月のゆりかご - 3/3

3.

 月がきれいだったから、ひとりで夜道を歩いていた。
 迎えの車はあったけれど、マンションに着く前に降りてしまった。試合よりはショウに近い、派手なデュエルリーグは送迎もゴージャスだ。ファンの歓声に包まれて終える仕事はとても楽しかったから、その気分のままで夜空を堪能したかった。気まぐれな僕の思いつきに、顔見知りの運転手は呆れ顔でドアを開けてくれた。
 世界が終幕を迎えたような閑寂の夜空には、細い月が浮かんでいる。
 かつてそれを爪あとのようだと言った、彼の声を覚えていた。一度は記憶から抜け落ちた横顔。
 あの日の月をそのまま掬って持ってきたような、見覚えのある夜だった。星の数さえ同じだけ浮かんでいるようで、どことなく懐かしい。そうやって空を見上げながら、機嫌よく歩を進める僕の前方に、同じように上空を仰ぎ立ちすくむ影があった。
 僕が立ち止まると、彼も月夜から視線を外した。ひどく気まずそうな表情で、こちらを見た。制服姿だった。
「……藤原?」
 確かめるように名を呼ぶ。本当は、そんなことしなくたって分かっていた。そこに立っているのは藤原優介だ。見間違えるわけがない。本来こんなところにいるはずのない彼は、照れているのか悔やんでいるのか、なんだかよくわからない複雑な表情を浮かべながら、うん、と律儀に僕の問いに頷いた。「ごめん、来ちゃった」
「来ちゃったって、きみ、え、アカデミアから抜け出して来たの? こんな時間に?」
 学校側から許可は貰っているのかと訊ねると、藤原はバツが悪そうな顔を浮かべ、案の定首を横に振った。陽が落ちてから寮を抜けだし、夜行の貨物船にこっそり忍びこんだらしかった。
「……それはまた随分、なんというか、やらかしたねぇ……」
「う、うん、まぁ……」
 密入は無断外出の定番とはいえ、まさか彼が自らこんな大胆なことをしでかしてくるとは思いもしなかった。本人も驚いているらしく、まだどこか夢うつつめいた表情で、藤原は所在なげだった。
 いったいどれくらいの時間、ここで僕の帰りを待っていたのだろう。徒歩で帰宅することを選んだ自分を呪いたい気持ちになったけれど、そんなことよりもまず彼のほうから逢いに来てくれたことが嬉しかった。人気のない深夜に紛れ込むように、藤原の手を握る。随分待たせてしまったようで、久しぶりに触れた彼の手は少し冷たかった。あの島に比べると、街の気温は低いのだと思い出す。
 藤原はふうとひとつ息を吐いて、僕の手をきゅっと握り返した。なつかしい月が出てたから、と小さな声で彼は言った。
「吹雪に会いたいなって、そう思って。気付いたら船に乗ってた」
 急にごめん、と付け足した声は、言葉のわりに柔らかく満足したふうだったので、僕は嬉しくなっていっそう藤原に身体を寄せた。暗い夜道に、気にする人目はなかった。
 夜のてっぺんにはあの日と同じ月と星が広がっていて、見上げる空は静かで穏やかだ。微かに降る月光はとてもきれいだったけれど、そのゆりかごはもう彼に必要ないように思えた。爪あとも、夜を留めることも、彼はもう求めないだろう。
 泊まっていくかい、なんて訊ねなくたって、どうせもう船はない。
 僕らはふたりで、懐かしい夜空の下を歩いていた。

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2022-11-06