑うふうに幾度となく旋回し、文字通りに鎌を振るい、敵も味方も知ったことかと攻撃を続けたが、それらを正面から受け止めてなお彼は立ち上がってみせたのだ。
《――愚か者め!》
と、仲間を盾にしたダイキに、そんな説教まで吐きながら。
充分なダメージを与えたつもりでも、デスサイズハリケーンをまともに食らわせても、ビビンバードXは倒れなかった。倒せなかった。
それなのに、そんな彼が負けたのだ。
手も足も出ないままで痛めつけられ、はては非情にも首を捥がれて、惨敗した。
その惨状を思い出し、ダイキは知らず歯を食いしばった。直前に自分を負かした相手が、それ以上に屈辱的なかたちで敗北したという事実を、憎らしく思わないわけがない。
「そりゃあ、悔しいですよ」
妙に静かな口調でユジンはそう言った。間の抜けた赤いマスクの下、彼がどんな表情を浮かべているのか、そんなことはダイキにはわからない。諦めたように苦笑しているのかもしれないし、悔しさに憤っているのかもしれないし、悲愴な姿を晒す愛機をただただ哀れんでいるのかもしれなかった。
「なんたって世界のアルテミスですからね。決勝戦まで勝ち進んでこのありさまじゃあ、腑に落ちないというか、情けないというか……」
「……だろうね」
互いに全力を出し切っての、健全なバトルとは言い難い試合だった。謎の技術でもってLBXを操っていたあのプレイヤーは、暴動としか思えないような鬼気迫った様相でフィールドを圧巻し、引っかきまわすだけ引っかきまわした挙句最後には昏倒したのだ。腑に落ちない、というその気持ちは、ダイキにだって理解できるつもりだった。
アルテミスという大会そのものは、決勝戦のラストバトル、山野バンと海道ジンによる一騎打ちばかりが大きく取り上げられ、その迫真の舞台に観客たちの意識は飲み込まれた。良いバトルだったのは事実だ。けれど、その裏にはさまざまな人の思惑が糸を張るように絡み合っていた。ダイキとて、渦中に身を置いてみなければ決して知ることはなかっただろう。
しかし、誰がなにを知ろうが知るまいが、世界一位の栄光は山野バンを選んだ。
それだけが事実だ。ダイキにとっても、ユジンにとってもそう。全身全霊で掴みかかったアルテミス優勝の称号は、自分たちの手をすり抜けたのだ。
「私はね」と、ユジンが呟く。
「なにも出来ませんでした。あの時、あんなふうにバトルに負けたのももちろんですが、なにより怖気づいたんです。ブレイクオーバーして、なすすべもないままただ壊されるビビンバードXを目の前に、抗議の言葉も飲み込んで逃げ出した。それが許せません」
もちろん、ヒーローに敵前逃亡はご法度だ。けれどユジンの心にはそういった設定としてのものごと以上に、強い後悔が根付いているようだった。
「出来ることならもう一度やりなおしたい」と、彼はそう言った。
「そうして今度こそ、ヒーローらしい戦い方で勝利を収めたい。いいえ、収めなくちゃいけません。たとえバトルに負けたとしても、自分に負けたままではいられませんからね。だから私は、来年のアルテミスもビビンバードXで出場しようと決めているんです」
来年こそ必ず、優勝してみせますよ。
そう言ったユジンの横顔を、ダイキはなんとなく横目で盗み見た。なんだ、かっこつけたことを言うじゃないか、と思った。このいかにも気弱げな男にしては、随分と堂々とした勝利宣言である。少し見直した、といっても良い。
けれど視線を向けたその先にいたのは残念ながら、いつもの赤い鳥面だ。ちらりと見やった先で間抜けなマスクと目があって(いや、目と呼んで良いようなパーツがオタレッドに存在するのかと問われると、正直謎だが)ダイキはいっぺんにゲンナリした。見直すどころの話ではない。
「……なぁ、アンタ、これは親切心で言ってやるけど」
「? なんですか?」
「なんだっけその、正義のヒーローには、設定? とかがあるんじゃなかったのかい?」
完全にただのユジンになってるよ、と付け足してやると、彼はやはり赤いマスク越しにぽかんとした。一拍押し黙ってから、うおおお、と謎の唸り声をあげながら頭を抱える。
「しまった! 自分の部屋だからといってうっかりしていた! 仙道くんに振る舞うための飲みもののことばっかり考えていた! オタレンジャー以外のお客さんなんて久しぶりだからといって、なんというていたらく! なんというていたらく! 私は! 私はヒーロー失格だぁー!」
叫びながら床に崩れ落ちる。あまりに大袈裟なその反応にダイキは正直ドン引きであったが、しかし彼のその言動は、この場のもやもやとした空気を四散させるのに適していた。壁にかかった時計を見やると、夜も十時を回ろうとしている。健全な中学生は、とうに家に帰っているべき時間だった。
すこし遊びすぎたな、とダイキは思った。べつに、この男と仲良くなりに部屋に押し掛けたわけではないのだから、今年の悔恨も来年の目標も、すべてが無駄なトークに他ならない。なにやらわざとらしくのた打ち回っているユジンを白い目で見おろしながら、さてどうしたものかと思案しつつ、ダイキは言った。
「そういえば、飲みものなら勝手に貰ったよ」
その言葉に、背中を丸めた赤いジャージがぴたりと動きを止める。無言でそうっと顔を上げて、デスクの上に置かれた空っぽのコップを見やるユジンの、そのようすがひどく滑稽だったので、ダイキは思わずにやりと笑った。
「つーかアンタ、こんな寒い日に客に出すのが冷えたお茶かジュースっておかしくないかい? もう少し常識ってもんを考えなよ。そんなふうだから、部屋に遊びに来る女のひとりもいないのさ」
情けないねえ、と芝居がかった嘆息を見せてやると、ユジンはふるふると震えながら立ち上がった。その背にはめらめらと、消えることない正義の炎が揺らめいている。ような気がする。ダイキはニヤニヤと頬を緩ませた。
たぶん、この男を本気にさせるのには、この方法が一番手っ取り早い。
「貴っ様ァー! 人の家の冷蔵庫を勝手に開け、あまつさえ文句をつけるとはなんという不届き千番! 不躾にもほどがある! 正義のヒーローオタレッドが、その根性叩き直してくれるー!」
「フン、そう来なくっちゃねぇ」
口の端を上げ、ダイキはCCMを取りだした。朝からバトル続きでナイトメアも疲弊していることだろうが、今回ばかりは許してほしい。この珍妙な、けれどたしかな実力を持つプレイヤーを、今度こそ打ち負かすために力を貸してほしい。心中で語りかけながら、ダイキは自身の相棒を強化ダンボールへと送り込んだ。所詮ロボットと分かっていても、愛しい機体にそそぐ視線が熱くならないわけはない。
今度はユジンも水を注したりはしなかった。なにか吹っ切れたかのような勢いで、先ほどの初代とは別のビビンバードXを取りだして戦場へと向かわせる。
同時に彼は全身を使って謎のポーズを決め、愛だの正義だのといつもの口上を述べはじめたが、ダイキはそれらをすべて無視し、バトルスタートの合図と同時に突撃した。
「なッ、名乗りの途中に攻撃してくるなんてルール違反ですよぉ!」
「知ったこっちゃないよそんなこと」
ナイトメアズソウルが宙を切り裂く。強化ダンボールのその中で、いつものようにバトルが繰り広げられる。油断はしない。見てくれだけで判断し、舐めてかかって良い相手ではないのだ。
それを理解しながら、けれどダイキは考える。あの日、去年のアルテミス、その決勝戦。
圧倒的な力でもってこの男を倒した例のプレイヤーの、そのバトルを思い出す。武骨な剣での力任せな戦法はダイキの好むところではなかったが、しかしあの少年の根底にあるのはそういった乱暴なものばかりでなく、もっと技術と力量に基づいた、繊細ななにかであったように記憶していた。
あのバトルが参考になることもあるかもしれない、と、ダイキはそんなふうに考えたのだけれど、結果としては勿論、そう簡単にはゆかなかった。
念願の雪辱戦。
仙道ダイキはやはり、ユジンもといオタレッドに勝つことは出来なかったのだった。