おなじ夕暮れを見ていた -八神とユウヤ
石碑の周りに人だかりが出来ているのが見えた。
カメラと、それに群がる人々と、そして映しだされる者たち。どうやらニュース番組の撮影らしく、見覚えのあるキャスターがマイクを片手に、真剣な眼差しでカメラに向けてなにか言葉を発している。その声はここまでは届かないが、放映時に画面の脇に添えられるであろうテロップの想像は容易についた。『故・海道義光の残した疑惑に迫る』『十年の月日を経て、被害者遺族の抱える悲しみは今』おそらく、こんなところだろう。
トキオブリッジ倒壊事故から、じきに十年が経過する。ここ数日、テレビ番組や雑誌記事が、思い出したかのように過去の悲劇を洗いだしはじめていた。死者への批判を高めることはさすがに憚られたのか、あるいは単純に、それより取り上げたいニュースが揃っていたせいか、海道義光の死がおおやけになってからしばらくの間は、トキオブリッジのことが取り沙汰されることはなかったのだけれど。
葬儀が執り行われてから半年が経つ。喪に服すのも潮時というところだろうか、もとよりマスコミ、ワイドショーからの注目を浴びがちであった海道義光の、その代名詞のように並べられてきた数々の疑惑は、今後もことあるごとにこうして浮上してくることだろう。
石碑の傍では、遺族と思わしき人物が数名、カメラの前に並んでいた。遠目にも、彼らの浮かべる悲愴な表情が、長い年月をかけてその瞳に刻み込まれたものだということが分かる。決して、昨日今日になって事故のことを見つめなおしたというわけではない。この十年間ずっと、ずっと、胸に耐えられないほどの悲しみと、そして海道義光への苦みを抱えてきた人たちだ。彼らはなにかの枷からようやく少し解放されたふうな、そして、そのことを釈然としないまま受け入れてしまっているような、複雑な顔つきで取材を受けていた。両目を潤ませ、喉を詰まらせているようすの者もいる。真昼の空は晴天で、水面はその青を映してきらきらと輝いていた。
八神英二は踵を返した。
あの日のことを思い起こすたびに、幾度も足を運んだ場所だった。哀悼の意を綴った石碑を見つめていると、優しい両手がふたつ、心の中を整理してくれるような気になれた。墓場よりも身近で、なにより八神と家族を繋ぐ強い感情を抱かせてくれる、トキオブリッジ跡地はそういう力を持っていた。
そんなふうに感じているのは、八神だけではないはずだ。
遺族の悲しみは決して絶えない。捜索を打ち切られ、結局引き上げられることのなかった遺体を求めて、いまだ訴願を繰り返している者とて少なくはなかった。十年の月日はあまりに短く、そして気が触れそうなほどに長いものだ。空白のように過ぎていったこの時間は、これから先もずっと続く。時が悲しみを癒しても、味わった夜が消えることはないのだ。消してしまいたいと、そう願ったことすら八神にはない。
とはいえ、十年の月日が経った。
そして、海道義光はもういない。
これをひとつの区切りとする者もあるだろう。八神自身、新たな生き方に向けてすでに歩きはじめている。妻と娘は、いつものように優しい両手で、そのさまを祝福してくれるだろう。八神はうっすらと目を細めた。あの夜、すべてを奪ったはずの水面が背後には広がっていたが、振り返りそこに憎しみを散らすことはもうすまいと、心からそう思える穏やかな昼下がりだった。
八神探偵社は、トキオシティの郊外、雑居ビルの並ぶ通りにひっそりと存在する。交通の便は悪くない。雑多な裏通りを抜けて少し歩けば住宅街があり、その近くには当然のように商店が存在し、入り口は狭いがそれなりの味を誇る和菓子屋と、ちいさな喫茶店やレストランが何軒か並んで、そこから道路を挟んだ向こうには、市民ホールと併設されたまだ新しい図書館があった。事務所の正面側にはそういった、日々を営む人々によるふつうの世界が広がっていて、そしてちょうど裏手に当たる窓からは、うず高く聳えるビルの群れが映る。表向きには穏やかな真昼の光を迎えながら、背後には夜の静けさを控えさせる。八神の新たな居場所は、まさにそういった位置付けをされた建築物の中にあった。貼り紙もなければ、広告記事を雑誌に載せることも、ましてやインターネット上での呼び込みもしない。ただ入口に古めかしい看板を掲げただけの探偵社は、しかしそれでも不思議と、日々の仕事が絶えることはなかった。
とはいえ無論、毎日を激務に追われるようなことはほとんどない。イノベーターとして、黒の部隊の隊長として暗躍していたころに比べれば、拍子抜けするほどに時間の流れは平穏だった。八神は毎朝八時に事務所の鍵を開け、一杯のコーヒーを用意してから机に向かう。首相官邸から届く依頼が通常のポストに投函されているわけもなく、まるで平凡なサラリーマンのように、ただただ新聞を広げるだけの朝とて少なからずあった。最近はなにかと電子に頼って動く世の中で、毎日の情報でさえネットワークを通じて配信されるのが主流ではあったが、八神はいまだ、紙の新聞を好んで購読している。若いころからの習慣だ。敢えて変更しなくてはならないものではない。
「じじむさいですよ、八神さん」
言うと真野は、そんなふうにからからと笑う。八神の腹心としての彼女は事務所の掃除やお茶汲みのような雑務までこなす秘書的存在だが、有能なハッカーとしての彼女はというと、夜も夜中まで膨大なコンピュータシステムをたったひとりで相手取り、情報の宇宙をフィールドに戦う孤軍の騎士であったため、出勤時刻はそう早くはない。真野に限らず、八神のもとで働く部下たちはみな、新たに冠された「探偵社」という枠組みに決して捕らわれることなく、己の分野を生かした活動を続けていた。
その日も、午前十時を回ったころになってからようやく、真野と矢壁が連れだって事務所の扉を開いた。真野はいやに上機嫌で、矢壁のほうはというと反対に、なにやら大きな荷物を抱えながら、ぶつぶつと文句のようなものを漏らしている。また真野になにか無茶なことでも頼まれたのだろうか。太い眉を器用にハの字型にした矢壁は、八神へのあいさつもそこそこに、事務所の奥へと消えていった。
「なにかあったか?」
「八神さんのお手を煩わせるようなことじゃあありません」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべ、真野はそう言いきった。八神は僅かに怪訝な表情を浮かべたが、追及することは止しておく。差し当たって本日の業務はというと、なにかの拍子に舞い込んできてしまった近所のご婦人の浮気調査くらいのもので、急いて答えの出るたぐいの依頼でもないのだ。現場には細井が当たっている。三日もすればじきに、結果も出ることだろう。
真野は変わらず上機嫌で、八神にコーヒーのおかわりを用意し、持参してきたファイルをいくつか棚に押し込んでから、自らも事務所の奥に向かっていった。八神はあたたかなカップに口をつけ、それからふと、思い出す。十一時半から来客の予定があった。とっておきの客人というわけではないが、しかし、少しばかり特殊な人物だ。真野の機嫌の良さを手本にしようとは思わないが、なるほど、事務所の空気をいくらか軽くした状態で出迎えたい相手であるのは確かだった。
こんこんと軽い音を立て、扉が叩かれたのは、秒針がちょうど真上を指したその瞬間のことだった。時刻は約束の十一時三十分。相変わらず、正確すぎるほど正確だ。八神が少々複雑な気持ちで苦笑いのようなものを浮かべている間に、「はいはーい」と明るい声を上げて真野が立ち上がる。ドアを開くと、そこにはひとりの少年が立っている。
「おはようございます」
灰原ユウヤはそう言って、折り目正しく頭を下げた。
その動きにつられるように、黒く長い髪が彼の背中でぴょこりと揺れる。まだ幼さを残した大きな瞳。どことなく色の悪い頬と、それに相対するようにか細い手足は、つい先日まで彼が病室暮らしであったという事実を、いやに丁寧に映し出していた。
「いらっしゃい、ユウヤくん。さ、入って入って」
「はい。失礼します」
今朝から変わらずにこにこと機嫌の良い真野の声に導かれ、律儀に再び頭を下げてから、ユウヤは室内に足を踏み入れた。そう広い事務所ではない。すぐに八神の姿を見つけ、少年はぱっと頬を緩めた。もう一度、しっかりとした声音で「おはようございます」とあいさつをしてから、待ちきれないというふうに彼は八神に歩み寄った。
「おはよう。久しぶりだね、体調のほうは?」
「おかげさまで、問題なくすごしています」ユウヤはそう言って微笑んだ。たしかに、調子を崩しているふうにはまったく見えない笑顔だった。八神が椅子を勧めると、応接用のソファにゆっくりと腰掛け、そして机の上に一冊の書物を置く。日本の法律と刑事罰についてを簡単にまとめた入門書だ。八神の古い知人が執筆したもので、事務所の棚にあったのを、先日ユウヤが借りていった。
「これ、ありがとうございました。とても勉強になりました」
「もう読み終えたのか?」
「はい」ユウヤは頷いてから、ふと、こちらの顔色を窺うように不安げな顔を見せた。わずかに首を傾げ、「早かったですか?」と問う。もう少しゆっくりと読むのがふつうだったろうか、と、黒い目がなにかを探るように何度か瞬いた。そうすることで彼は、そこらじゅうに散らばった見えない「ふつう」を、どうにか見つけ出そうとしているようだった。
八神が首を横に振ると、安堵したふうにそっと肩の力を抜く。
昨年行われた第三回アルテミス、その決勝戦の舞台で昏倒して以来、灰原ユウヤは長く入院生活を続けていた。イノベーター事件の真っ只中、ちょうど、八神が組織を裏切り山野バンたちと合流する頃にはどうにか意識を取り戻してはいたものの、精神的な錯乱状態からの回復にはしばし時間がかかったという。八神が彼とはじめて対面したのは、すべてが終わったあと、さらに数週間が経過してからのことだった。
事情は、海道ジンから説明された。
人の過去を吹聴して回るような、そんな悪趣味な少年ではない。まして、灰原ユウヤが九年をかけて過ごしてきた過酷な日々は、とてもではないが安易に語り聞かせていい代物ではなかった。ジンは静かに頭を下げて、ユウヤが今後社会生活を送るための、そのサポートに力を貸して欲しいと八神に語った。彼はまだ十三歳で、そして、育ての親を失ったばかりであった。
ジンがA国への留学を決めてからも、八神は定期的にユウヤを見舞い、家族でも、友人でもない、第三者の大人としての立場から彼と関わり言葉を交わし続けた。少年の快復は目覚ましく、いまはもう、病室ではじめて会ったときに感じた、どこか遠くへ心を置き去りにしてきてしまったような、虚ろで物悲しい気配はどこにもない。ユウヤは無事に病院を出て、そしていまは、ふつうの日常を噛みしめるようにゆっくりとすごしている。週に何度かはこうやって八神のもとを訪れ、本を読み、会話を交わし、ときに事務処理の仕事を手伝うことさえあった。灰原ユウヤはさまざまなものごとを経験し、日々学習を重ねている。
八神自身、かつてはイノベーターに属していた身だ。黒の部隊と白の部隊は、たしかに別の枠組みで成された組織ではあったが、だからといって一切の交流が断たれていたというわけではない。実際、白の部隊に所属するかたちで軟禁されていた山野淳一郎博士の監視は、八神たち黒の部隊が務めていた。CCMをなしにLBXを操作する技術の開発が進められているという話も、もう随分と以前から、八神の耳にも入ってはいたのだ。
償いの感情はすべて、財前宗助に預けると決めていた。とはいえ、イノベーターの暗部に深く傷つけられた少年に対し、贖罪の気持ちがないといえば嘘になる。ジンが八神に望んだのは灰原ユウヤの社会的立ち位置を確保することで、戸籍や住居、保険の手配まで、必要な手続きはすべて進んで行ってきた。手間はかかるが難しいことではない。
灰原ユウヤはすぐに境遇に馴染んだ。長い入院生活から解放されたいまとなっては、まるでふつうの、なんの苦労もなく育ってきたただの少年のようにさえ見えた。けれど今日は平日で、ふつうの十四歳は中学校で授業を受けている時間帯である。彼は学校には通っていない。「自信がないんです」と、複雑そうな笑みを浮かべてユウヤは語る。「分からないことがまだまだ多くって。きっとまだ、もう少し、僕には早いんだと思います」
「焦る必要はないさ」
八神がそう言うと、ユウヤはもちろんというふうにしっかりとした首肯を返したが、同時にくすりと笑みを漏らした。「でも、困るんですよ」と、あまり困ってはいなさそうな表情を浮かべる。「さっきここに来るときもそうだったんですけど、外を歩いているとすぐに大人のひとに声をかけられちゃうんです。授業を抜け出して、ひとりで遊んでいるふうに見えるみたいで」
言いながら、ユウヤは嬉しそうに目元を緩めた。見知らぬ人間からそんなふうに、ただの子どもとして扱われることが、彼には楽しくて仕方ないようだった。
「病院へ行くんですって説明して、電話で主治医に確認してもらっても構いませんって診察券を出すくらいしないと、なかなか見逃してくれないんですよ。どこの中学校に通っているのか、何度も聞かれるし。適当な学校の名前を出して、バレてしまったらどうしようって、毎回すこし焦ります」
なるほど、そういうこともあるのか。八神はふむと考えた。
「そういう時は、私に連絡をするように伝えれば良い」
「八神さんに?」
「ああ。学校側の許可を得て休んでいると言って、それでも訝しがるようなら私に電話をかけさせなさい。こちらで説明して、引きあげさせる」
せつめい、とユウヤは不思議そうに呟いた。なにをどんなふうに相手に聞かせるのだろうかと、俄かに不審に感じているらしい。まんまるな黒い目に見つめられ、八神はコホンと、わざとらしくひとつ咳き込んでみせた。「要するに、デタラメを吹き込む」
きみより私のほうがそういうことに慣れているから。八神がそう付け足すと、ユウヤはぱちぱちと大きな目を瞬かせた。彼はいやに神妙なようすで、口元に手をやって考え込むような仕草をしてから、それってつまり、とかすかに視線を上げて八神を見つめた。
「八神さんが僕の先生になるってことですか?」
素朴な問いかけに八神は一瞬呆けたが、すぐそばで真野の噴き出す声が聞こえて我に返った。間違ってはいない。間違ってはいないのだが、そう単純な言葉として訊ねられると妙にこそばゆいものがある。八神が思わず渋い顔を見せると、ユウヤはやはり目を丸めて、それから、助けを求めるように真野へと視線をやった。彼女は笑い転げていた。
「いいじゃないですか八神さん。似合いますよ、学校の先生。ひょっとしたら探偵より向いてるかも。ねえ、ユウヤくん」
「え、あ、えっと……」よくわからないんですけど、と呟いてから、ユウヤは訊ねた。「学校の先生って、八神さんみたいな人なんですか?」
問いかけに、真野はにっこりと笑ってみせた。ユウヤの目を見てひとつ頷くと、「そうだよ」と言い切る。
「学校の先生ってのはね、八神さんみたいに強くて、賢くて、頼りになる大人がなるべきなのさ。逆に言えば、大切なものごとをきちんと教えてくれる、先生に適したひとが傍にいるのなら、べつに学校なんか、慌てて行かなくたって構いやしないんだよ」
「……」
真野の言葉を、ユウヤは、全身で吸い込むようにして聞いていた。ひとことも逃すまいと背筋を伸ばし、ひどく生真面目な態度で人の声を受け取る。彼はそんな子どもだった。穏やかな表情を浮かべながら、それでいて、常にどこからか意図や情報を求め、それらを必死で探しているふうだった。
真野はそんなユウヤに向けて、いたずらっぽくウインクしてみせた。「もちろん、あたしだって頼りになる大人だよ」と、冗談めかした口調でそんなふうに言う。
「さしあたり、頼れる晶子お姉さんはというと、ユウヤくんのために豪華なお昼ごはんを用意しました。おおい、矢壁、まだなのかい?」
真野の言葉に、「オッケーっスよぉー」と間延びした声が返ってくる。奥の部屋から現れた矢壁は大皿を抱えていて、その上には色とりどりの、やけに凝った作りのサンドイッチが並んでいる。
なるほど、朝からこもっていたのはこれの準備をしていたためらしい。事務所の奥には簡易キッチンが置かれていて、軽い食事の準備くらいになら使用されることもあったが、ここまで豪勢な昼食が出てきたのははじめてだった。応接用の机の上が、あっという間に皿で埋められる。ちょっとしたパーティのような風情に、ユウヤは目を輝かせた。
「うわぁ、すごい。きれい。このピンク色のは何ですか?」
「イチジクっス。マスカルポーネチーズと、はちみつが少し入ってるんで甘酸っぱくておいしいっスよ。こっちのはエビアボカド、これはオーソドックスなシーチキンのサンドイッチで、少しだけ大葉を混ぜ込んであるっス。ニンジンとマスタードのサラダも作ったっスよ」
手際よく説明する矢壁の声を聞きながら、どうだい、と真野は胸を張った。
「作ったのは矢壁だろう?」
「あたしだって手伝いましたよ」
「企画立案と指示系統はたしかに掌握してもらったっス。あと味見も」
「専門分野の人間がそばにいるなら、そいつに任せるのが筋ってもんさ」真野はにやりと口の端を上げ、ホウレンソウオムレツとチーズのサンドを摘まんでひとくち食べた。「うん、おいしい」
間違っても矢壁は料理の専門家ではないのだが、手先の器用さとマメな性格からか、三人の中では一番、こういうシャレたものを作るのに向いている。かわいらしく飾った料理皿に彩られ、探偵社はすでにその言葉のイメージから遠い空間と化していたが、そもそも一般的な依頼者などめったに来ない場所なのだから問題はなかった。勧められるままに両手を合わせたユウヤは、そわそわきょろきょろと皿の上に視線をさまよわせ、食べたことのないものばっかりだ、と小さく零しながら手を伸ばす。
「食べきれなかったら、持って帰ってもいいからね」
「いや、食べきったら驚きっスよ。今朝も言いましたけど、絶対、四人分の食事量じゃないっスからねこれ」
「そうかい? じゃあ細井の分は少し取っておいてやるとして、日持ちのしそうなヤツだけ先に詰めといてやりなよ。ちょっと荷物になるかもしんないけど。あ、ユウヤくん、午後はどこか出かける予定? 図書館に寄るつもりなら、食べものを持って入るのはまずいかな」
パンから溢れそうになるジャーマンポテトと格闘していたユウヤは、真野の言葉に視線を上げた。大慌てで飲み込み、なにやら落ち着きなく何度か頷く。
「あ、はい。えっと、今日は検査の日なんです。だから、あんまりたくさんは持ち歩けないかもしれません」
検査、ということは、行き先は病院だ。ユウヤの病状は、それを病と呼ぶべきかどうかさえ不明なほど特殊なもので、「原因不明」のひとことを、医学は、極度のストレスによる神経の摩耗という言葉で包んだ診断を下している。とはいえ、長く昏睡状態にあった身であることに変わりはない。定期的な受診は必要だ。
この事務所から向かえば、病院まで出るのには少し時間がかかる。手土産を抱えて電車を乗り継がせるには、少々酷に思える距離だった。八神は時計を見やり、脳裏に今日一日の予定を描いた。細井からの連絡は夕刻。夜は情報交換のため人と会う約束があったが、どうせ遅い時間帯のことだ。海道ジンの紹介によって通院しているユウヤの、診察時間がそこまで長引くことはない。
時間は充分にあったので、ならばと八神は口を開いた。弱ったふうに眉を下げるユウヤに向けて、「私が車を出そう」と言う。
少年は、伝えられた内容がよく分からないというふうな顔をした。少し言葉足らずであったらしい。八神は再び、今度は彼に言い聞かせるように告げた。
「荷物持ちついでに、病院まで私が送ろう。どうせ、今日はあまりやるべきことも残っていない。少し事務所を空けたところで問題はないさ」
「え、でも……」
「ええっ! ずるいですよそんなの!」
と、ユウヤの言葉を遮ったのは真野であった。拳を握りしめ、あたしも行きたい、と訴える。切実なふうを装ってはいたが、冗談を口にするときの声で彼女は言った。「八神さんだけ、ユウヤくんと遊びに行くなんてずるいです」
真野は、ユウヤをひどく気に入っている。なにがそこまで彼女を動かすのかは分からないが、もともと面倒見がよく明るい性格だ。ユウヤの境遇の仔細までを彼女は知らないが、それでもなにか感じ入るところがあるのかもしれなかった。なにやら子どものようにくちびるを尖らせる真野に、八神は内心で親しみを感じながら、「お前たちは留守番だ」とだけ言った。ぶうぶうと、真野はやはり幼児のように文句を口にしたが、そのようすは楽しげであった。
病院に到着してすぐ、ユウヤは人の少ない廊下の奥、小さな扉の向こうへと消えていった。
その細い背を見送ってから、八神は待合室のやわらかなソファに腰掛けた。壁にかかった時計を見上げ、ちいさく息を吐く。ひとの気配はそこかしこにあるが、不思議と、視界に入る場所にはだれの姿も見えなかった。病院はすこし苦手だ、と八神は考える。深閑とした空気には安らぎの気配があるが、それは死や病に直結したものであるように感じられた。ユウヤの持つ妙に穏やかな静けさは、この場所に少し似ているなと、八神はそんなことをふいに思った。病院という特異な場の色が、彼の肌に馴染んでいる。
灰原ユウヤ。
彼は頭の良い子どもだ。白の部隊でどの程度の教育を受けてきたのか、そこまでは八神の知るところではないが、少なくとも一般的な中学生の学力は上回っているように見えた。知識に偏りがあることは否めないが、それを補って余りある安定した思考力を持っていたし、鋭い観察眼を持っていた。一度学んだこと、読みとったことは忘れない。機械のように精密にものごとを図り、再現する力にさえ秀でていた。
病室で意識を取り戻し、そして自由な時間を手に入れてから一年足らず。彼は海道ジンとすごす環境から慈愛と道徳を学び、八神の与える書物から社会と倫理を学んだ。外の世界を自らの足で歩いてまわるようになってからは、眼前に広がるすべてを片っ端から吸収しているようだった。学習能力はもちろん、場に順応する力が高いのだ。社会で生きる能力に長けている。
自分が本当に彼の担任教師であったなら、と八神は考える。きっと、充分すぎるほど気をかけたことだろう。その優秀さに信頼を置き、クラスのことを任せていたに違いない。思ってから、八神はひそかに自嘲した。教師だなどと、とんだ妄言であった。八神は探偵であり、そして密偵だ。裏の社会に通じている。自分のような人間が、彼に教えられることなど限られている。
誰もいない待合室で、時計の針の進む音だけを聞きながら、八神はすごした。一時間もしないうちに、診察室の扉が開く気配が届く。いやに軽い足音が、のんびりと近づいてくる。
八神の姿を見たユウヤは、なぜか驚いた顔をしていた。どうやらとうに帰ってしまっているものだと、彼はそう考えていたらしい。たしかに、病院まで送るとは言ったが、帰り道までは約束していなかった。
サンドイッチとサラダの収まった大きなタッパーウェアを袋に詰めて、それを両手で抱えている、そんな子どもを、まさか置き去りにするわけがないだろうに。
八神は少々呆れた気持ちにもなったが、彼の認識を言葉にして正すことはしなかった。これで当然なのだと、大人とは本来そういった生き物で、子どもにはその庇護を受ける権利があるのだと、声にしてわざわざ伝えなくとも、少年が肌で感じてくれればそれで良いと思った。
このくらいのことは教えてやれる。八神はそれを実感しながら、立ち上がった。小走りでユウヤが近付いてくる。彼はすこし困惑したような、照れくさがっているような、そんな奇妙な声でありがとうございますと言った。
検査結果は概ね良好であったという。顔色が良いと褒められたのだと、帰りの車内で嬉しげにそう報告して、ユウヤは看護師にも、昼に食べたサンドイッチの自慢話をしたのだと語った。矢壁の料理の腕を改めて褒め称えながら、あんなに美味しいものははじめて食べたと彼は言う。自分もいつか作れるようになりたいと笑う。
「教えてもらえばいいさ。きっと、すぐに覚える」
「本当ですか?」
「ああ。矢壁はもちろんだが、真野もあれで料理が下手というわけではないし、頼めばなんでも教えてくれる。細井だけはやめておいたほうがいいが」
車の多い夕方の車線にハンドルを切りながら、八神はふっと笑った。「辛いものが好物なんだ、彼は。味オンチというほどではないが、あれに合わせると舌がバカになりかねない」
「舌がバカに?」
「そう。辛いものや酸味の強いもの、脂身なんかを食べすぎると、舌の感覚がおかしくなることがある。刺激を受けすぎて、味覚が鈍くなるのだろうな」
「はじめて聞いた言いまわしです」
「……最近の子はあまり使わない表現だったかな」
八神が呟くと、ユウヤは目を丸め、それから僅かに微笑んだ。僕が無知なだけですよ、と小さな声で言う。「食べものに好き嫌いがあることも知らなかった」
八神は一瞬言葉を失ったが、ユウヤの浮かべる表情は穏やかだった。彼は窓の外に視線をやって、シートにもたれかかるように身体の力を抜いた。静かに息を吐く。呼吸の方法を改めて身体に教え込むような、そんなゆっくりとした口調で、彼は言葉を紡ぎ出した。
「僕ね、八神さんの事務所に行くときいつも、駅からの道を歩くんです。ちょうどすぐそばにある和菓子屋のおばあさんに、今朝も、あいさつをしました。二回おまんじゅうを買ったことがあるだけなのに、顔を覚えてくれていて、こんなふうに昼間から出歩いている僕になんにも聞かないで、近所の子たちに接するみたいに優しくしてくれる。図書館にもよく行きます。あそこの中庭の花壇は、このあいだ、学校帰りの小学生たちがむちゃくちゃにしてしまって、怒った司書のお姉さんがその子たちに手入れをさせていました。僕はずっとその光景を見てた。本当は僕も、花壇に花を植えるのをやってみたかったんだけど、どうしても言い出せなくって、小さな子たちが叱られて、泣きながら土を掘っているのに、楽しそうだね、僕も混ぜてほしいな、って声をかけることが出来なくって、本を読んでいるふりをして、閉館時間になるまでずっと椅子に座って眺めてました。お姉さんは最後は笑顔で、子どもたちにクッキーをあげてた。よく頑張ったねって、褒めていたんだと思います。やっぱり僕も声をかければよかったなって、その時になって後悔しました。あ、クッキーがほしかったってわけじゃないですよ」
ユウヤはくすりと笑い、少し視線をあげ、八神の顔を見た。運転中の八神が、こちらの表情をまっすぐに窺えないことを確認するかのようだった。彼はふたたび、夕暮れの街を眺めやる。なにかを懐かしむような声で、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「病院の隣にある公園で、LBXバトルをしたこともあります。ううん、最近は毎日のように見に行ってる。ほんとうは、今日も寄っていくつもりでした。あそこにいるのは入院中の人や通院しに来ている人が大半で、小学生くらいの小さな子もいれば、身なりの立派なおじさんや、きれいなお化粧をしたお姉さんもいます。僕が行くと、みんな笑顔で出迎えてくれる。いつも同じメンバーじゃないんですよ。どんなひとが来ても受け入れる、そういうふうな空気が出来あがっているんです。最初はとても驚きました。LBXを触ったことのない人が、だれかに貸してもらってはじめて操作して、楽しそうにはしゃいだ声をあげている。ショップの大会で優勝したこともあるっていうお兄さんが、そういう人たちに操作のことやカスタマイズの方法や、武器の選び方なんかを教えてくれている。ああ、そのお兄さんね、僕のリュウビをひと目見て、これは俺が弄っちゃいけないものだって言ったんです。僕はあんまりバトルには参加しないのに、みんなに聞こえないところでこっそり、きみはほんとうはすごいプレイヤーなんだろう? って聞かれちゃいました。その人と何度かバトルをしているうちに、なんとなくですけど、僕らしい戦い方っていうのが分かってきた気がするんです。最近は少しずつ、いろんな人とバトルが出来るようになってきました。僕ね、意外かもしれないけど、チーム戦が得意なんですよ。相手のLBXがどういうふうに動くのか、僕がどんなふうにリュウビを操れば、上手にサポート出来るのか、そういうことが分かるんです」
今までの僕じゃ、きっと出来なかった。
ユウヤは静かにそう言って、それからゆっくりと、深呼吸をしたようだった。窓ガラスに少し頭をもたれさせて、彼は窓の外を見ていた。変わってゆく、世界の景色を見ていた。
「毎日がとても鮮やかで、今まで見てきたものが、なんだか全部、嘘みたいに思えるんです」
うわごとのようにぼんやりとした口調でそう呟く。ちょうど、大きな交差点の信号が赤になった。八神は車を止めて、けれど、隣に座る少年の顔を見やることなく、変わらず前方を見つめたままで言った。「きみには、そんな生き方も残されている」
地元の子どもたちと同等に愛され、言葉をかけあい、ただのホビーとしてのLBXを操る。ユウヤがそれを望むのなら、いつでも手渡すことが出来る世界だ。
八神のような裏の世界に通じた人間の傍を離れ、こちら側に一切関わることのない、ただただ明るい道を選べばいい。その権利が彼にはあった。矢壁でも、真野でもない、べつの信頼出来る大人に料理を教わる、ただそれだけの話なのだ。それだけで手に入れられる。
「今までのことをすべて、嘘にしてしまっても構わないんだ」
それを告げる八神の横顔を、ユウヤはじいっと見つめていた。彼は僅かに苦しげなようすでゆらりと瞳を揺らしたが、しかしそれは一瞬のことで、すぐに苦笑いのような表情を貼り付ける。信号が変わり、車は再び前進しはじめた。
「このあいだね、イルカの本を読んだんです」と、ユウヤは呟いた。
「図書館の、図鑑や辞典を置いているコーナーにあった、写真よりも文章がたくさん並んだ本でした。僕はイルカを知らなくって、表紙に載っているのがあんまり不思議な見た目をした生き物だったから、興味を引かれて手にとりました」
ユウヤは訥々と、イルカの生態について語りはじめた。いつの日か、本物のイルカを見てみたいのだと言った。要領を得ない話題に八神はかすかに首を傾げたが、黙って彼の言葉を聞いていた。
「イルカって、とても賢いんですよね。芸を教えると、大抵のことは覚えてしまう。人の言葉を理解して、感情さえ察することが出来るって、そう書いてありました。悲しんでいる人が傍にいると、慰めようと行動する。動物療法にも使用されるくらい、癒しの生き物として愛されているんです。目の前で起きているものごとをきちんと理解出来る、頭のいい種族」
ユウヤはそこで、一度言葉を切った。でも、と彼は続けて、少しだけ目を伏せたようだった。「でも彼らは違うんです」とユウヤは言った。
「人間とは、やっぱり、違うんです。目の前にいる人を慰めることは出来ても、ここではないどこかに、ほかにも悲しんでいる人がいるかもしれないって、そう考えることは出来ない。知らない誰かを、助けに行こうとは考えない。助けを求めている人がいる可能性にまでは至らないんです。人間にはそれが出来る。……今の僕には、それが出来ます」
ユウヤはやはり、窓の外を見つめていた。夕暮れは次第に夜の温度を引き寄せて、世界を影で満たそうとしはじめていた。八神はなにか言おうと口を開いたが、ユウヤの視線がそれを止めた。
彼は強い眼差しで前を見ていた。いずれ訪れるかもしれない、夕闇の気配をまっすぐに捉えようとしているふうだった。
海道義光。イノベーター。白の部隊。
八神と関わり続けることで、灰原ユウヤの九年間を構成したそれら、あるいは、それらに類似するような悪意が、再び彼の眼前に現れることもあるかもしれない。それが足元に触れるより先に、どこか遠くへ逃れる権利が彼にはあると、八神はそんなふうに考えていたが、しかしどうやらそうではない。ユウヤにはもとより逃げ去るような意志などなく、それどころか、決して見逃すことのないよう意識を配っているようでさえあった。
いつかどこかで誰かが傷つき、悲しむようなことが起きたとき。自分の力が必要とされるそのときには、すぐさま駆け付けることの出来るように。
八神はひっそりと嘆息した。穏やかさを含みながら、しかしなにがなんでも我を通そうとするようなユウヤの視線に、今さらながら彼がまだ十四歳の子どもであることを思い出していた。
八神が彼に告げられるようなことはもうなにもなかった。その選択をしたのが彼自身であるのなら、それはもう仕方のないことなのだと思った。自分の重ねてきた十年と、彼が歩まざるをえなかった十年。その道が今になって僅かに重なりつつあることは、数奇といえば数奇で、当然といえば当然なことなのかもしれないと、そんなふうに考える。
けれど車を走らせているうちに、助手席に座るユウヤが、いつの間にか、窓ガラスにもたれてすうすうと寝息を立てていることに気がついたので、その幼い寝顔がふたたび戦いの場に晒されることなどなければいいと、八神はひとり、祈るような気持ちになったのだった。