キノフロニカ - 5/5

いつか見た海の底 -ジンとユウヤ

 シャンパオから日本への約三時間のフライトをただ両目で活字を追うことだけですごし、海道ジンはトキオシティ空港へと降り立った。五日ぶりに味わう祖国の空気は思っていた以上に心地よく、車を呼ぶこともタクシーを拾うこともしないで駅へと向かう。くねくねと街道を曲がりながら進む車体より、まっすぐ素早く走り抜けるリニアのほうが、疲れた身体を優しく扱ってくれるような気がした。どうせ、急ぎの用事もなければ気遣わなければならない人目もない。時間帯のせいか、人の密度も低かった。窓際の座席が空いていたのでそこに腰掛けると、機械的な、けれど柔らかい音を奏でながら車両が動き出す。ジンは窓の外を見た。先ほどまで自分が飛んでいた青の空。
 いい天気だ、とぼんやり思う。
 埋め立ての飛行場が遠ざかってゆく。その向こう、ここからはもう見えないけれど、飛び立つ翼のその先には海が広がっている。ジンも先ほどまで足元にしていた、深く広大なあの水平線。
 ジンは肩の力を抜き、そして僅かの間だけまぶたを下ろした。視界を閉ざし、光を失った世界の中で、遠い潮騒の気配だけを掴もうとしている間に、気付けば目当ての駅にまで到着していた。車両を下りると、ホームを覆うガラスの壁の向こうには暗く聳える海道邸が窺える。いつまでも、あの家の姿は変わらないものだなとジンは考える。忽然と、まるで何者かに騙されていたかのように、本当に突然に、黒い要塞があるじを失ってしまってから、もうどれくらいの時間ががすぎたろう。指折り数えるような必要など一切なく、その年月はジンの心に刻まれて、決して褪せずにいるけれど、こうして邸を眺めると自覚せずにはいられない。あの家を支配するのはいまだジンではなく、もうどこにもいないはずの古い亡霊なのだ。ジン自身がそれを望んでいる。そのせいで、いつまでもあんなふうに、異常な暗さで佇んでいる。
 ジンはかすかに憂色を覚え、眉間のあたりを指先で軽く揉んだ。肉体的な疲弊はさほどではなかったが、今回シャンパオで行われた集会がジンの希望に沿うものでなかったことは事実だった。一週間の予定だった滞在期間を二日も早めて戻ってきたのは先方のスケジュール調整に若干のずれが生じていたためで、そうやって凝縮されたはずの五日間についても、実りのある時間を過ごすことが出来たとは到底言い難い。こういうこともあるのか、と半ば感心する気持ちさえジンにはあった。人生には時として、どうしたって上手くいかない物事というのが起こり得るのだと学習した。
 改札を抜ける。気分転換はまだ必要そうだと判断し、ジンは徒歩で海道邸までの道を戻る。駅前は広く開けていて、心に優しく触れる自然の緑と、生活を潤すためのショッピングモールとが上手く溶けあって並んでいた。平日だが、人の姿は思うより多い。ジンはそれらを眺めやり、はたしてこの余分になってしまった二日間を、どう有意義にすごすべきかを考えていた。無論、やるべきことならば山のようにあるのだが、ジンの時間管理能力は決して低くない。数週間先までのスケジュールはきちんと組み終えていて、それらが狂うような心配もほとんどないため、この機に消化すべき案件を探しだすことのほうが難しく思えた。単純に身体を休めるというのも良いかもしれないなとジンは思い、そしてふと視線をあげた。あ、と思った。見つめる先にはフラワーショップがあり、そこは花を売る店なのだからもちろん、建物を飾るようにして色とりどりの美しい草花が並んでいる。
 花を供えにいこう。
 一瞬で、ジンはそれを決めた。ぽっかりと空いてしまった二日間は、そのために用意されたのだろうと、そんなことまで考えた。迷いのない足取りで店先まで歩を進め、赤や黄色の花びらに見つめられながら店内へと足を踏み入れる。さほど広い店ではない。ジンのほかにいた先客はひとりで、その姿はすぐさま目に飛び込んできた。
 彼はまるで、花々と視線を合わせるかのように花弁を覗きこみ、口元に手を当てて真面目な表情を浮かべていた。よくよく見知ったその横顔に、ジンは思わず足を止めて瞠目したが、彼のほうはこちらに気付いていないらしい。世界で一番きれいに咲いた花を探し出そうとするように、それは真剣な吟味であった。
 もしかして出迎えに来てくれたのだろうかという考えが頭を過ぎったが、しかしその可能性は低い。今回、帰国が早まったことを、ジンは彼に伝えていない。たとえどこからか聞いていたとして、空港でならまだしもこんな所で待っているわけはないし、花束が必要なほど長い期間を留守にしていたわけでもない。
「ユウヤ?」
 思わずといったふうにジンが名前を零すと、ようやく、花から視線を上げてこちらを振り向く。彼はまるで突然夢の中から引き上げられたかのような、どこか間が抜けたようにも思えるくらいに驚いた表情を浮かべていた。ただでさえ大きな目をまんまるに見開いて、灰原ユウヤは聞き慣れたいつもの声で、「ジンくん?」と返した。
 それはまるで幽霊とばったり遭遇してしまったかのように猜疑に満ちた声であったけれど、おそらく自分も似たような声音で彼の名を呼んだに違いないのでお互いさまだ。ジンとユウヤはふたりして、思わぬ会合に唖然としていた。駅や道端でならばまだしも、こんなところで出くわすことになるとは、まったく思ってもみなかった。
 ユウヤの驚きはジン以上であるらしく、彼は軽くパニックでも起こしたかのような顔つきで、え、え、と何度か繰り返してから、どうして? と率直に疑問の声を上げた。「中国にいるんじゃなかった?」
「ああ、いや、さっき戻って来たんだ。色々あって、滞在期間が短くなった」
「あ、そう、だったんだ。えっと」
 おかえりなさい、とユウヤは少し目を細めた。ジンはそれに、ただいま、と返す。花屋の店内で交わすのには、少しばかり照れが勝るあいさつであった。こういうことが起こる日もあるのだ。奇妙に新鮮な気持ちを覚えながら、ジンはユウヤの見つめていた花へと視線をやった。薄青い色を咲かせたローズマリー。
「弱ったな」と、ユウヤは本当に弱ったふうな声で言った。「実はねジンくん、僕はきみに隠しごとをしているんだ」
「隠しごと?」
「うん。ここにいるところを、きみに見つかりたくなかった」
 率直なもの言いに、ジンは僅かに首を傾げてから、そうか、とひとつ頷いて返した。素直で堅実な性格は彼の美点ではあるけれど、ユウヤはジンに対して、すこし気を使いすぎるところがある。それはおそらくかつての自分たちの境遇や、今の関係に至るまでの流れに因るものなのだろうけれど、なにも包み隠さずすべてを打ち明ける必要などないのだ。隠しごとのひとつやふたつ、ないほうがおかしいくらいだった。フラワーショップで発覚する秘密なんて、随分とかわいらしいものだとさえ思う。
 淡白だけれど無関心さを感じさせない、いつもどおりのジンの反応に、ユウヤはすこし安堵したふうだった。
「べつに、どうしても秘密にしておきたかったわけではなくって、ただなんとなく、言い出せなかっただけなんだけど……。でも、良い機会なんだろうな」
 言いながら、ユウヤはふと顔を上げた。いつの間にか店の奥から若い女の店員が現れていて、接客用の笑みを浮かべながら、いらっしゃいませとジンに向けて言う。彼女は花束を抱えていて、随分気さくなようすでユウヤのもとへと近付くと、はいどうぞ、と軽い調子でそれを手渡した。「いつもので良かったんだよね?」
「はい。ありがとうございます」
 ユウヤはぺこりと頭を下げ、店員から受け取った小さなブーケに目を細めた。あの青のローズマリーを、細かな草花と真っ白なカーネーションとが覆って、淡い色のフィルムの中できれいに整えられている。
 店員は、ジンをユウヤの連れと判断したらしい。これといって言葉をかけることもせずに、彼女はカウンターの向こうへと戻っていった。ユウヤはその背にもう一度軽く会釈をして、それから、言葉を探すふうに花束を見つめた。彼の浮かべる表情は決して気まずさを隠すふうではなく、むしろ少しそわそわしたような、長く隠してきた秘密を打ち明けることに対するかすかな喜びを感じさせるものだった。ジンは黙ってユウヤが口を開くのを待った。
 あのね、とユウヤはちいさな声で言う。
「お墓参りに、行くんだ。いまから」
 ジンは、ああ、と返した。首肯としての返答のつもりだったけれど、感嘆のような声が出た。僕もそのつもりだったんだと、そう伝えることはしなかったけれど、彼はとうにそのことに気付いていたのかもしれなかった。ユウヤはジンの目をまっすぐに見つめて、黒い瞳のその奥を、ほんの少しだけ揺らがせる。遠い日の記憶が彼の心を引っかいているのが分かる。静寂を保とうとさせるように、なにものかが、ふたりの呼吸を止めている。
 その静けさを打ち砕くために、ジンは言った。
「僕も、いっしょに連れていってくれないか」
 僅かに微笑むと、それに促されるようにユウヤも目元を緩ませた。彼はあたたかな息を吐いて、それから、ありがとうとだけ返した。

「ローズマリーは海の花なんだ」とユウヤは言う。
「お墓に供えるための花っていうものが、よく分からなくて。知らないことは専門の人に訊ねるのが一番だろうと思ったから、あそこのお店の店員さんに聞いてみたんだ。そうしたら、故人が好きだった花や、自分がきれいだと思う花、受け取ってほしいと感じる花、そういうもので良いんですよって言われたんだけど、お店に並んでいるものは本当にどれもとても素敵だったし、自分ではなかなか選べなくって。はじめて行った日は随分困らせちゃったなぁ」
 くすくすと笑いながら、彼は懐かしそうに目を細めた。「ふたりが、……自分の両親がね、どんな色が好きだったのか、どういうものを愛していたのか、そんなことすら覚えていないんだなぁって、そう考えたら悲しくなってきてしまって。それで思わず、海に手向けるんですって言ったんだ。海に関わる花を教えてほしいって」
「海?」
「うん」
 ふたりは海にいるんだ。
 ユウヤはそう言った。花屋を出て、駅に戻り、ふたりしてリニアに乗り込んでいた。七つ先の駅で降りて、そこから三十分ほどバスに揺られる。到着したのは、ジンのまったく知らない土地であった。屋根の低い住宅と古めかしい外装の商店が並んだ、田舎町と呼ばれておかしくない景観がそこらじゅうに広がっている。ユウヤは慣れたようすでバスを降りた。地面に足を付けた途端、草のにおいがする、とジンは思った。都会の道に溢れる緑とはまた少し違った、大きな自然の気配がそこにはあった。
 ユウヤとジンは並んで、坂道の多いその町を歩いた。口数の少ないジンの言葉を補うかのように、ユウヤは饒舌で、いつも以上に機嫌が良いみたいだった。大事に抱えた花束を見やりながら、彼はローズマリーについてを語る。春と秋に咲く花だということ、淡い青色の他にも、白やピンクの花を咲かせるということ、けれど自分はこの色を一番気に入っていて、ほかのショップではなく、あの店で見る色をこそ美しく感じるということ、芳香の強いこの花に与えられた花言葉が「追憶」や「思い出」であるということ、花の学名が「海のしずく」を意味する言葉であるということ。
「花屋さんってすごいんだね。本当に、たくさんの種類の花のことを知っていて、きれいな花束にするために、いろいろな提案をしてくれた。カーネーションはね、母の日に贈る花だから、いっしょにしてもらったんだ。それからずっと、同じアレンジメントを作ってもらってる」
「いつもあの店で?」
「そうだよ。ジンくんもよくあそこへ行くの?」
「いや」
「じゃあ、今日は偶然?」
「ああ」
「すごいね」ユウヤは嬉しそうに笑んだ。「運命的、だ」
 冗談ぽくそんなことを言いながら、ユウヤはゆっくりと歩を進める。山道というには緩やかな上り坂を、まるでまっすぐに引かれた線の上をなぞるようにして踏みしめる。どこからか子どものはしゃぎ声が聞こえて、彼は言葉を閉ざしてそれに耳をすませた。すぐそこに学校があるんだ、とほんの小さな声で言う。「LBXをしている」
「聞こえるのか?」
「聞こえるよ」
 LBXの動く音が、ユウヤの耳には届くらしい。微かなそれは風にかき消されて、ジンには聞きとることが出来ないけれど、でも、彼が言うのだ。間違いない。
 うれしいね、とユウヤが言う。
 その言葉の指す意味を、ジンには正確に読みとることが出来た。LBXが愛されている。子どもたちの手の中にあって、そして自分たちの手の中にある。だれに奪われることもなく、だれを悲しませることもない。優しい風に乗せて、笑い声だけを運ぶ。
「僕らが守ったんだ」
 ジンの言葉に、ユウヤは微笑んだ。歩いてゆくうちに、子どもたちの気配は遠のいたけれど、それはどこにいても、どこへ行っても、自分たちのそばに着いてくるもののように思えた。ふたりはまた少し黙って、まだ陽の高い青空の下をのんびりと歩く。まるであてのない散歩でもしているようだとジンは思い、そして、はたしてどこまで行くのだろう、と考えた。このまま彼とふたり、遠い異国にでも辿りついてしまいそうな気がしたけれど、それを否定するようなタイミングで、唐突に視界が開けた。
 海だった。
 木々の香りの中に突然、強い潮の匂いが混じった。緩やかに続いた傾斜を登り切るとそこは小さな丘になっていて、今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、本当にすぐ足元に、暗い海が青く広がっていた。
 ジンは驚いて立ち止まったが、ユウヤはそのまま歩を進めた。彼の目指す先に墓のようなものはどこにもなかった。ただ、誤って転落することのないように、古い木製の柵だけが低く立ち並んでいる。そのほんの手前まで近づいて、ユウヤは振り返った。風が吹いて、彼の長い髪を危うげに揺らした。
「あの事故に合った人たちの中には、遺体が引き上げられないで、そのままになっている人がたくさんいるんだって。そのことで法的に争っている人や、あの場に居あわせた確証のない、大事な人の帰りをずっと待っている人が、いまもまだたくさんいる。僕の両親もそう。八神さんに調べてもらったんだ。ふたりとも、身体が見つかっていない」
 トキオブリッジ倒壊事故の闇は深い。
 トキオシティの歴史でもって史上最大規模と呼ばれる事故であり、そして事件だった。十数年の時を経て未だ、さまざまな憶測が飛び交っては世の注目を集め続けている。その中心となる被害者はジンやユウヤの家族であり、そして自分たち自身でもあった。いまでも鮮明に、記憶に焼き付いて離れないあの日。すべてが別たれた夜だ。
 ユウヤはどこまでも暗いあの橋の、そのすぐ傍らにひとりきりで立っているようだった。彼はこの場に相応しい感情を探そうとするみたいに、なんだか曖昧な表情を浮かべていて、しっとりと肌に触れてくる潮の気配は、彼自身の内側から溢れてくるものであるようにジンには感じられた。
 ふたりは海にいるんだ、とユウヤは言った。ここに来るまでの道に聞いた言葉と、それはまったくおなじものだった。
「ずっと考えてた。きみが思いもよらないくらい昔から、ずっと、お父さんとお母さんは海の底にいて、僕はひとりだけ、ここに取り残されてしまったんだって、そう考えていたんだ。ふたりは熱い水面に消えていったから、僕もいつか、あそこへ行こうと思っていた。だからね、遺体が上がっていないことを聞いたときは、悲しみや驚きよりも納得する気持ちのほうが大きかったんだ。やっぱりなぁって、そう思った。薄情なのかもしれないけど」
 言って、ユウヤはジンから目を逸らした。再び海を見下ろす、彼の表情が見えなくなるのは不安に思えたけれど、ジンはとなりに立つことをしなかった。視界にはユウヤの輪郭と、それから古びた柵の向こう、ゆらゆらと波が揺れるのだけが見える。ときどき、思い出したみたいに強い風が吹いて、草と海のかおりを混ぜ返してゆく。
「お父さんとお母さんがどこにもいないって知ったとき、どこか、海の見える場所を探そうって、そう決めた。そこをお墓にしようって思ったんだ。海は繋がっているからね。僕がふたりのことを感じられる場所、ふたりを見つけられるような気がする、そんなところを探そうって。きみが忙しくしている時や、遠くに出掛けている日を選んで、いろんなところに行ったよ。なんにも隠す必要なんてないって、頭では分かっていたんだけど、どうしてかずっと言い出せなかった。きれいなところだろう?」
 ユウヤは少し振り向いて、横顔をこちらに向けて笑んだ。ジンが頷くと、満足気にふたたび海を見やる。彼は慣れた手つきで、花束を取りまとめていた包装を剥がした。フィルムから解放されて、ローズマリーの強い香りがほんの一瞬、海の水を追い払うようにあたり一面を支配する。それを咎めるかのように、ひときわ力強い風が吹く。
 あっと思ったときには、さっきまでユウヤの手の中にあったはずの花たちは、風に奪われて空を舞っていた。花びらがちらちらと青空の上に散らばって、そこから、まるで水面に配られるかのように落ちてゆく。
 ジンはその光景を、夢のように見つめていた。一瞬の出来ごとだったのに、視界から花の香りが消え去るまでは、不思議ととても長く感じられた。花びらのすべてが見えなくなってしまっても、ユウヤは当然のようにそこに佇んでいて、ジンはそのことを奇妙に思う。「驚いた」と、思わず言葉にして呟く。
「きみが飛び降りてしまったかと思った」
 どこか間の抜けた口調でそんなことを告げたジンに、ユウヤは心底驚いたふうに目を丸めた。「僕が?」と首を傾げる。「しないよ、そんなこと」
 心外だというふうに、けれど、どこかおかしそうに頬を緩めて、ユウヤはそう返す。ジンはそれに頷いた。もちろん、分かっているのだ。もしも本当にそう感じたのなら、どんな手を使ってでも引き止めている。それが出来る距離にジンはいて、そしてユウヤが、決して自分の目の前から消えることなどないということも分かっていた。知っているのだ。いまの彼が海に身を投じるようなことは絶対にない。
 けれどたしかに花たちは、灰原ユウヤの代わりに海へと消えていった。
 ジンにはそのことも理解出来たので、彼が変わらずそこに立っていることに心から安堵を覚えたけれど、しかしそれ以上を言葉にすることはしなかった。ジンは黙って、まだ陽の高い、青い空の下に広がる海を見ていた。風はふたりのあいだをすり抜けるように吹いていて、もっとずっと、遠い場所からの記憶を運んでこようとしているみたいだった。
 だから、ジンくん、と自分の名を呼ぶその声が聞こえたとき、それがはたして目の前の彼から発せられたものなのか、あるいは遠い記憶の内側から届いたものなのか、ジンには一瞬、判断が出来なかった。
「ねえ、ジンくん。僕は変わってしまっただろうか」
 ユウヤはそう言って、足元に揺れる波間を見つめた。彼はジンの名を呼んだけれど、その問いかけはおそらくこちらに向けられたものではない。ジンはそれに続く言葉を待った。ユウヤはどこか幼げな、怯えたようにも見える表情を浮かべていて、触れてもいない海の冷たさを、全身で感じとっているふうにも見えた。
「今でもまだ、よく、分からないんだ。僕は長いあいだ、自分というものを知らずにすごしてきたように思うんだけれど、だったら本当の僕というのは、いったいどこからやって来たんだろう。きみは僕のことを変わったと言う。きみだけじゃない、昔の僕のことを知っている人たちはみんな、僕の変化に驚いて、そして喜んでくれる。その境目は、きみが与えてくれたものだ。それは分かる。僕はきみに助けられて、そして変化した。変わってゆこうと思ったし、そうするべきだと考えたんだ。きみに救われた命を、正しいかたちで生きてゆこうと決めた。そうしたらね、目に映るもののすべてが、信じられないくらい色鮮やかになったよ。大好きな人がたくさん増えて、心地いいと思える場所にも出会うことが出来た」
 本当に感謝している。
 ユウヤはそう呟いて、それからもう一度、ジンくん、と言った。
「けれどジンくん、僕は、でも、やっぱりときどき分からなくなる。僕は本当に変わったんだろうか。環境が、僕の立つ世界のほうが変わってしまっただけで、それに僕が適応してゆくことが出来た、ただそれだけのことで、本当はなんにも、変わってなんかいないんじゃないだろうか。もしも本当に、きみたちの言うように本当に、僕がまるっきり、別な人間のように全部、全部変わってしまっていたとして、そうしたらふたりは」
 海に沈んだ彼らは。
 もう二度と会うことの出来ない、遠い記憶の中にしか存在しない、大切な人たちは。
「……ふたりは僕のことを、どう、思うだろう。僕自身が理解出来ないくらい変化してしまった僕のことを、ふたりはきちんと、見つけることが出来るんだろうか。あの花は届くのかな。この行為は僕の自己満足だけれど、それは分かっているんだけど、それでもなんだか落ちつかなくて、後ろめたいような気がして、僕はこの場所のことを誰にも言えなかった。きみにすら、秘密にしていた」
 ユウヤは言いながら、左の手で右の肩にそっと触れた。自身を抱きしめるような仕草だったけれど、それはたぶん、変わってしまった灰原ユウヤではなく、それよりもずっと昔の、海の底を夢見ていたころの自分自身を慈しむ行為だった。ジンは静かにそれを見つめて、そうして考える。海辺の花。ローズマリー・ディープブルー。水面に投げ込まれた厚い花びらは、しずくのようにぽとりぽとりと海底へ沈んで、彼の代わりに水中を彷徨っている。なにかを、探しだそうとしている。ジンはその姿を簡単に脳裏に映じさせることが出来た。ジン自身がそうだからだ。彼とは違う、けれどとてもよく似た海の底を、ジンもずっと彷徨い、探し続けているからだ。
 変わってしまったというのなら、自分だってそうだ。
 たくさんのことが起きた。あの事故がなければ、海道ジンという人間が生まれることは決してなかった。海道義光に拾われていなければ。山野バンに出会っていなければ。
 そしてあの病室に彼がいなければ。灰原ユウヤの声をあの日、聞き取っていなければ。
 再会をはたしていなければ。
 きっと全部が変わっていた。なにもかも、夢のように消え失せて、いまのジンを構成するすべては失われる。もしも運命というものがあるのなら、そのような仕組みになっているのだ。ひとつの事象が幾重にも組み上がって生まれる。
「きみは変わったよ、ユウヤ」
 ジンは呟いた。ほんの、かすかな声だった。それは彼に伝えるための言葉というよりは、ジンの内側からぽろりと零れ出た、温かな笑い声のような一言だった。けれどもちろんそれはユウヤのもとにまで届いて、そしてその、冷たく強張った頬を少しだけ溶かす。深海を求める花びらを一粒、掬いあげる。自分の声に彼の心を柔らかくさせる力があるということを、ジンは知っていた。
 昔から、ずっと、知っているのだ。ジンはおかしく思ってこっそりと笑んだ。今度はひとりごとのような声ではなく、はっきりとした、目の前にいる彼へと言い聞かせるための声音で言う。「ユウヤ、きみは変わった」
「そうかな」
「ああ。はじめて会ったときは、もっと泣き虫だった」
 ぎくりとするふうに、ユウヤは目を丸め、ついでジンから視線を逸らした。ああ、だとか、うう、だとか、なにか誤魔化すような擬音を口にしてから、そうだったかな、と彼は苦笑いを浮かべてみせる。
「きみは寂しがり屋で、すぐに泣いていた。昼間は無口で、あまり感情を表に出さない子どもだったのに、夜になると不安ばかりを口にする。涙でしか、上手に感情を表現出来ないみたいだった。……あの頃に比べると、随分、お喋りになったな」
 ジンの言葉に、ユウヤは恥ずかしげに眉を下げた。ごめん、と照れくさそうに言う。ジンはくすりと笑った。
「別に、責めているわけじゃない。むしろ嬉しいんだ。言葉を尽くせばそれだけ、きみの世界が輝いているのが僕にも伝わる」
「……ジンくんは、あまり喋らなくなったよね」
「そうだな」
「けれどきみは、昔から変わらない」
 ユウヤはまじまじとジンの両目を覗きこみ、なにごとかを確かめるように何度か軽く頷いてみせた。どうしてだろう、と彼は言う。「きみは昔から、ずっと、同じ目をしている」
「僕だって変わったさ」ジンは苦笑した。「同じだと感じるのなら、それは僕を見るきみの心が変わっていないという、ただそれだけのことだ」
 ユウヤ、とジンは彼の名を呼ぶ。すると彼はこちらを見る。ジンのことを、見つめ返す。
「きみがどんなふうに変わっても、僕はきみを見つけ出した。それと同じだ。きみの両親がきみを見失うことはないし、あの花たちは必ず、彼らに届く」
 僕の花も。
 心の中で、ジンはそう付け足した。死者を思うことに気後れや虚しさを感じる必要はないのだ。そんな当たり前のことを、今さらのように強く実感する。暗く聳える海道の屋敷、そこに根強く君臨し続けるかつてのあるじ。実の両親の墓は彼が建ててくれたけれど、彼自身の棺桶に、その遺体は眠っていない。
 看取ることが出来なかったこと。変わってゆくことを選んだ自分を、見せることが出来なかったこと。心には多くの悔恨が残っていて、それが今でも、海道ジンを海道ジンのままであらせようとしている。この場に立たせようとし続けるのだ。それを疎むことはもちろん、引け目を感じるようではいけない。それこそ、合わせる顔がないではないか。
 はたしてジンが誰のことを考えているのか、ユウヤには手にとるように感じられるらしかった。彼はジンの心の奥を見透かすように、どこか寂しげに微笑んでみせる。それでいて、なんにも知らないふうに幸福そうな表情を浮かべて口を開く。「きみはいつも、僕がほしいと思っている言葉をくれる」
「そうかな」
 決してそんなことはないと、ジンはそう思うけれど、ただ彼を傷つけるような言葉を避けているだけにすぎないという、その自覚があるけれど、しかしユウヤ自身がそう言うのだから否定はしない。そんな躊躇すら視えているというふうにおかしげに笑んで、そうだよ、とユウヤは返す。「いつだってそうなんだ、ジンくんは。昔からずっと、きみは海道ジンだった」
 彼はすっきりとしたようすで、最後にもう一度だけ水面を見やった。また来るね、と、くちびるだけでそう告げるのが見えた。
「そろそろ帰ろうか、ジンくん」
 潮騒に背を向けて、ユウヤは歩き出した。その歩みと並んで、ジンもあの海から一歩ずつ離れてゆく。海のしずくの花びらは、きっと一枚も残らず波に飲まれたに違いない。彼らのもとへと沈んでいった。海の底。美しい思い出では決してないけれど、それでも、海底に満ちた花びらたちはきっと優しい香りを運ぶ。
「次は僕の墓参りにも付き合ってほしい」
 ジンがそう言うと、ユウヤは嬉しげに頷いた。下り坂を進むうちに、行き道と同じ、子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくる。甲高い歓声に混じるように、聞き慣れた機械音が、今度はジンの耳にも届いた。ほんとうだ、と思わず口にする。「LBXをしている」
 呟きに、ユウヤはふふっと笑った。
「僕らが守ったんだ」と、今度は彼がそう言った。

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