神さまの宝物 ―コウスケとユウヤ
足元になにかが転がっていることに気がついた。
黒くて丸いそれはどうやら人の形をしていたので、コウスケは反射的に、幽霊だ! と思って身構えた。広く薄暗い、器材ばかりが並んだ部屋の中で、ふつうの人間が膝を抱えて丸まっているわけがなかった。それはとても小さな、七歳だとか八歳だとかくらいの、ほんの子どもの幽霊で、薄い布切れみたいな服を着て、部屋の隅でじいっと俯いてうずくまっている。
十二歳の神谷コウスケは、このころにはすでに、自分が神に選ばれた特別な人間であるということを自覚していたけれど、オバケを見たのはさすがに初めての経験だった。この目撃はおそらく、自分にまたひとつ、新たな力が課せられたがゆえの出来ごとなのだろうと、コウスケは内心でひそかに途方に暮れた。今でも充分すぎるほどあらゆる才に恵まれた自分が、霊能力にまで目覚めてしまったとなると、いくらなんでも与えられすぎてはいないだろうかと思った。もちろん、それが神谷コウスケという存在に望まれた世界のルールであるのなら、まったくやぶさかではないのだけれど。
思いながら、コウスケは子どものようすを窺っていた。黒い髪、黒い目、白い肌。コウスケにはハッキリとその姿が見えているというのに、幽霊の方にはこちらが見えていないらしい。ただ黙って、どこだかよくわからない場所に視線をやっている子どもに、コウスケは呆れて嘆息した。この僕を無視するなんて、と憤慨したい気持ちにもなったが、なにせ相手は死人であったので、文句をいっても仕方がない。
部屋の中は相変わらず薄暗かった。コウスケは暗い場所があまり好きではないので、出来ることなら灯りをつけたかったのだけれど、しかしその方法が分からない。そもそもここがどこであるのかすら、コウスケは理解していなかった。父を探して歩いていたはずが、いつの間にか、見たこともない場所に辿りついてしまっていた。
迷子になったわけではない。それはもちろん、誰に言われるまでもなく分かっていた。道に迷ったというわけでは決してないのだ。神谷コウスケともあろうものが、たとえ滅多に足を運ぶことのない不慣れな建物の中とはいえ、誤った道を選んでしまうなどということは絶対にありえない。
だからこれは、この場所にコウスケが招かれたことは、この幽霊と出会うための運命であるのに違いなかった。天から受けた采配に、コウスケは満足気にひとつ頷いて、それからふと、気がついた。
「さてはお前、加納くんのところで実験台にされたな」
ははあん、と、コウスケはさも真実を言い当ててやったというふうに得意気であったが、子どものほうはというとまったくの無反応であった。コウスケはさすがにムッとしたが、しかし、幽霊相手に本気で腹を立てるほど大人げなくはない。神谷コウスケはもう十二歳で、じきに中学一年生になるのだ。A国への留学だって決まっている。そう簡単に、ちいさな子ども相手に怒り出したりはしないのだ。
とはいえ、無視をされることはやはり面白くない。どうにかしてこちらを認めさせようと、コウスケは足を伸ばして子どもを軽く蹴ってみた。ついでに、「おい」と言葉を掛ける。「このボクに話しかけられているんだぞ。なにか、言うべきことがあるだろう」
ここまで口にして、ようやく、子どもはちらりとこちらを見やった。長い前髪から覗いた、片方の目だけがきょろりと動き、無表情にコウスケを見上げている。不気味な、とても奇妙な子どもであった。死人みたいに、青白い頬をしていた。目元が少しくぼんで、なんだかぐったりと、疲弊したふうな表情を浮かべている。
コウスケはそれらを、仕方のないことだと考えた。幽霊なので、死人のような顔色をしているのは当然だし、そもそも加納義一のもとですごしていたのなら、きっと生きていたころからこんなふうだったに違いない。ボロ雑巾みたい、とコウスケは思った。それから、いつだったか誰かがたしか、こんなふうになってしまった哀れな実験対象のことを、なにやら珍しい言葉で呼んでいたなということを思い出した。
「なんだっけ、ええっと、サンプルじゃなくて、失敗作じゃなくって……」
記憶を探る。加納義一の、まったく美しくない横顔が脳裏をよぎる。コウスケは手を打った。喉元まで引っかかっていた単語が閃いたことで、思わず満面の笑みを浮かべていた。
「あ、そうだ。出来そこない! お前、加納くんのところの出来そこないのひとつなんだろ!」
そう言った、その表情こそ笑顔であったものの、コウスケはしかし、この幽霊に心底からの憐みを感じていた。なにを隠そうコウスケ自身が加納義一のことをまったく快く思っていなかったので、あんな男に実験材料にされる人生など、想像するだけで気分が悪くなるというものだ。同情してしまうのも仕方がない。
出来そこないはなにも言わなかった。虚ろな視線をコウスケに向けたのはほんの一瞬のことで、気付けばまた、どこか別の場所を見つめている。細い指を床に這わせて、彼はもしかしたら、どこかへ行こうとしているのかもしれなかった。死んでしまったいまになってようやく、加納のもとから逃げ出そうとしているのかもしれない。コウスケは思いながら、子どもの隣に腰を下ろした。地べたに座るなんてまるで猿みたいな野蛮な行為だけれど、でも、たくさん歩きまわって疲れてしまったのだ。器材置き場とはいえ、生体サンプルを多く扱う実験施設である。埃ひとつない床はきれいすぎるほどにきれいで、だから、このタイルはコウスケに腰を下ろして貰うために作りだされたものに違いないのだった。座ってやらないと報われない。
「加納くんはさぁ」と、コウスケは呟く。ひとりごとのような声音であったが、どうやら幽霊はこちらを認識しているようだったので、一応これは、会話なのだ。軽く唇をとがらせ、コウスケは言った。加納義一は。
「変人なんだよね。っていうか、変態なのかもしれない。ダディはとても優秀な科学者だって言うけれど、ボクからすれば、気持ちが悪いよ、あのオジサン。お前もそう思うだろう?」
コウスケの問いかけに、子どもは答えなかった。虚ろな目で遠くを見つめている、その表情は、しかしどことなく肯定的だ。コウスケは勝手にそう解釈した。そうだろう、そうだろう。まったくあの加納義一という男は、なにやら気味が悪く、おぞましいのだ。誰の目から見たって、きっとそうに違いない。
「今、ちょうど、加納くんの研究室でなにかあったみたいだよ。そのへんを走ってた、白衣のやつが言ってた。よくわからないけど、大変なことになったんだって。だからボクのことも放りっぱなしで、この施設にいるみんな、ずっとバタバタ走りまわってる。まったく、美しくないったら」
子どもはやはり無表情に黙り込んでいた。コウスケはその顔を覗きこんで、それから、にやりと笑んだ。「どうだい、イイ気味だろう?」
「…………」
「加納くんってさあ、ボク、ホント嫌い。なんかねえ、ベタベタしてるんだよね。視線が。お前も知ってるだろ、あの目、ヤだよね。気持ち悪いよ。だってアイツ、このボクのことまで、自分の飼ってる実験動物と同じ目で見るんだ。分かるかい? お前みたいなのと、このボクが、あの男の目にはおんなじふうに見えてるんだよ。信じられないよね。ああ、思い出すだけで虫唾が走る」
言いながら身震いする。加納義一の暗く曇った眼鏡、その奥の目がふたつ、退屈そうに幼いコウスケを見つめていて、それからふと、急に眼球の色が変わる。かすかな興味を携えて、コウスケを見やる。白衣の片腕がにゅうっと伸びて、この右目に触れてくるより先に、コウスケはぱっと身を翻した。もう何年も前の記憶だ。思い出すたびに、眉をひそめずにはいられない。
嫌いだ、とコウスケは思った。
「ボクのことをああいう目で見るヤツって大嫌い」
嫌悪の感情は意図せず言葉として口から飛び出たが、聞かれて困るようなものでもないのでコウスケは意に介さない。出来そこないの幽霊だけが、隣でぼんやりとどこかを眺め、僅かにくちびるを開いたかと思ったらなにも言わずに再び閉じた。コウスケは鼻を鳴らした。このボクがユーウツそうにしているっていうのに、慰めの言葉ひとつないだなんて、なんて礼儀知らずなヤツなのだろうと思った。
けれど、幽霊なのだ。仕方がない。それも加納義一みたいな最悪なヤツに、いたぶられて、ボロ雑巾みたいにされて、その挙句に死んでしまった。彼はとても、とてもかわいそうな子なのだ。
かわいそうな子には優しくしてあげなくちゃ。コウスケは思い、自分に言い聞かせたが、しかし優しくするというのははたしてどんなふうな行動を指すのだろう。そういった一般市民の感覚は、神に選ばれた存在であるところのコウスケには、ほんの少しばかり理解がむつかしい。誰かのためになにかを行うことは簡単だが、その「なにか」が、本当に相手の喜ぶことなのかどうかなんて、コウスケみたいな特別な人間に分かるわけがないではないか。あまつさえ、相手は死人であるのだからなおさらだ。
そんなことを考えながら、コウスケは自分が目の前の子どもになにをしてやるべきなのか、なにか出来ることがあるのだろうかと少しばかり思案したが、しかしすぐに飽きた。出来そこないの境遇には同情したが、だからといって、とりたて気を使ってやる義理などない。子どもは相変わらず無表情にどこかを眺め、ときおりコウスケのほうをちらりと見やる。薄いくちびるが、かすかに呼吸だけ繰り返している。全身に貼りついた青白い皮膚をぺろりとめくってしまえば、途端に、濃厚な死のにおいが溢れてきそうだった。
孤独と、沈黙と、破壊の気配。
コウスケは、ふと、自分の右の目に触れた。眼帯の巻かれたほうの目。人とは違う、特別な目。
なんとなく、自分はこの幽霊のことを嫌いではないなと、コウスケはそう思った。
「ねえ、ボク、聞いたことあるよ。加納くんのところには、ミヨリのない子どもがたくさんいるんでしょ」
「……」
「集めてるんだってさ。大事な実験に、サンプルがたくさん必要だから。センセの信じる未来のためにね。ボク、加納くんはキライだけどセンセは好き」
「……」
「実験はね、上手くいってるんだって。ダディが言ってたよ。成功したって。完成までもう少しだって。すごいのがひとり、いるんだってさ。優秀で、最適で、完璧らしいよ。まあ、だからって、ボクよりすごいってわけじゃないとは思うけどね」
「……」
「で、お前はその、すごいやつのために死んじゃったんだ。かわいそう。誰かの踏み台にされるなんて、ボクなら絶対に耐えられないけど、でも、仕方ないよね。死んじゃったものはどうしようもないんだから」
「……」
「これからどうするんだい? どこかへ行くつもり?」
「……」
「ねえ、死んだらどこへ行くんだろう?」
「……」
「天国ってさ、いったいどこにあるんだろうね」
コウスケの言葉に、子どもは口を閉ざし続けた。変わらず、薄暗い色をした頬に腑抜けたような表情をぺたりと貼り付けて、細く細く呼吸だけを繰り返していた。返事を寄こさない出来そこないを、コウスケはやはり失礼なヤツだと思ったけれど、不思議とそう腹は立たなかった。それどころか、かわいそうな出来そこないはヒトの言語すら失って、この世をひとり彷徨っているのだと考えると、なんだか気の毒に思えてくる。
「うみ」
と、だから、暗い室内に突然ぽつりと落とされたその言葉が、よもやその出来そこないの放ったひとことであるとは、コウスケには一瞬理解出来なかった。はてなにか聞こえただろうか、と小首を傾げ、となりに座りこんだ小さな幽霊を見やると、暗い片目はなにかを羨望するように宙を見つめていた。
「いま、なにか言った?」
コウスケの問いかけに、子どもは答えた。こくりと頷き、そして言う。
「……うみのなか」
それが、天国はどこにあるのかというコウスケの呟きに対する返答だということには、すぐに気が付いた。海の中。海底に光は届かない。暗い、暗い世界だ。そこに楽園が広がっている。誰の目も届かない場所に。
「……そこに行くの?」
コウスケが訊ねると、幽霊は、静かに首を横に振った。行けない、とくちびるが動いた気がした。ふうん、とコウスケは軽く頷き、そうしてから、海の中かぁ、と呟いた。
「変なの。そんなの聞いたことがないよ。ふつう、天国って空にあるものなんじゃないの?」
人は死んだら星になるのだ。コウスケの母親がそうなのだと、みんな口を揃えて言う。コウスケの母は、なるほど神谷コウスケを孕むのに相応しい、うつくしい容姿の女であったが、性格はとんでもなく最悪だった。わがままで、強欲で嫉妬深く、自分のことしか愛していなかった。そんな母でも死ねば星になれるというのだから、天国の門戸は広大だ。
海の中か、とコウスケはもう一度ちいさく言った。
「海にも天国があるっていうのなら、だったらボク、そっちにしようかなぁ」
コウスケの母親は本当の本当に最低最悪で、こともあろうに、そう、こともあろうにこの神谷コウスケに向かって、気味が悪いだの悪魔の子だなどと散々な言葉を浴びせかけ、それを償いも反省もしないまま、ある日突然死んでしまった。コウスケは母のことを許しがたく思っているが、とはいえ、なにせあんまり幼いころの出来ごとなので、彼女の記憶そのものがあいまいだ。母が醜く愚かな女であることは明白だが、憎むにしたって印象が薄すぎる。コウスケの人生には母のいない時間のほうが多かったけれど、その分、それ以上の愛情を父が注いでくれているので、これといった申し分も感じてはいなかった。
「ボクはね、とてもすごい、すごい子どもなんだ。ダディが言ってたから間違いないんだよ。コウスケは神さまに選ばれたんだって、ダディがそう教えてくれたんだ。お前、ダディのことは知ってる?」
「……」
「神谷藤吾郎。いくらお前でも、聞いたことくらいはあるだろう?」
出来そこないは、ゆっくりとひとつ頷いた。こんな羽虫みたいな存在でも父のことを知っているのだという事実に、コウスケは嬉しくなってにっこりした。出来そこないにしてはなかなかのものじゃないか、と思った。
「ダディがね、神さまは空にいるよって言うんだ。コウスケのママは死んでしまって、いまはお星さまになってしまったけど、コウスケは神さまに選ばれた子だから、いつかママとおんなじところに行けるんだって。ダディにとっては、あの女も特別なひとなんだ。ボクには理解できないけど、でも、ダディがそう言うんだから間違いないんだ。ボクとママは似ているんだって。信じられないよね。ボク、お星さまにはなりたくない」
海にも天国があるのなら、とコウスケは思った。そっちがいいな、と考えた。そうしたらもう二度と、あの母親に会わなくてすむ。
出来そこないの幽霊は、はたしてコウスケの話を聞いているのだかいないのだか、虚ろな片目をさまよわせ、まるで気力のようなものを感じない。死んでも、こんなふうに、天国に行けないやつがいるのだ。コウスケは出来そこないをやはり哀れに思った。母や加納義一なんかより、こいつのほうがよほど無害に違いないのに、世界のルールとはなんて理不尽なのだろうと思った。
眼帯に触れる。
母はコウスケの右目を罵った。だから嫌いだ。
加納義一はコウスケの右目に好奇を示した。だから嫌い。
出来そこないはどうだろう。コウスケはこの幽霊と、もちろん今日はじめて出会ったのだけれど、彼のとなりに座るのはなんだか奇妙に心地が良くて、理由は分からないけれどすこし楽しい気持ちになってきている。出来そこないはコウスケの言葉を無視するし、なにを考えているのやらさっぱり分からないけれど、それはまあ、出来そこないなのだから仕方がない。かわいそうな子なのだ、彼は。それも悪いのは彼自身ではなく、あの加納義一という気味の悪い男なのだ。
「ねえ出来そこない。ボクね、ずっと、天国は空にしかないものだって、そう思ってた。でも、今日から考えを改めることにするよ」
言いながら、コウスケは、他人の言葉を聞き入れて自分の考えを変えるということをするのは、そういえば生まれてはじめてのことかもしれないなと思った。「天国は海の中にもあるんだ」
たぶん、ふたつに分かれているのだ。コウスケはもちろん死んだことなんて一度もないから、この目で見たことこそないけれど、神に選ばれた自分がそう思うのだ。きっと間違いなかった。
空の星。どこにいても、だれといても、視線を上げれば見つけられる。向こうからも、すぐに、見つけられてしまう。あの女もきっとそうだ。コウスケを見下ろし、そしていまもコウスケのことを嫌っている。醜い女。つまらない女。明確な記憶が残っていなくても、醜悪であることだけは理解できる、けれど写真に残る姿だけは美しいままの母。
彼女は星だ。きらきらと輝いて、上辺だけの主張を繰り返す。そんなのはいらない。コウスケはそんなものになりたくはないのだ。
いいことを教えてあげる、とコウスケは出来そこないに囁いた。出来そこないは、やっぱり、なんにも興味がないというふうにどこか遠いところを見つめていて、だからコウスケは、こいつはきっと海に行きたいんだと、そう思った。海の中にある死者の国、そこに向かうことこそが、この子どもに残されたたったひとつのしあわせなのだ。コウスケは哀れな出来そこないを弔うような気持ちで、とてもちいさな声で、特別な秘密をそっと打ち明けた。
「本当に大切なものはね、隠されているものなんだ。見てごらん」
右の目に触れる。眼帯を外すと、赤い色の眼球が姿を現す。両の目を人に見せるのは本当に久しぶりのことだった。コウスケは言った。「ボクは特別なんだ」
「……」
「神に選ばれたんだよ。ダディがそう言ってた。ボクのこの目のことをね、悪く言う人がときどきいる。そういうやつらは、みんな、なんにも分かっちゃいないのさ。ボクは特別なんだよ。この右目がそのあかし。だからね、普段はずっと、隠しているんだ。ダディがそうしたほうが良いって。どうしてだか分かるかい?」
出来そこないは黙っている。コウスケのほうを、見もしない。
でも仕方がないのだ。この子どもは、だって、かわいそうな幽霊なのだから。分かるわけがないのだ。コウスケがどれほどすごい人間なのかなんて。
「宝物は、宝石箱に入れておくだろう? それで、当たり前なんだ。大切なものは、見せびらかさずに、そうっとしまっておくべきなんだ。そうしないと価値がなくなっちゃう。ボクは特別だからね、この目は大事に、大事に、誰にも知られないようにしないとダメなんだよ」
本当に大切なものは隠しておかなくちゃいけない。
父がそう言ったのだった。コウスケが幼いころ、そう、言ったのだ。母にぶたれて泣いていた。色の違う目が気持ち悪いのだと女は喚いた。父はコウスケの右目を塞いで、隠しておきなさいと告げたのだ。
宝物だから。
それは神さまのものだから。コウスケは特別だから。
だから誰にも見せないで、絶対に、ほかの誰にも見せないで、知られないようにしなさい。
隠しておきなさい。
だれにもバレないように。見つからないように。
お前は特別な子だからね。
「分かるかい、ボクは特別な子なんだ。神さまに選ばれたんだよ。宝物を持ってる」コウスケはふふっと笑った。言葉の上手く扱えない、ボロボロの出来そこないにも、この目を見ればそのことを理解できたに違いなかった。
「海の底の天国も、きっとこれと一緒だ。特別だから、隠れているんだ。ボクは特別だから、そのへんのやつらとおんなじお星さまになんて絶対にならない。ボクはまだまだ死なないけれど、でもそのときは、だれにも見つからない場所に行くことにするよ。本当は秘密にしておかなくちゃいけないんだけど、お前は天国の場所を教えてくれたからね。そのお礼だ」
出来そこないは不思議そうな顔で、コウスケの赤い右目に少しのあいだだけ視線をやったけれど、やっぱりすぐに、宙を見やった。相変わらず、この世になにひとつの関心もありませんといったふうな表情のままだった。まったく話し甲斐のないやつだとコウスケはすこしばかり不服であったが、この幽霊に大きなリアクションを期待するほうが間違っていることにはさすがにもう気が付いていたので、仕方なく、元の通り右目に眼帯を当てる。「ボクの目を見てなんにも言わないやつなんてはじめて会ったよ」
だいたいの人間は、驚いたり、むやみに褒め称えたりしてくるものだ。コウスケはそう考え、けれど、そうではないと思いだす。そういえば、と小さく呟くと、出来そこないがちらりとこちらを見た気がした。
「海道センセは、なんにも言わなかった」
まったくの独りごとだった。コウスケがこの世で唯一愛する人物は父である神谷藤吾郎であったが、敬愛する人物は海道義光のみであった。義光はコウスケに隠された宝物を知っている。「あと、それから、海道ジンも」
彼の場合はおそらく、コウスケにさして興味がないだけなのだろうけれど。
コウスケの呟き声に、出来そこないは僅かに顔を上げた。どうしてだか少し、びっくりしたふうに目を見開いて、こちらをじいっと見つめてくる。コウスケは驚いた。空洞みたいに丸い眼球が、コウスケの内側になにかを探しだそうとするように、瞬きもしないで視線を寄こす。真っ暗な目。
「な、なんなのさ」コウスケは小さく言った。いったい急にどうしたんだろうと思った。出来そこないの長い前髪がゆらりと僅かに揺れて、色のないくちびるの隙間からは、今にもなにか言葉が生まれてきそうだった。死人の目が無言のままでこちらを覗きこむ。コウスケは思わず背筋を震わせた。この幽霊のことを、はじめて、心底から気味が悪いと感じた。
本当に大切なものは隠されている。
急に気分が悪くなってきて、コウスケは喉を詰まらせた。この子どもは、もしかしたら、実のところまったく出来そこないなどではなく、むしろこの研究所の中枢を担う被験体、加納義一の秘蔵の成功例なのではないかとふいに思った。父も、海道義光も、本当はこの不気味な子どもをこそ欲しているのではないのだろうか。自分ではなく、この子どもを。
コウスケは顔をしかめた。
その考えを否定するみたいに、素早く手を伸ばし、彼の前髪を乱暴にかきわける。
鬱陶しく額を覆い、目元まで隠した長い前髪。
その下に隠された彼の右目が、なんの変哲もない、ただの黒い目玉であったので、コウスケはほっと胸を撫で下ろした。「ボクは特別なんだ」ともう一度言った。「神さまに選ばれたんだ。だから、特別なのはボクなんだ」
出来そこないはふいとそっぽを向いた。なにごともなかったように、また、なにかのかたまりみたいに膝を抱え、床にうずくまる。その姿があんまりちっぽけで、最初に感じたようなボロ雑巾そのものだったから、コウスケはつい先ほど覚えた恐怖のような感情をすっかりと忘れ去り、あーあ、と大袈裟に嘆息してみせた。なんだかバカみたいだなと思った。こんな、どうでもいい相手なんて放っておいて、早く父を探しに行かなければ。
「なあ出来そこない」
「……」
「ここで会ったのもなにかの縁だし、ボクがお前を成仏させてあげるよ」
「……」
コウスケは立ち上がった。「海に行きたいんだよね」と訊ねると、子どもは少しだけ顔を上げた。頷きはしなかったけれど、こちらに向けられたその視線こそ首肯であるように、コウスケには見えた。うむうむ、と鷹揚に頷く。
「だったら、ボクが連れていってあげる。いまからすぐには行けないけど、運転手に頼んで、車に乗って、そしたらきっと何時間もかからない。明日、学校が終わってからもう一度ここに来るから、それまで大人しく待っていなよ」
出来そこないはなにも言わなかった。薄暗い器材置場の片隅で、変わらず膝を抱えたまま、自分がどこからやって来たのかも分からない幽霊みたいに、じいっと丸まって座りこんでいた。
結局その日、施設で父を見つけることは出来なかった。
ひとりで家に戻ったコウスケは、さっそく、いつも送迎をさせている運転手に、明日の夕方、海が見える場所に車を出すよう指示した。運転手は訝しげな顔をしたけれど、人助けだとコウスケが言いきると、しぶしぶながら受諾した。前々から少しばかり態度の悪い男だと感じていたので、父に頼んで解雇して貰おうと考えたが、その日も父が帰宅してくることはなかった。
仕方がない。ダディは忙しいのだ。
コウスケは眠る前に、父親に一通メールを送る。今日の学校での成績と、LBXの訓練での戦績を報告し、それから、急に会いたくなったので神谷重工の本社にまで探しに行ったこと、どうやら別の研究所に視察に向かっていると聞いて、そこまで足を運んだこと。運が悪く会うことは出来なかったけれど、改めて神谷重工の持つ力の大きさを感じとったこと。それから、いまの運転手は気に入らないから変えてほしいということ。
世界で一番愛しているダディへ。
父は忙しいので、当然メールは返ってはこない。コウスケは眠って、朝になって、そしたらまだ運転手はおなじ男のままなので、とりあえずそのまま学校へ行き、低俗なクラスメイトたちと下らない授業を受けて、学校が終わったら神谷重工のLBX研究開発室へと向かう。運転手はまだ変わらない。コウスケがLBXを操ると、だれもかれもまったく相手にならなくって、最近はあんまり面白くないのだけれど、開発室のひとびとは大喜びでコウスケを褒め称えるので悪い気はしない。
運転手が別の男になったのは二日後の朝だった。
コウスケが海に連れてゆくように命じると、今度の運転手は仰せのままにとにっこり笑った。その笑顔がいまひとつ胡散臭くて、コウスケはこいつも好きにはなれないなと思ったけれど、ともかくいまは父がお願いを聞き届けてくれたことが嬉しかったので、上機嫌で学校へと向かった。帰り道、あの研究所に車を走らせる。映画で見るような分厚い扉に覆われた場所。
施設の内部は、先日とは違って静かだった。どうやら例の騒動は収まったらしい。付き従おうとしてくる白衣の連中を追い払って、あの器材置場へとむかう。間違っても加納義一なんかと鉢合わせしたりしないように、慎重に歩く。
辿りついた薄暗い部屋に、しかし、出来そこないの姿はなかった。
相変わらず、どこを触れば照明が付くのか分からなかったので、コウスケは慣れない視界にきょろきょろと視線をさまよわせながら、室内を行ったり来たりした。子どもはどこにもいなかった。先日、彼が座っていたはずの床の上には、なにやら黒い、血痕のようなものだけが残っていたので、コウスケは思わず「あらら」と言った。成仏したというわけではなさそうなので、少しだけ、残念に思った。
せっかく準備してきたのに、待っていろと言ったのに。
まったく、こんなふうだから出来そこないなんて呼ばれてしまうのだ。コウスケは嘆息した。腕を組み、頬をふくらませる。
「つまんないのっ」