2 海道ジン
病院の面会時間は午後三時から七時までと決まっていたが、彼に関してだけは特別に、二十四時間いつでも、病室に向かう許可を取っていた。
こういった行為も職権乱用の部類になるのだろうか、とジンはときどき考える。海道の名で今まで生かされ、あらゆる特権を得てすごしているという自覚はあったが、今回ほどこの名前の持つ力に感謝したことはなかったかもしれないと、そう思わずにはいられなかった。ひとの命を救い、保つためには高い医療技術が必要で、海道の名にはそれを賄うだけの力がある。病院へと向かう、いつもの道を足早に進みながら、ジンはちいさく息を吐いた。
ここ数日ひどく冷え込む夜が続いたが、今朝になって気温は再び、残暑にふさわしいものへと戻っていた。蝉の声こそさすがに絶えたが、日中のうちにたっぷりと陽光を吸い込んだ大気はいまだ湿り気を帯びている。長い一日が終わりを迎える、その準備をはじめる夕の時刻。焦らなくとも面会を断られることはないのだが、それでもジンは、急いでいた。予定よりすこし遅くなってしまったから、彼が不安に思っているかもしれない、と考えていた。
灰原ユウヤが意識を取り戻してから、三カ月が経っていた。
それを「もう三カ月」と捉えるべきなのか、あるいは「まだ三カ月」と捉えるべきか、ジンにはどちらとも判断がつかなかった。ユウヤは変わらず病院のベッドのうえで、どこかに魂を置き去りにしたふうにぼんやりと過ごしている。人並みに食事を取り、言葉を操り、ときどき泣いては意識を乱し、死んだように眠り、目覚めてはまたどこか遠くを見て、かと思えばふとしたタイミングで、笑みのようなものを浮かべながらジンの名を呼ぶ。
時間はとても、とてもゆっくりと流れているように思えた。少なくとも、あの病室の中ではそうだ。緩慢な、夢のようにおっとりとした空気に包まれて、灰原ユウヤは静かに生活を続けていた。ジンはそれを見守りながら、けれど病室の外側、慌ただしくすぎてゆく世界の中で生きている。
知れず、歩調が速くなってゆく。
駅から病院まで続く、舗装された緩やかな坂。それを一歩一歩踏みしめながら、ジンは歩いていた。彼のいる場所へと繋がる勾配。濁流のように激しく動き続けるこの世界の、決して止まらないはずの時間を和らげる、魔法のかかった坂道だ。
普段ならばまっすぐに登りきる、その短い坂道の途中で、けれどジンは、ふと足を止めた。行く手を遮るかのように、視線の先には見知った人物が佇んでいた。
その思いがけない姿にジンは瞠目したが、相手の方はどうやらそうでもないらしい。路の端、立ち並ぶガードレールのひとつに軽く凭れかけながら、仙道ダイキはちらりとジンのほうを見やった。久しぶりだねえ、と、軽く微笑んでさえみせるそのようすに、別段驚いたような気配はない。
「……待ち伏せとは、あまり良い趣味じゃないな」
「人聞きの悪いことを言うもんじゃないよ。こうでもしないと連絡がつかなかった、それだけのことさ」
言い訳を口にするような調子でもなく、ダイキはそう言ってくつくつと笑った。悪人めいた表情を浮かべるこの男が、しかし敢えて悪ぶって振る舞うきらいがあることを、ジンは理解していた。長い期間とは言い難いが、それなりの時間を共有してすごしてきたのだ。そう警戒する必要のある相手ではない。
思いながらジンは、けれど無意識のうちに身構えていた。わざわざ訪ねてこられるような心当たりもなければ、待ち伏せをしてまで届けられるような用件も思いつかない。なにかあったのだろうか、と考えるのは当然のことで、そのうえにダイキの姿はどことなく、常ならぬ奇妙な不穏さを湛えていた。怪訝な感情を隠すことなく眉根を寄せ、ジンは静かに訊ねた。「僕になにか?」
「もちろん、用がなければわざわざこんなところまで来やしないよ。『いつもの時間』より随分遅かったじゃないか。おかげで待ちくたびれちまった」
いつもの、という部分を妙に強調する、ダイキのその態度に、ジンはなおのこと戒心を強めた。一匹狼を気どりがちだが、あれでミソラ二中の番を張っている存在だ。ジンの日ごろの動向程度、調べる手足はいくらでもあるだろう。それは良い。知られて困るような後ろ暗いことなどなにもない。問題は、コソコソとこんな真似をされなければならない、その理由だ。
どうやら彼は最初から、自分と敵対するつもりでそこに立っているらしい。差し向けられる険悪な空気を改めて感じとったジンに、ダイキはやはり悪党然とした笑みを張りつけながら、そう怖い顔するもんじゃない、などと嘯いた。「べつに、お前さんとケンカしようってんじゃないんだ」
「僕にはそうは見えないが。……すまない、急いでいるんだ。出来れば手短に頼みたい。なんの用だ?」
「察しは付いているんだろう? もちろん、バトルのお誘いさ」
「…………」
無論、それはそうだろう。
海道ジンと仙道ダイキの共通項など、LBXくらいしか思いつかない。
だからその回答は、ジンにとってもダイキにとっても当然のもののはずだった。アキハバラキングダムでの彼の態度と、その決着のことを思えば、今日まで声を掛けて来なかったことのほうがむしろ不自然と言える。常に好戦的で、且つ、プライドの高いダイキのことだ、リベンジの機会を窺っていないわけがない。
けれど、それは、
「すまないが、その申し出を受けることは出来ない」
「ふうん? どうしてだい?」
「言っただろう、急いでいるんだ。きみの調べた通り、いつもの時間より遅れている。……早くようすを見に行きたい。事情は知っているんだろう? だったら、分かってくれ」
「事情ねえ……」
ジンとしては、精一杯の弱みを見せたつもりだった。手のうちを晒すふりをし、下手に出て、そうやって見逃してもらう、そのつもりだった。あまりに遜った対応であると、己の発言ながら嫌気のさす思いもしたが、けれど仕方がない。どうしたって、いまのジンには彼の要求に応えることなど出来はしない。
ダイキはかすかに目を細め、まじまじとジンの姿を眺めやっていた。その視線が、責めるようでも訝るようでもなく、ただ事実を確認するかのようなものだったので、ジンはすぐさま、彼は知っているのだ、と気がついた。知っていてなお、自分にバトルを申し込もうというのだ。
焦燥のような感情が胸に渦巻いていた。早くこの場を離れたい気持ちに駆られたが、目の前の魔術師は、そう簡単に逃してくれるつもりなどないらしい。ダイキは、ふうん、ともう一度なにかを確かめるようにひとつ頷き、それから言った。仕方がないねえ、と、腹が立つほど嫌らしく笑って見せた。
「海道ジンと戦えないっていうなら、そうだねえ、だったら代わりに、向こうのボクのほうに相手してもらうとしようか」
言いながら、坂の先を振り仰ぐ。
その視線の先には、白く聳える病院があった。
「療養中とはいえ、人並みの生活が送れる程度には快復したんだろう? だったら、」
「断る」
ダイキの言葉を遮るようにして、ジンは言った。思ったより大きく、強張った声が出た。そのことに僅かな動揺と羞恥を覚えたけれど、だからといって黙っているわけにはいかなかった。一度だけ、ぐっと喉を詰まらせてから、再び口を開く。
「彼には無理だ。まだ体力的に、……精神的にも、LBXに触れさせられるような状態じゃない。なにを企んでいるのか知らないが、彼を巻き込むことだけはやめてくれ」
その言葉を受けて、ダイキははじめて、意外だというふうに目を丸めた。先ほどまでのなにかを面白がるような素振りを消して、ただただ不思議そうな顔でジンを見つめ、それから、「アンタでもそんな顔するんだ」と言った。なぜか感心したような、珍しいものを評価するような声音だった。
「いつもガキらしくない澄ました顔ばっかりしてるから、苛立ったり取り乱したり、出来ないんじゃないかと思ってた。ふうん、そうかい。なるほどねえ」
「……きみは、いったいなにがしたいんだ」
思わせぶりな言葉ばかりを並べるダイキに、ジンはいっそ呆れさえ覚えながら問うた。正直なところ、いい加減にしてほしかった。夕暮れに佇む魔術師の姿はいやに妄覚じみていて、言動のすべてに作為が滲んでいる。
「海道ジンらしくない過保護だって言っているのさ」
ダイキの言うその声は、なるほどたしかに、仙道ダイキらしさに充ちていた。
ジンはそれを認めながら、けれどついに、痺れを切らした。軽く溜め息のようなものをつき、「失礼」とだけ残して彼の真横を通りすぎる。これ以上、不毛な問答を繰り返す暇はなかった。
強引なその切り抜け方に、ダイキが反感をぶつけてくることは勿論想定していたが、しかし歩き去るジンに向けて、追ってくるような気配も、呼びとめる声さえ聞こえてはこない。黙したままで病院へと歩む、その背に届いた声はもっとシンプルなものだった。
「三日後の昼、そこの公園で待ってるよ」
ジンは振り返らなかった。時間を止めるはずの坂を、ゆっくりと登る。その足取りに迷いはない。
海道ジンの心そのものは、混迷に囚われていたけれど。
それでもこの道だけは迷うまいと、ジンはそう決めていた。彼が待っている。灰原ユウヤが、この先にいるのだ。決して長くはない道のりを、強い歩調で前進しながら、ジンはこっそりとポケットに触れた。薄い布越しに、CCMの硬い感触が伝わってくる。
それを手に取ることを、ジンはもう随分長く、していない。
九年前のあの病室での日々のことを、いまでも鮮明に認識しているかと問われれば、実をいうと答えは否だ。
当然といえば当然である。誰しもそうであろう、と断言することは憚られるが、多くの人間にとって四歳のころの記憶というものは、ほとんど夢か幻のようにおぼろげで、たった数日同じ部屋ですごしただけの友人のことを覚えているなんて、よほど希有な出来ごとに違いない。友だち、という単語の意味さえあいまいな、それほどに幼いころの出会いだった。
現に、ジンはあの瞬間、アルテミスの決勝戦で彼の声を聞くまで、その肩に刻まれた傷痕を見るまでは、彼のことをまったく覚えてはいなかった。灰原ユウヤという名を聞いても、その顔を正面から見つめても、脳の片隅に俄かに掠るような感覚こそあったが、それ以上の想起は覚えなかった。
本当のことを言えば、それは今でもあまり変わらない。
あの日の病室に、灰原ユウヤはたしかにいた。夜毎「ひとりにしないで」とつぶやき涙を零す彼の、その手を握り、励ましていた幼い自分がたしかに、いた。
ジンはその事実を思い出したが、けれど、それだけだ。九年前、自分たちは同じ時間を過ごしただろう。同じ事故で傷を負った、掛けがえのない友であったろう。いかにもか弱い声音で孤独を恐れるユウヤの、その怯えに触れることで、ジン自身が己の寂しさを和らげた夜がきっとあった。
けれどそのすべて、あまりに遠い記憶のなかでの出来ごとだった。漠然としすぎている。もやのかかったような思い出は本当に、本当にちいさな破片がちらちらと瞬くようなものばかりで、それらが自身の思い込みや空想ではないと、そう断言することさえジンには難しく思えた。
だからアルテミスで倒れたユウヤが意識を取り戻してすぐ、自分と彼との関係をどう説明すべきか、ジンにはそれさえ決めかねていた。友と呼ぶのには、あまりに薄い結びつきであるように感じられた。こんなにもあやふやな過去の日々を、ユウヤ自身が覚えているとも思えなかった。
きみはだれ、と訊ねられるものだと、ジンはそう信じて疑わなかった。あるいは、海道義光の孫である自分には、憎悪の視線こそ向けられるべきであるとさえ考えていた。彼にはその資格があり、自分にはその責務がある。こんなふうになるまで彼を追い詰めた、その環境の核には凝然と、海道の名が存在しているのだから。
学業を終えてからの放課後の時間、ジンは毎日、灰原ユウヤの病室を訪れる。彼が昏睡状態にあった頃は、それこそ時間の隙間を縫うようにベッドに貼りついてすごしていたし、目覚めてすぐの頃には少しでも傍にいられるよう頻繁に足を運んでいたけれど、つい最近の、ゆるやかな時間運びの定着したあの部屋には、午後の決まった時間にしか顔を出していない。ユウヤの状態も随分安定してきたし、ジンとていつまでも、自分のための時間を削り続けるわけにはいかなかった。海道の家を引き継ぎ、その存在を保つために、必要な動きならば山のようにある。
時間が流れている。
嘘のようにあっけなくすぎてゆく。イノベーターとの戦いの傷痕は、この確たる季節の動きによって着実に癒えてゆくように、ジンには感じられた。自分自身の心の整理はもちろん、その現実は、灰原ユウヤのようすにこそ如実に現れている。一度は医師にさえ匙を投げられた、彼の症状が快復するに従って、自分たちの戦いは過去へと流れてゆくようだった。
《――ジンくん》
と、ユウヤはそう言っていつも、ゆっくりと、ゆっくりと、目を細める。ベッドの傍らに立つジンに、きみはだれだと問うことも、お前たちのせいだと憎しみを向けることも、彼はしなかった。遠い日の曖昧な思い出を疑うことさえ、どうやらユウヤの考えのなかにはないようだった。彼にとって九年前の日々はつい昨日のことのようで、ベッドの上でぼんやりとすごすその姿は、あの日大きな事故で家族を失った、幼い子どものままであるように、ジンには見えた。
灰原ユウヤは、この九年の日々を喪失している。
そんなふうに感じとるたびに、ジンは、守らなければ、と強く思う。彼のこの日々を。時間の止まった、この部屋を。それが海道を背負う自分の贖罪のかたちであるのか、ただの庇護欲なのか、あるいは、友情と呼ぶべきものなのか、それすらもいまだに判別がつかないままで、それでも毎日をこうやって過ごしている。彼の顔を、見に来ている。ジンは人知れずまぶたを降ろし、呼吸を整えた。思わぬ足止めを食らってしまったが、足早に進むうちに、気付けば彼の病室の前にまで辿りついていた。
時刻は午後六時をすぎている。不規則に睡眠を取ることの多いユウヤは、もしかしたら待ちくたびれて眠ってしまっているかもしれない。思いながら、こつこつと軽く扉を叩く。返事はない。
ならば、やはり横になっているのだろう。ジンはそう判断し、ドアを開いた。ほんの少し前までのユウヤは、そもそもノックの音に返事など寄こしはしなかったが、最近は起きてさえいれば必ず「はい」や「どうぞ」といった声が返ってきていたので(そしてそれは、ジンが少しばかり驚くほど柔らかく、嬉しげな声音であることが多かったので)返答がないのならばそういうことだ。
平たく冷たい、白い扉は自動で開く。
比較的広々とした個室では灰原ユウヤがひとり、しかしジンの予測とはうらはらに、窓辺でじっと立ち竦んでいた。
「…………」
ジンはとっさに息を飲んだ。思わぬ光景が目に飛び込んできたことに驚き、なんだ、起きていたのか、と思った。いつの間にか随分と髪が伸びていたんだな、と、呑気にもそんなことさえ考えた。それから一拍遅れて、彼のようすがおかしいことに気付く。たしかにユウヤにはどこか浮世離れしたようなところがあって、地に足を付けることなくその場に佇んでいるような、そんな妙な印象を与えられることも時々にはあったけれど、そうではない。いまの彼の姿はどちらかといえば、そのまま地に沈み込んでいってしまいそうな、何者かに押しつぶされて果ててしまいそうな、そんな重々しげな空気に支配されていた。ジンは背筋を強張らせる。これではまるで、と考える。瞬間的に脳裏を掠めたのはいつかの、人形のようだった灰原ユウヤの姿で、そのビジョンを打ち消すよりさきに、ジンは彼が自分自身の手元を凝視していることに気付いた。
ユウヤは、なにかを持っていた。
両の手のひらに小さな、なにかのかたまりのようなものを乗せて、それをじいっと、ただ見つめていた。
窓の外は薄暗さを纏って、夏の長い陽にも終わりをもたらしつつあった。季節が流れてゆく。時を止めるはずのこの病室でさえ、まったく抵抗できないほどに、日々は着実に進行してゆく。
焦点の合わないまっくろな目で、灰原ユウヤは呼吸さえ止めながら、その手のなかの機体を瞠視していた。
「ユウヤ……!」
怒鳴り声というほどのものではない。それでも普段のジンからすれば充分すぎるほど取り乱した声音で名を呼べば、ユウヤはびくりと身体を竦ませ、それによって手を滑らせた。ガシャン、と派手な音を立てて、病室の冷たい床にちいさな戦士が転がり落ちる。
LBXだった。
アーマーフレームを嵌めこんでいない、まっさらのコアスケルトン。それがなぜ彼の手のうちに存在するのか、もちろんジンには分からなかった。なにがなんだか、理解出来ないことだらけだ。灰原ユウヤに相手をしてもらう、と、つい先ほどそんなことを言われたばかりで、そして自分はたしかにその申し出を断ったはずだというのに、なぜ。
心中で狼狽するジンに対し、ユウヤは夢から覚めたばかりのような表情を浮かべていた。黒目がちの双眸をまあるく見開き、きょとん、としたふうにこちらを見やる。それから、
「……ジンくん」
いつもと同じ、うっすらと目を細めるだけの微笑みを浮かべて、海道ジンの来訪を歓迎した。
その表情に先ほどまでの、まっくらな、かつての彼を連想させるような重苦しい気配は残っていない。ジンはそれを確認してから、そうっと肩の力を抜いて、ようやく病室に足を踏み入れた。
背後で扉の閉まる音が響く。
それをどこか遠い場所で聞きながら、ジンは先ほどの自分を取りなすかのように、意識した冷静な声で「こんにちは」と言った。「すまない。今日は少し、遅くなってしまった」
気にしないで、というふうに、ユウヤはゆっくりと首を振る。
「こんにちは。来てくれてありがとう、ジンくん」
そう言って、それから彼は、緩慢な動作で膝を折った。足元に転がった小さな機械を、まるでなにごともなかったかのように拾い上げる。その眼差しはいくらか優しく、あたかも愛おしいものにでも触れるように、彼はそのコアスケルトンを両手に包み込んでいた。
「……ユウヤ、それは」
「うん、もらったんだ。ほんのついさっき、三十分くらい前、かな。知らない人が急に入って来て、それで、これをやるからバトル出来るようになっておけって」
おかしいよね、とユウヤはどこか神妙なようすでそう言った。その「おかしい」が指すのが、奇妙だという意味合いなのか、あるいは笑ってしまえるといった意味での発言なのか、ジンにはとっさに判断がつかなかった。とはいえ、たしかにおかしい。どちらの意味でも、おかしな話には違いないのだ。
ジンは押し黙り、ユウヤの持つLBXを見つめていた。自然と眉根が寄ってゆく。してやられた、という気持ちでいっぱいになりながら、ジンは心に溜めこんだ焦りのような苛立ちのような感情を、ふう、と息にして吐き出した。魔術師どころかペテン師ではないか、と思った。
「……ユウヤ」
「うん」
「その、急に来た知らない人、というのは、仙道ダイキという人物だ。僕もついさっき、病院の手前ですれ違った」
「うん」
「彼はなにか言っていたかい?」
ユウヤは軽く首を傾げた。よく分からない、というふうに、ぼうっとしたまなこをジンに向け、三日後、と言う。
「三日後に、また会おうって。LBXで僕と戦いたいから、それまでにアーマーフレームを用意して、体調を整えておくようにって言ってた。それから、絵柄の描かれたカードを見せてくれたよ」
「……そうか」
うん、とユウヤは頷く。その視線は手の中のLBXに向けられていて、指先でコアスケルトンをなぞりながら、彼はなにを考えているのだか読みとれない、うっすらと透けるような無表情を浮かべて口を閉ざした。
ジンはそのようすを眺めやり、ふたたび嘆息した。
まったく、とんだ茶番である。
最初から、彼の目的は灰原ユウヤとのバトルだったのだ。
なるほどたしかに、海道ジンらしくない洞察力の欠如であった。よくよく考えれば、あの話の流れは実に奇妙だ。ジンにバトルを申し込みたいだけならば、あんなところで待ち伏せなどせずに、直接家なり学校なりに来ればいい。あるいは、バンに頼めば連絡くらい容易く取れる。こちらの動向を調べているのならば尚のこと、病院へ向かうジンを引き止めて戦おうなどとはあまりに無策ではないか。
はじめからユウヤとコンタクトを取ることがメインで、ジンはそのおまけであった。待ち伏せされたのではなく、ジンの訪問が遅れたことで向こうの予定が狂ってしまっただけだ。帰り道で偶然会うことが出来たから、噂の真相を確かめるついでに、ユウヤにLBXを使わせるための許可を求めた。事後承諾ではあったけれど。
ジンは苦々しく顔をしかめた。仙道ダイキがなにを考え、なにを求めているのだか、そんなことはさっぱり分からなかったが、もしかしたらなんの意味もない、ただの気まぐれの行動なのかもしれないとさえ思った。
なんにせよ、ここまではどうやら、彼の思うつぼらしい。
興味深げに機体に触れるユウヤの姿を見つめながら、ジンはやはり、癪であると感じていた。出来ることなら彼にはもう、LBXと関わることのない環境にいてほしいと、心のどこかでそんなふうに願っていた自分を嘲笑われたような気分だった。どういうわけだか上から目線でこちらを見下ろし、あまつさえ鼻で笑ってくるダイキの姿を想像し、いよいよムッとする。
今すぐにでも電話をかけて、どういうつもりか問い詰めてやろうか。半ば本気でそんなことを考えはじめたころ、ふとユウヤが顔をあげた。そういえば、と口にする。「忘れてた。あの人、これもくれたんだ」
まだなにかあるのか。
思わず身構えたジンのようすに気付くことなく、ユウヤは、いまひとつ頼りなげな足取りでベッドの脇へと向かった。枕元に、ちいさなビニール袋が置いてある。近くのコンビニエンスストアの商品袋だ。
「プリン」
そう言ってユウヤがその袋から取り出したのは、たしかに、まごうことなきプリンであった。一個百円程の、ほんとうにふつうの、プリンである。
「…………」
「お見舞いに、って」
手のひらほどの大きさのそれが、ふたつ、ベッド脇のテーブルに並べられる。ジンは何度目かの溜め息を漏らした。今度は呆れでも苛立ちでもなく、ただ、なんとなく、ふうっと息を吐きたくなった。
「……悪い人では、ないんだ」
ジンの心底からの呟きに、ユウヤはちいさく笑った。優しい声で、「わかるよ」と頷く。
「ジンくんの友だちだもの」
とろりと甘いばかりのプリンは、正直に言えばジンの口にはあまり合わないのだが、ユウヤはこういった味の強い食べものをよく好む。いっしょに食べよう、と誘われて、断る理由はなかったけれど、嬉しそうにスプーンを口に運ぶ彼の姿を見ているだけで、ジンは充分に腹が膨れそうだった。
窓の外は次第に暗くなってくる。
病室の中は明るいけれど。おそらくこれからもきっと、ずっと、明るいままなのだろうけれど。それでもそれは永遠に続くものではないのだ。そんな当たり前のことを、ジンはひそかに実感していた。あまったるいプリンが口の中で溶けてゆく。夢のなかのように思えたこの部屋でも、時間はきちんと流れている。
からになった容器とプラスチックのスプーンを片付けてから、ユウヤのほうが先に、口を開いた。
「ジンくんのLBXを、見せてほしい」
ジンは頷き、ゼノンを取り出した。アルテミスで戦ったのとは別の機体であることに、ユウヤはすこし驚いたようだった。
「触ってみるか?」
「……うん」
手渡すと、おそるおそるというふうに両の手で受け取る。紫暗のフレームに触れながら、ユウヤは目を伏せた。その姿を眺めながら、ジンはなんとなく、彼にはLBXの心音が聞こえるのかもしれない、と、そんなことを考えた。ばかげたイメージだ。けれど実際にユウヤの眼差しは、まるでゼノンの発する言葉を受け取り、理解を示しているかのような、そんな不思議な印象を与えるものだった。
そうやってLBXと見つめ合いながら、ユウヤは口を開いた。機体に語りかけるのではなく、ジンに向けて、僕はね、と言う。なにかを懺悔し、告白するような声だった。
「僕は、きみが悩んでることを知ってる。……きみがLBXに触れずにすごしてることを知ってる。もうずっとバトルを避けてること、日本を発とうと考えてることも、みんな知ってる」
その発言はジンにとって想定していないものだった。なんとなく勘付かれている可能性も考えてはいたが、けれど、そこまで明確に把握されているとは思いもよらなかった。ジンはたしかにLBXバトルを避けていた。すでに日課と化しているメンテナンスのたぐいこそ欠かすことはなかったが、CCMを用いて強化ダンボールの中を駆けまわらせることは殆どしていない。もう何週間、何カ月も。
なにより留学を勧められているという事実さえ、ユウヤに知られていたことは驚きだった。ひょっとしたら本当に彼は、LBXと言葉を交わすことが出来るのかもしれない。
両目を瞬かせるジンに、しかしユウヤは、なんてね、とどこか弱ったふうに、かすかに口の端を上げてみせた。
「知ってる、なんて、偉そうなことを言ったけど、ほんとうは教えてもらっただけなんだ。じいやさんも、八神さんも、みんなきみのことを心配してる」
「……ああ」
なるほど、彼らならジンのことをよく知ってくれているし、なによりユウヤの見舞いにも時折訪れている。まさかふたりして、こんなにも口が軽いとは思わなかったけれど。
ユウヤは白い病室の中で、けれど、いつものぼんやりとした、幼い子どものような頼りないようすではなく、きちんと背筋を伸ばしてジンの目を見ていた。無理やりにでも、彼はそうしようとしているようだった。新しいものに、変わってゆこうとしている。ジンはその目を見つめ返す。逸らすことなく、逃げることなく、彼の決意を受け入れるために。
灰原ユウヤは、もう、平気なのだ。平気にならなければならない。
この世界でこれから、生きてゆくために。夢のように曖昧な思い出ではなく、たしかな現実を生きてゆく。そのために、彼は動きだそうとしているのだ。ジンはそれを理解した。彼はここを、出てゆきたがっている。
「僕が立ち上がらないと、きみも、ずっと、動くことが出来ない。僕はそれを知ってる。知っていたんだ、本当は」
そうではない。
時間を止める、この部屋を本当に必要としているのは、彼ではなかった。それだけのことだ。
ねえジンくん、とユウヤは静かにジンを呼んだ。ああ、とジンはもう一度答えた。この部屋の魔法を解くのは、彼の時間をもう一度動きださせるのは、彼自身なのだと思った。
「――僕に、ゼノンを貸してほしい」
はっきりとした口調で、強い眼差しで、ユウヤはそう言った。
ジンが頷くと、とても嬉しそうに、けれどなんとなく寂しそうに、ありがとうと呟いて微笑んだ。