キノフロニカ - 2/5

ゼンマイ金魚 -目黒と黒木とユウヤ

 脱走したはずの灰原ユウヤが施設内の器材置場で発見され、短気な研究員に背中と頭部を殴打されて生死の境をさまよっていたころ、目黒と黒木はというと、灰原ユウヤに逃亡を促した愚かな同僚を捕縛し、床の上に転がしていた。
 彼に名前はなかったので、研究所内では記号の羅列で呼ばれていた。序列としては目黒や黒木よりも上に当たる、いわゆる成功例の一種ではあったが、今回の事件による立場の逆転は免れなかった。目黒も黒木も暴力は好まないので、とりあえず逃げることの出来ないように腕と足だけ拘束する。彼は別段抵抗の意思を見せなかった。何故こんなことをしたのかという問い掛けに、ただ、「かわいそうだと思ったんだ」とだけ返した。
「お前たちは頭がおかしい」
 淡々と、彼はそんな言葉を残して、どこからやって来たのか、目黒も黒木も見たことのない、黒いスーツの大柄な人物に引きずられながら部屋を出ていった。どこに連れて行かれたのかは知らないが、殺されるようなことはないだろうと、目黒は思った。腐っても成功種なのだ。用途はいくらでもあるはずで、けれど、その用途が尽きたときには、やはり殺されてしまうのだろうなと黒木は考えていた。もっとも、それは自分たちも似たような立場であるので、あまり悲嘆に暮れるようなことではないのだけれど。
 お前たちは頭がおかしい。
 そう言った彼が寝起きするのに使用していた部屋を、目黒と黒木は手分けして片付ける。灰原ユウヤの世話役であった彼に与えられていたその空間は、他の個室に比べていくらか広く、その分置かれている私物も多くあった。そのほとんどが灰原ユウヤに関わる資料のたぐいであったため、黒木は嫌悪に顔をしかめ、目黒は呆れて嘆息した。ペーパーレスを定められているのにも関わらず、人目から隠すように置かれた小さなラックには複数のフラットファイルが収められていて、そこには灰原ユウヤが被験体として本格的に研究対象とされるようになったこの一年分、彼の行動のすべてが記されている。
 起床時間、食事の量、実験内容やコンディションの詳細はもちろん、口にした言葉のひとつひとつ、その日に取った仕種の細部に至るまで書きこまれたその書類に、目黒と黒木はただただ無言で目を通した。頭がおかしいのはこいつだ、と目黒は思い、とはいえ、こんなものまできちんと読み込もうとしているのだから、自分たちも充分に頭がおかしいなと黒木は思った。
 部屋の片づけには半日ほどかかった。
 不要だと判断したものは処分して構わないと言われたので、目黒はその薄気味悪いフラットファイルの群れを片っ端から燃やしてしまいたいと考えたが、報告しておくべきだという黒木の言葉に従い、すべて箱に詰めて資料として提出した。衣類や個人的な書籍のたぐいはすべて捨て、広い部屋に残ったのはベッドがひとつと、デジタルコンピュータが一台。そこにもうひとつベッドを放りこみ、更に二台のコンピュータを並べる。
 それだけ詰め込んでも、寝起きするのには充分な広さだ。目黒は新しい私室に満足し、黒木も概ね、不服はなかった。灰原ユウヤの世話を引き継ぐことにまったく抵抗はなく、むしろ思わぬ昇格に少々浮かれるような気持ちさえあったが、そもそも灰原ユウヤそのものがこのまま廃棄になってしまうかもしれない状態にあったので、祝杯を上げるのは後日にしようと、ふたりは話しあってそう決めた。

 灰原ユウヤはある日突然いなくなり、施設内を軽いパニックに陥れた。加納研究室はこの二年近く、まさに灰原ユウヤの研究を中心にして動いていたといっても過言ではなかったので、本体を失うなどあってはならない事態であった。被験体自身に逃亡の意思はなかったようで、半日も経たないうちに、灰原ユウヤは灯りのない器材置場の隅で丸まっているところを発見されたが、どういうわけだか命令を聞かず、それどころか研究室に戻ることを拒んでひどく抵抗したため、その場にあったガラスボードで研究員に殴られ意識を失った。それきり、いまだ昏睡状態が続いている。
 たかだか八歳児であるところの灰原ユウヤがはたしてどれほどの力でもって研究員に歯向い、道具まで持ち出させることに成功したのか、現場を見ていない目黒と黒木にはさっぱり想像出来なかったが、ともかく、その男がもう白衣を必要としなくなったことは間違いなかった。今ごろ、彼の私室もだれかが片付けをしているはずだ。さすがに殺されはしないだろう、と目黒は思ったが、近いうちにどこかで事故にでもあうのかもしれないな、と黒木は考えていた。
 灰原ユウヤは加納研究室という狭い世界をくるくると回している張本人で、現在の白の部隊の状態を作り上げた、いわば守護神のようなものであったので、その神を傷付けるということは、つまり、そういうことなのであった。
 目黒と黒木はこの実験に初期の段階から参加している。そもそも、人体強化という名目を掲げた加納義一の研究に、まず実験対象として置かれたのが目黒と黒木を含む複数の幼児であった。思い起こせば、もう八年以上も昔のことであり、正直なところ目黒も黒木も、当時一緒に被験体として施設で育てられていた同じ境遇の子どもたちのことを、あまりよく覚えていない。成功種としていまも加納のもとで働いている者は何人か存在したが、たとえ彼らがある日突然いなくなっても、逆に、どこからともなくやって来たとしても、目黒はきっと気づかないし、黒木もあまり気にとめないことだろう。彼らもきっと、目黒と黒木のことを似たような感覚で認識しているに違いない。
 所詮はサンプルで、元被験体で、いまはただの小間使いだ。
 目黒と黒木は初期の実験でも比較的優秀な成果を残したサンプルで、だからこうやって、今でも加納義一に使われていられる。他の、いわゆる失敗作、出来そこないと呼ばれる被験体とどこがどう違うかと言えば、実験の最中に命を落とさなかったという点と、他の検体より少々頭が良かったという点くらいのものであるが、しかし、それだけでも充分なのだ。大した成果を残すことはなかったが、失敗例の中でも自分は優良種であると目黒は自負していて、黒木も、灰原ユウヤが現れるまではそんなふうに考えていた。
 灰原ユウヤがやって来たのは今からちょうど四年前、彼が四歳のときのことだった。
 トキオシティで大きな事故が起きたその翌週、研究所に新たに連れて来られたサンプルは数名いたが、灰原ユウヤ以外はすべてとうに破棄されている。必要なかったのだ。そのくらい、灰原ユウヤは適応力の高い、魅力的な素材であった。彼は最初の半年を泣き喚きながらすごし、残りの三年半をかけて優秀な被験体として育った。二年前には、加納義一が白の部隊の長にまで登り詰めるための、充分な研究成果として発表された。それによって黒木は、自分たちが優良種ではなく劣等種であることを自覚したが、だからといって日常に変化はなかった。日々の中心となるのは変わらず加納義一の研究であり、そしてその研究の主だった部分を担うのが、灰原ユウヤになったというだけの話だ。
 加納義一の研究は仁義にもとる。
 それは、幼いころから彼の研究対象として育てられてきた目黒と黒木にも充分理解できる事実であった。LBX操作の最新技術を求めてこの研究所にやって来るものは少なくなかったが、その多くが、ひと月も耐えられることなく、加納義一への嫌悪感をあらわに罵声を響かせながら去ってゆく。人を人とも思わぬ非人道的な組織であると、海道義光に忠誠を誓って白の部隊に入隊してきた者でさえ、顔を青ざめさせてそう呟く。
 目黒と黒木にとって当然の日常はどうやら世間には認められないものらしいが、なんとなく、そういうものなのであろうと、ふたりはそんなふうに曖昧に、その現実を受け止めるより他なかった。
「これでも少しはマシになったんですよ」と、有名な大学を出て研究室にやって来た若い青年に、目黒はそう言ったことがある。もう何年も昔のことだ。目黒や黒木のような少年がこんな場所にいることが、彼にはどうも信じられないようで、いったいどうしてここに所属することになったんだいと向こうから言葉をかけてきた。なにかを口にしなければ我慢ならなかったのかもしれない。そのときはちょうど、灰原ユウヤの人格矯正のチェック中で、頭を抱えて金切り声を上げはじめた灰原ユウヤを、その場にいる研究員たちはみな落胆の気持ちで眺めていた。
「ああいう実験のほとんどが、とりあえずなんでも、灰原ユウヤのために行われるようになったので。正直、ぼくたちみたいな失敗作はみんな、自分があんな目に合わなくてすむようになって本当に助かったって、そう思っているんです」
 目黒がすこし口の端を上げてそう言うと、青年はなんとも形容しがたい表情を浮かべた。今にして思えば引いていたのだろう。彼はその半年後には研究室を出ていって、今はどこでなにをしているのか知らないが、おそらく一度こういった場所に出入りしてしまった以上、ふつうの環境に戻ることは出来ないだろうと黒木は考えていた。
 自分たちもそうだ。目黒はトキオシティにあるメグロ駅のコインロッカーに置き去りにされていた、いわゆるコインロッカーベイビーであり、そこから回収され、あらゆる施設をたらいまわしにされた挙句加納のもとに辿りついて以来、分かりやすい記号として「目黒」と呼ばれるはめになってしまった。まるで冗談のような話ではあるけれど、目黒自身は、人名らしい呼び名で良かったと、実に前向きに考えている。黒木は黒木で、一応本名ではあるようなのだが、やはりファーストネームが与えられる機会に恵まれないまま育ってしまった。どちらにせよ、帰る場所もなければ待つ人もない、ここよりほかに居場所のないふたりであったので、たとえ加納研究室が不慮の出来事で解体されることになったとしても、それによって自分たちが自由を手に入れることがあったとしても、きっとなにをすることも出来ず、また似たような組織に囲われてすごすに違いないのだった。

「黒だ」と加納義一は言う。
「灰に対する、黒だ。分かるか、お前たちのことだ」
 加納は、研究室の長には到底似合わない、細く弱々しげな椅子に腰かけて、一心にモニターを見つめていた。目黒と黒木にも見慣れたそれは、灰原ユウヤという個体の生体状況を数値化して映しだしたもので、いまだ予断を許さない不安定な数字ばかりを表示させては、灰原ユウヤをどうにか生命体として認識しているようだった。
 こちらを一瞥もすることなく、加納はただ、その数字を見つめていた。そうやって視線を送ることで灰原ユウヤの状態が良い方へ向かうと、まるで信じているようにも見えた。突然の事故にあった子どもの無事を祈る父親のようだ、と目黒は考え、思わず失笑した。黒木は笑わなかった。
 そんなふたりのようすに気付いたふうもなく、加納は言う。
「前任者は片付けた。今後、灰原ユウヤの身辺の世話とサポートはお前たちに一任する。二度とこのような失態のないよう、充分に注意してくれたまえ」
 どこか上の空のような、中身のない言葉だった。事務的な口調でそれだけ告げて、加納は再びモニターに見入る。目黒と黒木は顔を見合わせた。灰原ユウヤの世話役に年の若い者ばかりが就くのは、まだ幼い被験体に対する精一杯の配慮のようなものだと考えていたが、そんな言葉遊びのような理由で自分たちが選ばれたとは思いもしなかった。
 ひとつの灰と、ふたつの黒。
 その組み合わせがなにかの抑止に繋がると、加納義一のような科学者が本気で信じているのだろうか。目黒が訝しげに眉を寄せていると、黒木は少し硬い声で、加納先生、と男を呼んだ。加納の肩が少し揺れて、言葉の先を促す。黒木はためらいがちに口を開いた。
「灰原ユウヤに、回復の見込みはあるのですか?」
 問いかけはシンプルなものだった。頭部を強く打ち付け、背中から裂傷を負った灰原ユウヤが、はたしてこの先目を覚ますのか、覚ましたとして、今までどおりに使用することが出来るのか、それによって目黒と黒木の立場も随分と変化するはずだ。手は尽くしたと聞いている。後遺症が残るほど、手酷い傷ではないということも。
 それでも現実に灰原ユウヤの昏睡状態は続いていて、目黒も黒木も、今後のことを一切聞かされてはいない。ただ前任者の部屋を片付け、引越しの準備をすませただけだ。目黒と黒木は加納を見つめたが、加納が彼らに視線をやることは結局なかった。
 ただ、ふちの黒い眼鏡がかすかに角度を変えて、その奥にあるふたつの目が澱んだ色を宿すのだけが見えた。加納は、低く静かな声で、当然だ、と呟いた。
「このまま終わりになどするものか。たとえ灰原ユウヤが目を覚まさなくとも、プロジェクトが終了することは決してない。器はあれでなくても良いのだ。器は、たとえ壊れてしまっても構わない。研究内容さえ残っていればそれで良い。問題はないのだ。データの保全さえ完璧なら、こんなことにはならなかった。ようやくここまで来たのだ。適合者さえ見つかれば、器などいくらでも、廃棄してしまったところで支障はない。いくらでも、」
 いくらでもやり直すことが出来る。
 加納の言葉はほとんどひとりごとのようだった。黒木の問いに、なにひとつ答えてはいなかった。目黒と黒木は再び顔を見合わせ、同じタイミングで軽く息を吐いた。お前たちは頭がおかしい。そう言われた声を思い出し、目黒は、まったくその通りだと考え、黒木は、けれど自分はここまでではないぞ、と考えた。いずれ灰原ユウヤを失ったときこそが、目の前の、この優秀な科学者の最後なのではないかとさえ思ったが、しかし、その日は決して来ないのだと、当人が自ら語っていたので、それ以上はなにも言わずふたりして頭を下げた。部屋を出ると、通路を照らす天井からの灯りは、不可思議なほどに眩しく思えた。
 目黒と黒木は私室に戻り、前任者から引き継いだ資料に目を通す。
 コンピュータがちらちらと淡い光を放ち、最新のメカニズムでもって薄っぺらなモニターを表示させる。文字が浮かび、画像が開き、夢のような速度で情報を表示させてゆくのを、ふたりは黙々と閲覧し続ける。今まで得ようのなかった機密が、眼球ではなく、キーボードを操る指先のほうからふたりの脳髄に染み込んでゆく。先に息を吐いたのは黒木のほうだった。
「灰原ユウヤがもし、このまま廃棄されることになったとして、そうしたら次は、また別の被験体が、今度は灰原ユウヤを引き継ぐことになる」
 唐突な言葉に、目黒はすこし驚いて、それから頷いた。まったくその通りであると思った。だから自分たちが「灰原ユウヤ」の世話をすることは確定事項で、加納義一の言ったとおり、このプロジェクトは終わらない。新たな灰原ユウヤを携えて、これら膨大なデータを元に、また着実な実験を続けてゆく。器はなんでも構わないと、加納はそう言ったのだから。
 しかし目黒の首肯に対し、黒木は僅かに小首を傾げた。「本当にそう思うか?」呟き声のような問いかけは、自問であるようだった。「本当に、灰原ユウヤを失ったとして、次の灰原ユウヤが生まれてくると、そんなふうに思うか?」
 灰原ユウヤは、と黒木は言った。淡々と、己の考える事実を確認し、自答するみたいに断言した。
「灰原ユウヤはひとりだ。あれ以上はない。あれ以上に完璧な個体なんて、きっと二度と、手に入らない」
 目黒はなにも答えられなかった。そもそもふたりがこんなふうに、自身の心情を言葉にして語らうことは滅多になかったので、いったい急にどうしたのだろう、という困惑ばかりが、目黒の頭には浮かんでいた。
 黒木も目黒も、灰原ユウヤの資料を見つめていた。トキオブリッジの倒壊事故で彼は家族を亡くしていて、当時はまだ四歳だった。そんなことはおそらく、彼の研究に携わる者のほとんどが知っている。四年をかけて、この研究所の神にまで登りつめた。いまはもう、多くの研究が灰原ユウヤのデータをもとに回っていて、彼ひとりがいなくなるとさまざまな機能がストップする。みなが血眼になって、たった八歳の子どもを探して走りまわる。
 自分たちが加納義一のもとに連れてこられたのは、いったい何歳のときのことだったろう。目黒はもちろん、黒木にも両親の記憶はない。ふたりには名前さえなかった。きっとこれから先も、決して与えられることはない。たとえここからいなくなったとしても、だれも気にとめないし、なにかを引き継がれることもない。この部屋が、べつの、新しい誰かによって片付けられるだけだ。
「お前がなにを言いたいのか、ぼくにはよく、分からないけど」ひとつだけ分かることがある、と目黒は呟いた。黒木はちらりと、目黒の顔を見た。
「ぼくたちは灰原ユウヤにはなれない」
 たとえこの先、もしも灰原ユウヤを引き継ぐ者が現れたとしても、それは決して、自分たちではない。
 目黒と黒木は、再びコンピュータに向き直った。新しい部屋はとてもきれいで、気が遠くなるほど静かだったので、目黒は奇妙に満ち足りた気分になり、黒木は、自分の中に灰原ユウヤを羨む気持ちがあることを認めることにした。

 灰原ユウヤは、結局、目を覚ました。
 事件から一週間後の、深夜のことだった。彼は寝台のうえでぱちりと目を見開き、まるでなにごともなかったかのように身体を起こすと、誰かの姿を探すようにきょろきょろと周囲を見回した。室内にはもちろん、誰もいない。彼はどことなく落胆したような表情を浮かべた。ガラス越しに灰原ユウヤの容態を窺っていた数名の研究員だけが、そのようすを見ていた。
 灰原ユウヤはゆっくりとした動作で、静かに寝台を下りた。いつも目覚めてすぐ受けている投薬を、彼は求めているようだった。
 器材置場で発見されたときの灰原ユウヤは、実際のところ、暴力によって抑えつけるよりほかないくらい手がつけられない状態であったので、それを知っている者たちは、こぞって安堵の息を吐いた。

 報告を受けた目黒と黒木はすぐさま、灰原ユウヤのもとを訪れた。時刻は午前二時を回っていたが、窓のない施設に、夜の気配は忍びこまない。研究所はいつも、昼とも夜ともつかない薄明るい光の下にあって、そうやってここから動くことの出来ない者たちに、時間の流れを忘れさせようとしているようだった。目黒も、黒木も、青空をほとんど見たことがない。日々を覆うのは広い空ではなく冷たい天井ばかりで、こればっかりは、灰原ユウヤとて自分たちと同じだ、と目黒は思った。そしてこの現実はこれからもきっと変わらないと、黒木もそう思っていた。
 辿りついた部屋のまんなかで、灰原ユウヤはぼんやりと佇んでいて、目黒と黒木は手分けをして彼に薬を与える。上半身と頭部に巻かれた包帯を解き、新しいものに変えてやる。灰原ユウヤはじっとどこかを見つめて、まったく抵抗するようすもなく、人形のようにされるがままになっている。
「痛むところはないか?」
 問いかけには、こくりとひとつ頷いた。傷そのものは完治していないので、痛みがないということはありえないはずなのだが、本人がそう言うのならばそうなのだろう。黒木は鎮痛剤を与えなかった。ここでの生活は、多少なりと痛みを伴うくらいがちょうどいいのだと、経験から理解していた。
 灰原ユウヤは、ずっと、なにも言わなかった。目黒と黒木はマニュアルの通りに彼の心身データを収集し、夜が明けてから、加納義一に報告をする。よたよたと、まだ足取りの頼りない灰原ユウヤを連れて、明るい回廊をゆっくりと移動する。辿りついた部屋では何人もの白衣の大人が待ちかまえていた。今回のことでまた課題が増えたと語る、加納義一のひとりごとのような声を聞きながら、目黒と黒木は灰原ユウヤを寝台に横たわらせた。
 加納義一は目を細め、灰原ユウヤの、不思議なほどに静かな無表情を見つめていた。研究者の荒れた指先が、幼い子どもの青い頬をうっとりと撫であげる。ぽっかりと見開いたままの、まっくらな目を、てのひらでゆっくりと閉じさせる。自身の作品を愛でる芸術家のように、それは優しい手付きであった。目黒はほんの小さな声で、隣に立つ黒木に問うた。「かわいそうだと思うか?」
 前任者の声が頭をよぎる。かわいそうだと思ったんだ。彼はその気持ちのまま、灰原ユウヤを監視するカメラをシャットダウンさせ、扉を開き、そして被験体を解放した。かわいそうだったので、見ていられなくなったので、逃がしてやろうとした。どこか遠くへと、この頭のおかしな世界の外へと。けれど灰原ユウヤは結局どこに行くことも出来ないまま、青空を仰ぐことすらしないで膝を抱えて丸まっていた。ふたたび、被験体として戻ってきた。いまは冷たい寝台のうえで、多くの目に見守られながら、状態のチェックと大規模なバックアップを受けている。
 つぎにいつ、今度のような事態に陥ったとしても構わないように。
 オリジナルの個体をいつ失っても、何度でもやり直しの出来るように。
 目黒と黒木はそのようすを、すこし離れた場所から見ていた。それぞれの端末を片手に、灰原ユウヤの状態を確認しながら、まるで舞台のそでからショーを眺めるように見つめていた。
 黒木は目黒の問いかけに、ぜんぜん、と答えた。

 水中で静かに眠る灰原ユウヤを、目黒と黒木は眺めてすごす。
 時刻は深夜だった。ふたりして、明日取り行われる灰原ユウヤの最終調整の、その準備をこなしていた。円柱状の水槽のなか、十三歳の灰原ユウヤは、奇妙なほど穏やかなようすでまぶたを下ろしている。ときどき、口の端や髪の隙間から、細かな泡がちいさく漏れる。液体状の酸素を全身から含みながら、灰原ユウヤは呼吸をする。
 夜の時間は深閑として、異常なほど緩慢に流れていた。灰原ユウヤは眠っていて、目黒と黒木は作業の合間に、彼の寝顔をじいっと見あげていた。その手元にはLBXがあった。前任者から引き継いだものではない、目黒と黒木のためにと用意された機体だった。
 名前をアヌビスという。
 エジプト神話に登場する、死を司る神の名だ。冥府の王のもと、死者の罪を量る責務を負うそれは、黒い犬の姿をしている。
 ふたつの黒が操るのには、なるほど相応しい機体であるように思えた。目黒はそれを気に入ったし、黒木も悪い気はしなかった。アヌビスは既に、ふたりの手に馴染みきっていた。さまざまなパターンでのシミュレーションと訓練を積み重ねたうえで、充分な改良を施されている。目黒も、黒木も、指先をわずかに動かしてCCMのキーを叩くだけで、まるで自身の手足のようにLBXを操ることが出来た。世界大会に出場するにあたり、充分すぎる腕前であると評価を受けている。当然だ、と目黒は考え、このくらいのことは自分たちでなくとも出来る、と黒木は考えた。どちらにせよ、この程度の才能など、黒犬のあるじたる冥王の前にはかすんで見えるに違いない。
 灰原ユウヤは、すさまじかった。
 彼はLBXというものを理解していた。触れるまでもなく、ただ見つめるだけで、この世に存在する機体のすべての性能を読みとることが出来るようだった。駆動部に生じる僅かな隙、アーマーフレームの強度や装甲の傷み。搭載されているCPUはもちろん、モーターやバッテリーの数値さえ、灰原ユウヤの目にはまるで視えているかのようだった。
「とはいえ、所詮は傀儡だ。灰原ユウヤはLBXそれ自体のようなもので、我々の指示をなしに自ら動くことは出来ない」
 加納義一はそう言っていた。目黒と黒木はそれに同意する。子どものためのホビーなどではない、兵器としてのLBXを自在に操るその姿は、灰原ユウヤそのものを凶悪な兵器のように見させたが、しかしそうではない。灰原ユウヤを操っているのは自分たちであり、加納義一であり、そして海道義光なのだ。灰原ユウヤは命令に従順だった。ここから逃げ出そうなどという意思は微塵も感じさせず、すべてを受け入れ、器材置場で発見されたあの日から更に五年の月日を、完璧な被験体として過ごしてきた。灰原ユウヤを後継する個体はいまだ現れず、彼は変わらず、加納研究室を動かす神でありつづけている。
 アンドロイド技術の発達したいまの世に、生体のみで形作られた人工物。
 目黒と黒木はもう何年ものあいだ、この少年ばかりを見て生きてきた。長い夜が何度も、何度も、凍えるような速度で過ぎ去っていった。まともに言葉を交わしたことこそなかったけれど、彼らの中には愛着のようなものが芽生えていて、いつかこの子どもを、自分たちの生涯を棒に振って成し得た研究の、その結晶であると、外の世界に知らしめる日を心待ちにする気持ちさえあった。
 彼の寝顔はいつも嘘のように穏やかだ。水槽に収納された灰原ユウヤは、まるでなんの不自由も知らない、観賞用に作り出された一匹の魚のようだった。人工的に作り出された、おもちゃを操るおもちゃの魚だ。
 けれどその身体の表面に、ほんとうは、無数の傷があることを目黒と黒木は知っている。
 灰原ユウヤは、長い、長い年月をかけて、身体中のどこも傷まみれになっていた。どこから眺めても傷みしか感じられない、観賞には到底不向きな魚であった。目黒と黒木は、それを当然であると考える。灰原ユウヤとはそもそも、こうして見つめるべきものではない。操り、支配し、使用するものなのだ。この子どもは。
 そしてそこには、自分たちの受けた傷も、それと同種の鋭い痛みも、たしかに刻まれているはずなのだ。
 ふと、なにかを思い立ったように、目黒が口を開いた。もしも、とちいさな声で彼は言う。「もしもの話だけど」
 呟き声は思いがけず大きく室内に響いた。灰原ユウヤの黒い髪がゆらゆらと揺れる。黒木が続きを促すように僅かにを傾げた。目黒は灰原ユウヤを見つめたままで言った。
「もしもここから、いま、こいつがいなくなったら」そう言葉にしながら、目黒は、しかしゆっくりと首を横に振った。「……いや、そうじゃない。いなくなるんじゃなくて、もしも、もしもぼくたちがこいつを、」
 目黒がそれを言い終わるよりさきに、黒木が動いた。彼はすぐ手元にあった、小型のコンピュータを両手で掴み、ためらうようなそぶりもなく、それを灰原ユウヤに向けて思い切り投げつけた。ぶちりぶちりと、何本ものコードが千切れて床に垂れさがる。アクリルの水槽に衝突したそれは、思ったよりはるかに軽薄な音を立てて弾き返された。水泡だけが微かに水中を走って、無音のままでかき消える。
 目黒は押し黙り、黒木もなにも言わなかった。彼らと灰原ユウヤを隔てる、透明の壁は傷ひとつなくそこに聳えていた。ふたりはしばらくそうしてただ並んでいたけれど、結局、視線を交わすことなく、示し合わせたような動きで床に落ちたコンピュータを拾いあげた。コードを繋ぎ、ふたたびもとの場所に設置し直す。目黒は一瞬、きちんと作動するだろうか、と考えたが、黒木はそんなことはどうでもいいと考えた。
 灰原ユウヤは変わらず、静かに水中で眠っている。
 気味が悪いくらいに、その姿はきれいだった。とてもではないが、目黒にも黒木にも、決して手の届かない場所に存在していた。もうじきに夜が明ける。目黒と黒木は作業を終えても、ずっとその場で、彼を見ていた。なんだかひどく滑稽な気分になってきたので、目黒は思わずかすかに笑って、それにつられるみたいに、黒木も笑った。

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