一日目は天上院吹雪とすごした。
うまく起床時刻に目を覚ませなかった藤原は、オネストの小言だか嘆きだか判断のつかない言葉のひとつひとつに「ごめん」とか「わかってる」とか「気をつける」とかの返事をしていたせいでいよいよ授業に遅れてしまいそうになっていた。慌てて寮を飛び出たところで「マスター、寝癖が」とオネストの声が追いかけてきたけれど、それになにか返すよりも先に吹雪の声に足を止めた。「藤原!」と名を呼ぶ、聞きなれた、明るくてよく通る声だ。
「吹雪」と反射的に返す。自分の声は彼のそれにくらべていくらか小さかったけれど、自覚できる程度に弾んでいた。寮から校舎へと伸びる道に、もう人通りはすくない。彼はひとりだった。
「めずらしいね」と言うと吹雪は「そう?」と軽く首をかしげる。「そんなことないよ」
その言いようがずいぶんと自然だったから、藤原は少し不思議に思いながらも、そうかな、とは言わずに曖昧に笑うだけにした。そうかな、吹雪のまわりには、いつもたくさん女の子たちがいるのに。
吹雪はそんな藤原のようすに気付いたふうはなく、ふわふわと欠伸をして「いい天気だ」と空を見上げた。それにつられるように顔をあげると、広がる青空はたしかに澄み渡っていた。晴天と呼ぶのにふさわしい。きっとたくさん陽光の指す、安定した天候の一日になるだろう。
授業のはじまる時間が迫っている。
まだ少し冷たい朝の空気をぼんやりと肌に感じ、藤原は吹雪が「サボろうか」と言うのだろうと思った。どうせ走ってももう間に合わないよ、サボっちゃおうよ。簡単にそんなことを告げる、彼の声を待つ。
けれど友人は、そんな藤原の予想を裏切るほど拍子抜けした調子で「藤原、髪跳ねてる」と言った。
そういえばオネストもそんなことを言っていた。
もともと癖の強い髪質だが、そうと指摘されれば気にしないわけにはいかない。探るように手櫛を通すと、「そっちじゃないよ」と吹雪の手が頭部に触れた。美的感覚が一般の男子生徒よりもいくらか勝っている彼のことだから、余計に気になるのだろう。いたずらっ子のような声とは裏腹な丁寧な手つきだった。
「うーん、まぁ、直ったってことにしよう」
どっちだよ、と尋ねると、どっちでもいいでしょ、と返ってくる。よくはない。
そんなにひどい寝癖なのだろうか。藤原が自らの手で髪を抑えていると、吹雪は変わらずにこにこと笑みを浮かべながら、「気にしなくて良いって」と、言って藤原の手を取った。
「どうせ授業なんてサボるんだし。ね?」
吹雪の歩いて向かう先が生い茂った森の奥だということに気付いた時に、藤原はふっと寒気を覚えて立ち止まった。
「どこへ行くの」と思わず訊ねる。
未開発の土地の多い島の、その大半を埋める深い木々。いかにも森と呼ぶのにふさわしいその地は、たやすく足を踏み入れれば遭難にさえ陥りかねない危険な場所だ。とはいえ、学園に入って三年にもなれば、立ち入る機会は何度となくあった。今さら迷うほど方向感覚を失ってはいないし、たとえ道を誤ったとしてもある程度なら自力で対処できる。問題はそこではない。
藤原はこの道を知っていた。
「ねえ、吹雪、どこへ……」
どこへ行くの。
わけもわからず声が震え出しそうになり、藤原は振り返る吹雪の表情さえも恐ろしく感じた。この先にはなにがある。鎖されたその土地の向こう側。冷たく囲われた、半壊した建築物。
「どこへ、って……」
躊躇いなく歩を進めていた吹雪は、怪訝そうに藤原を見やると歩みを緩めた。そこになにかの思惑や暗い意志は見えず、ただ少しばかり意外に感じたように、彼は何度か瞬きをしてみせた。「あれ、もしかして、もう知ってる?」
その言葉の意味を掴むことが出来ず、藤原はふるふると首を横に振った。ゆったりと歩き続ける彼に付き従うように、歩調を合わせて歩く。吹雪の視線は優しく心地よく、震えはいつの間にか収まっていた。自分がなにに怯えていたのかさえ思い出せなくなるほど。
「知らない。なにかあるの?」
「なにかってほどではないけど」
言ってくつくつと笑うその表情は、間違いなくなにか特別なものを隠している。サプライズの好きな男なのだ。
はたして、吹雪の案内した先は、藤原の記憶に残る古びた建物などでは決してなかった。
拓けた大地はむき出しで、けれどそこここに小さな花が開いている。丁度陽の光の指すように木々は薄まり、小さなステージの中央に置かれたベンチのように、形の良い切り株が広く根を張っていた。
美しいと表現するよりは、慎ましいと感じるべきだろう。派手好きの彼にしてはずいぶんと大人しい、けれど素敵な空間だった。藤原は目を丸める。
「どうしたの、これ……」
「最近見つけた秘密の場所」言いながら、吹雪は平らに切り落とされた幹に腰を降ろした。「天気の良い日にここでサボるのは気持ちいいだろうなーって思って、ずっと機会を窺ってたんだよねぇ」
おいでよ、と彼は自身のとなりへと藤原を促す。
「はじめてなの?」
「なにが?」
「ここでサボるの」
「はじめてだよ」
吹雪は当然のように言った。「だってひとりじゃ寂しいじゃないか」
朝方の冷たい風が森を抜けた。ざわざわと揺らぐ葉は、真昼の陽光を渇望するように輝く。なるほど、こぢんまりとした楽園は、けれど少しだけ静かすぎる。
ひとりは寂しい。
藤原は吹雪のとなりに座り、それから陽が傾きはじめるまで彼のとなりにいた。
ふたりだから寂しくなかった。
二日目は丸藤亮とすごした。
背後からゆるく頭部を叩かれて、驚いて振り返ると、すこし不機嫌そうな顔をした彼が立っていた。
丸藤亮という人はだいたい常にきりりと眉を上げて、なにかむつかしい問題について思案しているかのような表情を浮かべているから、彼が本当に不機嫌なのかそうでないのかは、藤原にはぼんやりとしか掴めなかった。怒っているようには見えないけれど、なにもないのに背後から攻撃してくるような茶目っ気のある人物でもない。
「な、なに、どうしたの」
「どうしたのじゃない、このサボり魔」
呆れたように言う、その声はけれど努気を孕んではいなかった。藤原は「ああ」と得心して、それからごめんと謝った。思っていたよりも軽い声の謝罪になってしまい、しまったと思ったときにはプリントの束で顔面を軽くはたかれていた。
数枚の用紙はそのまま手渡され、目を通すまでもなく、昨日の丸一日無断休校の報いだとわかる。ずいぶんと量があるのは、おそらく共犯の吹雪の分も含まれているからだろう。こういった罰則に対して、吹雪の逃げ足は非常に速い。亮の機嫌が悪くなるのも当然だった。
ざっと見る限り、別段むつかしい課題ではない。時間こそ多少は食われるが、だからこそ意味をなすたぐいの罰だった。解せないのは、本来なら担当教諭から小言つきで持ってこられるはずであろうこれらが、なぜか亮から手渡されたという一点だ。
訊ねると、当の彼はいかにも腑に落ちないというふうに「なぜか俺が呼び出された」と言った。
藤原は思わず吹き出した。
「笑うな」
「ごめん。でも、なんで? 亮は俺らの、ほ、保護者かなにかだったっけ……?」
言葉の端から漏れる笑い声に、亮はやはり不服そうに鼻をならし、「そう思われているに違いない」と断言した。「ちゃんと面倒を見ておけ、と言わんばかりの態度だったな。俺はお前らふたりの管理係かなにかだと認識されていると確信した」
特に吹雪の。と付け足される。笑いながら何度も頷く藤原に、亮はもう一度「笑うな」と言った。
「良いじゃないか、保護者。うん、良いと思うよ。亮が保護してくれるんなら頼もしい」
事実として、彼は暴走しがちな吹雪を冷静になだめる一種の抑止だ。藤原は流されやすく、吹雪の無茶を楽しんでしまう傾向にあったが、しかし亮は違った。ときに融通の利かない頑固おやじのように、ときに悟りを啓いた仏のように、曲がらない意志と潔い諦観を駆使して吹雪の相手をする彼の姿は、たしかに育てのプロのようだ。珍獣を扱いこなしているわけではないが、素人よりは頼りになる。
まさしく素人そのものである担当教諭が、亮に責任を求めるのは仕方のないことのように思えた。もちろん、多少不憫ではあったが。
「冗談じゃない」と本人は言う。それが言葉通りの本心であることは間違いなく、藤原はそれがおかしくてしかたなかった。
ふたり分の課題の束は、重すぎるほどではなかったが手に余る。ぱらぱらとそれらを捲って内容をたしかめ、ついで時計の針を確認する。今日は授業が終わるのが早い。夜まで時間はたっぷりあったし、なにより手元のこれらに難しいことはなにひとつ書いていない。
「反省したか」と亮が訊ねた。藤原は頷く。
「反省した」
「天気が良いからってサボっていたんじゃ、卒業出来なくなるぞ」
そんなところでさえお見通しなのか、と藤原は少しだけおどろいた。さすが保護者、と思う。口には出さなかったけれど、それさえも亮には筒抜けのようだった。彼はほのかに眉を潜ませ、けれどそれに触れることはせず、代わりに「もう講義がはじまる」と言って踵を返した。席に向かおうとするその背中に、藤原は慌てることなく呼びかける。「ねえ、亮!」
彼は立ち止って、どこか嫌がるように、ゆっくりと振り返った。そのようすがおかしくて、藤原はふふと笑った。少しだけ吹雪に似た笑顔が出来ているかもしれないとひそかに思った。
「授業終わったら、これ手伝ってね」
「……なんで俺が」
「だって吹雪いないし」
「……」
彼は理解しがたいといったふうに顔をしかめて、それから言葉を探すようにじいと藤原を見つめた。逃げ道を見つけたいのなら俺を見るべきじゃないのに、と藤原は思う。あるいは彼が探しているのは回避のための道ではなく、正しく進むための道なのかもしれない。そうだろう。王道を歩む姿こそが、丸藤亮にはよく似合う。
「吹雪を捕まえて必ず自分でやらせる」
彼はそう断言し、今度こそ自分の席へと戻った。
藤原は妙に満ち足りた気分になり、亮のその伸びた背筋を眺めながら着席する。カイザーと呼ばれるに相応しい、その彼が、自分のせいで謂れのない叱咤を教師から受けたのかと思うと、今さらながらに申しわけなく感じた。
時計を見る。
早く授業が終わればいいのにと思った。
三日目はみんなですごした。
大会と呼ぶのには少しばかり小規模な、学園内でのデュエル戦。学年入り混じりの交流試合は希望者のみが参加する形式で、実際にエントリーしているのはよほどの目立ちたがりか、あるいはよほどデュエルが好きかのどちらかで、今藤原たちが見ているのは確実に後者のほうの生徒だった。
赤い制服。落ちこぼれのオシリス・レッド。
遊城十代は見ているこちらでさえつられそうなほどの笑顔を振りまき、楽しげにカードを引いていた。
「あの子が遊城十代? ほんとうにオシリス・レッドなんだ……」
噂には聞いていた一年生の問題児。そのデュエルをはじめて目の前で見た藤原は、へえ、ふうん、とその一挙一動に興味を向けて頷いた。クロノス教諭を負かしたという腕前は、相手の生徒を思う存分に振り回し、まだ序盤であるのにも関わらず勝敗は透けて見えた。傍から見るのにはつまらないたぐいのデュエルだ。けれど、当の遊城十代がこれ以上ないほど楽しそうなのだから不思議だった。彼はなにをあんなにはしゃいでいるのだろう。
観客席に腰を下ろすことはせず、会場内で繰り広げられる何組もの生徒のすべてを見渡せる位置に立つ。あれが件の生徒だと事前に聞いていなくても、遊城十代の姿はひときわ目立っていた。
自分と同じように興味深げに十代を見下ろす亮は、以前一度だけ彼とやりあったことがあるらしい。面白いやつだ、というのがカイザーであるところの彼の感想で、つまりその言葉だけで、遊城十代という生徒がどれほどの才能を秘めているのか知れるというものだった。
けれどいまのデュエルを見ていても、藤原に彼のすごさは伝わらない。相手が良くないのだ。どれだけ十代が楽しそうでも、やはり観戦する立場からすれば面白みのない対戦だった。
「終わった」
亮がつぶやいた。
それに呼応するように、十代の攻撃が相手のライフをゼロにまで削る。圧勝だった。
「どうだった?」
「……きれいな勝ち方ではあると思うけど……」
訊ねる吹雪は、以前の亮と十代の対戦をその場で見ていたらしい。ふたりそろって何かと話題にあげてくる一年生の存在が気にならないはずもなく、藤原も興味を示してはいたが、しかし現段階の評価としては保留としか言いようがなかった。せいぜい、なぜレッド寮なのだろうかと不思議に思う程度だ。
けれど、
「ガッチャ! 楽しいデュエルだったぜ!」
そんな声が聞こえてきたので、藤原はなるほどと考えを改めた。うん、これは少し、面白いかもしれない。
「今年の一年は豊作みたいだね」
他のフィールドを見回しても、一年の参加者は多く活気づいている。突出して名を聞く生徒はまだ少ないが、夏のうちには頭角を現すだろうと思えた。学園内の情報に疎い藤原の言葉を継ぐように、吹雪が指を折って名前を上げた。
「ええと、オベリスク・ブルーの万丈目準と、あとはラー・イエロー主席の三沢……だっけ? いまのところ目ぼしいのはこの二人と、あと十代くん。豊作と言ってもこの三人くらいだよね、よく聞くのって」
「三人もいれば上等だろう」
「そう?」
もう少しがんばっても良いと思うよ、と吹雪はどこか物足りなさげに言う。「あと今年は女の子が少ないよねぇ。伝統あるブルー女子が寂しいこと寂しいこと」
溜め息混じりにつぶやく吹雪は本当に心から寂しそうで、藤原は苦笑しながら、けれどふと胸に違和を覚えた。喉元まで引っかかったなにかを吐き出せず、代わりに心臓が奇妙な音を立てる。
嫌な気分だった。
藤原はゆっくりと呼吸を繰り返して、ぐらりと足元の揺れそうな感覚をやり過ごす。誰かが誰かに勝利したらしく、方々で歓声があがった。それに巻き込まれない大きな声で、「カイザー!」と誰かが言った。
その声につられるように、藤原は顔を上げた。
「なー! カイザーは参加しねーのー!?」
ぶんぶんと手を振って声を張り上げるのは、先ほどデュエルを終えてそのまま客席に来ていた遊城十代だった。一度腰を下ろそうとしたものの、亮の姿を見つけて場所を変えることにしたらしい。彼は友人らしき丸い巨体の生徒を後ろに従えながら、周囲の生徒たちをずかずかと掻きわけて席の後方へと近づいてきていた。
その実直な行動に、名指しで呼ばれた亮は驚いた様子で、けれどはっきりと「参加の予定はない」と返した。決して大きな声ではなかったが、十代には届いたらしい。「は? なんでー!?」と、やはり大声で彼は言った。心底不思議そうな調子だった。
「なんでだよ! しよーぜ! デュエル! 吹雪さんでもいーや!」
なんで参加しねえのー!? と、声を張り上げて十代はデュエルディスクを振りかざす。「楽しいぜ! なあ! あ、悪い隼人」叫んだ拍子にとなりの友人に腕をぶつけたらしく、あわてた様子で謝る彼はずいぶんと幼く映る。藤原は唖然とそれを眺め、それから友人ふたりを見て、「すごいね……」と言った。
「亮のこと怖がらない下級生なんてはじめて見た」
いたって真剣な感想だったのだが、当の本人は心外だというふうに眉をひそめている。吹き出して笑った吹雪だけがなぜか亮に軽く蹴られた。
不思議な子だ、と藤原は思う。もうすぐ近くまで来ていたはずの十代は、けれどもはやこちらへの興味を失ってしまったらしい。デュエルに参加しないのならいいや、といった具合で、今度は遠く先のフィールドで繰り広げられている対戦を、その場に立ったままで眺めはじめていた。
不思議だった。
あんなにも夢中になれるものだろうか。カードの一枚一枚、デュエリストの一人一人に、あそこまで好奇の感情だけで接せられるものだろうか。
藤原の視線に気づいたわけではないのだろうが、ふいに彼は振り返り、顔を上げてこちらを見た。視線が合致する。じいと見つめてくるその目は、この瞬間にはじめて藤原の存在に気付いたかのようだった。
「あんたは?」
と、遊城十代が言った。
「あんたはしないの? デュエル」
藤原はその言葉に一瞬ひるんだけれど、不思議と恐ろしくはなかった。向けられた真っ直ぐな疑問に、躊躇せず答える。「するよ」
頷く。
口に出しても違和のない言葉だった。デュエルをする。デュエルがしたい。
吹雪と亮がおどろいて藤原を見ていた。呆気にとられたようなその表情を受けて、藤原は愉快な気持ちになって笑んだ。「まだ参加登録できるはずだよね。出ようよ、吹雪も亮も、いっしょに」
告げると、先に笑いだしたのは亮のほうだった。ゆるめられた口元から小さな笑い声を洩らし、いいだろう、と言う。その言葉を受けて、吹雪が「うわ、めずらしい」となぜか顔をしかめた。「僕らが出ていいものなの? 参加者のほとんどが下級生だよ?」
いませっかくバランスよく成り立ってるのに、急にカイザー参戦なんて、均衡が崩れるとおもうけど。
極正論を口にする吹雪に、しかし亮は「トーナメント形式というわけじゃないんだ、問題ないだろう」とさらりと返す。
友人のそんな態度に、吹雪はそれ以上なにか言うのは諦めたらしい。まいったな、と、言いながら彼は藤原の顔を覗き込んだ。「どうしたの、藤原。こういう目立つの嫌いなくせに」
「吹雪こそどうしたの? こういう目立つの、大好きなくせに」
言い返すと、吹雪はますます意外そうに目を丸めた。
自分でも不思議に思うほど、いまこの場でカードを繰りたい気持ちになっていた。下級生ばかりだと吹雪は言ったけれど、自分たちが参加を告げれば、おそらくつられるようにして上級生の参加も増えることだろう。そんな打算もあとからついてきたが、結局藤原を動かしたのは、ただいまデュエルを楽しみたいという気持ちそれだけだった。
話を聞いていた遊城十代が、諸手を挙げてはしゃいでいる。
藤原はそれを好ましげに眺めてから、自らのデッキを手に取った。
四日目は彼とすごした。
目覚めるとそこは真っ暗で、おどろいた藤原は一番に「オネスト」と名を呼んだ。応える声はない。なぜだろう、と彼は思う。オネストはいつもそばにいたのに。
「天上院」と呼んだ。
「丸藤」と呼んだ。
記憶に残る友人たちの、そのすべての名を呼んだ。
返事などない。真っ暗な闇だけが広がっていた。それが無性に心地よくて、藤原はどこが地面かもわからないままその場に蹲った。膝を抱える。
「まだ覚えているの?」と彼が言った。「まだ忘れられないの?」
藤原が頷くと、か細い声は蹲った姿勢のまま「どうしてだろう」と心底不思議そうな声を出した。抱えた膝に額を預ける。「どうして忘れられないんだろう」
その疑問に対する答えを、藤原は持っていない。ここに来ればすべてを忘れられると思っていた。ここでなら、苦しいことなんてなにもないと思っていた。なにもかもを忘れて、ただ安らぎに包まれて、すべてが平等な世界。
けれど忘れられない。 安らぎだけの世界には、常に彼らがいた。
苦しさから逃れようとするたびに、大事な人たちとすごす時間を夢見た。
「楽しかった?」と彼が言った。「……俺は楽しかった」
藤原も頷く。楽しかった。ここにはなにもないけれど、記憶の中にはすべてがあった。
だれも自分を傷つけない。親しい友人たちは優しく、あたたかく、決して寂しい気持ちにはならない。ずっとずっと、あそこですごしていたかった。デュエル・アカデミアで、記憶に残った優しい世界で。
ここは暗かった。ずっとここにいたら頭がおかしくなってしまうと思った。抱えた膝が冷たくて、けれどそれに震えることさえ忘れた自分が悲しく愛しかった。
「どうして」とまた彼が言った。「忘れてしまえば楽なのに」
そうだろうか、と藤原は思う。
覚えている。忘れていない。大事な人たち。
彼らのことを思うたびに、藤原は優しい気持ちになれた。ここは寒くて真っ暗だけれど、こんなにも心地よい。記憶の中の彼らは、決して自分のことを忘れない。優しく、優しく、決して流れない時の中で、ずっと笑顔を向けてくれる。
「いつか忘れてしまうのに」と彼が言った。「だったら、今忘れてしまったほうが楽なのに」
そうだね、と藤原は思う。
けれどもう一度だけ、と彼が思う。
もう一度だけ、あの優しい世界を繰り返したい。だれも傷つかない、不要なものは排除して、優しい彼らは自分にだけ優しい。ずっとずっと、笑顔で。
さみしくない。
決してひとりぼっちにならない。
ぎゅうと抱えた膝が冷たくて、藤原はそこに頬をこすりつけた。目を閉じても変わらず広がる真っ暗な世界は、こんなにも柔らかく自分のすべてを包んでくれる。
もう一度、と藤原は願った。
次に目を開けたとき、最初に見るのはオネストの顔。それから吹雪。放課後には亮と課題に取り組んで、それから――
それからたくさん、デュエルをしよう。
まどろみの中で、「どうせ忘れてしまうのに」と言う自分の声を聞いた。
早く忘れてしまいたいのに。忘れてしまえば楽なのに。
「わかってるよ。……もう、終わりにするから」
だからこれで最後。
もう一度だけ、あと一度だけ、優しいだけの世界をすごそう。
もう一度だけ。
これが終われば、今度こそ全部忘れてしまうから。