その赤色と対面するのは久しぶりのことだった。遊星はたしかに驚いていたけれど、心のどこかではこの展開を予想していたような気もした。優介が過去に属すると気付いた時、真っ先に連想したのは間違いなく、かつて遊星自身が時間を遡ったあの事件である。
突然の客人に、しかし丁寧にソファを進めてコーヒーなど差し出す。Dホイールと機械類ばかりのガレージは雑然としていて、来客をもてなすのには向かなかったが、十代はそんなこと欠片も気にしたようすはなくサンキューと軽く笑ってカップを受け取った。
遊城十代は過去の人間だ。あの事件で遊星と彼が出会うことが出来たのは、赤き龍の力があってこそのことだった。いまこの場にいる十代は、はたしてどこから、どのようにしてやって来たのだろう。そんな当たり前の疑問さえ寄せ付けないような自然なようすで、彼は遊星の時間に存在していた。
「ほんと、悪かった。今回のは完全に俺のミスだから、お前の気のすむまで叱ってくれ」
「……叱るもなにも」
状況がまったく飲み込めていないのだ。説明を求めるように戸惑いの視線を向けると、十代はどこか歩が悪そうに思案の表情を浮かべた。どこから話をしたものか、迷っているようにも見えた。
「十代さんは彼と、……優介と知り合いなんですか?」
しびれを切らすように零した遊星の問いかけに、十代は一瞬呆けた顔をした。「優介?」と、なぜかその場に相応しくない単語をぶつけられたかのように小首を傾げ、それから、ああそっか、そうそう、とひとりおかしそうに頷いてみせた。
「知りあいだよ。藤原優介、デュエルアカデミアでの俺の先輩で、後輩でもある」
「先輩で、後輩……?」
「ああ、留年したんだ。お前に最後の手紙を送りつけた数日後、奴は自ら闇に足を踏み入れた。ダークネスっていうちょっとタチの悪い暗闇の世界に、自分の意思で飛び込んだんだ」
「……それは」
「今はもう平気。いや、今っていうのは俺の時間軸での今だから、この時代から見てどうなってるのかは知らないけど、まぁ、たぶん平気だろ」
順を追って話そうか、と、十代は呟いて、少し長い過去の出来事を語りはじめた。それは遊星には関わりあいのないもので、もうずっと以前に、きちんと収束された物語だ。
優介の望んだ闇は、すべてに優しくある世界だった。争いがなくみなが平等で、そして決して、誰も誰かを忘れたりはしない空間。最初から大事な記憶を抱えないことで、完成し完結する美しい地平線。自分を忘れてほしいと望んだ彼が暗闇に求めたのは、個人の記憶が意味をなさない場所だった。
「そのこと自体は、別に構わないんだ。あいつはきちんと戻って来た。そこまでは間違いなくお前には関係のない出来ごとだったはずで、こいつが――」と、十代は膝に乗せた小箱を指した。「――お前のとこに転がりこんだのは、ほんとに、ただの事故なんだ」
っていうか俺のミス、と続けて、十代はどこかむずがゆそうに苦笑した。
「知っての通り、この中にはオネストが入っていた。藤原自身が自分のパートナーを封印するために、かつて使用したのがこれだったんだ。あの事件の最中に、俺はオネストのカードを求めてこの箱を見つけ出した。行方不明扱いになっていた藤原優介の、遺品として処理されていた荷物のなかでこいつはずっと閉じ込められていたわけだな。で、カードそのものを取り出してから、俺はこれのことをすっかり忘れちまってたんだよ、困ったことに」
その存在を思い出したのは、アカデミアをとうに卒業した十代がふらりと島に立ち寄ったときだった。かつてのレッド寮、十代が三年間を過ごした狭い部屋の隅に、小箱は当然のように転がっていた。埃まみれのそれを拾い上げ懐かしい気分になった十代は、当然、持ち主である藤原優介に返しておくべきであろうと考え、自身の荷物にそれを放りこんだのである。既に卒業し、社会で活動していた優介のもとに、いずれ寄る機会もあるだろうと軽く考えた。
ところが、そこはもちろん多忙な旅人の十代のこと。いずれ寄る機会などなかなか巡って来るはずはなかった。島を出たその足でまた海外に向かった十代は、はたしてその二ヶ月後、あっけなく小箱を紛失したのであった。
「紛失って、どこで……」
「いろいろあったんだよ」説明を億劫がるように頭をかいて、十代は言った。「なんて言ったらいいかな、次元の狭間みたいなとこに、デイパックごと全部落っことしたの。デッキとデュエルディスクだけはなんとか死守したけど、それ以外は全部パー。ま、もともと大したもん持ってなかったからそれは構わないんだけどさ。そのなかに藤原の私物も入ってたんじゃ、さすがに悪いだろ?」
あいつ、思い出の品とかめちゃくちゃ大事にしたがるし。
その瞬間のことを思い出したか、十代はどこか面倒くさそうに、けれど弱ったような顔をして、嘆息さえしてみせた。それは優介の姿をきちんと見てきた者の態度だ。遊星の知らない、本当の時間に暮らす藤原優介。
「それで、仕方ないからすぐに日本に戻って藤原んとこ行って、事情を説明して謝ったわけだ。もう随分古いものだし別に怒りはしないだろうと思ったけど、一応な。そしたら思ってもみない思い出話が飛び出してきた」
「…………」
「驚いたぜ。藤原の口からお前の名前が出てくるとは思わなかった」
十代はかすかに口の端を上げ、それから指先で空中に一本の長い線を描いた。
「ここが、俺や藤原の時間」言いながら、やはり空中を指さす。「で、ここで落とした箱が、どういう経緯でかここ、――お前の住んでるこの街まで流れ着く」
すっと、十代の細い指が、先ほど指した場所より遠い宙に向けられた。
「この箱自体には、藤原が封印を施してた。って言っても、そう強力なもんじゃないけど、オネストを数年間ろくに動けなくさせる程度には効き目のあるやつだ。あれから何年も経ってはいるが、たぶんその名残があったんだろうな。次元に歪められ、未来に引き寄せられていった箱の中で、内側に閉じ込めようとする封印の作用が働いた結果、内部だけが急速に過去へと走りだした。古い記憶を遡るみたいに、オネストのカードの残滓だけがまたそこに呼びよせられ、お前がそれに触れることで一定の過去に繋がりだす。たぶん、前に一度俺たちと会っていることが影響したんだろうな。あの封印解いたのユべルだから」
まるですべてを見てきたかのように、十代はその現象を解体して語ってみせた。実際、彼はすべて見ていたのかもしれない。そうであったところで、遊星は決して驚かない。
「この時点で、歴史が歪みはじめた。お前が箱を手にしただけなら別に良かったんだ。俺のせいで藤原が自分の持ち物を失くしてしまった、それで話はすんだはずだった。――けれどお前は蓋を開けて、しかもそのことに藤原が気づいてしまった。未来から過去に干渉することで、過ぎたはずの時間が変化しはじめたんだ」
十代の指が、空中の一点――遊星の時間から、ひょいと弧を描いて優介の時間にまで飛んでゆく。未来で起きた出来事が、過去を塗り替えて歴史を作りだしたのだ。それは歪みと称されるもので、それこそそうだ、ゾーンの、彼らのやろうとしたことと同様の行為に違いない。作意の有無の差こそあれ、現象としては、小規模な過去の改竄に他ならなかった。
思ってもみなかった事象に、遊星は驚き、閉口した。たしかに遊星は過去に触れたのだろう、そのこと自体には気付いていた。けれど、それによってなにかが変化するというようなことは考えていなかった。
かすかな揺らぎが、遊星が送りつけた手紙が、歴史を大きく変えるような出来ごとにはたして成り得るだろうか。たった一匹の蝶の羽ばたきで、風の流れは遠い地で嵐さえ起こすという。たとえば、遊星が彼に与えた機械知識。未来の技術を知ることで、優介自身や周囲の人間に影響があると、なぜそのように考えなかったのだろう。浅はかな自分の行為を遊星は悔やんだ。こんなところにまで十代が駆け付けねばならないような出来事が、既に起きてしまっている。
表情を強張らせ、いったいどれほどの事件が巻き起こっているのか、深刻な口調でそれを問うた遊星に、しかし十代はけろりと答えた。
「いや、べつになにも?」
「…………」
遊星はなにかの聞き間違いかと思い、瞬間的に十代の言葉を何度も脳内でリフレインさせた。べつになにも。べつになにも?
「な、なにもないんですか」
「ああ、なにも起きちゃいない。少なくとも、俺やお前が慌てなくちゃならないほどの珍妙な事態にはなってないから、安心しろ」
「……安心、しましたけど。え、じゃあ十代さんは、その、一体なにをしに来たんですか?」
遊星に種明かしをするためだけに、わざわざ時を越えてまでやって来たというのだろうか。だとすればありがたい話だが、ただそれだけで彼を動かすのは少し忍びない気がした。
黙ったままうろたえる遊星に、十代は「なにをしにとは失礼な」と苦笑いを零す。そして膝の上に置いた小箱を、拳でこつんと叩いて見せた。「これの回収だよ。言っただろ? こいつは返してもらうって」
たしかにそうだった。ガレージに現れた十代はそう言って遊星から小箱を取り上げ、そして今も自身で抱えたまま、決して遊星に触れさせようとはしないでいる。
小箱の回収。
それは遊星にとって、優介との通信手段を完全に失うということだった。
「……あの、それじゃあオネストは」
「心配すんな。オネストのことは俺が責任持って、ちゃんと藤原のとこに戻れるようにする。っていうか、なにもしなくてもあいつらは平気だと思うけどな。歴史がどう動いたって、あの二人はきっと離れられやしない。だから本当は、別にお前が持ってても良いはずなんだけどな、これ」
「だったら」
「藤原からの依頼なんだ」
遊星の言葉を遮りながら、十代はほんの少し、こちらの顔色を窺うような声音でそう言った。
「あいつ、ダークネスに行くときに色んなもの自分で捨てちゃっててさ。そのせいか学生時代の思い出にやたら固執するんだ。この箱もそう、出来るなら自分で持っていたいって。本人が言うんだから、落としちまった側にしてみれば、拾いに来ないわけにいかないだろ?」
その通りだ。十代の言うことは正しい。箱はそもそも優介のものなのだし、本来は遊星のもとにあることそのものがおかしいのだ。
どっちみち、遊星が優介と言葉を交わすことの出来る時間は、すでに終わりを迎えていた。ついさっき届いたあの手紙を書き終え、彼は遠く闇の地に旅立つのだ。箱を持っていたところで、これ以上遊星が過去に関わる意味はない。箱の向こうの時間の果てに、優介はもう存在しない。
わかっていた。わかっていたがそれでも、けど、と遊星は言いたかった。けどそれは、その箱は、彼にとって大事な品であるのと同時に、遊星にとっても掛け替えのないものなのだ。奇妙な出会いだった。戸惑うことばかりだった。けれど彼とのやりとりは、たしかに楽しかったのだ。
優介がダークネスから帰還するのなら、それまでを自分は待つことが出来るだろう。十代に任せておけば、彼は必ず戻って来る。けれどその時、優介の手元に小箱はないのだ。遊星と再び繋がることはできない。逆に、十代が時空の狭間とやらにこれを落とすことなく、きちんと彼の元に届ければ、しかし今度は遊星の方に手段がなくなる。どうしたって、彼と再び言葉を交わすことは出来ない。
時間を超えることで起こるさまざまな矛盾を前に、遊星は黙り込んだ。どこか優しげな眼差しで、十代がこちらを見つめている。
「……もう、俺が持っていてもどうしようもないものなんですね、これは」
「そうだな」
「彼から、箱を取り上げたいわけではないんです」
「わかってるさ」
「…………」
「――……ほんと言うと、お前がこれを手にする前に拾うことも、出来ないではなかったんだよ」
そう言って十代は、遠い場所を見るように頬を緩めた。
「本来なら、お前が経験する出会いじゃなかったんだ。別に、軌道を修正するのでも構わなかった。どちらかといえば、その方が自然なくらいなんだ。ちょっと捩れた時間の流れを元に戻す。簡単お手軽ってことはないけど、分かりやすいのは確かなはずだった。思った以上に入れ込んでるみたいだし、お互いにつらいのもイヤだしな。……でも、藤原本人が言ったんだ、なかったことになんかしたくないって」
それは、かつての藤原優介であれば決して選ぶはずのない選択肢だった。
決定的な別れを前に、彼はきっとすべてを無に帰すことを求めただろう。もう耐えられないと、そう手紙に書いていた。苦しませたくないし苦しみたくないのだと、そう言ってオネストを手放し、遊星にも忘却を促した。
最初から出会わなければ良い。記憶しなければ苦しまなくてすむ。そう言った優介が、けれど、なかったことにしたくないと訴えたのだ。この意味がわかるか、というふうに、十代はかすかに笑んで遊星を見ていた。まるで幼子を宥める保護者のような顔をしている。
「忘れたくないし、忘れないでほしいってさ。だから、わざわざこのタイミングまで待ってたんだ。藤原の語ったお前との思い出話はここで打ち止め。どうあがいたって、これ以上お前とあいつがこの箱で連絡を交わすことはない」
ここまで聞いて尚未練があるのかと、そう問いかけるように十代は断言した。
正直に言えば、未練ならばそれこそ山のようにあった。別れというのにはあまりに唐突すぎる。いくら十代の言うこととはいっても、今後もう二度と同じようなことが起きないとも限らないはずだった。
けれど遊星は、少なくとも充たされた。優介の孤独はおそらく解消されたはずで、なにより、苦しみを越えても遊星と交わした言葉を覚えていたいのだという彼の、その主張が嬉しくないわけがない。これ以上を望むのは贅沢というものだ。
だから遊星はその代わり、十代に訊ねることにした。
「――優介は、他にはなにか言っていましたか?」
なんでも構わない。せめて最後に彼の言葉がほしかった。結局遊星には、彼の本当の姿は見えないままだったけれど、藤原優介を知る十代の口から届けられることでまたなにかが変わるかもしれないと考えた。なにより、優介が十代に対してどのように自分を語ったのか気になって仕方ない。
十代は遊星の問いに、記憶を探るように小首を傾げてみせた。適切な返答が見つからなかったのかもしれない。彼はううんと軽く唸ってから、
「何回か、『恥ずかしすぎて死にたい』って言ってたな」
と、真面目な顔でそう言った。
「…………」
「そんなガッカリすんなよ」
十代はそう言って他人事らしく笑い飛ばし、ついで、思い出したように一枚の紙を取り出した。「そうだ忘れるとこだった。これ、藤原からお前に」
ほいと軽く手渡されたそれが、ただの紙ではなく写真であることに、遊星はすぐに気がついた。慌てて目を通す。そこには三人の男性が映っていて、どうやらピザを食べているところを撮影したもののようだった。
「写真送るって約束守れなかったから、今度こそ渡してほしいってさ。昔の写真じゃなんだってことで、わざわざピザ注文して、家に友だちまで呼び出して新しく撮ったんだぜ? ちなみに真ん中にいるのが吹雪さん、その左奥でそっぽ見てるのがカイザー。どっちも藤原のアカデミアのころからの友だちで、俺にとっては先輩。ついでに言うと撮影したのは俺だ」
十代の説明するのを聞きながら、遊星は食い入るように写真を見つめていた。真ん中と左にいるのが優介の友人。手紙にもよく登場した、特待生のクラスメイトたちだろう。ならばこの、右手に映っているのが優介だ。
むらさきの目を楽しげに細め、どこかぎこちないようすでカメラに目線を寄こしている。照れくさいのだろうか、どこか気弱そうに眉を下げてはいるものの、場の空気が伝わってきそうなほどに彼は柔らかく微笑んでいた。学生ではない。そこに映っているのは遊星より年上の、優しげな男の人だった。
これが優介。
緊張した眼差しで写真を見つめ続ける遊星に、茶化すような口調で「感想は?」と十代が訊ねた。遊星は少し考え、「似ていないな、と」と返す。あの夜に広がった湖畔のヴィジョン。岸辺に佇む人影の顔を遊星は明確に覚えていないが、けれど少なくとも、この写真のなかの彼とはまったく似ても似つかないように思えた。
「? 似てないって、なにに?」
「あ、いえ……なんでもないです」
まさか夢の中で見たものとは口に出来ず、遊星はあいまいに笑んで誤魔化した。さして関心はないのだろう。十代も、ふうんと軽く返したっきり追及してくることはしなかった。
遊星は改めて写真を見やる。
まったく似ていないな、と思うほどに苦笑いが浮かんだ。それで構わないのだ。この写真を撮った時間、闇から抜け出したあとの藤原優介に、あの影のような投げやりな微笑は似合わない。
箱の底に広がる寂しい湖に、彼は二度と赴かなくて良いのだ。そう考えると、不思議と、自分にももうあの小箱は必要ないのだと素直に思えた。
十代の帰還は早かった。
優介はダークネスへと赴く際、ほぼすべての持ち物を自ら廃棄したらしい。遊星が送った手紙や写真も例外ではないらしく、十代はさすがに申し訳なさそうにそれらの事情を話すと、以前遊星が優介に送ったあの写真を、出来ればもう一枚融通してほしいと頼んできた。断る理由はない。カメラデータからプリントアウトされた写真を受けとりながら、十代は言った。「よし、じゃ俺戻るわ」
実にビジネスライクなあっけなさである。あまりに軽いその口調から受け取る限り、このまま自分の時代へと時を逆行することについて、十代には欠片の不安要素もないらしかった。時間旅行に慣れすぎている。遊星は驚くのを通り越して若干呆れさえ覚えたが、十代らしいと言えばそこまでだった。
ともかく、彼は与えられた依頼――というか、自身の失敗の尻拭いを、きちんと終えることが出来たらしい。
帰り際、ガレージの出入り口へと向かう途中に突然振り返り、十代は「そうだ」と言った。
「お前の質問に返せそうな答え、ひとつ思い出した」
「質問?」
「藤原がなにか言ってたかって、そう聞いただろ? 自分で返したからうっかりしてた。あいつ、『会いたい』って言ってたぜ。『俺も一緒に遊星くんの時代に連れていってほしい』って」
「…………」
「もちろん断ったけどな。俺、そこまで万能じゃないし。藤原は『やっぱり無理だよね』みたいなこと言って冗談めかしてたけど、あれは本気だったね。……お前があいつと関わったせいで起きた非常事態があるとすれば、藤原が今後、次はダークネスじゃなくてもっと別の、時間とか時代とか侵食するタイプの魔術に手を染める可能性がちょっと高まったとかそんなとこだ」
とくにからかう調子でなく、極真剣な目で十代はそう言って、それから「覚えとけよ」とにやりと笑った。「そしたら再び人類の危機だ。そんな事態を避けるため、俺は藤原にひとつ助言をしておいた」
「助言、ですか」
完全に十代のペースに巻き込まれながら、遊星はともかく、彼の言う先を促した。十代は満足気に笑う。それこそが人としての藤原優介に相応しい、闇も魔術も人類の存続も関わらない、なにより平和な答えだというふうに。
「『長生きすれば、いつかどこかで会う機会もある』」
そういうもんだろ、と十代は微笑み、今度こそ遊星に背を向けた。そのまま軽く右手を振って、ガレージから真昼の外に足を踏み出した次の瞬間には、彼の後姿はかき消えていた。
あっという間の出来事だった。
ひとり取り残された遊星は、とぼとぼとガレージの奥にまで戻り、深く息を吐きながらゆっくりとソファに身を沈めた。疲労感とはまた違った、よくわからない物質が身体の奥底にじんわりと広まっている気がする。吐き出してしまった分を取り戻すように今度は息を吸い込んで、それから、ちらりと脇のデスクを見た。そこから小箱は消えたが、優介からの手紙はきちんと畳まれて残っていた。
『覚えとけよ』と、十代は言った。そうだ、覚えておこう。時間が繋がっているのなら、いつか必ず。
そんなことを考えながら、自分でも理解できない虚脱にぼんやりと思考を預ける。無作為に時間をすごすことは遊星の本意ではない。やるべきことならいくらでもある。なにも終わってはいないし、始まってすらいない物事のほうが多いくらいだ。
遊星は立ち上がった。
いつか優介にこの街を誇りたいと、そう思った。
* * *
目をまんまるにして、龍可は目の前の人物を見つめていた。
まるでなにが起きているのだか、龍可にはさっぱり理解できなかった。けれど、この光景がなにかの勘違いや偶然じゃないことだけは分かる。隣で小さくあくびを洩らしている、兄の袖をこっそりと引っぱって、彼女は囁いた。大声を出してはいけないと思うあまり、ひどく微かな声しか出なかった。
「る、龍亞、ねぇ龍亞」
「なんだよ龍可、講演も授業の内なんだぞ。私語厳禁、居眠り厳禁、デュエル厳禁っていつも言われてるじゃん。あーあ、どこの大学の先生が来たんだか知らないけど、短く済ませてほしいよな」
「違うの、龍亞。聞いて」
「しっ、はじまる」
デュエルアカデミアで一番広い講義室に、生徒の全員が集められていた。年に何度か行われる、著名な人物を学園に呼び入れての講演会だ。プロのデュエリストであったり、技術的な開発者であったり歴史研究者であったり、毎度さまざまな人物が学園を訪れては長々しい演説を残してゆく。生徒たちからすれば比較的退屈なイベントではあったが、だからこそ決して失礼のないようにと、先生たちからはいつも強く言い聞かされていた。私語など、もちろん許されない。
校長からの紹介を受け、脇に立っていたひとりの男性が講壇を譲り受ける。彼こそが本日のお客さまであり、生徒たちにとっては一時間限りの先生だ。噂によると、かつてのアカデミアの卒業生であり、研究者として今まで数多くのプロジェクトに携わってきたという。表舞台にこそ滅多に立つことはないけれど、知る人ぞ知る有名人。
年嵩の彼は、しかしどこか年齢を感じさせないような、澄んだ雰囲気を漂わせていた。好奇心旺盛なアカデミア初等部の子どもたちを見渡すように眺めやり、少し目を細めて、優しげな口調で自己紹介を始める。その名に聞き覚えなどない。けれど。
「龍亞、龍亞、あのね」
いつもと違う妹のようすに気がついたか、龍亞が訝しがるような、同時に心配するような視線を送ってくる。それにだいじょうぶだと返すように頷いてから、驚かないで聞いてね、と前置きし、龍可は言った。
「あの人の隣、天使がいる」
「……てんし?」
「そう。覚えてる? 前に倉庫で見つけた、遊星に預けたあの箱の、あの天使だわ。間違いない」
「…………」
龍亞はぽかんと目を丸め、それから、改めて講壇の人物に視線をやった。何度か目を瞬かせてから、彼は勢いよく立ち上がり、そして叫んだ。
「ええええー!!」
私語厳禁、居眠り厳禁、デュエル厳禁のルールにこそ逆らってはいないものの、もちろんそんな大声をあげて良いシーンではない。とはいえ、龍可にだってその気持ちは痛いほどよくわかった。出来ることなら叫びだしたいのだ、自分だって。
「た、大変だ! 龍可、いたんだ、本当に!」
「うん。ねえ龍亞、見えてるの?」
「見えないけど!」
でもいるんだろ、と龍亞は目を輝かせた。彼は心底安心したふうに、「よかった、やっぱり無事に帰ってたんだ」と微笑みを浮かべたが、もちろん、起立したままである。
教師たちの叱りの声が響く中、問題の天使の持ち主はというと、ひどく驚いたように龍亞とその隣席の龍可を凝視していた。もしかしたらどこかで会ったことがあったかしら、と龍可は一瞬考えたが、しかし覚えがない。大方、WRGPで顔を覚えられたのだろう。
龍可が軽く会釈をすると、彼は困ったみたいに微笑んだ。その傍らの天使と、軽く目配せをしあっている。なんの話をしているのだろう、と龍可が不思議に思っているあいだに、ようやく龍亞が座席に腰を下ろした。ああびっくりした、と反省した素振りなく彼は言った。
「学校終わったら、遊星のとこ行かなきゃ」
「うん」
「遊星、きっと喜ぶぞ」
「そうね」
双子は顔を見合わせくすりと笑った。遊星はあの小箱を、まだ大事に持っていてくれているはずだ。天使の持ち主が現れたことを報告すれば、きっとそれを彼に返そうと言うだろう。それならいっそ、本人を遊星のもとに連れていってしまったほうが早いはずだ。
公演が終わったら頼んでみよう、と、ふたりは同じように考えていた。なんとなく、講壇に立つあの男性は、それを拒むことはしないだろうと思ったのだ。
放課後、遊星の驚いた顔を見るのが楽しみだった。