キノフロニカ - 4/5

彼女と夜の調べ ―ランとユウヤ

 LBXなんて子どもの遊びだと思っていた。
 手のひらサイズのちいさな機械で、ぽちりぽちりとボタンを押して、やはり手のひらサイズのロボットを操って戦わせる。それのどこが楽しいのだか、ランにはさっぱり理解できなかった。指先を忙しなく動かすだけの遊びより、身体を鍛え、自分の力で戦うスポーツや格闘技のほうがよほど健康的だし、ライバルと出会う楽しさ、強くなることへの喜びに満ちているというものだと、ずっとそう考えていた。クラスメイトや友だち、ときには大人たちまでがその小型ロボットに夢中になるさまは、なんだか幼稚で、安っぽく見えた。正直に言うと少しだけ、バカにするような気持ちさえあったのだ。
 毎日のようにそこらじゅうで、誰かが誰かとバトルを繰り広げている。教室で、公園で、歩道で、あらゆる場所に強化ダンボールは現れて、どこもかしこも小さな戦士のフィールドだらけだった。それらを視界の隅で眺めながら、腑に落ちない、とランはこっそり頬を膨らませる。
「もしもあたしが公園で急に道着に着替えて組み手をはじめたら、間違いなく変な目で見られるのに」
 LBXだけ許されるなんてそんなのおかしい。憤慨したようすでそう訴えるランに、友人のユキは苦笑いを浮かべる。
「言いたいことは分からなくもないけど、でも、ランはべつに、公園で組み手がしたいってわけじゃないでしょ?」
「そりゃあそうだけど……」
「じゃあ、べつに怒ることないじゃない」
 ね、とユキはランを宥めるようにそう言った。にっこりと笑みを浮かべる、彼女のその表情が、しかしなにやら胡散臭い気配をまとっていたので、ランは思わず眉をひそめた。「ねえユキ」と友人の名を呼ぶと、ぎくりとしたふうに笑顔が硬くなる。間違いない。
「なにかあたしに隠しごとしてるでしょ」
 じっとりと睨めつけるようにそう言ってやると、ユキはすぐさま降参した。ランには敵わないなぁ、と嘆息しながら、けれどどこか楽しげな弾んだ声で、実はね、と鞄からなにか小さなものを取りだす。
「買っちゃった。LBX」
 彼女の手の中には、テレビかなにかで見覚えのある、いかにもロボットですといったふうな見た目のLBXがちょこんと乗っていた。ランは思わず絶句し、その機械と親友の顔とを何度か見比べたが、彼女はこれといって悪びれたふうもなく、僅かにはにかんでみせるだけだった。
「昨日お店で触ってみたらとっても面白くって、お母さんに頼んで買ってもらっちゃったの。ごめんね?」
「う、裏切りものぉ……」
 がっくりと肩を落とすランに、ユキは軽い調子で笑ってみせた。べつに、LBXを持っているからといって、彼女のことを嫌いになるわけではない。そういうわけではないのだが、ランはしかし、ついにここまで来たか、と敵兵のあまりの脅威に心から慄いていた。こんなに身近なところにまで、LBXに魅了される者が現れてしまった。
「そんなに敵視しなくたって、LBXはランに攻撃してきたりしないわよ」とユキは笑う。彼女は手に入れたばかりのおもちゃを愛しげに指先でつっついて、まだ新しい、ぴかぴかと光る機体の表面を撫でていた。
「べつに、敵視なんてしてないもん」
「そう?」
「そうだよっ」
 なら良いんだけど。ユキはそう言ってやはりくすくすと笑い、小さな機械をふたたび鞄にしまいこんだ。ランはちょっとだけそれを恨めしく思ったけれど、ムキになっても仕方がないので口をつぐむ。ユキにはランの思考が透けて見えるようで、彼女はやっぱりおかしそうに、けれど少しだけ申し訳なさそうに、いつもどおりの笑顔を浮かべていた。
 LBXという名の、謎の魅力を持ったとんでもないおもちゃは、こうやってランのすぐ傍にまでやって来た。ユキは決してLBXを無理に勧めてくるようなことはしなかったし、パーツの買い出しやメンテナンスのためにショップへ赴くときは、ランを誘うことなく一人で、あるいは別な友だちと出かけていたけれど、それでも気になるものは気になった。LBXを購入してからというもの、彼女の表情がなにやら生き生きとして、本当に楽しげであることは誰の目からも明らかだった。
 最近になってLBXをはじめたという友だちは、ユキばかりではなかった。学校ではもはや、LBXを触ったことがないという子のほうが珍しいくらいだったけれど、ランは意地を張るように、その珍しい子どもで居続けた。ダッセェ、と笑う男子もいたが、そういうやつらはことごとく、実際の腕っぷしではランにまったく敵わなかったので、そんなやりとりをするたびに、ランのLBXへの対抗心はいっそう燃えあがり、二度と鎮火などされないのではないかと思われた。
 あんなの、自分の力に自信のないやつが、ロボットを使って強くなったつもりになっているだけじゃない。
 ランはそう考え、世間のLBXブームに抵抗するかのように空手に打ち込み続けた。身体を動かすのは気分がよく、道場にいる時間さえあれば、心の中を曇らせるもやもやとした気持ちをリセットすることが出来た。LBXで遊んでいるユキたちはとても楽しげで、自分の好き嫌いで彼女たちの楽しみを否定するのはお門違いだということも、ランにはきちんと分かっていたのだ。
「ランちゃんもLBXはじめなよ、たのしいよ」
「んー、あたしは良いや。稽古があるし、それに、機械ってなんだか苦手なんだよね」
 そんな会話を色んな子と繰り返しているうちに、小学六年生のある日になって、ランはついに折れた。どういうわけだか急に、意地を張るのがつまらなくなって、もういいや、と思ったのだ。夕食を食べ終えて、ぼんやりとテレビを眺めていたら、LBXの大会のCMが流れてきたので、ランはふと思い立って携帯電話を取り出し、ユキに電話をかけた。
「もしもーし、なあに?」
「あのさ、明日って空いてる?」
「明日? あ、ごめんなさい明日は」
「LBXの大会があるんだよね? 会場まで見に行くの?」
「え、あ、ううん。入場券は競争率高くって、手に入らなかったの。だから家でテレビ中継を見るつもりなんだけど……」
 急にどうしたの?
 もっともな問いかけに、ランは、うむむ、と唸った。どう説明すればいいか分からないけれど、なんとなく、歩み寄ってもいいかな、という気分になったのだ。みんなが夢中になっている芸能人とか、ファッションだとか、そういうものに対してランは比較的無頓着で、流行に流されるなんてカッコ悪い、というふうに考えてしまう節があるのだけれど、それらはでも、実際に触れてみると案外悪いものでもないことが多かったので、LBXのことも、まぁそんなに気を張って向き合う必要もないのかなと、唐突にそんなふうに思ったのだった。
「なんだかね、なんとなく、大人になってみようかなって思って」
 ランは自分でもよく分からないままで、そんなふうに呟いた。言葉はあやふやだが、しかし心底から出た真剣な意見だったので、ユキが笑い飛ばすことなく「なるほどね」と優しい声で頷いてくれたことが、ランにはとても嬉しかった。

 世界大会アルテミス。
 その日開催された、大規模なLBXのトーナメントバトルはそんな名前だった。今年で三回目の開催らしい。LBXが世界規模で人気を集めていることは知っていたけれど、世界中の人たちがこの国に集まって、ひとつの玉座を求めて戦うのだと考えると少しわくわくした。どんなことでも、一番を目指すという前向きな姿勢が見られる試合が、ランはとても好きだった。
 ユキの家のリビングで、お菓子をつまみながら大会を観戦する。子ども向けのホビーのはずなのに、大人の参加者が案外多いことに少し驚いた。ランと同い年くらいの子だっているのに、こんなふうじゃ勝負にならないのではないかと思った。
「だいじょうぶよ。LBXに年齢は関係ないんだから」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの。最近ではむしろ子どもの方が発想が柔軟で、操作能力が高いってもっぱらの噂なんだから」
「ふうん……」
 ユキの言葉は本当で、その小さな戦士を操るのに、年齢も性別もまったく意味は成さないようだった。細い、女性のような形状の小型のLBXが、怪獣めいた見た目をした巨大な機体の攻撃を軽やかにかわす。槍と盾がぶつかりあい、ときに派手なランチャーミサイルが強化ダンボールの空を切り裂いた。どきりとするほどの鋭い音を立てて、剣戟が響く。子どもも、大人も、その戦場の中ではどこまでも対等で、ランは息を呑みながら彼らの動きを見守った。
 テレビに映し出されるLBXたちのバトルは、とんでもないものだった。公園や教室で見かけるそれとは、まったくレベルが違っていた。鮮やかに切り替わる戦闘画面に釘付けになりながら、こんなの聞いてないよ、とランは思う。LBXがが、こんなにも素早くフィールドを駆け抜けることの出来るものだなんて知らなかった。こんなに小さな身体で、相手に強大なダメージを与えることの出来るものだとは、まったく思いもしなかったのだ。
 こんなの全然、子どもの遊びなんかじゃない。
 どこまでも真剣な姿勢で試合に挑むプレイヤーたちを、ランはいつしか、尊敬の眼差しで見つめていた。お菓子に伸びる手がぴったりと止まってしまった友人を、ユキは嬉しそうに笑って眺めていた。
 アルテミスそのものはなにやら奇妙な形での幕引きとなってしまったが、ランの興奮はまったく冷めなかった。祖父を拝み倒して得たお小遣いを握りしめ、翌日には、ユキがいつも通っているというLBXショップに向かう。悩みに悩んだ結果、ストライダーフレームと呼ばれる、細身の機体を選んだ。
「あれ、なんだか意外ね。ランならもっと、ナイトフレームとか、いっそブロウラーフレームとか、そういう力強い感じの機体を好きになりそうなのに」
 首を傾げるユキに、ランは、「わかってないなぁ」と笑った。たしかに、アルテミス優勝者の使用していたナイトフレームの機体はいかにも騎士といったふうで恰好よかったし、ブロウラーフレームの大柄で安定感のある見た目も嫌いではない。けれどランが求めるバトルを行うためには、それでは駄目なのだ。
「ちっさな身体で、おっきな相手も思いっきりやっつける。そういうスタイルが一番、あたしらしいでしょ?」
 ランの言葉に、ユキは納得したふうに頷いたが、しかし彼女はなにか言いたげな複雑な表情を浮かべてもいた。ほんとにそれでいいの? と再三問いかけてくる友人を振りきって、ランは人生はじめてのLBXを購入し、そして、その日のうちにあっけなく壊した。
 無茶な突撃をしたせいで割れてしまったアーマーフレームを、一生懸命修繕しながら、ランは考える。向いてないのかもしれない、という不安が一瞬脳裏をよぎったが、次の瞬間には、ふるふると頭を振ってそれを否定した。まだはじめたばかりなのだ。まだ、まだ、これからだ。ストライダーフレームは装甲が軽いから、とユキは言ったけれど、そんなことは関係ない。素早さも、力強さも兼ね揃えた、誰よりも強いLBXを操るプレイヤーになってやる。
 アルテミスの優勝を飾った山野バンは中学一年生だった。ランとはひとつしか違わない。LBXの腕に年齢も性別も関係ないということの、彼は証明ような存在だった。
 自分もいつかあんなふうに、世界の舞台に立つのだ。ランはその日を夢見て、来る日も来る日もLBXを修理し続けた。ユキは呆れていたけれど、目標に向けて努力を重ねる日々は、ランにとってどこまでも楽しいものだった。

 **

 なにかが耳元で鳴り響いたので、目覚まし時計の音だと思って、ランは手を伸ばしてそれを止めた。んん、と僅かに唸り、重いまぶたをこじ開ける。部屋の中は真っ暗で、朝陽の気配などどこにもなくて、寝ぼけまなこで首を傾げ手元を見やった。
 メールが一通、CCMに届いている。
「ああ、もう」ランは不機嫌に呟いた。差し出し人はユキだった。日本にいる親友からときどき寄こされる連絡は、時差に対する配慮がだいたい欠けていたが、いわく、「A国に行くって言ってたはずなのに気付いたら中国にいて、その次はエジプトで、いまはまたA国にいるの? それともイギリス? フランス? オーストラリア? 居場所が分かんないんだから、時差なんて調べようがないじゃない。きちんと連絡してこないランが悪いんだからね」ということで、それに言い返す言葉がランには見当たらない。
 ジェシカは案外眠りが深い。となりのベッドで少しだけ身体を捩らせる彼女に背を向けて、ランは暗い部屋のなか、CCMの画面を覗きこんだ。そこには他愛のない、学校で起きた出来事や授業の進行状況についての話題が並んでいて、丁寧に数日分のノートの写しまで添付されている。睡眠を邪魔されたことも気にならないくらい、送られてきた普通の日常は、ランに勇気を与えるものだった。
 戦う勇気、だ。
 ランはCCMをそっと閉じて、右手の拳をぎゅっと握った。遠い日本でランの帰りを待つ友人の、その平和を、彼女たちの日常を守るために、もっともっと頑張らなくちゃいけないのだ。そう考えると心臓がどきどきして、身体の奥がざわざわとして、眠気でぼんやりしていたはずの視界が一気に鮮明になってきた。ランは一度ベッドの上に身体を横たえ、それから少しの間だけまぶたを下ろしたけれど、結局は数秒もしないうちに起きあがった。こんな気持ちで、呑気にもう一度夢の中をさまようなんてこと出来るわけがない。
 ジェシカを起こさないように気を付けながら、ランは私服に着替えて部屋を出た。NICSでは深夜でも働いている人がたくさんいて、薄らと明りの灯った廊下の向こうには、かすかに人の動く気配がある。ランは迷いのない足取りでトレーニングルームへと向かった。こんなふうに浮足立ってしまっている心を静めるには、身体を動かすのが一番手っ取り早いということを、自分自身が一番よく理解していた。
 持ってきた道着に手早く着替えると、心の根っこのほうがしゃんと整うような気分に包まれた。LBXはもちろん大好きだけれど、花咲ランというひとりの人間を、こうして形作ってくれるのはやはり格闘技なのだと改めて思う。柔軟を終え、型稽古を繰り返すだけで、身体の芯が嬉しそうにリズムを刻むのだ。小一時間ほど、ひとり淡々と基礎稽古をこなし、ランはふうっと息を吐いた。楽しい。楽しいけれど、時間も時間だ。ずっとこうしているわけにはいかない。
 時刻は深夜二時も近くなっていた。こんな時間、大晦日にだって起きていない。ランは道着姿のままトレーニングルームを出た。名前は知らないが、見覚えのある顔のNICS所属の男性とちょうど鉢合わせたので(とても驚かれた)寝つけずにトレーニングルームを借りたことと、汗をかいたからシャワールームを使いたいことを伝える。男性は快く承諾してくれたけれど、別れ際、思い出したように付け加えた。
「この時間帯は、深夜勤務の社員が気分転換にシャワーを浴びていることがあるから、もしかしたら空いていないかもしれないよ」
 シャワールームに到着してみると、彼の言っていたとおり、ふたつあるシャワーの個室は両方とも扉を閉ざし、使用中の小さなランプが点灯していた。ランは脱衣所で渋面を作り、そのオレンジの光を睨みつけた。広い広いNICS本部の、ここは職員用に置かれた仮眠施設の隅っこで、別のフロアには他にもシャワールームが存在している。そこまで歩いても良いのだが、けれどランはいま道着姿で、また誰かとすれ違って驚かせてしまわないとも限らないし、そもそもひょっとしたら次の瞬間にもこのオレンジ色が消えて、中からNICSのお姉さんが出てくるかもしれないのだ。動くべきか、待つべきか、普段のランならば間違いなく前者を選択するところだけれど、なにせさすがに、疲れと眠気が身体を侵食しはじめていた。このまま戻ってベッドに飛びこむ気にはなれないけれど、わざわざ歩き回るのも億劫だ。
 ランはシャワールームを出た。あまり迷いのない足取りで、そこから少し離れた、隣のドアの前まで移動する。その扉からはシャワーの音が聞こえないので、だったら、こっちを借りても構わないのではないかと考えた。
 ……男性用、だけど。
 ランはしばしその扉を見つめ、耳をぴったりと貼りつけて中から物音がしないことを確認した。入ってしまえばこっちのものだ。トイレと違って、ただ天井からお湯が出るだけの場所なのだから、さっと浴びて着替えて出ればいいだけのことじゃないか。
 なかば自棄になったような思考のすえ、ランはそのドアを開いた。水場特有の湿気た空気が鼻先をかすめて、続く短い廊の先に脱衣所が見える。人の気配はない。ランはそろりと中に忍び込んだ。首を伸ばし、個室が空いていることを確認する。
 オレンジのランプはついていなかった。ふたつある個室の両方とも、がらんとして空いていた。ランは胸を撫で下ろしそうになって、その次の瞬間に硬直した。
 脱衣所には人影があった。
 大人の男の人ではなかった。つい先ほどまでシャワーを浴びていたのだろう、かすかに湯気の残る室内で、その人物はこちらに背を向けて立っていた。服は着ている。ランはまずそのことに安堵して、それから、あれっと思った。黒く濡れた長い髪が背中に垂れていたので、女の子なのかなと考えた。ランとおなじふうにこっそり入ってきたのだろうかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。線の細い後ろ姿だが、女性的な体型ではないように見えた。男の子だ。どこかぼんやりとした頭の隅で、ランはそう認識した。
 ほんの一瞬でそれらすべての思考を終えて、それから、最後にランの両目に飛び込んできたのは、タンクトップから伸びた彼の細い腕だった。
 右の肩。
 おおきな傷痕。
 ランは息を飲んだ。両手で口を抑えて顔を引っ込め、思わずその場に座り込んでいた。ほんの一瞬だ。ランの両目が彼のその姿を映したのは、数秒に満たない、瞬きの間のような時間だけ。けれど焼き付いてしまった。見てはいけないはずのものを目にしてしまった、恐怖みたいな感情が心臓を叩いて、ばくばくと嫌な音を立てている。ランはそれを落ちつけるためにゆっくりと、ゆっくりと息を吐いた。心音は次第に落ちついてきたけれど、状況はなにも変わらない。
 逃げなきゃ。
 混乱する頭で、ランはそう考えた。どこからどう見ても今の自分は不審者、下手をすれば痴女であったので、見つかる前に逃げ出さなければと思うのは、至って当然のことであった。けれど立ち上がろうとすると、再びあの傷痕が眼前にフラッシュバックして、どうにも上手く呼吸が出来ない。全身を強張らせてしゃがみこんだままのランの背に、聞き慣れた声が届くまでそう時間はかからなかった。
「ランくん?」
「わーっ!」
 もはや言い逃れなどしようのない状況下における、まったく意味のない絶叫であった。それを自覚しながらおそるおそるというふうに振り返ると、ランのすぐ後ろには、まったく見間違いようのない人物がぽかんとした表情を浮かべて立っている。ひどく困惑した顔をして。
 いつもの、緑色の服を着ている。
 そのことにランは少しだけほっとした。ユウヤ、と彼の名前を呼ぶと、なんだか奇妙に上ずった声が出た。
「どうしたんだいランくん、こんなところで」
「ゆっ、ユウヤこそどうしたのよ。こんな時間に」
 まったく誤魔化しの出来ていないランの発言に、しかしユウヤは深く気にした素振りもなく、眠れなくって、と真顔のままで返した。
「身体を温めたら少しマシになるかなと思ったんだけど、ダメだったよ。むしろ眼が冴えてしまった」
「そ、そう。それは大変だね……」
 適当な返答で目を泳がせるランを、ユウヤは不思議そうな顔で眺めていた。なぜこんな場所にひとりしゃがみこんでいるのか、それを問いただす気は彼にはないようで、うーん、と僅かに首を傾げながら、ユウヤはしかし、まぁいいか、というふうにひとつ頷いた。「もう遅いから、部屋に戻ろう」
 送っていくよと告げる彼の声は紳士的だけれど、いささか素っ頓狂にも響くものだった。奇抜で、そしてアンバランスだ。この夜の空気にそぐわない、どこか渇いた感じがする。
 ユウヤってこんなふうだっけ。
 一瞬だけ、ランはそう考えた。時間が止まってしまったように思えるくらい、本当に長いその瞬間、言葉にならないほどの胸のざわめきがランを襲ったけれど、しかしすぐさまにかき消える。だって灰原ユウヤは、いつも、こんなふうなのだ。真面目で、優しくって、穏やかだけれど世間知らずで、それでときどき、誰もがびっくりするくらい空気の読めないことをする。なんだかちょっとだけ、変な子なのだ。灰原ユウヤはいつだって優しく、穏やかで、そしてなにかがずれている。
 おおきな傷痕。
 シャワールームを出ようとするユウヤの、その服の裾を、ランは引っぱった。彼の長い髪はまだ少し濡れていて、上気したようすのない白い頬に、わずかにぺたりと張り付いている。水滴は、とても、とても冷え切ったもののように思えた。ランはくちびるを噛んだ。黒い目をまんまるにしてこちらを見つめるユウヤに、硬い声で、「見せて」と言った。
「ユウヤの、それ、見せて」
 シャワールームの床に座り込んだままの姿勢で、ランは、ユウヤの目をまっすぐに見上げていた。自分でもどうしてこんなことを言っているのか分からなくて、戸惑う気持ちもあったけれど、でも、それを見つめるべきは今なのだと思った。ユウヤはすこし困ったふうに眉を下げている。「どうして?」と、ほんの小さな声で問う。
「知りたいからだよ、ユウヤのこと」
 きっぱりとそう返すと、彼の左の目の奥が、ちらちらと逃げ道を探すように揺れるのが見えた。それがまるで今にも泣きだす寸前の子どもように感じられたので、ランは慌てて、嫌ならいいよ、と付け足したけれど、ユウヤの表情そのものは優しげだった。彼はゆっくりと首を横に振って、それから、上着を脱いだ。
 見慣れた彼の服の下から、細い身体が現れる。静かな夜の気配の中で、色の悪い彼の肌はぼんやりと輪郭を失って見えた。ユウヤは素早くタンクトップまで脱いでしまって、それらを手近なところにあった荷物置きに放りこむ。
 男の人の上半身を見ても、ランはまったく照れくさいとは思わない。実家である道場に通ってくる生徒は大半が男性で、家族以外の人のはだかというものを、ランは幼いころから見慣れてしまっていた。ランの知る男の子たちの肉体に比べて、ユウヤの身体はあまりに細く、筋肉も脂肪もまったく足りていない。ランのあまり好きではない、なよなよと弱々しい男の、それは体現のような姿だった。
 けれどその皮膚の上には、無数の傷が散っている。
 一番に目を引いた、右の肩の大きな傷痕。それ以外にも、彼の身体には目に見えてそれと感じられる傷みが広がっていた。それはただ過去に負った怪我の名残りなどではなく、明確な苦痛と、そして暴力の残滓だった。二の腕の部分にはぽつりぽつりと、注射の痕のようなものがいくつも残っている。胸部や腹部にもうっすらと、手術を受けた痕跡みたいなものが見えて、ところどころの皮膚が引きつったように色を変えていた。背中にも傷がある。たぶん、ランの目には窺えないような細かな痕跡が、彼の身体の外側にも、内側にも、たくさん散らばって今でもひそかに呼吸を続けている。
 ランは押し黙って、灰原ユウヤの上に広がった、古い傷口を見つめていた。イノベーターという組織のことは、バンたちから話を聞いている。ユウヤがかつて、そこに所属する集団に利用されていたということも、なんとなくだが理解していた。
 けれどここまで明確なその証拠を、真正面から見つめたのははじめてだ。
 ヒロは、きっと知っている。ダックシャトルにはお風呂場があって、男の子たちの使う時間は決まっていた。バンやジンは言わずもがな。ジェシカはどうだろう、情報収拾は彼女の戦術の一環で、そして国際組織であるNICSの長官を父親に持っている。なにも知らないということはきっとない。
 だとすれば、ランだけだ。
 ランだけが、彼の抱えた過去のその意味を、大きさを、まったく知らずにすごしていた。
 ユウヤはどうしてだか、少し申し訳なさそうに、弱った顔をしていた。口元は穏やかに笑みのようなものを作っていて、それはびっくりするくらい、いつものユウヤの浮かべるのとおんなじものだったので、ランは少し呆れてしまいそうになった。なんであっさり脱いでんのよ、と、理不尽な苛立ちさえ覚えていた。あたしなんかに、そんなに簡単に、曝け出してしまっていいようなものじゃないでしょう。
 悲しいのだか、腹立たしいのだか、なんだか分からない感情で、ランの頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。なにか言わなくちゃと思ったけれど、喉の奥のほうが詰まってしまったみたいになっていて、いま言葉を発すると、自分らしくない弱々しい声が出てきそうだ。思わず逸らしそうになる視線を、それでもまっすぐにユウヤのほうへと向けて、ランは意を決して口を開いた。変な声になっても良いから、きちんと伝えなくてはいけないと思った。
「……あのね、あたし、見てたの。去年のアルテミス」
 うん、とユウヤは頷いた。知っているよ、というふうに、それはランの言葉をそうっと引きだしてくれるような、とても優しい相槌だった。
「友だちの家でね、テレビで、いっしょに見てた。はじめてだったの。LBXの大会をちゃんと見るの。あたし、知らなかった。LBXがあんなふうに動くんだってこと、LBXバトルがあんなにも格好よくて、見ているだけでわくわくできるものなんだってことも、ぜんぜん、知らなくて、びっくりした。こんな小さなロボットなのに、なんてすごいんだろうって、そう、思ったの」
 LBXなんて子どもの遊びだと思っていた。
 ずっと、ずっと、そう思っていたのに、あの日見たあの大会が、ランの考えのすべてを変えてしまった。
「みんな笑顔で、でも真剣で、楽しそうで、強いプレイヤー同士が本気でぶつかりあってるのが分かったから、あたしもね、すごく楽しかったの。自分のことみたいに興奮して見てた。でもユウヤは、」
 灰原ユウヤはあの大会で、だれより異色を放つプレイヤーだった。
 運の良さだけで勝ち上がったと、そう実況されていた。素人のランから見て、それは真実であるように思えた。灰原ユウヤの操るジャッジは、試合のひとつひとつを、まるでまったくつまらないゲームであるかのように扱って、淡々と勝利を収めていった。きらきらと輝く全国大会のフィールドの中で、彼だけが、砂のように色を失っているように感じられた。
 ユキの家のソファに据わって、ランは、彼を見ていた。LBXを従える、あの日の灰原ユウヤを見ていたのだ。
「ユウヤは、ぜんぜん、楽しそうじゃなかった。あたしバカだから、なんにも、知らなかったから、ユウヤのこと、知らなかったから、なんであの子あそこにいるんだろって、そう思った。無表情で、なに考えてるのかわかんなくって、そんなにつまらないなら帰ればいいのにって、そんなふうに、言ったの。あたし、ユウヤのこと、変なやつって、そう言った」
 あの灰原ユウヤって子、気味が悪いよね。
 あんなバトルで決勝戦まで勝ち上がるなんて、おかしくない?
「バンのことばっかり応援してた。灰原ユウヤなんて早くやっつけちゃえって、そう、テレビに向かって、言ったの」
 ごめんなさい。
 言って、ランはユウヤに頭を下げた。身体の奥が熱くて、心臓の音がうるさくて、それがそのまま、両目にまで到着して涙が零れそうになっていた。ランは歯を食いしばってそれを堪えた。床に落とした視線を上げたかったけれど、ユウヤの顔が見たかったけれど、そうすると本当に泣きだしてしまいそうだったので、俯いたままで再び口を開いた。涙で滲んだ声が出て、恥ずかしかったけれど、言葉をやめようとは思わなかった。
「もっと早く、LBXをはじめていれば良かった。そうしたら、あたし、ぜったいにあんなこと、ぜったいに、言わなかったのに」
 もっと早くに、LBXの魅力を知っていればよかった。灰原ユウヤに、出会っていればよかった。
「あの日のアルテミスに、あたしも、出場していればよかった。ううん、出場なんて出来なくてもいい。ユウヤのこと知っていればそれでいい。そしたら会場に乗り込んで、ユウヤをひどい目にあわせたやつらみんな、みんな捕まえて、あたしが全員、やっつけたのに」
 あの日ユウヤとチームを組んでいた二人のプレイヤーも、それを裏で操っていたという、イノベーターとかいう組織もみんな、ランのこの手で倒してやりたかった。現実にそんなことは不可能だということくらい分かっていたけれど、ランは本気でそれを望んでいた。もしもいま、あの日に戻ることが出来たなら、ユキの家を飛び出して、すぐさまアルテミスの会場へと向かったことだろう。警備員なんて蹴散らして、きっと彼の元へ駆け付ける。
「あたしがぜったい、ユウヤのことを守るのに」
 震える声で呟くと、その言葉がどれほど滑稽であるか実感出来た。絵空事は己の無力さを強調するだけで、なんの役にも立たないものだった。ランはごしごしと目元をこすり、ようやく顔をあげた。ユウヤの肌に刻まれた、見ていられないほどの過去をもう一度目に焼き付ける。
 深い夜の時間に、少年の姿は溶けてゆきそうなくらいおぼろげに見えた。
 ユウヤはぼんやりとしたようすで、そこに佇んでいた。ランのことを気遣うような視線で、けれどどこかあっけらかんとした、なにも考えていないような声で、彼はふと口を開いた。「ほんとうに大切なものは」と言った。
「隠されているものなんだ。宝物は、大事にしまっておかなくちゃいけない」
 まるでなにかの格言のような言いまわしだった。唐突な発言に目を丸めたランが思わず、偉い人の言葉? と訊ねると、ユウヤはかすかに首を傾げ、どうだろう、と呟いた。「神さまがそう言ったのかもしれない」
 彼はくすりと笑んだみたいだった。ランに背を向けて、服を着はじめる。なんにもなかったふうに、ユウヤはいつもの服装に戻って、そして言った。「本当はね、これ全部、消してしまうことが出来るものなんだ。いまの医療技術なら造作もない。少し皮膚を張り替えるだけで、きれいに治してしまえるものばかりなんだって」
 病院の先生がそう言っていたのだと、ユウヤは軽く笑んだ。「先生には、どうするって聞かれたんだ。消してしまったほうが、たぶんこの先、生活するのには便利だろうなってことは分かっていたんだけどね。僕はそれを断った」
「どうして?」
「消してしまったら、分からなくなりそうだったんだ。自分がなんなのか、今までずっと、どこでなにをしていて、どこから来たのか。どこへ向かうつもりなのかも」
 ランはもう一度目元を拭った。あの日テレビで見た彼と随分違う、変わってしまった、灰原ユウヤを見つめていた。彼は左手で自分の右肩に触れて、これは大事なもの、と言う。
「僕が僕であるために、忘れてはいけないもの。失っちゃいけないものなんだ。全部を嘘になんて出来ない」
 そう断言してから、ユウヤは膝を折って、座りこんだランの手をそっと取った。でもね、とちいさな声で言う。これは僕のわがままなんだ、と呟く。
「分かっているんだ。この傷がある限り、僕のことを思ってくれる人たちが、悲しい顔をするってこと。だから隠して、僕は僕の秘密を、ずっとしまっておかなくちゃいけない。宝物なんて、そんないいものじゃないし、価値なんてあるのかどうか、そんなの分からないけれど、でも、必要なんだ。少なくとも今はまだ」
 ごめんね、とユウヤはランに微笑みかける。いつもとおんなじ、優しい顔で言う。
「きみに、そんな顔をさせたいわけじゃなかった」
 ユウヤの手は冷たかった。それはたぶんランの体温が高いせいで、こうして触れていれば、彼の手はじきに温かくなるはずなのだった。ランはそれを知っているから、彼の手が、冷たくても柔らかだったから、それをぎゅっと握り返して、ユウヤに引き上げられるようにして立ち上がった。「ユウヤは悪くないよ」と、彼の目を見てそう言った。
「ユウヤは、なんにも、間違ってないよ」
 彼はかすかに目を細めた。ランの言葉をまるで吸い込もうとするみたいに、ユウヤは少しの間だけまぶたを閉じて、そしてすぐに開いた。とてもゆっくりとした、それはまばたきのようだった。ランはユウヤの手を離す。なんだか急に照れくさくなってきたので、誤魔化すみたいにして軽く笑ってみせると、ユウヤはどうかしたのかというふうに首をかしげていた。

 ようやく空いた女性用のシャワールームで短いシャワーを浴びてから、ランはCCMを開いた。短いコール音のあとに、聞き慣れたはずの、けれど懐かしい、親友の声が耳元に届く。
「ラン? どうしたの、電話なんて。珍しいね」
「うん、急にごめんね。いまNシティにいるの。こっちはもうすぐ三時だよ」
「三時って、もしかして夜中の? そっか、ごめんね。変な時間にメール送っちゃったね。授業が終わってすぐだったから、部活がはじまる前に送信しちゃおうと思ったんだけど」
「ううん、平気。部活はいいの?」
「今日はもうおしまいなんだって。最近物騒だから、学校、早くしまっちゃうのよね。もうみんな家に帰るところ。……ねえ、本当にどうしたの? なにかあった?」
「わかる?」
「わかるわよ。泣いてたでしょ」
「あはは、わかるんだ。すごいねユキ。さすがあたしの親友だね」
「あははじゃないわよ、もう。どれだけ心配してると思ってるの?」
「うん、ありがと。もう平気なの。でもちょっとだけ、ユキの声聞いたら安心できるかなって思って」
「安心できた?」
「バッチリ。あのねユキ、あたしね、がんばるから。ぜったい、みんなのこと守るからね。部活だって、きっとすぐに出来るようにしてみせるから。待ってて」
「……無茶しちゃ嫌だからね」
「分かってるって」
 じゃあね、とランは通話を切った。おやすみなさい、と返したユキの声が、耳の奥でじんわりと震えていた。ひとつ息を吐いてから、ランは顔を上げた。部屋に戻り、ベッドにもぐりこむ。
 眠れないかもしれないと思っていたけれど、身体はあっけなく睡眠を欲して、柔らかな布に沈み込むようにランは意識を閉ざした。その日の朝はもちろん、ジェシカに叩き起こされることになってしまったけれど、とても優しい世界で誰もがしあわせになれる、そんなあたたかな夢を見たので、それは仕方のないことだとランは思った。

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